再演

@toki_0

何巡目

 待てばいい。何もせずに待てばいい。そうすればこの糸に獲物は掛かり、俺はそれを食うだけ。こんなただ待って食うという生きるためだけの生活に俺は幸福を感じていた。山奥で生まれ、山奥で育ち、山奥で生を終える。それでいいと思った。ただ俺をそう思わせるのは今までが上手くいき過ぎていたからであった。ところが、最近は巣の糸に獲物が掛からない。日々老いていくうちに糸の質が悪くなった訳ではない、獲物達が近くにいなくなってしまったのだ。数週間前はよく大量の蝿が掛かっていたが、ある日の大雨を機にそれはなくなってしまった。思い出せば、俺の巣の下では何やら大きな動物の死体が腐っていた。辺りには強烈な腐敗臭が漂っており、蝿以外にも蛆虫やトビケラ、ハサミムシ、シデムシ、ゴキブリ、アリが群がり、屍で宴会を開いていた。美味しいと喜ぶ者もいれば、卵を産みつける者もいて、そこには死の上に生があった。俺は何もせずに待つだけといっても彼らの声を聞くなどして暇を潰していた。しかしそんな日々は無くなり、今や俺は飢えている。「もう少し待ってみよう。」そう言い聞かせて明日に希望を繋ぐ、そんな日が果たして幾日あったのだろうか。我慢の限界に達した俺は山を少しずつ下りていくことにした。上へ行くより下へ行く方が楽だと思ったのだ。生きている獲物を自ら捕らえるほどの力が残っていなかった俺にはただひたすら歩き、運良く死んでいる獲物に出会うことを祈るのが精一杯だった。どれだけ歩いたかは分からない。目の前に立っている自分の何百倍もの長さの木が何十本分だろうか。明るかったり暗かったりという日の一巡を意識する事が出来ないほど俺は死へ向かっていた。揺めきながら歩いていると、木の根を踏み外し、下に落ちて背中に傷を負ってしまった。見ると何やら拓けた場所で地面が砂利だらけだったのだ。そして飢えと痛みで立つ気力がなくなった。ここまでか。生を諦めて眠りにつこうとした瞬間、芳ばしい血肉の焼けた香りと身体を蝕むような煙の臭いを感じた。俺は最後の可能性に賭けようと思い、死力を尽くして歩き、数分かけてその元へ辿り着いた。上を見上げるとそこには明らかに俺の生きていた世界には存在しない巨大なものがいくつも立っていた、知っているはずのない巨大なものが。だが次の瞬間、違和感と妙な懐かしさに襲われた。どれも俺が知ってるものばかりだったのだ。焚き火台、鍋蓋、椅子、それにテント。何故俺はこれらを知っているのだろう。突如降りかかった疑問だった。しかし、考えている暇はなかった。何やら大きな動物が近づいてきて、俺を凝視した。黄色みがかった肌で、体に布を纏ったサルのような動物。これはヒトだ。「あっ。」ヒトが動いてすぐだった。俺は自らを苦しめていた飢えと痛みから救われた。辺りは暗く、動かす体すら存在しない。頭の中にあるのは喪失感ただ一つだった。それも今までの日々の喪失ではなく体の喪失であった。自分の人生の面白みの無さを理解して俺は最後の眠りについた。

 何故だ。目が覚めてしまった。体の感覚が戻っていた。しかし、景色は今までとすっかり変わってしまった。白い天井と自分の間には舞っている埃が視える。起き上がり、そこに広がっていた世界は暖かい光に包まれた人工物の世界だった。ベッドから降りて棚の上にある置き鏡の所へ行き、自分の顔を見てみると、俺はその顔が信じられなかった。なぜならヒトだったからだ。まだ若い青年のような見た目で、顔に薄く髭が生えていた。その顔を見た束の間、脳の異変に気づいた。自分の中に蜘蛛の頃の記憶とヒトの記憶がある。俺の中にこの男の全ての情報が書き加えられたようだ。男は中山 壮真という名で高校二年生らしい。くだらない事の隅々まで知り、少し呆れてしまう所もあったが、俺は何よりヒトになれたのが嬉しくてたまらなかった。なぜなら俺が知るヒトは環境を支配し、何でもできる自由で強大な存在だったからだ。ずっと巣にいて、くるかも分からない獲物を待ち続けた人生に比べればヒトの人生はなんて華やかなことだろう。既に俺はこの体の変化にわくわくしていた。早くヒトの生活を。動き出した時、下の階から美味しそうな匂いと、トントンという軽快なリズムの音が聞こえた。どうやら料理をしているみたいだ。俺は階段を駆け下りた。ドアを開けるとこの男の母親が朝ご飯を作っていた。そして目と目が合う。俺は何を言おうか考えていなかった。「おはよう。」これでいいのだろうか。しかし、それより先に母親からは思いも寄らない一声が飛んできた。「どうしたの…?」驚いてそう言った母親を見て俺ははっと気づいた。そうだった。壮真は部屋から出るわけもない引きこもりだった。俺は俺の心の衝動で動いてしまっていたのだ。きまりが悪くなったので「ごめんっ、間違えた!」とだけ言い残して自分の部屋へ走って戻った。何が「間違えた」だ。おかしな事を言ってしまったと思ったものの、別にそれは間違いではなく、確かに彼の日常にとってこの行動はおかしな事だった。俺は彼の境遇に改めて哀れむとともに、期待を寄せていたこれからの日々に落胆していた。クラスで酷いいじめを受けていたことから学校へも行けず、身も心も自分の部屋の中に閉じ篭ってしまっている。彼にとって普通となってしまったこの日常は俺が描いていたヒトの理想とはかけ離れていた。だが今はどうだろう。この体は俺のモノだ。俺は決意した。俺がこの日常を変えてやる。外の世界に出て動き回りたいと思い、もう一度部屋のドアを開けようとした。だがその時、この体に起こっていた新たな変化に気づく。足の動きが意思に反して止まった。何故動かない。しかし、後ろに下がろうと思うと足は動く。ドアを開けようとすると動かないこの足から俺は理解した。この体が俺を制御し始めている。体には彼の心が染み付いており、滲み出て俺の心を縛ろうとする。体は既に、彼に呪われていた。それは俺が生きることが出来るヒトという動物が壮真であることを意味していた。俺は壮真を生きることしか出来ない。起きている間はスマホやテレビゲームで暇を潰し、待っていれば母親が運んできてくれるご飯を食べるだけ。そんな生活の何がいいんだか。うんざりしながらも俺はこの体の中に生き続けた。数週間経つと、何の希望もないこの生活に慣れてきてしまった。飢えることも痛むこともないから俺はそれを体から許してしまった。エアコンのみに頼って閉じていた窓も今は開けるような季節となり、耳に染み付いた蝉の話も今は聞こえなくなった。この部屋には今SNSで流行っている音源が響き渡っている。それから半年も経つと僕の年齢は高校3年生と同じになっていた。未だ何も変わらない。今と未来のどちらからも逃避したこの生活は僕にとっては幸福を感じる。なぜなら、辛いことをしなくても生きているからだ。申し訳ないとは思うが、ママが運んでくるご飯を食べるだけ。ただ生きるためだけの生活はたった1つの心の居場所なんだ。ずっとここに居たかった。

 しかし、転機はある日突然訪れ、長い間顔を見なかったパパが部屋に入った。「たまには出かけるぞ。準備しろ。」戸惑いながら行き先を聞くとキャンプ場だった。外に出たくはないが、僕も家族が恋しかったらしい。何も言わずに準備をした。出発前、荷物も何も積んでいない軽自動車は違和感を感じざるを得なかったが、これも何も言わなかった。車内は沈黙が続き、久しぶりの両親との会話は息だけだった。その気まずい空間を作り出していたのは今までの僕であるという自責の念とともに後ろめたさでいっぱいになった。黙り続けて40分程で目的地のキャンプ場が見えたが、車は止まらなかった。それに気づいた僕はまた何も言わなかった。完全に全てを悟ったからこそ動きたくなかったのかもしれない。彼等は気が付いた僕に気が付かなかったのかな。車は山奥へどんどん進み、人気のない緑が美しい場所で止まった。降りた僕らは顔を合わせた。ポケットが尖ったパパを見て、胸の鼓動が早くなった。紛らわすため、「綺麗な場所だね。」最後だからと僕から口を開いた。「そうだね。」ママの言葉はどこか寂しく感じられた。それから彼等に背を向け、引き寄せられるように木と木の間の巨大な蜘蛛の巣を見に歩いていった。後ろから重い音が近づいてくる。パパだろう。振り返らず、歩き続けた。「スッ。」刺された痛みはまだしない。押された僕はそのまま蜘蛛の巣に向かって倒れ込んだ。巣にいたのは女郎蜘蛛だった。黄色と黒そして血のような赤色。胴から際立つ8本の長い足。なんて醜い。いや。醜いのは僕の方だ。自分の親に殺されてしまうような息子なんだ。上からかすかにパパ声が聞こえる。「ごめんな。」パパの泣いているような声は生まれて初めて聞いた。謝るのは僕の方だ。こちらの方こそごめん。じわじわとくる背中の激痛と、顔の周りに蜘蛛が歩く不快感は僕にとっての贖罪だった。そして僕は苦しんだ痛みと不快感から救われてしまった。辺りが暗く異様に心地よい。何も無いから僕は心地よくなったんだ。体を動かすことが出来ないのが少しだけ歯がゆく、ここ最近で惜しんだものは終わった後のこれのみだった。僕の人生もこんなもんだったな。人間の生活は僕には重すぎた。もし叶うのなら、次は人間以外がいい。

 目が覚めた僕は醜い僕を見た。

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