虹色クラゲ

Renon

第一章

「あれ? 今回は虹色じゃないんだ。」

 キャンバスに描かれた黄色のリンゴ。その葉を赤く塗っていた心実は、「たまには雰囲気を変えてみようと思ってね。」と、もう一つあった葉を今度はオレンジ色に塗った。

 心実の絵は現実の色を使わない。決して色が分からないわけではなく、彼女が意図して使わないんだ。基本は虹色。とは言っても、七色に限ったわけではなく、もっと多くの色で水彩画特有の色に境の無い絵を描く。鯉も、いちごも、ブランコも、彼女は全て虹色で描いてきた。しかし、時々色を絞って描く時がある。まさに今のリンゴのように。それでも現実の色は使わない。

 同じ世界を見ているはずなのに、まるで私と違う世界を見ているような繊細で色鮮やかな絵。そんな彼女の絵が私は大好きだった。

 鞄を机に置き、キャスター付きの椅子に座る。そうしてしばらく黄色いリンゴを眺めていると、葉をオレンジ色に塗り終えた心実がこちらを向いた。

「どう? 美味しそうじゃない?」

 自信ありげに聞く彼女。どうやら私は彼女の見ている世界をまだまだ分かっていないようだ。

「熟してないのかもって思っちゃった。」

 素直にそう言うと、心実はふふっと少し控えめに笑って、またキャンバスに向き直った。今度は木製のような茶色のリンゴを描くらしい。おうど色と書かれた水彩絵の具がパレットに出されたのを見て、私は本棚に向かった。

 彼女が絵を描く間、私はいつも雑誌を見て過ごす。部室棟の一番端。空き教室のここには余った机や模造紙と一緒に、もう置き場の無くなった図書室の雑誌が沢山置かれている。

「今日は何見るのー?」

「ん〜、どうしよっかな。あ、良いのあるじゃん。」

 背中を向けたままだった心実がこちらを向いたので、雑誌の表紙を見せてあげた。

「ほら、夏の髪型特集ー!」

 少しテンションの上がっていた私に対して、心実は「へー、髪切るの?」と、自分から聞いた割にはあまり興味なさそうに相槌をしてまたキャンバスに戻った。身なりに関して無頓着な心実だが、「いや、せっかく伸ばしたし、結んでこの夏は乗り切ろうかな。」と言えば、「いいね。麗香に似合いそう。」と言ってくれる。そんな絶妙な距離感で私は満足していた。

 もちろん、彼女が容姿に関して興味を持ち始めたら私は喜んで話題に上げる。癖のついた髪質、整えていない眉、目が小さく見えてしまう眼鏡。きっと彼女を変化させるのはすごく楽しいだろう。でも逆に言えば、彼女が興味を持たない限り、私から話題に上げることはしない。そう決めていた。絵を描いている時の彼女の瞳を見れば分かる。私がコスメ売り場にいる時と同じ瞳をしているから。心実にとって今は何よりも絵を描くことが楽しいんだ。その輝く瞳に、私が邪魔をしてはいけない。しかし、心実の夢中な姿を知っているのはこの学校で私だけ。周囲の彼女に対する反応は、想像以上に早く変化していた。

「今日さ、駅前に出来たあそこ行こうよ。」

「あーあれ? あの、コスメとか売ってる雑貨屋みたいな。」

「そーそー。今オープンセールやってるらしくて。」

 放課後の教室から聞こえる会話は、いつの間にかそういったものが増え、大半の人は横で支度をする心実に冷ややかな視線を向けるか、そこに居ないものとして教室を出ていく。自分磨きは善であり、それを怠る人は悪である。そんな風潮がこの教室に蔓延しているからだ。外見だけを見て、心実を悪だと決めつける。そんなクラスメイトを私は心底嫌っていた。

「心実、先に行っててくれる? 私日誌書いてから行くから。」

「うん。わかった。」

 居心地の悪い教室。早く心実のいる空き教室に行こうとペンを走らせていると、誰かの手が私の机に重みをかけた。

「神崎さ〜ん!」

 私の名を呼ぶ甘ったるい声。見なくても分かる。花村さんだ。

「何か?」

 顔も上げず、手も止めない私を見て、彼女は日誌の上に手を置いた。紙が縒れて邪魔くさい。

「今日の放課後とかって、空いてたりするかな? 神崎さんと一緒にコスメ買いに行きたいなって思って!」

「ごめんなさい。今日は無理なの。」

「えぇ〜! 残念。神崎さん可愛いから色々聞こうと思ったのに〜。」

 大袈裟に落ち込むフリをした彼女。こんな誘い、ただの前振りにしかすぎないだろうに。日誌を書き終えてもなお、花村さんは手を退けないので、私は先に他の荷物を鞄にしまった。チャックを閉め、持ち上げようとした時に「ねぇ」と私を止める声。そうして初めて視界に入れた彼女の顔は、まぁ胡散臭い笑顔を振り撒いていた。

「何?」

 先を急ぐ私に反して、彼女はじっくりと間を置いてから、口を開く。

「神崎さんは、なんであの子と仲良くしてるの?」

 純粋な疑問なんかじゃない。語尾に付く鼻で笑う感じ。にやけた口元。私を図るようなブレない目つき。

 彼女が言ったのは、“あんな子と仲良くするなんて馬鹿みたい” 意味としてはそんなところだろう。私は心の奥底に沸いた静かな怒りを押し殺して、花村さんの目を見つめる。胡散臭い笑顔で隠れた目の奥を。

「あなたに理解される必要はないわ。」

 心実のことを知ろうともせず、見た目だけで決めつけるような彼女には、私の思いも、心実の良さも、きっと理解出来ないだろうから。

 彼女の瞳孔が開いたのも束の間。花村さんはすぐにまた笑顔に戻して「そっか〜。」と笑っていた。

「ねぇ、手、退けて。」

 日誌の上に置かれた彼女の手を指しそう言うと、「あ、ごめんね〜。」と思ってもないであろう謝罪をして花村さんは戻って行った。

 早く心実の所へ行こう。

 日誌を持って私は教室を後にした。職員室に向かいながら、忘れようとすればするほど花村さんの言葉が頭にこびりつく。

「なんであの子と仲良くしてるの?」

“あの子”

 名前を知っていてもまるで伏せ字のようにそう言い放った彼女。私が仲良くするのは心実しかいない。だから言わなくても伝わりはするけれど、名前すら出さないなんて。無意識のうちに握りしめていた右手。想像以上に怒っていたみたいだ。その強張った右手をほぐしながら、私は急いで心実の元に向かった。


 日誌を出しに職員室へ行くとかなりの遠回りになる為、心実には「あれ、意外と早かったね。」と何も気付かれることは無かった。

「その絵、結構出来てきたね。」

 黄色や茶色、ピンク色。色とりどりのリンゴで埋め尽くされたキャンバスは、見ていてとても楽しい。

「うん。数日もあれば完成すると思うよ。」

「そっか。楽しみにしてる。」

 言葉数がそんなに多い訳では無いけれど、居心地の良い空間。私と心実、二人だけの秘密基地のようで、ずっとここに居たいとすら思う。けれど、この空間に縋るあまり、私は外の状況に盲目になっていった。

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