第三章 暗雲の兆し 

 夢の中で誰かに名前を呼ばれた。そんな気がして莉恩はゆっくりと目を開く。

 眼前に広がるのは星空だった。墨をこぼしたような漆黒の闇の中に、そこだけいたような光の帯が一条、はる彼方かなたの夜のふちまで続いている。

 空の端にぽつりとひとつ、淡い銀の輝きが浮かんでいた。

『莉恩……』

 さっきよりもはっきりと名を呼ばれ、その懐かしい声に莉恩の胸はぎゅっと締め付けられる。

「お母様……?」

 莉恩は夜空へ向かって呼びかけた。見上げた夜空の空の端で、莉恩の呼びかけにこたえるように淡い銀の光が数度瞬く。

 しんと静かな闇のはざまに、ふわりと光が漂った。まるで淡雪が降るように、光が空からゆっくりと、莉恩へ向かって舞い落ちてくる。莉恩は思わず光へ向けて手を伸ばした。

 空からこぼれ落ちたほしくずは瞬きながら徐々にはっきりとした光を放ち、やがて莉恩の指先に触れるとぱっときらめいて次の瞬間にはちようの姿をとった。

「……らんりよう?」

 ぎんは翅脈が透けて見えるほどに薄く、上下するたびに銀の光が舞い散る。それはいつか幼い頃に漣壽と見た、稀少種の蝶だった。莉恩の呼びかけに応えるように、蘭蛉が軽くはねを震わせる。

『ああ、莉恩』

 驚いたことに蝶から聞こえてきたのは母の声だった。誰かを想う気持ちは蝶となり、満月の夜にいとしい人のもとを訪れる。莉恩は幼い頃に聞いた話を思い出した。母と言葉を交わすことができるなら、たとえ夢でもいいと莉恩は思う。

「お母様、ずっと会いたかった」

『私もよ、莉恩。あの日あなたが強く願ってくれたから、ようやくこの声を届けられる』

「願って……?」

 たしかに莉恩は、自分がこの先進むべき道を示してほしいと強く願ったことがあった。あれはたしか、半年前のことだ。

「もしかして私が願い結いをしたから」

『そうよ、莉恩』

 まるで母がそうするように、舞い上がった蝶が銀翅で優しく莉恩の頰を撫でる。触れられるとそこから、じんわりとぬくもりが伝わってきた。

『あなたはこの先、自分の意思で進むべき道を選ばなければならないわ。そのことを伝えるために、私は来たの』

「自分で……? 私にはそんなことできない」

『だいじょうぶよ』

 そこで蘭蛉は一度大きく翅を揺らめかせる。するとその体はたおやかに揺蕩たゆたい、夜空へ向けて軽やかに舞い上がった。

『あなたが進むべき道は、あなた自身の中にあるの。だってあなたは……』

「……待って、お母様!」

 もっとたくさん話したいことがあるのに、蝶の光は見る間に遠ざかり星の瞬きと混ざり合っていく。

 伸ばした莉恩の指先は光に届かず、銀の光はやがて夜の闇に消えていった。


    *


 百日紅さるすべりの目にも鮮やかな薄紅が各家の庭先を彩る七月。莉恩はたいしきに出席するため、待ち合わせ場所へと向かっていた。

 戴士式は文官登用試験の合格者が身分証を授与され、正式に文官として認められる式典だ。文官の官服を着用して臨む。

 翠国の日常着であるかんしようは上下つながった一枚布で仕立てられているが、隣国の杏王朝の宮中衣裳を基に作られた官服は造りが異なり、上下が分かれている。そのため初めて官服を身に着ける莉恩は、随分と手間取った。

 文官の官服は墨で汚れることを考慮して上は濃紺のじようしよう、下は薄墨色のしようという至って顔映りの悪い色をしている。唯一の色彩は襟だけで、これは官位に応じて色が定められていた。最下級官位である莉恩の襟にまだ色はなく、上裳と同じ濃紺色をしている。

 これから莉恩の職場となるのは、安郭区の北側にあるじようかくと呼ばれる特別区域の中だ。周囲を高い塀に囲まれたそこは官吏しか立ち入ることができず、出入りは東西と南の三箇所の門に限られている。中に入るためには門の警備を行っているえいがいきよくの武官に官吏の身分証を提示しなければならないが、莉恩が身分証を受け取るのはこの後だ。

 そのため南門の前で配属先の責任者と待ち合わせ、身分を証明してもらったうえで城郭区内へ入れてもらう手はずになっていた。

 女子寮のある西門から待ち合わせの南門まで、城郭区の外塀に沿って四半刻ほど歩く。しばらくして安郭区へ続く大通りに、立派な黒塗りの門柱が見えてきた。その門柱の脇に三人の男が立っていることに莉恩は気付く。そのうちの二人は門の警備だとすぐにわかった。下級官位の武官である彼らは黒装束を身に着け、微動だにせず真っ直ぐに前を向いて立っている。

 そんな武官二人と並んでもそんしよくのない長身の男は、莉恩と同じ文官の官服をまとっていた。かつこうで遠目にもすぐに誰か分かる。

 ──劉彗だ。

 気づいた劉彗が『おや』というように器用に右のまゆだけを上げた。莉恩は面接試験前の出来事を思い出し、ためらいがちにそっと頭を下げる。しかし劉彗はあいさつする気もないらしく、そのままふいと反対側へ顔を向けてしまった。仕方なく莉恩は、そんな劉彗から少し離れた場所に立つことにする。

「……劉彗さんと莉恩さん、ですか?」

 しばらくして、門から出てきた若い男に声を掛けられた。見れば彼も莉恩達と同じ文官の官服を身に着けている。襟にある薄紅色はじゆうじゆんだ。十四ある官位のうち下から四番目の階級に当たる。

 小柄な体格で、身長は莉恩より頭一つ高い程度だろうか。物腰も低く口調も柔和で、ずいぶんと人がよさそうだ。真ん中で分けた短い髪をでつけ、開いているのか閉じているのかわからない細い眼を更に細めてこちらへ笑顔を向ける。しかし彼はそこで、戸惑ったように莉恩と劉彗の顔を交互に見比べた。

 見習い文官にはとても見えない威圧的な態度の劉彗と、ひどく控えめな笑顔を浮かべる莉恩の、二人の間に流れる微妙な雰囲気を図らずも察してしまったらしい。

 だが彼が妙な顔を見せたのは一瞬のこと。どうやらその場に流れる不穏な空気については、気付かなかったことにしたらしい。再び細い眼を細め、取り繕ったような笑みをこちらへ向ける。

「わたしは皆さんの先輩になります、しんかんきよくいんと申します。戴士式の前にこれからお二方を職場までご案内いたしますので、どうぞこちらから中へ」

「私たち二人だけ、ですか?」

 門の警備の武官へ軽く頭を下げる志殷に、莉恩は思わずそうたずねていた。

「今年当局へ配属されたのはお二人と伺っております。他の局の配属については、あいにく存じません」

 やんわりと返され、莉恩は言葉を失う。後ろから劉彗ににらまれ、慌てて門を抜けた。

「それでは参りましょう」

 志殷に促されて目を向ければ、南門から真北に向けて城郭区の大通りが真っ直ぐに延びていた。突き当りにあるのは翠国の神山である青礼山で、山を背にして建つ壮麗なすいおうきゆうが見える。翠国には高度な技を持つたくみが多く、王城である翠王宮の美しさは大陸随一とうたわれている。噂には聞いていたが、その意匠は遠目に見てもため息が出るほどに素晴らしい。

「そういえば」

 大通りを北へ向けて進みながら、志殷がふと思い出したといった様子で声を上げる。

「先ほど配属先についてお尋ねでしたね。莉恩さんは登用試験で鶴黄様にお会いになりましたか?」

「はい、面接試験のときに」

「それは実にうらやましい!」

 志殷は細い目を見開き、その顔を喜びに輝かせた。

「わたしが受験した年は、鶴黄様は王の行幸にお伴されていてご不在でした。残念ながら私はまだお目にかかったことがございません。ご存知ですか? 鶴黄様にはがんそうの才がおありだそうですよ。それで近年、積極的に新人官吏の配属先について意見されているそうです」

「顔相観?……ですか」

 莉恩はその言葉に面食らった。『顔相観』とは相手の顔を見ただけで、その人の心の内に隠された本性や願望を見抜くという神通力のことだ。伝承や伝記のたぐいに散見されるがその技術に論理的な根拠はなく、学問として体系立てられているわけではない。しかしあの御老人であればさもありなん、と思えてしまうだけの説得力もあった。

 隣で劉彗が聞こえよがしに鼻を鳴らし、莉恩は慌てて口を閉ざす。顔相観の才などない莉恩でも、さすがにこれだけ不機嫌な顔をされれば何を考えているか察しはついた。

 大通りを二区画程進んだところで、志殷は道を西に折れた。両側を高い塀に囲まれた路地を進んだ先に見えたのは、木造平屋建ての大きな建物だ。

「どうぞ。こちらが本日からお二人の配属先になる、信簡局でございます」

 れいに掃き清められた玄関前を通り、間口の広いを上がる。志殷は二人を引き連れ正面に延びる廊下を進んだ。廊下に面した掃き出し窓にはぜいたくにも全面に気泡のある乳白色の硝子が使用されており、和らげられた夏の日差しが室内へ差し込んでいる。火気が厳禁とされる文官の局舎で、十分な光源を確保できるよう工夫されてのことだろう。

 廊下の右手は同じ造りの作業部屋らしき板の間が続いた。いくつかの部屋は扉が開け放たれており、文机を前に四、五人が並んで座っている。彼らは書き付けをしたり、書類を確認したりと忙しそうだ。そのうちの幾人かが新任文官の到着に気付き顔を上げた。しかし劉彗と莉恩に目を止めたところで、彼らは揃って眉をひそめる。中には隣同士でひそひそとささやき合う者もいた。

 とても文官には見えない劉彗の態度についてか、それとも女で文官となった莉恩の事だろうか。あまり歓迎されていない雰囲気に莉恩は気まずさを感じ、そっと顔を伏せ志殷の後ろに続く。

 志殷は廊下の突き当りにある扉の前で立ち止まった。

 扉には『局長室』の表示札が掲げられており、入り口に下げられた木札は『在室中』となっている。

「志殷でございます。お二人をお連れいたしました」

 志殷が扉の前で声を上げると中から「入れ」とくぐもった声があった。先に部屋へ入った志殷に続き、劉彗と莉恩も部屋へ足を踏み入れる。

 室内はすっきりと整えられており、壁一面に据えられた書棚には寸分の差もなく揃えられた書物の背が並んでいた。部屋の奥の書斎机で書き物をしていた人物が、筆を置きこちらへ顔を向ける。

 莉恩は思わず息をんだ。彼は二次試験の別室にいた、あの蛇のような目つきの試験官だったからだ。

 男の襟には上級官位のさんを示す若草色があった。局長階級の官吏が持つ色だ。男は試験の時と同じく、射るように鋭いまなしで莉恩と劉彗を交互にる。

「わたしは信簡局局長のけんえいだ。本日より其方そなたたちの上官となる」

 形式的に述べられただけの口上は相変わらず抑揚がなく、そこには新人文官に対する一片の配慮も感じられない。これからの毎日を思い、莉恩の心は深く沈んだ。


 翠国最高官吏閣議──略して国議には、武官と文官の二系統が存在している。国内の治安維持と警護を行う武官職と、総じて行政業務を中心に行う文官職だ。この二官は常に互いの業務が適正か監視しあっている。

 文官の管轄下には三省があり、莉恩が所属することになった信簡局はそのうちのひとつ、省の管轄だ。吏部省は官吏のにんめんや進退を取り仕切っている。その配下に置かれた信簡局では、王都に勤務する官吏全ての私信を検閲する責務を負っていた。

 そこには機密情報のろうえい防止やほんたくらみに対するけんせいの目的がある。

 過去、翠国では国議で得た情報を身内を通じて商人へ売り渡そうとした事件や、上級官吏が王位継承者の動向を、それと知らずに地方官吏へ漏洩した事件などがあった。これらはいずれも私信に紛れて取り交わされたが、信簡局の検閲により摘発されている。

 城郭区は国内で最も官吏の数が多く、そのうえ王族の住まいである翠王宮も置かれた翠国の中枢だ。そのため王都において国政の情報規制を行うことは重要な職務のひとつであった。

 新人文官が覚えなければならないことは、莉恩が想像していた以上に多かった。特に信簡局はその業務の特性上、他部署に比べて規程も手順もことさらに多い。

 二人がまず初めに言い渡されたのは掃除や片付けなどの雑務で、それらをこなしながら、自分たちが配属された部署が日々どのような流れで業務を行っているのか学んでいく。ようやく信書に触れても良いという許可が出たのは、入局からひと月後のことだった。

 しかしまだこの時点で、二人に私信を検閲する権限はない。検閲の前準備として信書を開封する作業を任されただけだ。私信は受取人と同程度以上の官位でなければあらためられないことになっているため、二人は開封した信書を階級別に仕分ける作業を行っていた。

 仕事は至って単純だが、そこには莉恩を悩ませる大きな問題があった。


「莉恩さん、仕事には慣れましたか」

 人目につかない廊下の隅で声を掛けられ、莉恩は足を止める。声の主は志殷で、細い目をさらに細め人のよさそうな笑みを莉恩へ向けていた。

 その笑顔を見たとたん、このところ張りつめていた莉恩の気持ちがふと緩む。隠しきれず本音が漏れて、つい顔を曇らせてしまった。

「もしかして、また何かお困りごとですか?」

 ざとく気付いた志殷が気遣わし気にまゆじりを下げる。莉恩は返答に迷い、ただあいまいな笑みを返すことしかできなかった。

 莉恩は今、信簡局内で完全に孤立している。どうやら文官登用試験の面接の際に、莉恩が試験官に優遇されたという噂が伝わったらしい。そうと知ったのは局員たちが聞こえよがしに大声で話していたからだ。

 彼らは当初、莉恩のことを遠巻きにして見ていた。しかし莉恩に希代の才女をほう彿ふつとさせる技量がないと見て取るや否や、彼らの態度は一変した。莉恩に許容量を超えた仕事を押し付けては困らせ、しばしば横やりを入れては作業の手を止めさせる。おかげで莉恩の作業は一向にはかどらない。

 そのしわ寄せを受けたのが劉彗だ。莉恩と劉彗は今、同じ作業を担当している。莉恩が終えられなかった分の仕事は、劉彗が肩代わりすることになった。

 登庁初日から不機嫌だった劉彗は、このところ目に見えていらだっている。このままではいつ劉彗の我慢が限界を超えるかわからない。そのため莉恩は他の局員だけでなく、劉彗の顔色も気にしつつ仕事をしなければならなかった。

 志殷は周囲に対する気配りがとてもうまい。そういった事情を志殷がどこまで知っていたのか莉恩にはわからないが、他の局員たちの動向についてもそれとなく気付いていのではないだろうか。

 しかし志殷は変わらぬ態度で莉恩に接してくれていた。そして今もこうして、人目のない時を見計らっては莉恩に声をかけてくれる。きっと莉恩が立ち話をしているととがめられないよう、気を遣ってのことだろう。

 そんな志殷に今の状況を相談したら、かえって面倒をかけてしまうかもしれない。そう考えた莉恩は、志殷の優しさに甘えることをためらったのだ。

「なんでもないんです。ご心配をおかけしてすみません」

 莉恩がそっと志殷へ頭を下げると、志殷はまだ何か言いたそうに莉恩の顔を見ていた。だがそれ以上は無理にせんさくせず、「そうですか」と軽い口調で話を切り上げる。

「何か話したいことがあれば、いつでもわたしのところへ来てください」

 志殷のさいなその一言が、今の莉恩の気持ちをずいぶんと楽にしてくれた。


 莉恩が作業部屋に戻ると、劉彗が入り口をふさぐようにして立っていた。こんなところで何をしているのだろうか。莉恩が不思議に思って立ち止まったところで、気配に気付いた劉彗が振り返る。劉彗はいつも以上に険しい顔のまま無言でじろりと莉恩を見下ろすと、親指を立て部屋の奥を指し示した。

 劉彗が半歩下がると、その背に遮られていた部屋の中の様子が莉恩の目に映る。そのあまりの惨状に、莉恩は思わず「ひどい」と声を漏らしていた。

 床の上一面に信書が散乱している。二人が離席前に仕分けを終え、あとはいつでも運び出せるよう整えてあったものだ。部屋の隅に仕分け箱が三つひっくり返っており、誰かが故意にやったのはいちもくりようぜんだった。

「なんでこんなことになってる?」

 劉彗の声はいつになく低い。その目には明らかに怒りが浮かんでいた。有無を言わせぬ勢いで詰め寄られ、莉恩は思わず言いよどむ。

「これは……その」

 莉恩に対する嫌がらせがついに度を越したのだ。上級官吏宛ての信書も扱う信簡局内では、信書の破損は良くて𠮟しつせき、場合によっては懲戒処分もありうる。大ごとになれば莉恩だけでなく、同じ作業を割り当てられている劉彗もその責に連座させられる可能性があった。だからこそ劉彗の怒りが生半可なものではないこともよくわかる。

 莉恩が弁明を口にするよりも早く、廊下から複数のあざけるような高い笑い声が上がった。ちょうど部屋の前を数人の先輩文官が通りかかったところで、明らかにこちらを見て面白がっている。その態度に、もしかしたら彼らがやったのかもしれないという考えが頭をよぎったが、証拠はどこにもない。莉恩は悔しさに唇をみ締め、うつむいた。

 その視界の端を何か大きな黒い影が横切っていく。それが官服のすそだと気付いた瞬間、莉恩は反射的に手を伸ばしていた。

 官服のそでをつかまれた劉彗が、大仰な仕草で振り返る。なぜ止めるんだと言わんばかりの顔で見下ろされたが、止めなければ劉彗が何をしていたかわからない。ここで問題を起こせば、それこそ彼らの思い通りだ。

 一連のやり取りを眺めていた廊下の数人は、笑い声を上げながらその場を立ち去って行ってしまった。

「なんでもないの」

 とっさに口をついて出た莉恩の言葉に、劉彗の顔つきが一層の険しさを増す。袖についたほこりでも払うように莉恩の手を軽く振りほどいた劉彗は、莉恩を真正面からにらみ据えた。

「なんでもないってのは、どういう意味だ?」

 劉彗は一言ずつはっきりと、言葉を区切るようにして問いかけた。莉恩を責める響きを込めたその言葉は、まるで詰問だ。

「これは私が……」

 全部悪いのだ。そう言いかけ、莉恩はそこで口をつぐむ。それでは劉彗を納得させられないと気付いたからだ。それ以上取り繕う言葉が見つからず、莉恩は劉彗の視線から逃げるようにして床にひざをつくと、そのまま床に散らばった信書を拾い始めた。

「ちゃんと説明しろ」

 問いかけを無視された劉彗が、声を荒らげ莉恩の腕を強くつかんだ。そのまま莉恩の体は強引に引き起こされる。声を上げる間もなく、気付けば眼前に怒気をはらんだ劉彗の顔が迫っていた。そのあまりの勢いに莉恩は思わず息をむ。

 しかし劉彗に何を言われたところで、莉恩には今の状況をどうすることもできない。いくら責められても、怒りをぶつけられても、莉恩にできることはただじっと我慢して時が過ぎるのを待つことだけだ。

「ここは私が片付けるから」

 莉恩はなんとかそれだけ言うと、再び床の上の信書に手を伸ばす。しかし劉彗は莉恩の腕を放そうとしなかった。莉恩の体がそのままその場に引き留められる。

「お前はどうしていつもそう……」

 劉彗が感情的な早口で何かを言いかけた。しかしその言葉が不自然な位置で途切れる。沸き上がる激情を必死に抑え込もうとしたのだろう。劉彗はそこで一度、深く息を吸った。

 莉恩はいつもの皮肉が続くものと覚悟して、胸元で手を握り締める。しかし劉彗の口から吐き出されたのは、どこまでも低く冷ややかな声だった。

「お前のそういう態度だよ」

「……え?」

 不意をつかれ、莉恩は思わずぼうぜんと劉彗を見返す。それはどういう意味なのだろう。莉恩はずっと、周囲に迷惑をかけまいと我慢してきたというのに。

 劉彗はしばし、そんな莉恩の顔をじっと見下ろした。それからふと、鼻白んだ笑いを漏らす。劉彗の目には、これ以上莉恩になにを言っても無駄だと悟ったようなあきらめが浮かんでいた。続けて莉恩の腕をつかむ劉彗の手から力が抜ける。

 劉彗は一歩、莉恩から距離を取った。何か言いたげに口を開きかけて、結局は何も言わずくるりと莉恩に背を向ける。

「それ、片付けとけよ」

 それまでのげきこうが噓のように、劉彗は素っ気なくそれだけを告げた。そのままおおまたで部屋を出て行ってしまう。莉恩はしばしぼんやりとその背中を眺めていた。

 部屋を片づけなければと、唐突にそのことを思い出した莉恩はゆっくりと振り返る。しかしなぜか思うように足に力が入らず、膝からその場に崩れ落ちた。

 それきり莉恩は、そこから立ち上がれなくなった。目の前には白い封書が一面に散らばり、降り積もった雪のように床を覆い隠している。

 莉恩は緩慢な動作で手近な封書に手を伸ばすと、ゆっくりとそれらを拾い集めはじめた。しばらくの間、何も考えず封書を拾っては束ねるを繰り返す。

 ふと莉恩の手が止まった。

 大量の白い封書の中にひとつだけ、薄紅色をした封書が紛れている。はなももの花弁のように上品な色に染められたき紙だ。見るからに上質なその紙は、大切な相手に気持ちを伝えるときに使う特別なものだろう。莉恩が開封していたらきっと忘れない。見覚えがないということは、劉彗が担当したのだろう。

 封書に手を伸ばした莉恩は、そこに書かれていたあてを見て心臓が止まりそうになった。それは莉恩に宛てて送られた文だったからだ。

 莉恩は慌てて差出人の名前を確かめる。そこに記されている名前に、今度は息が止まりそうになった。

 差出人は莉恩のおさなじみで、六年前に武官になるため郷里をったれんじゆだったからだ。

 紙面に記されているのは漣壽らしく潔い、たった一篇のうただけだった。


今まさにちようへと羽化せむ麗しき

其方そなたを支ふ我が若木の身


 漣壽は、なにを思ってこんなときにこの詠を送ってきてくれたのだろう。それまでずっとこらえていた感情が、一気に莉恩の中にあふれ出す。

 莉恩の口から思わず、泣き笑いのような声が漏れた。 




**********


この続きは本編でお楽しみください。

『銀の蝶は密命を抱く 翠国文官伝』著・佐木真紘 イラスト・べっこ

角川文庫より発売中


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【受賞作試し読み】銀の蝶は密命を抱く 翠国文官伝/佐木真紘 佐木真紘/角川文庫 キャラクター文芸 @kadokawa_c_bun

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