吹雪の夜

渡海むる

吹雪の夜

 目が覚めると、辺りは一面銀世界だった。冷たい雪の中で寝ていたなんてあまりに自殺行為で、凍死していてもおかしくなかったはずだが、不思議と身体は暖かく頭も冴えている。遠くでかすかに川の流れる音が聞こえてきた。「喉が乾いたな。」深く降り積もった雪の中をかきわけてなんとか小川にたどり着き、水を飲もうと水たまりを覗き込む。すると、ーーー息が止まったような気がした。「俺が、いない。」水面で揺れているのは、俺ではなく、醜い姿をした狼だった。


 「おはようございまーす!」

「おはよう、いぶきちゃん。そんなに走って、今日も寝坊かい。頑張ってねえ。」

私の生まれ育った潔川村は、周りをたくさんの山に囲まれた小さな村。大学生の頃は一度村を出て寮生活していたけどすぐにホームシックになり、今ではとんぼ返りで戻ってきてしまった。潔川村は交通の便がすごく悪い上に人口もどんどん減少しているが、それでも、人もみんな優しくてとっても素晴らしい場所だと私は思う。

「とうちゃっく!」

余計なことを考えているうちに、職場に着いた。私の腕時計の針は九時の五分前を指している。

「今日もギリギリだな、いぶきさん。そういえば、今夜の飲み会来るよね?」

「あ、行きますよ!」

「ありがとう、いつも盛り上げ役助かるよ。」

定時で仕事を切り上げ、なんとか飲み会に間に合った。入社一年目の私は最近やっと仕事に慣れてきて、手際よく作業を進められるようになってきた。でも、どうしても飲み会というのは苦手だ。はじめは楽しいけど、いつも帰りには酔っ払いの介抱をしなければならないから。

「歩けないよぉ。」

そうごねる部長を脇に抱えて店を出た。空はもうすっかり夜になっていて、天気予報通り、雪が舞っている。店の明かりに照らされてキラキラと瞬く雪は、とてもきれいだ。

「いつもありがとう。そういえば、これから雪が強くなるようだから、いぶきさんもタクシー呼んで帰ったほうがいいよ。君までゆきやくんみたいにいなくなっちゃったら大変だよ。」

「家近いから歩いて帰りますよ。」

しばらく待つと、呼んでいたタクシーが来たので、部長を無理やり突っ込んで帰らせた。

 この村で子供が産まれるのはとても珍しいことだ。だから、同じ年に”二人”産まれたときはかなりのお祭り騒ぎになったらしい。陽気バカな私と、聡明イケメンのゆきや。まったく真反対な私達は小さい頃からいつも一緒で、毎日のように会って遊んでいた。でも、決して忘れることのできない、凍るような吹雪の日。あの日から、私は”1人”になった。

 雪も風も激しくなってきた。雪の粒が当たって痛い。早く帰ろうと雪の中で必死に足を動かしていると、前方で、街灯の下に大きな動く影が見えた。なんだろう、雪でぼやけてよく見えない。目を凝らしてじっと見つめていると、段々とその影が大きくなってきている。

「あれは…クマだ!こっち来てるって!」

大きな咆哮を上げながら、クマは私をめがけて一直線に駆けてくる。シカならまだしもクマは初めて見たので、軽くパニック状態になりながら必死に走った。だいぶ長いこと逃げたあと、後ろを確認するともうクマはいなかった。「助かった」と思ったが、冷静に周りを見渡し、絶望した。

「ここ、どこだろう。」

周りは木が生い茂っていて、街灯の一つもない。山奥まで来てしまったようだ。さっきよりも雪が強くなっていて、ひどい猛吹雪で視界が遮られる。

「早く山を降りないと。」

急いで山を下ろうとすると、唐突なめまいがした。あれ、と思ったときにはすでに視界が回っていて、私は雪の中で倒れこんだ。だんだんと目の前が暗くなっていき、意識が遠のいていった。


 なつかしい夢を見た。私達がまだ”二人”の頃の夢だ。いつもと同じように二人で、空き地で追いかけっこをしていた。「あっ」私が石につまづいて転んでしまった。ゆきやくんは私を心配して、「大丈夫?」と声をかけてくれて、「大丈夫!」と私が笑う。あのときは当たり前だと思っていた光景が、何よりも大切で、幸せで、かけがえのないものなんだと今になって理解して、涙が溢れそうになる。もう一度あの頃を取り戻せたら、どんなに嬉しいことだろうか。


 まぶた越しに太陽の光が眩しい。ゆっくりと目を開けると、私は知らないベッドで横になっていた。どうやらここは小さな山小屋みたい。身体を起こそうとすると、「いたっ」。頭がひどく痛む。二日酔いか。軽く頭を持ち上げて周囲を見渡すと、スラっとした長身の人がこっちを振り向いた。

「起きましたか。体調はどうです。」

落ち着きのある優しい声が妙に心地いい。

「頭は痛いけど元気です。助けてくれてありがとうございます。」

「雪の中で倒れているのを見たときは、死んでしまってるのかと思いましたよ笑」

「本当にすみませんでした…。」

この男性は、フブキと名乗った。フブキが言うには、彼が山菜採集にいった帰りに、私が雪に埋もれて倒れているのを見つけたらしい。今思い返せば、飲酒直後に走ったんだから当然だろう。フブキは山奥にひっそりと佇むこの小屋で一人で暮らしているらしい。彼は深くフードを被っていて、顔を見ることはできない。しかし、その不気味さ以上に彼には不思議な安心感があり、優しくて話もおもしろいから、警戒心はすぐに消え去ってしまった。長い間二人で話したあと、日が暮れる前にフブキは私を村の近くまで送り届けてくれた。

 それから、私はフブキの小屋に通うようになった。彼は来るなと言ってきたけど、私はおみやげを提げてしつこく会いに行った。彼も最初は無理にでも追い返そうとしていたけど、毎日のように来る私に諦めたようで、最終的には優しく迎え入れてくれるようになった。彼と一緒にいる時間は、とても楽しかった。料理したり、山菜を取りに行ったり、ゆっくりおしゃべりしたり。彼のお陰で、充実した毎日だ。

 フブキと初めて会った日から約一年が過ぎた。相変わらず私は最初の頃ほどではないけど、結構頻繁にフブキに会いに行っている。この関係がずっと続くといいな、と心から思っていた。

 ある寒い日、私がフブキに会いに行くと、彼は家にいなかった。これまでも同じようなことはあったけど、毎回ちょっと待っていれば家に戻って来るから、今日も勝手に待たせてもらうことにした。フブキの部屋には無駄なものが全くない。部屋の端に一つ、小さな箱が置いてあるだけ。大事そうにリボンで封をしてある。

「何が入ってるんだろう。」

まだフブキも帰ってないし、少し覗くくらいなら。そう思って箱を開けると、中から出てきたのは手作りの小さなお守りだった。

「なんで、これがここにあるの…?」

これは、私達が小さい頃に、ゆきやとお揃いで作ったものだ。裏面には、「守」の文字が刺繍でかたどってある。私が衝撃で固まっていると、フブキが帰ってきた。

「ねえ、これあなたの?」

私の手のお守りを見たフブキは動揺して、「返せ」と私からそれを奪い返そうとする。

「もしかしてあなた、ゆきやなの?」

ゆきやは小二の頃、大雪の日に行方不明になった。村総出でどれだけ探しても、彼の姿はどこにも見当たらず、彼は獣にでも食われたものだとされている。でも、もしゆきやがこの山小屋でこれまで静かに生きていたのだとしたら。

「ちょっとフード外してみて!」

「嫌だっ。」

もしゆきやなら、顔を見ればすぐにわかる。だけど、フブキは必死に顔を見られまいとフードを掴んで離さない。

「お願い!」

そう言って私が強く引くと、彼のフードが破れてしまった。フブキは床に倒れ込む。すぐ彼の方を見ると、そこにいたのは、人間ではなく、狼だった。

「えっ。どういうこと?」

私の頭が、この状況に追いつけない。

「落ち着いて、いぶきちゃん。」

「っていうかなんで狼が話せるの?っていうか、あなたがゆきやのお守りをなんで持ってるの?」

頭の中を情報がぐるぐる駆け回っている。狼、見つからなかったゆきや、この部屋にあったお守り。

「ちょっとまって。もしかしてフブキ、ゆきやのこと食べちゃって、それでゆきやのお守り持ってるの?意味わかんない!」

「なんでそうなるんだよ!」

フブキはまだ何か言っているようだけど、もう耳に入ってこない。

「さよなら!」

私は逃げるように山小屋を出た。外はこれまでにないほど強い吹雪で、周りは何も見えない。ひたすらに走ったが、段々と寒さと雪に体力を奪われて、立ち止まってしまったところをフブキに見つかってしまった。

「ちょっとまって。話を聞いてくれって。」

「もう逃げる元気ないから、私のこと食べるなら食べちゃって。」

「僕は人は食べないよ。」

フブキは、私の握りしめたお守りを見つめながら、話を続ける。「そのお守りは、僕と君の大切な思い出だ。君は信じてくれないかもしれないけど、僕は、ゆきやなんだよ。」

確かに、フブキにはゆきやと似たようなものを感じていた。常に周りが見えていて、冷静で、優しい。だからこそ、私は彼にここまで心を許せたんだと思う。

「まさか、ありえない。」

「本当だよ。ずっと、君に会いたかったんだ。」

彼は、家族と山に行った帰りに雪の中遭難したこと、目が覚めたら狼になっていたこと、ずっと人目につかないこの山奥で暮らしていたことなど全て話してくれた。

「こんなに醜い姿になったら、もう村には戻れない。だから、一人でいたんだ。まあこんなこと、信じろって方が無理だよな。」

そう笑った彼はひどく悲しそうに見えた。

「信じるよ。狼のあなたもずっと優しかったし、命の恩人だもんね。ゆきや、どんな姿でも、まだ生きていてくれてありがとう。」

ゆきやの顔が晴れた。人間でも狼でも関係ない。今も昔も、私は優しいあなたの笑顔に救われている。


 長い年月が経った。今でも私はあの山小屋に通っている。決して当たり前ではない、優しい”一人”の狼と過ごす、最高に幸せで特別な時間だ。

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