第二章

「偽善者だ。」

 翌日、登校して最初に聞いた言葉がそれだった。別に私に直接言ってきた訳じゃない。私に関して遠くで話していたのが聞こえてしまっただけだ。きっと花村さんが言いふらしたんだろう。

 偽善者か、なんとも彼女らしい。私が心実と仲良くしている事を偽善と言っているのなら、これは私への悪口ではなく、あくまでも"心実と仲良くするのは嫌な事"という共通認識を皆に植え付ける為のものなのだから。しかも、私が嫌々心実と仲良くしている事にすれば、皆の私に対する仲間意識も生まれるだろう。

 結局のところ、花村さんはどこまでも"心実だけ"を悪く仕立て上げたいんだ。本当に馬鹿馬鹿しい。そう軽く見ていた。

 しかし、そんな彼女の思惑通り、たった数日でクラスの形は大きく変化していった。これまでよりも心実を居ないものとして過ごす人が増え、逆に私に声をかける人が増えた。それに、時間が経てば経つほど、心実を除いた仲間意識が作られていく。

 けれど、そんな事を気にすることも無く、私と心実はいつもと変わらない日々を過ごしていった。二人で休み時間を過ごし、二人でお昼ご飯を食べ、二人で放課後に集まる。周囲を変えようとする時間があるくらいなら、私は心実との時間に使いたい。それに、ここまで固定化された意識を変えるのは私じゃどうにも出来ないだろうから。

 いつものように空き教室へ行くと、リンゴの絵を描き終えた心実は次の新しいキャンバスを準備していた。

「あ、リンゴの絵、完成したんだ!」

「うん。まだ完全に乾いてないから気を付けてね。」

「はーい。」

 前に見た、ただ色が塗られた状態のものも抽象的で好きだったけれど、数日間細々と描き足された影などによってよりリアルになったリンゴはさらに好きだった。それに、これなら少し美味しそうに見える。

「心実の絵は本当に綺麗だよね。」

 私の言葉に、心実は「ふふ、ありがとう。」と若干照れた様子を見せた。昔から彼女は謙遜や自虐を言わない。私が何度褒めても、ただ感謝の旨を伝えるんだ。そんなところも私は好きだった。彼女自身が自分の絵に胸を張って向き合っているようでかっこいい。例え自分の趣味であろうと、自信を持つのはそんなに容易なことではないのだから。

「次は何を描くの?」

「今のところは、クラゲを書こうかなって思ってる。」

「おー! クラゲか、夏らしくて良いね。」

 真っ白のキャンバスに心実はなんの迷いもなく黒の鉛筆で線を書いていく。サッサッと紙を滑る音は何度聞いても心地いい。

 そういえば、昔心実に聞いたことがあった。

「なんで美術部に入らないの?」

 この学校にもそれなりの人数を有した美術部がある。しっかりと部費も出るから、画材の費用なんかを考えれば部活に入って絵を描いた方が良いだろう。それでも心実はたった一人、この空き教室で絵を描く。そもそもこの教室だって、屋上で天候に悩まされながらひっそりと絵を描いていた心実を見かねて、先生が用意してくれた場所だ。

 彼女は言っていた。

「私は自分が描きたいものだけを描きたいから。」

 目の前に広げられたカラフルな水彩絵の具。確かに美術部は基本アクリル絵の具だし、イベント毎のポスターも描かなきゃいけない。

 それでも、彼女がなぜここまで自分の描く絵にこだわるのか、私は未だに知らなかった。



 心実がクラゲを描き始めてから塗り作業に入るまで、随分と時間がかかった。窓外に見える木の葉はあんなに生い茂っていたのに、いつの間にか枯れ始め、クーラーももう点けなくなっていた。

 それもこれも、大半は私のせいだろう。ある日はお菓子を持って、ある日はただお喋りをして、そうして過ごしていると時間はあっという間に過ぎていったんだ。

 しかし、心実は急いで絵を描くこともなく、放課後の時間を純粋に楽しんでいた。コンクールに出すわけでもないので、焦らなくてもいいらしい。

 だからこそ、今日は珍しいなと思った。

「ごめん、ちょっと遅くなっちゃった。あ、クラゲ虹色にしたんだ!」

 掃除当番が大分長引いたせいで遅れて向かうと、いつも通り教室の真ん中で心実は絵を描いていた。二匹いるうちの一匹が、既にうっすら色付き、ゆらゆらとキャンバスを泳いでいる。

 けれど、余程集中しているのか返事がない。まぁ、心実にはよくある事だった。線画を描き上げる時や、細かい塗りを行っている時はよく周りの音が聞こえなくなる。

 邪魔するのも悪いなと思い、私は静かに少し離れた椅子へ腰掛けた。

 もう一方のクラゲにもどんどん色が重ねられていく。まだ塗られていない白地の背景は、カラフルなクラゲをより浮かび上がらせた。

 綺麗だなぁと暫く眺めていると、ぼそっと心実の声がした。独り言だろうか。パレットを見つめては何色にしようかと悩む時、彼女はやけに独り言が多くなる。どうも自分の思う色合いを実際に作るのが難しいらしい。

 今度はもう少し大きな声でぼそぼそと聞こえる。でもまだ聞き取れはしない。

 パレットの上で止まった筆。何色を取るんだろうか。そうわくわくしながら見ていると、突然彼女の声が部屋中に響いた。

「もうここに来ないで!」

 見たことのない姿だった。いつも穏やかで荒々しい姿なんて見せてこなかった彼女。決してこちらを見ることはなく、力強く握られた筆が震えている。驚きのあまり固まってしまった私に彼女は再び声を張り上げた。

「私に、関わらないで!」

 絞り出したような声。泣いているんだろうか。鼻を啜る音も聞こえる。

「えっと……」

 何と言って彼女を落ち着かせようか、どうやって話を聞き出そうか。そう考えていると、ガタンっという物音と共に、走って部屋を出ていこうとする心実の姿が見える。

「え、心実!?」

 慌てて呼び止めた声は、彼女を振り返らせる事も出来ず、静かな教室に置いていかれた。

 倒れた椅子と、虹色のクラゲ。魂の抜けたようなそれらに、私は酷く同情した。



 ニットの隙間を通り抜ける風に身を縮こませながら、坂道を下る。ギアを軽くしたままの自転車はカラカラと軽快な音を立てた。時々小石を踏んでは飛び跳ねる車体。久しぶりの自転車は意外にも楽しく、高校生ながらに両足をペダルから外してはバタバタと動かしてはしゃいだ。まだ完全に下り切る前に、再び足をペダルに戻しては、力強く踏み込んで勢いをつける。そうしてすぐ現れた上り坂に、私は息を上げながら自転車を漕いだ。

 辛くはない。むしろ、こうしてがむしゃらに進んでいくのは気が楽だった。

 あの日から心実とは一度も話せていない。メッセージは未読無視。名前を呼んでもこちらを向かず、休み時間には逃げるように教室を出ていく。空き教室でさえあの日のまま。時間を忘れてしまったかのように、倒れた椅子と、虹色のクラゲがいるだけだった。

 私が何かしてしまったんだろうか。心当たりが何も無い。けれど、彼女のことを諦めるつもりはなかった。

 少し背中に汗をかきつつ登った先にそのお店はあった。街の中にある小さな文具店。帰り道にある駅中の雑貨店の方がきっと品揃えはいいだろう。それでもここを選んだのは、できる限り手間をかけたくなったから、という自分でも意味のわからない理由だった。

 カランカランと昔ながらの鐘の音が店内に響く。

 店主のおばあさんはこちらを向くと「いらっしゃい。」と優しい笑顔で出迎えてくれた。

 軽く会釈をして店内を見渡すとどうも客は私だけのよう。

「何かお探しかい?」

 そう言ってゆっくりとレジから出てきたおばあさんの瞳には、小さな子供に向けるような温かさがあった。

「手紙を探してまして。」

 そう伝えると、「こっちにあるわよ。」と手招きしながら、またゆっくりと歩き出す。

 店の端。想像以上の大きな棚に、様々な手紙がずらりと並んでいる。このお店にしたのは正解だったかもしれない。

「珍しいねぇ。こんな若い子が手紙だなんて。好きな人にでも渡すのかい?」

「いえ、友達に渡すんです。仲直りしたくても、面と向かってだと聞いてもらえそうにないので。」

 思い出しては暗い顔をしていた私に、おばあさんは「大丈夫よ。」と自信満々に言ってみせた。

「手紙は想いが伝わりやすいからね。いっぱい悩むと良いさ。」

 ゆっくりとレジに戻っていくおばあさんの背中を見ながら、私はふと半年前の今頃を思い出していた。

 心実と仲良くなってから初めての私の誕生日。あの空き教室で心実は私にプレゼントをくれた。

「誕生日、おめでとう。」

 人を祝うにしてはやけに控えめな口調で恐る恐る小さな紙袋を差し出す。

「プレゼント、悩んだんだけど難しくて。」

 なんだそんなことかと思いつつ紙袋を受け取ると、中に入っていたのは緑の封筒と私が好きなブランドのコスメだった。

 私が驚きのあまり言葉を失っていると、無言の時間に耐えられなくなった彼女は「前に欲しいって言ってた気がしたんだけど、お店行ったら似てるのいくつもあって、違いあんまわかんなくて、」と焦った様子を見せる。

 そんな彼女の言葉を遮って、私は勢い良く抱きついた。

「ありがと、心実!」

 きっと安心したんだろう。ふっと強ばっていた肩が落ち、「良かった。」と呟いた。

 それから心実は沢山の事を話してくれた。分からないなりにコスメを調べてくれた事も、慣れないお店に緊張した‪事も、嬉しそうに彼女は話した。

「誰かの為にって、すごい頑張れるんだね。」

 そう言ってくれた心実の頭を撫で回したりもしたはずだ。

 彼女の話が一段落した時に、私は緑の封筒と目が合った。

「そういえば、手紙って珍しいね。」

「そうかな。」

「心実はよく書くの? 手紙とか。」

「よくって程でもないけど書いたりするよ。手紙は想いが伝わりやすいから、話すのが得意じゃない私には合ってるなって。」

 あの時、そう言っていたから私は手紙を選んだ。無理に引き止めて話すよりも、心実には手紙の方が良いだろう。でも、まさか同じ言葉をおばあさんにも言われるとは思わなかった。少しだけ自信の付いた心を頼りに、じっくりと悩んで私はレジに持っていった。

「大丈夫よ。」

 帰り際に再度そう言って励ましてくれたおばあさん。本当に優しい人だ。

 私はお礼を言って、すっかり暗くなった夜の坂道を全力で走った。




 心実の描く絵のような淡いカラフルなレターセット。帰ってくるなりその一枚を取り出して想いのままに言葉を連ねた。テストもあるし、課題も残ってる。でも、それら全てを無視して私は彼女への手紙を書いた。こんな事初めてだ。

 何度も何度も書き直して、言葉を選んで、そうして書き終えた頃にはとうに日付が変わっていたけれど、私はそれで満足していた。

「私はずっと心実の友達でいたいです。」

 飾らない文章で締め括ったその手紙を、翌朝、私はまだ来ていない心実の下駄箱に入れた。

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