入水

暇崎ルア

入水

 出会ったときから、その人は何かが変だった。人混みの中、目の前を歩いていた彼は、なぜか通りゆく人に何度もぶつかられていた。よろけようが、転びそうになろうが、誰も「すみません」の一言も言いやしない。いくら都会とはいえ、あまりにも冷たすぎる。

 柔道家のような体格の男にぶつかられたのを見て、ついぞ頭に来た僕はとうとう駆け寄っていた。

「大丈夫ですか。……まったく、失礼な人たちですね」

 僕を見上げた彼は、しばらく驚いたようにぽかんとしていた。

「見えるの?」

 最初、言われたことの意味がわからなかった。

 驚いた。スラックスの膝をぱんぱんと払いながら、彼は立ち上がった。

「君みたいな人もいるんだね、きっと波長が合うんだな」

 ようやく、違和感の正体がわかった。季節は幾ら着込んでも寒い十二月だというのに、彼は白い半袖シャツを着ていた。

「いいんだ。僕のことは心配してくれなくて」

 無垢な子供のような笑顔で、そう言った。


 海へ行こう、と言ったのはどちらからだったか? 間違いなく、僕じゃない。ただでさえ凍ってしまいそうな時期にそんなところへ行くわけがない。

 それでも僕たちは真冬の海に足を向けていた。潮風が冷たくて、ずっといたら身体の芯まで冷え切ってしまいそうだった。

「僕はね、死なないんだ」

 独白は唐突だった。顔に皺ひとつなく、髪も黒々としている人にこんなことを言われても、誰が信じるだろう?

 彼は「本当だよ」と言ってのけた。

「なら第二次世界大戦も体験したっていうんですか?」

「ああ、目先のことばかりで愚かな人ばっかりだったね。生きてればいつか絶対死ぬのに、武器を持って殺し合うなんて」

 心から馬鹿にするようにため息をつく。

「ようするにあなたは、不老不死の秘薬を飲んだと」

「それが少し違うんだな」

 彼曰く、恋だという。

「若いころに愛する人ができてね。いつまでも一緒にいたい、他に何もいらないからって強く願ったことがあるんだ」

 すると、ある地点から老いることはなくなった。

「良いことはないけどね。その人はもうこの世にはいなくなってしまったし」

 どこまでが本当でどこからが冗談なんだろう? 逃げた方が良かったのかもしれないけど、その場から動けなかった。物静かに淡々と語る声にはそこに留まらせる不思議な力があった。

「それでね、長く生きていると存在感がなくなる。だから、ほとんどの人は僕に気がつかないんだよ」

 全ては仕方がないこと。

 波が寄せては返す冬の海で、言葉は現実感なく響いた。

「虚しくないですか、もう好きだった人とは会えないのに」

 彼はしばらくの間黙って海を見つめていたが、やがて静かに口を開いた。

「その人を愛した記憶の欠片がわずかでもあれば生きていけるんだよ」

 不思議なことだね。

 まるで他人事だった。

「ごめんね、そろそろ行くよ」

 冷え切っているであろう海水の中に、彼は一歩足を踏み入れた。

「どこへ行くんですか」

「誰もいないどこか。こういう身体だから溺れないし、風邪も引かないから心配しなくていいよ」

 また会えたら会おうね。

 ゆっくりと、でも確実に、海の中へ進んでいきやがては見えなくなった。

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入水 暇崎ルア @kashiwagi612

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