まっすぐ弓を引いて

暁流多 利他  あきなた りた

やりたいと思うこと。

 射場に立った瞬間、視界がひらける。

 ながいながいトンネルを抜けた先のような、光を受けて自然と息を深く、ゆっくりと息を吸った。

 この瞬間が一番好きだ。

 四季の移ろいと共に花鳥風月を感じられるこの場所。外の風に背筋をのばせと言われているようで、今度はゆっくりと息を吐いて背筋をのばした。

 袴は嫌いじゃない。窮屈だっていう人もいるけど、お腹の芯が支えられているようで真っすぐ立てた。

 弓の重さは心地よかった。手に馴染む感触が自分の心を真っすぐたたせた。

 射法八節。これは弓を射るときの一連動作だと先輩に教わった。

 足踏み。うちは二足で踏み開くから一度足元を見る。矢をつがえて胴造。足、腰、肩、体中の線を垂直にする。袴の重みが俺を支える。糸でピンと張られるのをイメージして、 弓構え、打起こし、引き分け、矢を水平に保つ。

 世界が無音になる。水を張った世界が張り詰める。静かだった。静かなままの会。俺の中の自分が上下左右に伸びた。

「カアン」

 弦音が手から放たれる。心臓がピクリと跳ねた。心臓は驚いたときのような動き方をして肺から全身に高揚感が巡り、安堵した。

 息を吸う。最後に離れ、残心。真っすぐなまま終わる。

 弓を引く。この時間が好きだ。


 

 昼休み。教室で弁当のごはんを口に入れた。冷えたごはんは今日炊いたばかりだというのに硬くて、グミを食んでいるような気分になった。

 今日も今日とて友人と何個かの机を分け合って食べてる。何となく、小学校の時の林間合宿でやったマイムマイムを思い出す格好だった。

 久しぶりに思い出したからか、歌いたくなった。でもここで急に歌いだしたら変だよな、と思ってごはんと一緒にのみ込んだ。

 高校に入学してから三ヵ月ちょっと。時はすでに七月。二度のテストを乗り越え、高校にもすっかり慣れた。いまだに人間関係で慣れないこともあるけど、それでも慣れたと言おう。

 弁当は毎日同じメンツと食べるようになったし、それに登校だって寝ぼけても行けるようになった。毎日同じ道を通って同じ道を帰る。

 七月の始めの週も終わろうとしていて、夏休みももう直前。七月に入って急に外は暑くなった。焼け付くような暑さに、梅雨の湿気のダブルパンチで、外は熱帯雨林と言っても過言ではない暑さになっていた。まだ七月の初めなのに、三十度を超え、梅雨は開けず開いた窓の外は温暖湿潤気候なのかと問いたくなるほどの暑さを放っている。エアコンは点いているが、窓が開いていたら意味もない。

 弓道場はこれ以上熱いんだろうな、と思ったら部活に行くのが少しだけ億劫になる。このことを母に言ったら、弁当が腐らないか不安がっていた。そこ?

 一緒に昼食をとっている友達も、暑さのせいか口数が少ない。今日は特に会話もなく、昼休みが終わった。

 高校に入って弓道部に入った。何か新しいことに挑戦するのは初めてじゃなかったし弓道部に入るのに特に抵抗はなかった。親も快く了承してくれた。ただ、道具をそろえる話をした時は顔から色を失っていた。これを中学で剣道をしていたやつに話したら、

「分かるよ。武道系は結構お金かかるよね。柔道は別として」

と言われた。試しに金額を言ってみたら口をパクパク動かして「額が違う」と言われた。額が違うらしい。

 だけど先生は、弓道は一生もの。と言った。

「武道のいいところは、年齢関係なく生涯をかけてできることです。弓道は特に。皆さんのような高校生から、おじいちゃん、おばあちゃんまで。皆さんも、一生の宝物を得るよう、頑張ってください」

 一生はちょっと重いかも、と思ったがその言葉にほんの少しだけ猫背だった俺の背筋がのびた。

 いつも通り、放課後になったら弓道場に向かう。その途中で正面玄関の二階に目をやった。そこには文芸部、と書かれた手書きの紙が三枚貼られている。その丁度真上には生徒会の文字が、今度はパソコンで印刷されたであろうゴシック体がでかでかでかと張り出されていた。前に友人が、

「文芸部の天井に穴空けてさ、忍び込めるようにしたら面白そうじゃない?」

と言っていた。言われた時俺は「退学ものだから。やめて」とマジレスした。その時の俺の判断は間違っていなかったと思う。「してみよっかな」ではなく、「面白そうじゃない?」と聞いてくるタイプの話は、提案ではなくあくまで個人の興味で話しているので他人の提案を受け入れる余地がない。そういう興味の話には万が一があってはいけないので、本気で止めなければいけない。テンション次第ではやりかねないのだから。

 記憶を辿っていると、一つの出来事が引っ張り出される。

 その文芸部の友人は言った。

 

「高校どう? って知り合いからライン来たんだけど」

 ある日のお昼休み。

 この日はたまたま、いつも弁当を食べている友達が委員会の呼び出しやら休みやらで皆バラバラに食事をとっていた。なので、丁度お互いボッチだった、前の席の白石と昼食をとっていた。 

 白石とは中学からの付き合いで、話も合い結構話す仲だったが、高校では二人とも別々のグループになっていた。男女の垣根があるから当然なのだけれども。

 そんな二人だけど今日は初めて一緒に昼食をとっていた。女子だけど、女子っぽくない。だから白石とは付き合いやすかった。

「普通に、楽しいですー、とかでいいんじゃない?」

「うーん」と、悩んでいるのか体を傾かせる。その仕草は彼女が眠い時にやる動作と一緒だった。

「そんなことないしなー」

「ええ……」

 俺は思わず声を漏らす。ドラマみたいな青春はなくとも、何か楽しかったことくらいあるだろ、と思った。

「そんなことはないでしょ」

「ほんとだよ。期待をしてたって、所詮は中学の延長だったし」

 ゴン、と頭を小突かれた気分になる。

「中学の延長?」

「え、だってそうじゃん?」

 その発想はなかった。

「何も変わんない。退屈というか、モノクロ」

 白石の瞳をみつめて、おかずのから揚げを口に入れる。胡椒がよくきいてる。

 白石の目は半分しか開いてなくて本当に退屈そうだった。

 俺の生活は、中学から高校に入るにあたって様変わりしたように思えていた。校則だって中学とは大違いで、髪形もある程度の自由が認められているし、中学では持ってくるのも禁止されていたスマホは学校の中の一部場所では使えて、授業で活用する時もある。制服も学ランからブレザーに変わった。違うとこなんていっぱいある。

 確かに高校は中学の延長線上にある。けどそれはあくまで延長線上であって、高校は階段を一段上がる。俺はそう思っている。

 でも、白石は延長だと言った。その口ぶりは、高校と中学は点と点をつないだ線のように、平面だと聞こえた。

 あの、白石の退屈で辛そうな興味のない顔。俺の口に苦い味が広がる。その顔からはこの高校があまり魅力的ではないように思えた。

 自分とは全く反対の感想に、何と言っていいのか分からなくて勝手に気まずくなってしまう。

「……まあ、ラインは適当に返すか」

「そうしたら」

 ごはんを口に放り込んで答える。苦い味は無視した。考えたって仕方ない。

 あの会話を思い出してまた口の中に苦い味が広がる。

 消したと思っていた白石の言葉が、何度も鼓膜に直接話しかける。もやもやした。なんて言えばいいのか分からない、感情のミックスが胸に閊えている。

 白石は学校が好きじゃないのか。

 いや、俺だって学校は好きって程じゃない。行きたくないと思う日の方が多かったりするし、部活がなかったらいってない。それでも、ここを手放したくないって気持ちはあるし、最低限好きと言える。でも白石の顔にそれはなかった。

 正面玄関に立っていた俺は弓道場に足を進める。気持ちを切り替えようと大きく一歩を歩くが意味はなかった。

 校舎の裏側、テニス部の隣にある更衣室のドアノブを回すと染みついた汗のにおいがした。先輩がファブリーズで対抗したが見事に惨敗した戦歴がある。相変わらず散らかって汚い更衣室で俺は慣れた手つきで道着に着替えた。

 上座に向かって一礼して射場に立ってはじめてもやもやしたものが落ち着いた。

 深く息を吸う。

 雨の匂いがした。昨日降った雨がまだ地面にしみこんでいるのだろう。

 この前、初めて的前に立った。

 初めて弓道を見て、先輩が弓を引いているところ見てから、弓道やりたい! と思ったあの時から三ヵ月経って初めて的前に立った。

 初めての的前。体は緊張で強張って、指はいつもの通り動かない。そのくせ景観はやけに鮮やかに映った。

 いや、色あせていたかもしれない。これは記憶の改ざんによりできたイメージでしかない。

 とにかく、俺はガチガチに緊張していた。イメージしていたこと、やって来た事はどれもうまくいかない。自分は凄く不格好に見えるんじゃないか。恥ずかしいのも合わさり、緊張は絡まって大きくなった。

「ドスッ」

 矢は的から大きく外れた安土に刺さった。

「ふうう……」

 絡まる気持ちを抑えて、ゆっくり、腹の底から息を吐いた。

 ——もう一回。

 乙矢を持ち、また胴造から始める。さっきより体は動いたがまだぎこちないと自分でも思った。

「カシャン」

 今度はさっきより的に近いところに当たった。

 そこから何本も引いた。

 指がピクリと勝手に動く。見てみると矢を握っている手が真っ白だ。もう一回息を吸う。

 矢を手に取る。一射。一射、当てたい。だけどその一射が遠い。

 足を踏み開く。足踏み、胴造、弓構え、打起し、引き分け。ゆっくり吐いては吸う。呼吸に合わせて体を動かしていく。やっぱり体は上手く動かない。それでも、精一杯背筋を伸ばした。

「カアン」

 風が頬をかすめた。

 バスッ。

「あ、」

 的の端、矢が刺さっている。

 空、床の木目、的、袴の擦れる音。色んなものが一斉に入ってくる。色鮮やかな情報に心臓をドクドクと鳴らす。

 中った。

 そこでやっと緊張がほどける。体重が戻って来て、ふわりと浮き上がる気持ちになった。

 ゆったりと残心をとる。肺に空気が満ちている。

 ドクドクと音を立てて鳴りやまない鼓動と、興奮に何度も瞬きをした。

 色濃く刻まれた一射。今は初めての頃ほど緊張しなくなったけど、今でも鮮明に思い出せる。

 初めて的前に立った時から弓道がもっと好きになった。射場に立つ瞬間が好きだと感じる。

 部活があるから学校に来るし、授業だって受ける。

「カアン」

 中らない。

 すっきりしたと思った思考は矢が中らなくなるうちに何度も同じことが頭に廻っていた。

 何故、白石は俺にあんなことを言った?

「はあ……」

 いつの間に日が延びた空は床板を飴色に染めていた。


 

 白石万桜は中学で知り合った。周防と白石。俺と白石は出席番号が前後で話すことになった。出席番号が近いと、学期始めは何かとクループワークで一緒になる。初めて話したのもグループワークでのことだった。

「え、周防桜理っていうんだ。あたし、一万円の万と桜で万桜って言うんだけどさ。名前、似てない?」

 一つにまとめられたストレートヘアが体の動きに合わせて動く。

 なんだ、こいつ。

 アメコミヒーローのような顔を創って「似てない?」と下手なナンパをしてくる新一年生。正直、女子高生を捕まえようとしてるおっさんに見えた。

 俺はナンパは無視して無難な会話をした。

「……そこ、一万円で説明する必要ある?」

「一万円好きなんだ」

「それは俺も好きだけど」

 初めて会うタイプの女子に、変なという感想をいだいた。

「万桜ちゃん、グループワーク中だから!」

「そうだったわ。次、自己紹介どうぞ」

「あっ、はい……」

 実際、白石は変な奴だった。初めて話した時みたいな軟派なやつかと思ったら、以外にも内向的なタイプで驚いた。でもまた軟派な雰囲気を出してくる、いい加減なやつだった。

 白石万桜は七月生まれで。

「うち、三人姉妹でさ。あたし二番目なんだけど、姉が一葉であたしが万桜。で妹が円華。凄くない? 三姉妹合わせて一万円だよ? うちの親は何を考えて名前つけたんだろうね」

 三姉妹の次女。

「部活? 美術―。そこそこ上手いよ」

 部活は美術部。彼女の絵は本当に上手かった。だけど気づいたらコンピューター部にいた。

「美術部? あ~ね、やっぱ私強制されるとダメみたいだわ。浮かぶものも浮かばない。だからやめちゃった」

 凄く、適当。怒りたくなるくらいに。彼女の自分への無関心さがひどく腹立たしく感じる時がある。他人ばかり必死になっている、当の本人は知らん顔で、その横顔を見るともういいかと思ってしまう。実際、自分の人生じゃないからどうでもいいけど。

 自分に対して適当な彼女が「所詮中学の延長」というのは納得がいくし、言いそうだなとも思う。言われたし。

 だけど、彼女の一言はもやもやと心の内でひっそりと絡まっている。まるで緊張で体が動かないかのような、不快感と焦りが指の先から、じんわりと広がっていく。

 自分が日々を生きているこの日常をバカにされたような気がして、やり場のない胸の重みが俺にため息を吐かせた。


 白石の言葉を思い出してしまったこの日は散々だった。矢は中らない。電車は乗り遅れる。食べたいアイスは売り切れ。

 空っぽの冷凍庫と共に俺の頭も空っぽになる。

「もう、他人の言葉に振り回されてバカみてぇ!」

 代わりに買ってきたアイスの棒を勢いよくゴミ箱に捨てた。

 白石の言葉一つで一日中ぐるぐるぐるぐる考えて! なんだよ! 「所詮中学の延長だよ」って! 違うわ!

 俺の日常は弓道初めてから変わってんだよ。初めて的前で矢を引いたあの時、俺の中で何かが爆発して、世界が新しくなったんだよ。

 スマホの電源を入れてメッセージ画面を開く。かなり下の方にある、❲しらいし❳と表示されたバーをタップする。

 考えるのは性に合わない。

 でも、いつも白石の言葉の意味を知りたくなって考える。そしてずーっともやもやして、結局何も分からない。中学の時もそうだ。

 白石が美術部を止めた時、あの時白石はこうも言ってたんだ。

「私の道はここだけじゃないかなって。逃げるが勝ちってゆーじゃん?」

 白石、お前は何から逃げた? 発想の行き詰り? それとも絵?

 絶対後悔する。絶対後悔する、って分かっていてもフリック入力する手は止めなかった。

 熱に浮かされただけの勇気だったけど、今日は知りたかった。

 おまえ 前高校のこと 所詮中学の延長線って言ってたけどあれ どういう意味?

 メールにしては長くて、文としては短い言葉を送った。

 メールを送ってから、小さい後悔がじわじわと湧き上がってきた。分かっていたけど、後悔はする。

 そもそも、あの言葉に深い意味なんてなかったかもしれないんだ。ノリに任せて言った言葉だったかもしれないし、第一、どういう意味? とか、訊かなくてもそのまんまの意味だったかもしれないじゃないか。

 スマイリーブラントンの言葉に、

幸せになりたいのならば、「あの時ああしていれば」と言う代わりに「この次はこうしよう」と言うことだ。

と云う名言があるが、この場合、後悔しかできなかろう。もうすでにやることをやって後悔しているのだから。

 羞恥と後悔で鶏ダンス(上半身のみを上下に動かす運動)を踊り始めた俺は勢い余って、机の角に頭をぶつけたことで冷静になった。

 ——もう、寝よ。

 考えるのは性に合わない、ホントに。

 寝る前に白石とのメッセージ画面を覗いたけど、返信はなかった。白石が前に十時には寝る的なことを言っていたから、もう寝たのかもしれない。

 それとも、返信したくないのか

「はあ……」

 その日はため息で一日が締めくくられた。

 


 ボーイミーツガールなら、この後白石の心の内を知ってなんやかんやが起きて、結ばれて超ハッピー、終わりなのだろうが現実はボーイミーツガールじゃない。

 同じ時間帯に同じ電車に乗っていても、昨日の話など話題に出ることも無く、会話もない。俺から話そうという気概もないから、当然の結果とも言えるが。

 と云うか、いつからボーイミーツガールと云う言葉はジャンルとして定着したのだろうか。

『次は終点~……』

 反射的にスマホを鞄に仕舞う。俺らの学校の最寄り駅は終点にあった。

 電車に乗っていた人たちがそわそわと降りる準備をする。白石もずれたリュックを掛けなおすとか、降りる動きをしていた。

 世界に小説のように明確なジャンルは無い。

「おはよ」

 白石の肩を二回、触れる程度に叩いた。優しく叩いたのは迷いの表れだ。

 白石は驚いたような表情をつくってから、おはよ、と笑った。いつもの仕草に俺はほっとした。

 気にしてるわけじゃない。

 無言で白石は俺の隣を歩く。流れ的に、なんとなくだろう。

 俺は昨日のラインの話がしたかったが、白石がそれを話し出す気配はなかった。勝手に考えすぎた俺が、一人気まずくなる。

 白石は気にしてか気にせずにか、天気の話とか、どうでもいいことを話した。

 学校までの十五分間。色んな事を話したけど、知りたいことは何も話さなかった。教室に入ると白石はいつも通り友達のところに駆け寄った。俺も俺で先に来ていた友人のところに話しに行った。

 あの話はうやむやになるのかと思った放課後、白石と会った。

 忘れ物をした俺は教室に取りに戻って来ていて、白石は教室でノートと睨み合っていた。俺が教室に入ると音で振り返った白石と目が合った。

「何やってんの」

 ちょっとだけ部活をサボりたい気分だったから白石の座る席の前の席に腰掛けた。

 白石は俺の顔を見てからノートに視線を戻した。

——そういえばこいつ、前に俺の顔は好きって言ってたな。

 その時の言葉を思いだして照れる。何に、とは色んな事過ぎて言えなかったが、むずがゆかった。

「文芸部の小説」

 答える白石のノートは真っ白だった。

「書き始めたばっか?」

「いや、ホームルーム終わってからずっと」

結構な時間が経っている。小説は簡単にかけるものじゃないのか、と思う。

「いや~、全く出てこない」

「何書くつもりだったの?」

「いい感じの」

 なんだよそれ、と思わず笑ってしまう。その顔を見た白石もやばいかな、と笑う。この感じも、むずがゆかった。

 三分が経過している。二人が黙ると、教室の時計の針がチクチク、鳴った。

「美術部の方がよかったんじゃね?」

 手に収まっていた白石の顔がわずかに浮き上がる。驚いたのが見て分かった。

「絵、上手いじゃん」

「ああ、ね。神様のお告げかと思った」

「間違いじゃないかもよ」

 嘘だ、と答えた。

「なんで」

「神様は三年前に絵を描くのを止めろ、って言ったんだよ。いつまで夢見てるの、って」

 神様はそんなことは言わないよ?

「確かに、君の神は言わないかも。けどうちの神は言うのだよ」

 そこでやっと神は隠喩で、神は別のことを意味しているのだと気づいた。

「神なんて。無視すればいい」

「……でも私はできなかった。神は神だった。私には全知全能に見えた」

だから、もう描かない。

 ノートを指さす。

「それは、代わり?」

「違う。新生活」

 新生活。普通と違う使われ方をした単語はしっくりときた。

 そして、確かに白石の人生は段差があることを知った。

 白石は自分の事を話した。いつもは話したがらないようなこと。今なら昨日のラインのことも話してくれるかもしれない。

「ラインさ、読んだ?」

 所詮じゃないじゃん。そう思って、勇気を出した。確かめたかった。声は緊張で揺れた。

 何かが吹っきれて、ラインをしたけど本当はこわかった。所詮。あの言葉を聞いた時も確かこわかった。怖いけど知りたいんだ。

 友達だから。

 白石の顔をそっとのぞき込む。下を向いていて表情は見えなかった。

 答えて、ほしい。

 白石の口がピクリと動いた。

「見たよ」

 俺はなにも言わず、白石が話すのを待った。白石は中々話したがらなかった。そりゃそうだ。白石は話したくないのだ。白石は隠したがる。なんでも。美術部のこととか。

 白石さ、あの時部活でいじめられてたんじゃないか?

 親と、上手くいってないんじゃないか?

 ずっと何か我慢してるんじゃないか?

 言いたいことはいっぱいあるけど、全部は暴かない。友達だから。

 これも本当は暴かなくていいこと。だけど俺はあの言葉の意味が知りたくなってしまったから。

 答えろ、答えてくれ。

「…………」

「…………」

 誰もが、人を変えるのは難しいと言う。でも、俺はそれがしたい。白石の話を聞きたい。友達にしか話せないことっていっぱいある。

 その話がしたい。

「深い意味はなくて、思わず口から出た言葉だった」

 白石が話しだす様子は、刑事ドラマとかで犯人が自供するシーンによく似てた。

「所詮こんなもんだなぁってずっと思ってたんだよ。やることも変わらない。私は変わらない。漫画にでてくるような青春はやっぱり自分以外の誰かで、やりたいことも、好きなことも無くなっちゃって、

「所詮高校、じゃなくてあれは所詮私の人生は、だった。周防君に言われるまで忘れてたけど。ごめん、気にさせたよね。でも、嘘じゃないんだ。うちの高校さ、デザイン科学科あるでしょ。デザ科は強制的に美術部に入るじゃん、あれと普通科の入る美術部はまた別でさ。普通科が入れる美術部は顧問がいるだけで、絵の指導はしてくれないんだって。またやりたいって、もう一回やろうと思った頃にはできなくなってた。将来考えて、損得考えて。大人になったら、好きなこと止めたら、何にもなくなっちゃったよ。だから、所詮。

「好きなことは趣味でいい、なんて嘘。諦めちゃいけない人もいるんだよ。好きなこと諦めて、好きなこともただ純粋に好きでいられなくなって、嫉妬とかドロドロしたものが雑じってそのうち好きじゃいられなくなる」

 白石は、蛇口から水が出るのと同じに流れるようにすらすらと話し出した。

 不意に、顧問の言っていたことを思い出した。弓道は一生もの、自分が弓道をしているということは、自分にとって凄くかけがえのないことなんじゃないか、そう思ったら凄く弓を引きたくなった。まるっきり自分本位だけど。

「……俺の弓引くところ、」

 白石の顔に疑問符が浮かぶ。変なところで話を切ったからだ。

 こんなことを言い出すのは凄く凄く恥ずかしかった。

「俺の、弓引くとこ。見せるよ」

 白石は驚いた顔をした。視線を右に左にと彷徨わせる。何故自分が弓を引くところを見せられるのか、という顔だった。そんな白石を無視して続ける。

「さすがに弓道場の中は無理だから、動画になるけど」

 もう一度白石の顔を見ると、今度は伺うような目をしていた。

「じゃあ、動画送る」

 そう言って椅子から腰を上げた。白石が呼び止めようと声を漏らすのを無視して立ちあがる。自分でも意味不明な提案に目の下が火照った。

 教室を足早に立ち去って、そのまま廊下を駆けだした。

 あーっ! 言ってしまったー! という気持ちと、計画と、白石をしれて良かったという気持ちが頭の中で椅子取り合戦をしていた。

 弓道場に着く頃には知れて良かったじゃん、ね? の気持ちが勝利を収めていた。

 先輩の遅かったね、と言う皮肉とも取れる言葉を「途中で腹壊しちゃって」であしらう。

「部長」

 役職を呼びながら駆け寄る。

「あ、周防。遅かったね」

 またかよ、と思いながら今度は「あはは。すみません」と軽く謝る。

「いいけど、どうした?」

 部長の水竹先輩は俺に射法八節を教えてくれた人だ。この部で一番射形が綺麗な人でもあった。

「自分の引くところ、動画で撮ってもいいですか?」

「うーん。いいけど、なんで?」

 白石の顔が浮かんだ。本当の理由は言わないでおこう。

「自分の射形を見たくて」

 計画は避けて話した。ちゃんとした理由に部長も頷く。

「いいよ」

 「頑張って」と肩を叩かれる。部長は強い光りが宿る瞳で笑っていた。すっ、と背筋を伸ばした。

「ありがとうございます」


 

 自分のスマホを友達に預けてカメラを回してもらう。構えられたスマホに緊張する。

 射場に立って「はあーっ」と長く息を吐いた。

 次の瞬間には、カメラのことも白石のことも忘れていた。

 無心で弓を引く。

 体に緊張はなく、昨日まで体の中にわだかまっていたもやもやも雨が上がったかのようになくなっていた。

「カアン」

 弦音と矢が的に中った音が同時にする。ぎゅっと心臓が張り詰めて思い切り息を吸った。体は糸を張られたように自然と伸びた。

 白石に、好きなことをしてほしいと思った。

 他人のことなのに必死になった。無神論者である彼女は神の名をだした。

 好きなことは、好きなのままでいてほしかった。

 俺は、弓道が好きだ。この先どうなるかは分からないけど今一番好きで、時間がある限りずっと引いていたい。

 だからというのは可笑しいが、白石にもずっと絵を描いていて欲しい。きっと絵も一生ものだから。

 好きなものは、一生ものだと思う。

 意味わかんないけど、俺が弓を引いてるところを見て、また絵を好きになってほしい。情熱を取り戻してほしい。

 「ポコン」と音がして振り返った。スマホを構えていた友人はスマホを下して「スゲー」と言った。

「なんか。今日いい感じ」

「マジ?」と笑ってみる。手ごたえはなんとなくあったが分からないふりをした。

 お礼を言ってスマホを受け取る。液晶にいる自分の姿を確認せずそのままメッセージ画面をひらいた。

 手ごたえを忘れないうちに見て欲しかった。

 これであろう動画を白石に送る。メッセージ画面には袴を着て弓を構えている自分が表示された。

「なに? 彼女?」

「ちげーわ」

 すぐに既読は付いた。


 

 周防桜理からメッセージが届いた。宣言通りの出来事だった。

 白紙のノートを広げたままスマホの電源を入れる。カチッ、と音がなって画面が明るくなった。

 通知に【すおうおうり】の文字がある。

 周防に、彼が知りたがっていたこと全部を話した。いや、知りたがっていたこと以上に話したかもしれない。はたまた知りたがっていたことは何一つ話さなかったかもしれない。

 とにかくいっぱい話した。

 そして周防は俺の弓を引くところを見てほしいと言った。

 意味が分からなかった。何故弓を引く? 何故それを私が見る? 文脈がつながっていない。

 私に分からなくても、彼なりの理由があるんだろう。メッセージ画面をひらく。

 正直、周防の弓を引くところは見たくなかった。楽しそうな周防を見ると、胸の奥がきゅっと縮こまった。

 嫉妬。ドロドロとした単語が浮かぶ。

 周防が高校生活を謳歌しているのに、自分はいつまでも過去にとらわれてばかり。

 絵が好きだった。

 どんなことがあってもずっと描いていられる気がしていた。でも親はいいよ、とは言わなかった。絵なんかより勉強の方が大事だと言った。「夢を追うのはやめなさい」

 焼き印のように刻みつけられた言葉が重くのしかかった。

 絵具がなくなった。

 美術部で一人になった。

 それだけだったらよかった。だけどそうじゃなかった。

 一度だけ、作品を故意に汚されたことがあった。自分でもよく描けた、と思ったものだったからそれだけショックも大きかった。

 その時だった。プツン、と音を立てて何かが切れたのは。

 その日の内に退部届をだして、代わりに一番暇そうなコンピューター部に入部届をだした。コンピューター部は確かに暇だった。何もすることが無くて、汚い音を立てる嘲笑と母の諦めなさい、が残った。

 ——まだ、好きでいたかった。

 動画を再生した。

 画面越しの周防は私が見たことのない顔をしていた。

 私が知らないステップを踏んで矢をつがえてゆっくりと半月状に引き分けていく。真っすぐで。その凛とした姿。

「………………」

 弓道のことはよく分からないけど、今弓を引いている周防は綺麗だった。

 なににも負けないような強さが見えた。この先、何年も、何十年もこうやって彼は弓を引いていくんだろうと、その姿が見えた。

「いいな」

 かっこいい。羨ましい。いいな。いいな。彼はこうやって何かを続けていくのか。

 いいなあ。

 私も、絵を描きたい。

「……っつ、」

 ぽたぽた。

 スマホ画面に雫が落ちていく。画面は淡い光をはなっていた。

 もう一度動画を再生する。

「うっ、つ……ふっ。うっ……」

 何度も服の袖で液晶をこすった。何度も何度も。袖がびしょびしょになって画面に小さな水滴が浮かぶ。

 絵が描きたいんです。今はそれだけなんです。

「描きたいよ……」

 神様、描いていいですか?

 「カアン」という音がいいよ、と答えてくれた気がした。


『白石、

俺 白石の絵好きだよ』


 

 返事は返ってこなかった。そうかな、と思っていたから驚きとか心配はなかった。弓を引いていたってのもあると思う。

 今日の後半は超調子が良かった。皆、俺もびっくりするぐらい。まだまだ下手だけど、今日は下手なりによく出来た気がする。

 メッセージ画面を眺める。

 この行動の行きつく先は自己満足だろう。

 ——それでも、いい。

 でも最後の一文はキモかったかなぁ。

 ぐるぐるとスマホの画面を持て余す。暇だと色んな事と考えてしまう。

「なに? 彼女?」

「だから、ちげーよ」

 袴から制服に着替えた佐藤が画面を覗き込もうとする。さっとスマホを隠した。

「うわー。あやしぃー」

「友達だから。ベストフレンド」

「どーだか」

 「うっせ」と答える。俺と白石は友達のはずだ。今日ので友情を壊してなかったら。

「……はあ」

 心配が芽を出し始める。どうしようと思いながら校門を通る。

「よっ」

 呼び止められる。

「……よお」

 白石だった。


 

 電車が来るまであと三分あった。

 ちなみに、ここまで来るまで会話はなかった。

 何となく隣に立って歩いて来た。

 俺は気まずいのを気にしないように待つ間、スマホを操作することに徹した。

 ——あ、この漫画新刊でてる。

「…………」

 このスニーカーかっこいいな。

 好きなブランドタイムセールしてる。

 新色……。いや、俺には似合わないな。

 ポチポチ。

「…………」

 すうっ、

 かすかな呼吸音が聞こえた。

「あのさ、」

 抑揚のついた白石の声に振り向く。左側に立った白石は、真っすぐ先見ていた。

 けどその視線もすぐに下を向いた。

「動画。ありがとう」

 驚く。白石からはその話はしないのかと思った。

 驚いて俺は歯切れの悪い「うん」を発した。あたかも不満があるように聞こえてしまう、わかんない返事をした。あー、やっちまったー、と思った。別に、気恥ずかしいのを誤魔化しただけなのに。

「あれ、超かっこよかった」

 女子からの素直な褒めに照れる。また「うん」なんていう返事をしてしまった。

「なんか、すっごい弓道好きなんだなー、って思った。弓道いいな、とも思った」

 「それでさ、」白石は上を向いた。

 アナウンスが聞こえてもうすぐ電車が来るのだと分かった。ガタンゴトンという音が小さく聞こえる。気づけばもう六時だった。

「わたしー」

 白石が声を張り上げる。電車の車輪の音に負けないようにだ。

 俺も聞き逃さないように半歩白石に寄る。白石が一瞬目を向けた。だけどそれは俺が瞬きする間に逸れていた。

「もう一回、絵描く」

 えっ。

 今度はしっかりと俺の目を見た。逸らさずに見てからアメコミヒーローみたいな顔で笑った。その笑顔は制服が変わっても変わらない笑顔だった。

「マジ!?」

「まじー」

 電車が俺たちの前で停まった。


 

 弓道が好きだ。

 弓の重さが。

 射場の木目が。

 袴の締め付けが。

 射法八節で作り上げるあの感覚が。

 弓を引く時間が。

 心臓が静かに跳ねるあの瞬間が。

 弓道は俺の一生の宝物だと思う。

 俺は一生、弓を引き続けたいと思うだろう。

 一生の宝物はどこにでも、誰にでもあるんだと思う。服とか、思い出とか、絵とか。

 何でもいいけど、

 俺にとっては弓道だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

まっすぐ弓を引いて 暁流多 利他  あきなた りた @Kaworu0913

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画