第三章

 とうに終わった問題演習の時間を過ぎても、私の視線はまだ五行目で止まっていた。

 毎時間しっかり受けていた現代文の授業。しかし、ここ数時間の解答欄は空白続きで、私はこんなにも感情に左右される人間だったんだと今更知った。

 心実に渡した手紙。その返事は未だにない。毎日、毎日、今日は入っているかもしれないと下駄箱を開けた。もしかしたら机に入れたのかもしれないと、毎朝教科書を入れる前に確認もした。直接話に来てくれるかもしれないと思って、休み時間は出来る限り教室にいるようにした。

 それでも、彼女からの返事は一週間経っても、二週間経っても来なかった。

 私が何をしたんだろうか。考えようにも時間が経つほどに欠けていく記憶。もう思い出そうとも出来そうにない。

 行き止まりの現状に、深呼吸のような音のないため息を吐き捨てた。また心実の絵を描く姿が見たい。あの楽しそうに筆を動かす姿を。

 問題文の上で止まったままの自分の手。全然頭に入ってこない本文を諦めて、私はまた接続詞に線だけを引いていった。

「ねぇ、麗香ちゃん。」

 皆の集中力が切れ、教室でヒソヒソと話し声のし始めた頃、そこに紛れるような小声で話しかけてきたのは朝倉くんだった。現代文の授業で席が隣の人。ただそれだけの関係性である彼が私をそう呼ぶのは、きっと彼の人柄からなるものだろう。

「何?」

 手を動かしたまま、無関心なことを隠さず口調に出した。

「最近、あの子と一緒に居ないんだね。」

 私にとっては最悪な話を、嬉々として話す彼。

「それがどうかしたの。」

「いや、さすがに偽善者はもう終わりかぁってね。」

 疑問形じゃない。"別にいいでしょ"というようなニュアンスで言い放った言葉に、彼は気付いていないのだろうか。

 朝倉くんは節々に乾いた笑いを織り交ぜて話した。

「ほら、麗香ちゃん可愛いからさ、なんかあの子が近くにいると、んーなんて言うかな、バランスが合わない? みたいな。麗香ちゃんの株を下げんなよなぁ。」

 察しろというような言い草。まるでオブラートに包んだように話すそいつが私は心底気持ち悪かった。なんで私への印象に心実が関与するんだ。なんで心実が悪いかのように話すんだ。全く意味がわからない。花村さんの時と同じ、静かな怒りが沸々と込み上げるのを感じる。

 彼は気にする素振りもなく、自慢げに口を開いた。

「それこそこの前さ、同じクラスの平田とこの話してたんだけど、やっぱあいつも同じ事思ってたみたいで超話盛り上がって。したら、運悪くあの子に聞かれたんだよ。あん時の顔まぁじでおもろかったわ。顔面蒼白、みたいな? 最高だったわ。麗香ちゃんにも見せてあげ、って、どうしたの? 麗香ちゃん?」

 聞いていられなかった。立ち上がった反動でガタンっと音を立て倒れた椅子。

 解説をしていた教師も、居眠りをしていた生徒も、教室中の全ての視線がこちらを向く。朝倉くんはニヤけた口元のまま、不思議そうに私を見ていた。

 こいつを殴りたい。

 いや、こいつだけじゃない。一緒に笑った奴も、傍観者だった奴も、何も気づかない教師も、全員を殴りたい。

 心拍数は上がり、自然と息が荒くなる。怒りの溜め込んだ右手が震え、握りしめていた制服のスカートはもうクシャクシャだった。

 息を飲んだような静かな教室。それを、教壇に立っている男が切り裂いた。

「神崎? どうかしたか?」

 教師の目だった。嘲笑う訳でもなく、ただ授業を妨げた生徒を心配するか、咎めるかを計る目だった。

 ふっと感情が地に着いた感覚がする。冷静さが戻り、体からすっと熱が引いていく。

「すいません。体調悪いので、保健室行ってきます。」

「あぁ、わかった。お大事に。」

 少し動揺した声。その前を通り抜け、私は急いで教室から逃げ出した。

 いや、逃げたんじゃないな。戦ったんだ、私は。変えられない教室の空気と、ただ受け流す事しか出来なかった過去の自分と、戦ったんだ。逃げたのは、集団という安全地帯で、心実を馬鹿にしたあいつらの方だ。


 保健室に何時間も居座った挙句、その日は保健室の先生に荷物を取ってきてもらって早退した。本当に体調が悪かった訳じゃない。もう一度あの教室に戻りたくないだけだった。


 家に帰るなり、私はレターセットから一枚取り出した。淡いカラフルなレターセット。前回書き直しすぎたせいで、これが最後の一枚だ。

 書きたくはなかった。でも、今の私にはこれくらいしか思いつかない。

「もう私に会いたくなかったら、この手紙を私の下駄箱に入れて。」

 たった一文。それだけを書いた。

 心実が私を避ける原因があいつの話を聞いた事なら、周りからの私の印象を気にしたのかと最初は思った。彼女は優しい人だから。でも、きっとそれだけじゃない。心実だって、比べられて悪く言われる原因の私を嫌っているのかもしれない。私といる事の方が辛いのかもしれない。そんな風に考えると、私は無理に仲直りしようとも言い出せなかった。私じゃこの空気を変えられない。心実を守ることも出来ない。そんなのは、今日痛いほど実感したから。きっとあの時朝倉くんを一発でも殴っていたら、少しは変わったのかもしれない。

 考えれば考えるほど生まれる未練。それらを断ち切るように、私は手紙を入れた封筒をきつく留めた。

 けれど、そんな決意は嘘だったかのように、いざ心実の下駄箱を目の前にするとぶわっと感情が漏れ出した。

 朝一の学校は嫌いだ。この涙を止める視線がない。静かな昇降口に響く自分の泣き声が不安や後悔を膨れ上がらせる。

 水彩画のような淡い色彩の封筒。それを私は震えた手で置いた。心実との関係がこれで終わってしまうかもしれない。怖い。終わって欲しくない。ずっと心実と友達でいたい。

「誰かの為にって、こんなにも頑張れるんだね。」

 そう言っていた彼女。

 あぁ、確かに頑張れる。心実の為ならどんな返事が来たとしても。

 それくらい私は彼女の事が好きで、彼女の見る世界が好きで、私が邪魔にはなりたくなかった。

 全ての願望を押し殺して、私は下駄箱の扉を閉めた。


 その日はこれまで以上に何も手に付かなかった。授業の内容は入ってこないし、お昼ご飯を食べたかも覚えてない。体を洗うのも忘れてお風呂に二度入ったし、布団に入ってから寝るのに一時間もかかった。

 けれど、次の日にギリギリで学校に行く事は覚えていて、寝不足の目を擦りながら家を出た。もう手紙を入れるなら入れた時間だろうか。何度も時間を確認しながら着いた先で、私は大きく深呼吸をした。

 意を決して勢いよく下駄箱の扉を開ける。

「え?」

 そこに手紙はなかった。ただ私の上履きが入っているだけ。絶対手紙が返されているだろうと勝手に思っていた私は、あまりに予想外の事で思わず声が出てしまった。

「どしたの〜? あ、もしかしてラブレターとか入ってた?」

 運悪く横にいた朝倉くんの言葉を無視し、念の為心実の下駄箱も確認する。しかしそこに手紙はなく、あるのは彼女のスニーカーだけ。つまり心実は手紙を受け取った上で私に返して来なかったんだ。そう分かった途端、私は嬉しくてしょうがなくて、笑顔を隠すことすら忘れて急いで教室に向かった。

「え、ちょっとその反応マジのラブレターなの!?」

 後ろで騒ぐ彼に言われて慌てて普段の表情に戻そうとしたけれど、上手く出来そうにない。

 そのまま教室のドアをガラッと開ける。心実の席。廊下側の前から三つ目。私を待っているだろうと思ったその場所に、心実の姿はなかった。教室を見渡してもどこにもいない。心実のスニーカーがあったという事はもう学校に来ているはずなのに。なんとなく嫌な予感がした。

「おはよ、神崎さん! どうかしたの?」

 教室の入口で突っ立っていた私を覗き込むように声をかけたのは花村さんだった。途端に普段の冷静さを思い出して「別になんでもない。」とだけ返し、窓側にある自分の席に座った。

 心実が教室に入ってきたのは、朝のホームルームが始まる直前。終わってすぐ声をかけようと席を立つと、ちらりと私を見た心実は逃げるように教室から出ていってしまった。

 やっぱり、前と何も変わってない。確認の為に開いたチャットも未読無視のまま。几帳面な彼女の性格上すぐに手紙を読むと思っていたけれど、もしかしてまだ読んでないんだろうか。

 心実の私を避ける行動は一日中続き、何か変化はないのかと空き教室にも向かったけれど、やっぱりあの日のまま。虹色のクラゲがただそこにいるだけだった。

 そんな日が次の日も、そのまた次の日も続き、気付けば一週間ほど経ってしまっていた。

 てっきり手紙は返されるものだと思っていたせいで、その他の場合に関して何も書いていなかった手紙。返事が来ていないけれどまた新しく手紙を送ろうか。そうすれば、何か彼女の行動に変化があるかもしれない。

 どうしたものかと頭を悩ませていると、ようやく目の前に変化したものがあった。けれどそれは、決していい気のしないものだった。

 今日こそは彼女がいるかもしれないと向かった空き教室。そこにいつものクラゲがいない。いや、クラゲだけじゃない。心実の使っていた水彩絵の具も、イーゼルもなくなり、私と一緒にお菓子を食べていた机すら片されている。もうこの教室に、私達が過ごした痕跡はどこにもなかった。ずっと過ごした場所なのに、あるのはただ記憶だけ。別物になってしまったこの教室に居心地の良さなんてものはなく、私はすぐに教室を出た。

 なんで彼女は突然こんな事をしたんだろうか。もう私の前で絵を描いてはくれないんだろうか。様々な憶測が頭に浮かんでは、怖くなってそんなわけないと首を振る。

 きっと心実なら分かってくれるはずだ。私がどんなに心実との関係を壊したくないと思っているか。周囲の反応なんてどうでもいいと思っているか。だから、まだ可能性だけでも残して欲しい。

 切に願ったその思いは、私の下駄箱に入っていた淡いカラフルな手紙によって、いとも簡単に終わりを告げた。

 もう彼女とはこれで終わり。私は邪魔だったんだ。

 抱えきれない感情が心の中を渦巻く。悲しいとか苦しいとか、そんな名前すら付けることの出来ない気持ち悪い感情。

 その根源である手紙を視界に入れたくなくて、早く鞄にしまおうと手にした。すると、ひらりと小さな紙切れが落ちていく。手紙の下にあったんだろうか。

 ノートの端を折ったようなその紙を開くと、たった一言。

「ごめんなさい」

 そう心実の字で書いてあった。

 謝らないでよ。きっと謝らなきゃいけないのは私なんだから。

 誰もいない、声の届かないその場所で、「ごめんね、心実。」ともう手遅れな言葉を呟いた。

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