第二十二話:山の精霊の導き

 初夏の陽光が木々の間を縫うように差し込む山道を、椿花女学院の生徒たちが賑やかに歩いていた。遠足で訪れた山は、緑濃く、爽やかな風が頬を撫でていく。


 詩織と陽花も、クラスメイトたちと共に山道を進んでいた。詩織は長い黒髪を一つに結び、淡いブルーのTシャツにベージュのハーフパンツという爽やかな装いだ。首には日よけ用の白いストールを軽く巻き、肌の露出を控えめに抑えている。一方の陽花は、オレンジ色のタンクトップにカーキ色のショートパンツ姿。健康的な小麦色の肌が露わになり、活発さを際立たせている。二人とも、歩きやすい運動靴を履いていた。


「ねえ、詩織ちゃん。ここの景色、綺麗だね」


 陽花が、キラキラした目で周りを見回す。


「ええ、本当に。まるで絵本の中に迷い込んだみたい」


 詩織も、穏やかな表情で答える。


 二人は少し遅れ気味に歩きながら、時折立ち止まっては山野草や珍しい木の実を観察していた。


「あ、詩織ちゃん。あそこに可愛い花があるよ」


 陽花が、小道の脇に咲く小さな白い花を指さす。


「本当ね。近くで見てみましょう」


 二人は小道を少し外れ、花に近づく。その瞬間だった。


「きゃっ!」


 陽花が足を滑らせ、斜面を転がり落ちる。


「陽花さん!」


 詩織は咄嗟に陽花の手を掴もうとしたが、バランスを崩し、共に斜面を滑り落ちてしまった。


 二人が転がり落ちた先は、うっそうとした木々に囲まれた場所だった。周りを見回しても、元いた道は見当たらない。


「大丈夫? 陽花さん」


 詩織が心配そうに陽花を見る。


「う、うん。ごめん、詩織ちゃんまで巻き込んじゃって……」


 陽花は申し訳なさそうな表情を浮かべる。


「いいのよ。それより、ここはどこかしら……」


 詩織は不安そうに周りを見回す。うっそうとした木々が二人を取り囲み、日光も遮られて薄暗い。


「どうしよう、道に戻れるかな……」


 陽花の声にも、不安が滲む。


 二人は立ち上がり、来た方向を探そうとするが、どの方向も同じように見える。携帯電話を確認するが、圏外で通じない。


「とりあえず、上に向かって歩いてみましょう」


 詩織が提案する。陽花も頷き、二人で山を登り始める。


 しかし、歩けば歩くほど、周りの景色は変わらない。木々はより鬱蒼として、空も見えなくなっていく。


「詩織ちゃん、なんだか怖いね……」


 めずらしく弱気になった陽花が、詩織の腕にしがみつく。


「大丈夫よ、陽花さん。私がついているわ」


 詩織は強がりながらも、自分の声が震えているのを感じた。


 そんな時、薄暗い森の中に、かすかな光が見えた。


「あれは……」


 二人は思わず足を止める。光の方向に目を凝らすと、小さな山小屋が見えてきた。


「小屋があるわ。そこで休んで、状況を確認しましょう」


 詩織の提案に、陽花も同意する。


 二人が小屋に近づくと、その前に小さな祠があることに気がついた。苔生(こけむ)した石の祠は、長い年月をここで過ごしてきたかのような風格を漂わせている。


「なんだか、不思議な雰囲気ね……」


 詩織が呟く。陽花も、無言で頷く。


 小屋の扉を開けると、中は意外にもきれいに整えられていた。一つの部屋だけの小さな空間だが、窓から差し込む光が柔らかく室内を照らしている。


「誰か、住んでいるのかしら」


 詩織が周りを見回す。


「でも、誰もいないみたい」


 陽花が答える。


 二人は小屋の中に入り、腰を下ろす。疲れと緊張が一気に押し寄せてきて、思わずため息をつく。


「ねえ、詩織ちゃん」


 陽花が、小さな声で呼びかける。


「なあに?」


「私たち、ちゃんと戻れるかな……」


 陽花の目に、不安の色が浮かぶ。詩織は優しく陽花の手を握る。


「大丈夫よ。必ず戻れるわ」


 その瞬間、不思議なことが起こった。二人の握った手から、かすかな光が漏れ出したのだ。


「え……?」


 二人は驚いて手を見つめる。光は徐々に強くなり、やがて部屋全体を包み込んでいく。


 その光の中で、二人の意識がぼんやりとしてくる。まるで夢を見ているような感覚。


 詩織の目の前に、陽花の姿が浮かび上がる。しかし、それは現在の陽花ではなく、幼い頃の姿だった。小さな体に大きすぎる小学校の制服を着た陽花は、まるで迷子の子猫のように不安げな表情を浮かべている。その短い髪は、今とは違ってまっすぐで、風に揺れるたびに寂しげに揺れる。


「陽花さん……?」


 詩織が呼びかけると、幼い陽花がゆっくりと振り返る。その大きな瞳には、深い寂しさが宿っている。まるで底なしの井戸のように、寂しさが際限なく広がっているようだった。


「僕、一人ぼっちなんだ……誰も本当の僕の事、わかってくれない……」


 幼い陽花の声が、詩織の心に響く。その声は、今の陽花の明るい声とは違い、か細く震えていた。まるで風に揺れる蜘蛛の糸のように、儚く、そして切なかった。


 詩織は思わず、その小さな陽花に手を伸ばそうとする。しかし、手は虚空を掴むだけだった。


 一方、陽花の目の前には、幼い詩織の姿が浮かんでいた。長い黒髪を整然と結い、背筋をピンと伸ばした幼い詩織。一見すると、小さな大人のようだ。しかし、その目には深い孤独が宿っていた。


「私、誰とも分かり合えないの……でもいいの……私は一人で生きていくから……」


 幼い詩織の声が、陽花の胸を締め付ける。その声は、氷のように冷たく、そして鋭利だった。まるで、誰にも触れられないように自分の周りに壁を作っているかのようだ。


 陽花は、その小さな詩織を抱きしめたいという衝動に駆られる。しかし、彼女の姿は霞のように儚く、手の届かないところにあった。


 二人は、互いの過去の姿を通して、相手の心の奥底にある想いを感じ取っていく。孤独や不安、誰かに理解されたいという願い。それらが、まるで映画のように二人の目の前に映し出される。


 幼い陽花の周りには、たくさんの子供たちがいる。しかし、誰も彼女に気づかない。彼女の声は誰にも届かず、その笑顔は誰にも見てもらえない。陽花は必死に手を伸ばし、誰かとつながろうとするが、その度に手はすり抜けていく。


 一方、幼い詩織の周りには誰もいない。彼女は一人で本を読み、一人で歩き、一人で食事をする。周りの子供たちは楽しそうに遊んでいるのに、詩織だけがその輪に入れない。彼女の目は、遠くを見つめたまま、誰にも向けられることはない。


 その光景を見ながら、現在の詩織と陽花の胸に、温かいものが広がっていく。それは、相手への深い理解と、言葉にできない愛おしさだった。


 幼い陽花が泣きそうな顔で詩織を見上げる。


「僕の声、聞こえる? 僕のこと、見えてる?」


 その問いかけに、詩織は思わず頷く。


「ええ、ちゃんと聞こえるわ。あなたの声も、笑顔も、全部見えているわ」


 詩織の言葉に、幼い陽花の目に光が戻る。


 同時に、幼い詩織が陽花を見つめる。


「私の心、分かる? 私の気持ち、受け止めてくれる?」


 陽花は、強く頷く。


「うん、全部分かるよ。詩織ちゃんの気持ち、ちゃんと受け止めるからね」


 陽花の言葉に、幼い詩織の表情が柔らかくなる。


 そして、幼い二人の姿が重なり合う。まるで光の粒子のように、二つの姿が溶け合っていく。その光は、現在の詩織と陽花を包み込み、二人の心を一つに繋ぐ。


 その瞬間、詩織と陽花は互いの手を強く握り締める。その温もりの中に、全てが詰まっていた。過去の孤独、現在の喜び、そして未来への希望。


 光が薄れていく中、二人の目には涙が光っていた。しかし、それは悲しみの涙ではない。互いを深く理解し、受け入れ合えた喜びの涙だった。


 やがて、光は徐々に薄れていき、二人の意識が現実に戻ってくる。


「今の……」


「うん、私も見たわ」


 二人は見つめ合う。その目には、互いへの理解と愛情が深く刻まれていた。


「詩織ちゃん、私……」


「ええ、分かるわ」


 言葉を交わさずとも、二人の気持ちは通じ合っていた。


 その時、小屋の扉が開く音がした。振り返ると、そこには先生と数人のクラスメイトが立っていた。


「よかった、無事だったのね!」


 先生が安堵の表情で二人に駆け寄る。


「みんな、心配してたんだから」


 クラスメイトたちも、安心した様子で二人を見つめる。


 詩織と陽花は、まだ少し夢心地のまま立ち上がる。小屋を出る時、二人は祠の前で立ち止まった。


「ありがとう」


 二人の心の中で、同時にその言葉が浮かぶ。


 山を下りながら、詩織と陽花は時折視線を交わす。その度に、温かな気持ちが胸に広がる。


 この日の出来事は、二人の絆をより一層深めることとなった。山の中で迷い、不思議な体験をしたことで、互いの心の奥底にある想いを知り、理解し合えたのだ。


 そして、これからの二人の関係は、今までとは違う、より深い信頼と愛情に満ちたものになっていくだろう。なぜなら、二人の愛は、これからも永遠にずっと続いていくのだから……。


(了)



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【学園百合小説】椿花女学院恋物語 ~静寂と陽光の調べ~ 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi

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