お辞儀のひまわり

幸まる

この夏は一度きり

市営球場に、試合終了のサイレンが響く。


「きゃー! やったーっ!」


夏菜かなは球場の応援席で、友人の友加里ゆかりと手を叩き合って歓声を上げた。

グラウンドでは、一回戦を勝利した野球部員達が、満面の笑みで抱き合っている。


夏菜は、校歌斉唱の為に整列を始めた部員を、興奮冷めやらぬまま見つめる。

その列の中央辺りに立つのは、日によく灼けた顔を喜色で染めた、背番号6の幼馴染海斗かいとだ。





夏の高校野球、県大会。

甲子園を目指す高校球児の戦いは始まったばかりだが、一回戦を三対二で勝利した県立南青高校関係者は、大きく盛り上がっていた。

なにせ今までの南青高校野球部は、万年一回戦敗退という、まったく嬉しくない評判であったからだ。



「一回戦を勝っただけなのに、喜び方が大袈裟よねぇ」


南青高校一階の家庭科調理室で、包丁片手に夏菜が言えば、隣でカットされたスイカの種を取っていた友加里が呆れて言う。


「何言ってんのよ。試合が終わって、応援席で一番盛り上がってたの、夏菜でしょうが」

「だ、だってあの時は、ほら、気持ちがぐぐっと高ぶっていたっていうか……」


夏休み前のこの時期、在校生は試合の応援をする為、授業を早めに終えて球場に行くことになっていた。

二年生の夏菜は、球場に応援に行くこと自体は二度目だ。

だが去年は、一回戦を大差で負けて終了だった。

今回のように接戦で回を重ね、勝てるかもしれない、とドキドキしながら応援することは初めてだったのだ。


何より、幼馴染の海斗が攻守において活躍していて、気分がより上がったことは確かだ。


「まあ、海斗くん、活躍してたもんね」

「だよね!?」


幼馴染の活躍を認められて、夏菜はまた嬉しさが込み上げる。

放課後に、毎日野球部の練習で泥だらけになっていた海斗の頑張りは、無駄ではなかった。


海斗は二年になってレギュラー入りすると、その明るく前向きな性格から先輩に可愛がられ、後輩にも慕われて、チームの中で確かな存在感を示している。

一回戦の時も、誰よりも声を出して、誰よりも動いていたように思うのは、きっと贔屓目ではない。


「ハイハイ。嬉しいのは良く分かったから、作業に集中して。こっちも大会目指してるんだからね」

「ごめん、ごめん」


友加里に手元を指されて、包丁を持った手が止まっていたことに気付き、夏菜は緩んでいた頬を引き締めて作業に戻る。

まな板の上には、大きなスイカ。

甘く熟した実は、包丁を入れるとバリという感触と共に、赤い汁を滴らせた。




「う〜ん、見た目はきれいだけど、なんていうか、インパクトない味だよね」

「そうだね、ちょっと青臭さも残ってるし……」


スイカで作った赤い蜜のかかったかき氷を前に、スプーン片手でそう言えば、横からにゅっと腕が伸びて、夏菜の持っていたスプーンが奪われた。


「うまそ〜、オレにも一口ちょうだい」

「海斗!? 部活は?」

「今日はもう終わりだよ〜ん」


許可するまでもなく、奪ったスプーンで勝手にかき氷を口に入れた海斗は、微妙な表情で首を捻った。


「……夏菜。これ、スイカそのまま食った方が美味くね?」

「うるさい! 分かってるの!」


夏菜はクワッと怒ってスプーンを取り上げた。



夏菜の入っている家庭生活部は、その名の通り、家庭科で習う調理や被服に関係する活動を行っている。

”お菓子作りを楽しもう!“みたいな生徒が割合的には多いが、本格的に調理や被服について掘り下げたり、市や県の食育推進活動に積極的に参加する生徒もいる。


夏菜と友加里は後者で、この夏は中四国学生生活連盟主催の、高校生レシピ開発大会の県大会に出場予定だ。

今年のテーマは『古き良き日本のかき氷を作ろう』。

現在、それに沿ったオリジナルレシピの開発中だ。

県大会に優勝すれば、中四国大会に出場でき、レシピは商品化される可能性もある。



海斗が家庭科調理室に来て、ようやく全校下校時刻の六時半を過ぎていたことに気付いた夏菜は、急いで片付けをして学校を出た。

友加里と校門で別れ、海斗と縦に並んで自転車を走らせる。


市と町の境目辺りにある青南高校は、市の中心に向けて進めば、大通りにぶつかって大きな商業施設が並ぶ方へ曲がって行けるが、町の方へは古い県道が一本通るだけだ。

夏の日に灼けた県道は、七時を回ってもまだ熱を持っている。

今年は特に暑いからか、下から熱気が上がってくるようで、自転車で走って風を切っても、涼しいとは思えなかった。


県道の周辺はほとんど農地と民家で、夏菜と海斗の家は、さらに脇道に入って細い川沿いに進む。


舗装されてからどれだけ経っているのか分からないような古いアスファルトの道で、前を進んでいた海斗が自転車を降りた。

ここから夏菜の家は目と鼻の先だが、二人で帰る時、必ず海斗はこの辺りで降りて、そこまで自転車を押して歩くのだ。


海斗が降りると、何も言われなくても、夏菜も降りる。

家までの数十メートルの距離を歩く間、海斗が夏菜と話したいのだと分かってるからだ。



「あのかき氷、スイカじゃないとダメなのか?」

「ううん、そうじゃないんだけどね、清少納言が枕草子にかき氷のことを書いてるわけよ。だからね、その頃には食べられていたっていうスイカを合わせるのはどうかなって、話になって」


自転車を押して歩きながら、海斗が苦笑いする。


「『古き良き日本』って、そんな昔のことを指してるのか?」

「知らないわよ。でも、伝統食材で氷蜜作るなら何が良いかって考えてたら、迷いすぎてわけ分かんなくなっちゃったの!」


豆類はあんこでお馴染みだから使いやすいが、ありきたり。

味噌や醤油などの調味料は味に慣れているが、下手に使えば食事寄りの味わいになる上、既にメーカー元でかき氷用に開発されたものが出回っている。


野菜? 果物? それとも穀物? 

顧問の先生を交えて、友加里と三人で話し合い、とりあえずいくつかの果物、野菜で氷蜜を作ってみることにした。

その内の一つが、今日のスイカというわけだ。

   


「まあ、今日のはイマイチだったけど、美味うまいの出来たら、また食わせてよ」

「良いけど。海斗はその前に、二回戦頑張らなきゃでしょ!」

「そりゃもちろん。でも、次は夏菜、応援に来てくれないんだろ?」

「うん、まぁ、そりゃあね……」


二回戦はこの地区にある市営球場ではなく、相手高校の近くの県営球場で行われる。

ここから三十キロも離れたそこへは、さすがに在校生全員で応援には行けない。

それで、三年生だけが学校の用意したマイクロバスに乗って、応援しに行くことになっていた。


「もし二回戦勝ったら、三回戦は応援に来てくれるだろ?」


自転車を押していた足を止めて真剣に言われ、夏菜も隣で立ち止まる。


「え? あ、うん、こっちの球場なら、多分また全校で応援に行くだろうし」

「そっか。じゃ、頑張って勝たないとな。夏菜の応援、スゲー気合い入るんだ!」

「何言ってんの。あんな大歓声で、私の声なんか聞こえないでしょ?」

「聞こえるんだな〜、これが!『海斗! 行けーっ!』って、言ったろ?」

「…………言った」


海斗はくしゃっと笑って、また自転車を押し始めた。

なんとなく照れくさいような気分で、夏菜は一拍遅れてそれに続く。


子供の頃から、野球をする海斗をそうやってワンパターンに応援してきたのだから、聞こえた気になっただけだと思うが、嬉しそうにされるのは悪い気はしない。

だから否定はしなかった。


でも、さすがに次の試合を勝つのは難しいだろう。

二回戦の相手は、今回の県大会の第二シード校だ。

もちろん勝って欲しいと願ってはいるが、万年一回戦敗退の我が校が、シード校相手に勝ち進む想像は出来ない。


結局「頑張ってね」とだけ言った夏菜は、夏菜の家に到着して、生け垣の側で立ち止まった海斗の視線を追う。

夏菜の家は古い日本家屋だ。

低めの生け垣からは裏庭が見える。

裏庭に面したところには縁側があって、その側には、生け垣に沿って植えられた十数本のひまわりがあった。

今年は開花はしたが、日中の暑さに耐えかねてか、太陽の花サンフラワーだというのに皆お辞儀をしていた。


「今年も咲いたな」

「でも、お祖母ちゃんがいないと、やっぱりキレイに咲かなくて」


いつも庭の手入れをしていたのは夏菜の祖母だ。

祖母は、どんな季節も色々な花を咲かせていたが、二年前に亡くってからほとんど手入れしていない裏庭は、今は緑の雑草が伸び放題だ。

せめて夏らしくひまわりくらい咲かせようかと植えてみたが、夏菜の世話ではバラバラでまとまりがなかった。



「ばあちゃんの甘酒、また飲みたいなぁ」


ひまわりを見ているのかと思ったら、海斗は誰も座っていない縁側を見ていたらしい。

あそこは生前、祖母が毎日座って夏菜達の帰りを待っていてくれた場所だ。

『おかえり。仲良うな』

いつもそう言って迎えてくれた。

冬には温かな、夏には冷えた甘酒を用意して……。


…………甘酒。


「甘酒だ!」

「えっ!? イテッ、なに急に!?」


突然叫んだ夏菜に驚いて、海斗は自転車のペダルに足をぶつけた。

しかし夏菜は、そんなことは気にせず手を伸ばして海斗の肩を叩いた。


「痛えよ!」

「でかした、海斗!」

「はぁ?」



◇ ◇



「甘酒? 酒粕で作るやつ?」

「ううん、米麹で作る方だよ。これこそ伝統食材だし、夏にぴったりだし、完璧でしょ!?」


興奮気味に語る夏菜に、手の平を突き出して、友加里は首をひねる。


「でも甘酒って冬のものでしょ?」

「違うよ。甘酒って夏の季語なの。麹菌がでんぷんを分解して糖を増やすから、甘くて栄養価が……」

「ああー、分かった分かった、難しいことはいいから! とにかく夏にピッタリな伝統食材で、氷蜜にもいけそうってことよね?」

「そうそう! ヨーグルトメーカーがあれば放ったらかしで出来ちゃうし」

「良いじゃん。やってみよ!」


二人は果物から甘酒に狙いを変え、さっそく試作の計画を立てた。



しかし夏菜達は、想像したように順調に試作を重ねることが出来なかった。


甘酒自体はヨーグルトメーカーで作ることが出来たが、材料をセットして出来上がるまでに、十時間弱かかる。

試行錯誤するためには、とにかく時間がかかるのだった。




終業式を経て夏休みに入り、青南高校では毎日、午前中だけ前期補講が行われていた。

最初の一週間は全員出席が義務付けられているので、夏休み三日目の今日も、夏菜は教室で嫌いな英語の授業を受けていた。


野球部の二回戦も今日だ。

野球部員と三年生は、今朝早くバスに乗って、県営球場へと出発した。


夏菜は、授業の最初こそ海斗の試合のことを気にしていたが、英語のヒアリングが始まると、甘酒蜜のレシピ改善の方に思考が傾いていった。



普通に甘酒を作っただけではダメ。

蜜として使うには濃くすることは必須条件だから、最初から水分を少なくした甘麹として作るのが望ましい。

出来上がった甘酒の水分を煮詰めた方が調整はしやすいが、せっかく生きている麹菌を高温で殺してしまうことになる。

味だけ追求するならそれでも良いが、入賞を狙うなら、健康補助となる効果は残しておきたい。


そんなことをぐるぐる考えている内に、チャイムが鳴った。

夏菜がハッとして意識を教室に戻すと、チャイムの後の校内放送が、野球部が二回戦を勝利したと告げた。



◇ ◇



三回戦進出は開校以来初だと、半分お祭り騒ぎのように盛り上がっていた青南高校だったが、七月二十六日の三回戦に延長十回で三度みたび勝利すると、これはもしや、甲子園初出場という記念すべき年になるのではと大騒ぎになった。



四回戦準決勝は三十日?」

「そうだって。応援はできるだけ全生徒参加だってさ」


三回戦の勝利に湧いた翌日、家庭科調理室で試作の作業をしていた夏菜は、友加里から次の試合の日程を聞いて眉根を寄せた。

夏菜達の出るレシピ開発大会は、翌日の月末日。

前日が仕込みで忙しいのは目に見えていた。


試合の応援に行けば、仕込みの時間は減る。

いや、二十七日現在でまだレシピが決定していないのに、応援なんて行く余裕はないだろう。


「最悪……」


無意識にそんな言葉が出た。



ちょうどその時、調理室の扉が空いて、同級生の日向子ひなこが入って来た。


「夏菜、ヨーグルトメーカー持って来たよ」

「ありがと、助かるよ」


レシピが思うように決まらない夏菜は、部員に声を掛けて、家にヨーグルトメーカーがある子を探して借りることにしたのだ。

同じクラスの日向子が持っていて助かった。

メーカーが増えれば、試作回数も増やせる。


「試作、上手くいってないの?」

「う〜ん、いい線まで行ってるとは思うんだけど……。ねえ、日向子も手伝ってくれない?」


手が増えれば、作業も捗るかもしれないと思って言った夏菜に、日向子は苦笑いして見せた。


「あー……、悪いけど、そんな必死に部活やるつもりないんだわ」

「……必死って?」

「私、放課後や夏休みをガチで潰すような活動したくないんだ」


“潰す”と言われて、夏菜はカチンときた。

大会があれば目指すのはどの部活だって同じだし、やるからには一生懸命やるのが当たり前だろう。


「何のための部活動なの!?」

「楽しくワイワイお菓子作るのいいじゃん。上手くできたお菓子を友達や彼氏に配るのも、十分楽しい活動でしょ?」

「楽しくって……」

「夏菜だって、楽しく作ればいいじゃん。険しい顔して作ったって、美味しいもん作れないよ? 別にしんどい思いして大会出る必要ない部なんだしさ」



夏菜は拳を握った。


楽しく活動?

しんどい思いしてまでやる必要ない?

なんで?

野球は必死でやってたら全校で応援してくれるのに、なんで私はそんな風に言われちゃうの?




高校生の夏は甲子園だけじゃないのに!




その日、部活終わりに迎えに来た海斗に、夏菜は笑顔なく言った。


「先に帰って。まだ試作するから」

「そうなの? じゃあ待ってる」

「いい。帰って」

「夏菜? なんかあったか?」


優しく問われて、夏菜はぎゅっと唇を噛む。


「別に何でもない。でもこっちで忙しいから、次の試合は応援行けないから!」


そう言っておいて、夏菜の胸の内でモヤとしたものが湧く。

しかし、海斗はいつもの調子で言った。


「そっかぁ、夏菜ももうすぐ大会だもんな。仕方ないか! その代わり、美味いの出来たら絶対食わせてくれよな!」





夏菜と友加里は、その後も毎日試作を繰り返し、二十九日には程よい塩梅に辿り着いた。


トロリと氷に掛かって、沈みすぎず留まる緩さの甘麹。

米の粒はミキサーで完全に潰さず、半潰しの状態で生姜の絞り汁を合わせる。

甘麹だけではだらりと甘いだけだが、生姜の風味が入ることで味が締まり、飽きずに食べられる。



調理室の外から、ジージーとセミの声が聞こえる。


夏菜と友加里は、最終の味見をして軽く頷いた顧問の先生を見てホッとする。


「なんとか上手くまとまってるんじゃないかな。ギリギリ間に合って良かったね」


言われて、夏菜は引っ掛かりを覚えた。

まとまっている。

そう、自分でも思っていた。



これじゃ、きっと勝てない……。




「夏菜!」

「え?」


急に海斗に大声で呼ばれて、夏菜は急いで自転車のブレーキを握った。

いつも降りて歩くところを、海斗が降りたことに気付かずに進もうとしていた。


今日も懲りずに部活終わりまで待っていた海斗と、一緒に帰っていた。

明日は試合だというのに、余裕のあることだ。

そんな風に考えてしまった自分に一瞬怯み、夏菜はゆっくりと自転車を降りた。


「ねえ、夏菜、疲れてる?」

「……少し」

「そっか、明後日大会だもんな。応援行けないけど、頑張れよ」

「海斗は応援してくれるんだ……。私、明日行かないのに」

「ばか、何言ってんだ、当たり前だろ!」


屈託なく笑われて、夏菜の胸の詰まりが解ける。


私、誰かに応援して欲しかったのかも。

すごい熱量で応援される野球部海斗たちが、羨ましかったのかもしれない……。


「……あ、ほら、これやる」


自転車を道の脇に止めて、海斗はポケットから塩分タブレットを一つ出して、夏菜の手の平に乗せた。

思わず、夏菜に笑いがこみ上げる。


「甘いものじゃないんだ?」

「今それしかなかった。練習で汗めちゃくちゃかくからさ、時々舐めろって言われるんだ。でもさー、それ舐めると、今度は甘いもの欲しくなるんだよな」


海斗が笑う。


「分かる、分かる。しょっぱいもの食べると甘いもの欲しくなって、甘いもの食べると、またしょっぱいものが……」


夏菜の顔が輝いた。


「海斗! でかした!」

「ええ〜!?」


また肩を叩かれた海斗は、一瞬顔をしかめたが、すぐに笑顔に戻って夏菜を見た。



◇ ◇



「塩餡?」

「そう、塩餡を中央に埋めておくの」


三十日午前。

学校の家庭科調理室に集合した夏菜と友加里は、明日に向けての最終準備に取り掛かろうとしていた。

そこで夏菜が提案したのが、昨日までに決定したレシピに、塩餡を足すことだった。



甘麹の味は優しい味わいだ。

生姜を効かせても、食べ進む内にぼんやりとしてインパクトは薄くなる。

食べる勢いが落ちれば、それだけ溶けてただの甘酒と化してしまう。


ここに塩餡が加わることで、塩味で味覚が切り替わり、餡の強めの甘みが刺激をくれる。

おかげで甘麹の優しい甘さが新鮮なものとして戻って来て、最後まで飽きずに食べ切れる。


「なにこれ、美味しい!」


実際に食べてみた友加里が、目を輝かせる。


「でしょ! これなら塩餡を用意すれば、昨日仕込んである甘麹はそのまま使えるし」

「だね! 小豆は買ってきたんでしょ? じゃあ仕込みはなんとかなるよ。午前は任せておいて!」

「え?」


問い返した夏菜に、友加里はニヤリと笑って、自転車のヘルメットを放る。


「今なら試合終了までに間に合うよ。『海斗! 行けーっ!』って叫んで来い、夏菜!」


ヘルメットを両手で抱えた夏菜は、数度瞬いたが、次の瞬間には走っていた。



応援しなきゃ!

海斗を一番に応援するのは、私じゃなきゃ!



夏菜は自転車置場でヘルメットを被り、勢いよくサドルに跨って走り出す。

靴裏に感じるペダルが重くて、立ち上がって力一杯踏み込んだ。


校門脇の大樹から、セミの大合唱が見送りの声を上げた。


学校を出て走る道路は、登校時よりも太陽に灼かれて熱気を増している。

吸い込む空気は熱く、肌に感じる風は少しも涼しさを感じない。


それでも、夏菜は前のめりでスピードを増していく。


頬を、首筋を、胸の間を、背中を、汗が流れていく。

こんなに汗を掻くのはいつぶりだろう。

なんだか可笑しくなってきて、夏菜は笑っていた。


猛暑が何だ!

その中でもっと熱く戦うのが高校生なんだから!



球場の駐輪場に着いた時、ブラスバンド部の演奏と、歓声が耳に届いた。


ここまで二十分強、全力で自転車をこいで既に息は上がっていたが、構わず夏菜は球場に入って応援席に向かう階段を駆け上がる。

見下ろすグラウンドのバッターボックスに、6番の背番号が見えた。


夏菜は大きく大きく、夏の空気を吸い込んで叫ぶ。


「海斗ーっ! 行っけーっ!!」




◇ ◇


 


ジョウロいっぱいに入れた水を、裏庭のひまわりの所に運んで行く夏菜は、その重さで少しよろけた。


「入れすぎだろ」

「海斗」


いつの間にか庭に入って来ていた海斗が、夏菜を支えて、ひょいとジョウロを取り上げた。

所々が茶色く汚れた体操服を着ているということは、今日も部活帰りなのだ。


準決勝で負けて、今年の県大会は終わったというのに、野球部は呆れるほど活動に精力的だ。


「ホースは?」

「しばらく使ってなかったから傷んじゃって」

「で、ジョウロ? 水が足りなくて元気ないんじゃね?」


ひまわりを指して、海斗が言う。


「そうかも。新しいホース買いに行こうかな」

「じゃあさ、明日、デートしよ。中四国大会まで、まだ日があるだろ」


デート、と口中で繰り返した夏菜の顔が熱くなっていくのは、夏の熱気のせいだけじゃない。

嬉しそうな海斗の日に灼けた笑顔は、子供の頃からずっと見てきたのに、どうしてこんなにドキドキするのだろう。



『仲良うな』


縁側から祖母の声がした気がして、夏菜はそっと微笑む。


お辞儀したひまわりは、一緒に照れて頷いているように見えた。



《 終 》


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