第四章
新入社員の頃から着続けてもう三年のスーツ。パンツスタイルのそれを着て、テーブルに置かれた薄づきのリップを塗る。近くにあった髪ゴムで適当に一つ結びを作ると、カバンを持って私はすぐに家を出た。
個人経営のクリエイターさんにイベントやポップアップストアなどの企画・運営を行う代理店会社。今はその営業部に所属している。幼い頃からアパレル業界を目指していたのに、こうもシフトチェンジするなんて、まったく将来は予測不可能なものだ。
会社に着いて早々、一日のタスク管理とクライアントへの連絡。今日は外回りがない分かなりラクな方だ。
午前中に先方に送るいくつかの書類と午後の打ち合わせに必要なスライドを作成する。しかし、「神崎。これ今日中にまとめといてくれ。」そう言われデスクに積まれていく書類。予定通りに全ての仕事が進むはずもなく、おかげでパソコンの横に貼ったタスクの付箋が取れない。三年目にしては似合わない仕事量だろう。
そうして仕事に埋もれた私を、上司の佐々木さんが救い出してくれた。
「神崎ちゃん。小山と井上と一緒に食堂行くんだけど、神崎ちゃんもどうかしら?」
小山さんも井上さんも、同じ部署の先輩だ。
高校や大学なんかだと絶対に断っていたその誘い。けれど、人付き合いの重要な営業部でさすがにそれは出来ないので、「行きます。」と快く返した。
会社の一階。最近リニューアルされてカフェのような雰囲気になった第二食堂は、女性社員でいっぱいだった。
「こんなに変わってたんですね。」
「そうなの。最近神崎ちゃん外回り多かったからまだ来てないかもって思ってここにしたんだけど、当たり?」
「はい。初めて来ました。」
「なら良かったわ。」
佐々木さんおすすめのペペロンチーノを食べながら、この中で一番新人の私は先輩方の話に耳を傾けた。会社の人の噂話や上司の愚痴。正直良い気分はしない会話に、ペペロンチーノの美味しさは半減していく。
愛想笑いにも疲れ始めた頃、小山さんはフリルの付いた袖を揺らしながら、そういえば! と嬉しそうに話始めた。
「さっき打ち合わせで来てた男の人見ました!?」
「あー、あの背の高かった人? 遠くからは見たけど。」
「え、じゃあもしかして顔見てないの!?」
「見てない。」
興味無さそうに言う井上さんに、小山さんは「なんでよ〜!」とわざとらしくうなだれて見せた。でもすぐにまた明るい表情に戻る。
「その人めっちゃイケメンで、ちょっと話す機会あったんですけど、その時私気付いちゃって。」
「何を?」
「私超チビだ〜!って。もう目線合わせるのに首疲れたよ〜。」
「いいじゃない。小山ちゃんはその身長でも十分可愛いんだから。」
「それは嬉しいんですけど、私は佐々木さんとか神崎ちゃんみたいに身長高くて仕事出来るお姉さんっぽさが欲しいというか。」
「確かに神崎ちゃんって背高いよね。最初見た時靴がヒールじゃなくてびっくりしたもん。」
「え! ヒールじゃないの!?」
突然振られたものの口にまだ入っていたので首を縦に振った。すると三人の視線が私に向く。
「スタイル良いし、羨ましいね。」
「そういえば、ずっとスーツよね。うちの会社服装の規定そんなにないし、外回りがない日は私服で来てみたら?」
「え、神崎ちゃんの私服見てみたい! それに、髪型とかメイクとかもっとしちゃっていいもん!」
「私を見てみなよ〜。」と小山さんは緩く巻かれた髪をくるくると指で遊んで見せた。私は苦笑いで「気が向いたらやってみます。」と答えるのが精一杯だった。
本当はそうしたい。私服を着て、しっかりメイクもして、出来る限りお洒落したい。しかし、心の奥底にあるその思いは、何十倍もの恐怖心で埋もれていく。また私の容姿で誰かを傷付けたら、そんな風に思うと怖くてしょうがないんだ。でもそんな事、人に言えるわけがない。嫌味だとか、自慢だとか、そう言われるのはわかっているから、私は必死にこの感情を笑顔の裏に隠した。
「私、お手洗い行くので、先に戻っていてください。」
仕事に戻ろうと席を立った時、そう言って私は先にその場を離れた。各フロアにもあるのにわざわざ食堂のお手洗いに向かう。
鏡に映った自分の顔は、メイクもあまりしていないせいで疲れが露骨に出ていた。結局、どんな見た目をしていても、口を挟む人はいるんだ。
諦めのような深いため息を吐いて、少しでも心を軽くする。私も仕事に戻らないと。
上手く切り替えのつかないまま歩いていると、突然聞こえたその声は更に私を揺さぶった。
「麗香?」
懐かしい声だった。あの頃と変わらない優しい声色。
聞こえた方へ視線をやると、会社のロビーで座っていた彼女は立ち上がるなりこちらに手を振った。茶髪をハーフアップにし、瞬きする度にオレンジのアイシャドウがキラキラと光る。花柄のワンピースに身を包んだ姿は、別人のようで、でも確かな面影があった。
「心実……だよね?」
「うん。久しぶり。」
「……久しぶり。」
彼女の声が耳に届く度、過去の記憶がどんどん浮かび上がっていく。一緒に笑いあった事も、秘密基地みたいな空き教室も、最後のあの手紙も。そうして口から出た言葉は、「なんで?」ただそれだけだった。
「仕事仲間が、麗香がここにいるって教えてくれて。」
器用な笑いを添えて話す彼女。「そうじゃなくて!」と私は少し責めたように返してしまった。
あの時終わったはずの関係。もう関わらないと決めたのに、どうして心実は声をかけたの。意味の分からない現状。けれど、彼女の瞳はもうずっと前から決めていたとでもいうように、私の瞳をじっと見つめた。
「遅くなってごめんね。」
「謝ってばっかりじゃん。」
「そうだね、本当にごめん。」
二度目のごめんは、今の私じゃない。高校生の時の私に向けたようだった。
心実は私の欲した言葉は言わず、「これ、来て欲しいんだ。」と言って一枚のフライヤーを差し出した。
"cocomi's アトリエ"
そう書かれたチラシには、あの頃と変わらない心実の絵がいくつか写真で載っている。
「私の個展やるんだ。まぁ、とはいっても規模は小さいんだけどね。丁度ここの会社に依頼したら、場所とか色々用意してもらえて。」
私は話を聞きながら、ただ驚くことしか出来なかった。私と同い年の彼女。この年で個展を開くのは凄い事だと素人の私でも分かる。
「もちろん行くけど。」
けど、まだ肝心の答えは聞けてない。
「良かった。じゃあ、何があったかはそこで話すね。」
結局教えてもらえないまま、心実の後ろに見えた時計は、打ち合わせの時間に迫っていた。
「あ、ごめん。もう行かないと。」
そう言うと、彼女は最後に、「その日、麗香の好きな格好で来てね。それがドレスコードってことで。」と付け足し「またね。」と手を振った。
終始よく分からないまま終わった会話。相変わらず感情に左右されやすい私は、その後の打ち合わせで久々に失敗してしまった。
クローゼットの奥にしまい込んだ洋服。そこから茶色いチェックのスカートとピンク色の薄手のニットを取り出す。買ったまま開けていなかったコスメを開けて、シェーディングやハイライトまでしっかりメイクをした。久々で少し手は鈍っていたけれど、それでも高校生の時に練習した量は裏切らない。かなり納得のいく仕上がりになった。
着替えてから髪を巻き、バックを持って靴を履く。そうして玄関の姿見に映る私は、少しだけ怯えた表情をしていた。
「麗香の好きな格好で。」
心実に言われた通りにしたものの、やっぱりどこか落ち着かない。他のもっとシンプルなものに着替えようかと靴を脱いだ時、スマホの通知が鳴った。
「好きな! 格好だからね! 自分に嘘ついたら入れないよ〜」
心実からだった。まるで計ったかのようなタイミング。七年ぶりだろうか。久々のチャットに、「もう嘘はやめるよ。」と返した。
鏡の自分と見つめ合う。そして少しだけ口角を上げた。やっぱり、笑った自分が一番好きだ。
玄関のドアを開ける手は震えるし、ブーツを履いた足はぎこちない。けれど、嘘のない自分が、何よりもお守りになってくれた。
歩いていると、道行く人が私を見ている気がする。自意識過剰だとわかっているけれど、胸の中がそわそわする。これが緊張なのか、高揚感なのか、はたまたどっちもなのか、私には分からない。でも嫌な気はしない。むしろ、どこか嬉しく思えた。
フライヤーの地図を頼りに会場へ向かうと、「麗香ー!」と彼女のものとは思えない程の大きな声で心実が手を振っていた。
「待ってたよ〜。ちゃんとドレスコード守ってきたね。」
楽しそうに話す心実に、私はまず言いたい事があった。
「心実、久しぶり。」
前回会った時に言った言葉。けれどあれは、自分に嘘をついた私だったから。高校生の時と同じ、ありのままの私で言いたかった。
心実はそれに気づいたのかもしれない。少しだけ驚いた様子を見せては、「久しぶり、麗香。」と言った。
「さあ、入って。麗香に見せたくて頑張ったんだから。」
会場に足を踏み入れると、そこは色鮮やかな心実の世界観がたっぷりと詰め込まれていた。あの頃と同じ。でも、あの頃より遥かに成長していた彼女の絵に、多くの人が目を奪われている。その光景がまるで自分事のように嬉しくて、「凄いね! 心実!」と彼女よりもテンションが上がっていた。
そんな私の横で、心実は約束通り、これまでのことを教えてくれた。
「あの日、あの手紙を麗香の下駄箱に入れた事、今でも後悔してる。もっと上手く出来たんじゃないかって。あれは私が悪かったなって。本当にごめん。」
目の前に飾られた虹色の桜の絵。そこに似合わない表情で、心実は再び私に頭を下げた。
「あの時、私のせいで麗香を悪く言われるのが嫌で、卒業して悪く言う人達がいなくなってからまた一緒にいられたらって思ってた。でも、卒業式の日、私麗香に声もかけられなかった。結局自分の為だったんだよ。麗香といたらまた比べられるかもって怯えてた。本当、最悪だよ私。」
過去の自分にムカついているんだろう。視線は私ではなく、明るい会場の照明で出来た彼女自身の影に向いていた。
「でも、暫くして久々に絵を描いてみたの。」
「それまでは麗香がいないのに独りで書くのはつまらなくて描いてなかったんだけどね。」と話す彼女を見ると、やっぱり強引にでも話せば良かったと後悔が残る。
「そうして久しぶりに絵に触れて、高校生の時描いた絵なんかも見返して、純粋に絵を楽しんでいた時の感情を思い出したんだ。その時自分が絵に込めたものや、伝えたかった事を。それからは、ひたすらに絵を描いた。ここにある絵はほぼ全部その時のものなんだ。」
なんだか腑に落ちた。こうして皆が彼女の絵に夢中になるのは、当時の心実の熱量を時が経ても絵が伝えてくるからなんだ。
「絵を描いていると、自分と向き合える気がするの。だから、こうして個展を開くってなった時に、今の私ならきっと麗香に声をかけれると思った。絵を描く中で、周りに流されない自分の核みたいなものを見つけられたから。随分遅くなっちゃったけど、でも、今の私で麗香に会えて、良かったと思ってる。」
満面の笑みでそう話す心実に、私は暗い顔を返してしまった。
「え、ごめん、やっぱり怒るよね。」と焦る心実。
遅かったのを怒ってるわけじゃない。心実を責めるつもりもない。
「ごめん。遅いのは私の方だったよ。」
ただ自分を馬鹿らしく思っただけなんだ。
「私、卒業してからずっと周りの反応ばっか気にしてた。また誰かを傷付けたらって出来る限り普通になろうとしてた。そんなの間違ってるって、高校生の私は気付いてたはずなのに。」
悔しくて、人目も気にせず落ちた涙は私の影に紛れた。
「心実のおかげだよ。自分の好きな格好でって言われて久しぶりに着飾った自分を見て、やっと思い出せた。」
「ありがとう。」と潤んだ彼女の瞳に言うと、一滴の雫が溢れた。
「こちらこそ、ありがとう。」
絞り出したような声。あの時と変わらない声で、心実は笑った。
二人して泣きながら、心実の絵を見て回った。その時の状況や思った事なんかを、空白の時間を埋めるように語り合いながら。心実が私の事を知ろうと自分磨きを始めた事や、一度私宛の手紙を書いたけれど送らなかった事。過去の思い出を心実は楽しそうに話していた。
「ねぇ、いつまで泣いてんの。メイク崩れるよ?」
心実に笑われながら差し出されたハンカチで拭う。すると彼女は「私が水彩画を描いてる理由、話した事あったっけ?」と尋ねた。
「聞いたことないよ。」
「私ね、小さい時凄い泣き虫で、どこに行っても大体泣いて帰ってたの。それで、初めて親に絵の具を貸してもらった時、描きたい景色が全然描けなくて。技術不足とかそういうのじゃなくて、色が違ったの。親の借してくれたアクリル絵の具じゃ、泣いた時に見た景色は描けなかった。泣いた時に見る景色って、必ずしも悪いものだけじゃないでしょう?」
ぼやけたままの視界に映る心実の絵は、照明の光でより虹色に輝いて見えた。確かに、残したくなるような良いものだ。
「だから心実の絵は虹色が多いの?」
「ん〜それもあるけど、」と言うと、心実は「ほら」と最後に飾られていた絵を指さした。
虹色のクラゲ。未完成のまま過去に取り残されたクラゲが、今目の前で綺麗に泳いでいる。
「何色でも、クラゲはクラゲでしょ?」
色なんて、見た目なんて関係ない。心実が絵に込めた思いは、私の胸を震わせた。
「そうだね。」
二匹のクラゲは、ずっとキャンバスの中で泳ぎ続ける。
虹色クラゲ Renon @renon_nemu
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