第二章 明暗を分かつ一筆 四
翌朝、莉恩を迎えにきたのは面接試験の会場へ向かうための馬車だった。
宿から馬車でおよそ半刻、向かった先は安郭区の北側にある上級官吏用の居宅が建ち並ぶ区域だ。どの家も立派な門構えをしている。馬車が止まったのはそのうちの一軒、杏王朝風の濃い茶色を基調とした重厚感ある
莉恩が馬車から降りると、門の前には既に二十人ほどの男たちが集まっていた。莉恩と同じ二次試験の合格者だろう。皆一様に不安そうな顔を見せている。
そんな受験生の中に、一人だけ飛び抜けて背の高い男がいることに莉恩は気付く。見覚えのある
このとき初めて顔を見たが、年の頃は二十歳前後だろうか。
その時、男が不意に顔を持ち上げた。気怠い様子でさ迷わせた
莉恩は
「全員揃ったようだな。それではついてきなさい」
返答を待たず
受験生たちが通されたのは、建物の一番奥にある大広間だ。
室内も濃い茶色を基調とした杏王朝風の
部屋の中央には
「
その時出し抜けに上がった声に、その場にいた全員の目が一斉に声のした方へと向けられる。声の主は先ほどの、あの背の高い男だった。その場の注目を一身に集めながら、彼はそんなことを露ほども気にせず涼しい顔をしている。
「ほう、
老人の声は
そこでようやく莉恩は思い出す。鶴黄と言えば、この国で国王の最も傍近くに仕える
粛臣とは、一人の王の生涯に
王の右腕としてその生涯を王の傍らで過ごす粛臣は、滅多に人前に姿を現すことがない。そんな翠国の要人が、なぜこのような場にいるのだろうか。
「鶴黄様、そろそろ……」
「おお、面接であったな」
背後に控えていた男性から控えめに耳打ちされ、老人がおもむろに顎鬚を
「今年は随分と良い顔をした者が多いのう」
長く伸びた
全員の顔を順に見回した鶴黄は、つと枯れ枝のような細い指先を持ち上げた。
「では、そちらの者から順に話を聞かせてもらおうかの」
指先は迷いなく、あの背の高い男に向けられている。
「其方は何故、文官を目指す?」
突然声をかけられたにもかかわらず、男には全く焦った様子がなかった。わずかに眉を持ち上げると不機嫌そうに鶴黄を
「第三
不愛想このうえなくどこまでも
鶴黄は椅子に座った姿勢のまま、
「俸禄はそんなに魅力的かの?」
「もちろんです」
劉彗は平然とそう返した。続く答えは、あらかじめ用意されていたかのように
「お金があればこの世の大概は思い通りだ。わたしの郷里である華清府は港町で、住民の多くが港で働いている。仕事は危険が多くその割に給料は安い。そんな彼らを見て育ったわたしは、幼い頃より官吏になろうと心に決めていました」
鶴黄「ほお」と呟き、それきり沈黙した。老人の場違いなほどに軽い態度につい忘れかけてしまうが、これは文官登用試験なのだ。答えを間違えればここで失格もあり得る。問われているのは劉彗なのに、何故か莉恩の方が緊張してしまっていた。
吐き出す息とともに、鶴黄が椅子からわずかに身を乗り出す。それはまるで劉彗の心の内を
「……右腕か」
長いようでいて短い沈黙の後、鶴黄が発したのはそんな意味の分からない言葉だった。受験生たちが困惑に互いの顔を見合わせる中で、劉彗だけが驚いたように大きく目を見開く。先程までの自信に
そんな劉彗に、鶴黄は先ほどまでとは打って変わって妙にきっぱりとした口調で
「さて、もう一度問おう。
劉彗がゆっくりと左手を持ち上げる。その手が自身の右の二の腕を強くつかんだところで、莉恩はようやく気が付いた。
さっきから彼は、一度も右腕を動かしていない。
しばし鶴黄を
「ご指摘の通り十五の歳に事故で右腕に怪我を負いました。幸い命に別状はなかったものの、後遺症から今でも右手は動きません。元は武官を目指していましたが、利き手が使えない以上それを務めることは
受験生たちの中から
利き手でありながら落第した者もいる中で、しかも二次試験は一番に退出している。
しかし劉彗の言葉を聞いたところで鶴黄の態度に何一つ変化はなかった。さして興味もない風に「ふむ」と吐息ともつかない声を漏らし、伸びた
「お主は随分と俸禄に
眉に隠された目を劉彗へと向けた鶴黄は、さも不思議だといわんばかりに軽く首をかしげた。
「金は
劉彗がその言葉にぐっと
彼はその問いかけにしばらくして、ひどく重苦しい口調で渋々口を開いた。
「わたしの腕の治療に、親は
淡々と話す口調が
「ふむ、良かろう」
しばらく劉彗を眺めた鶴黄はごく軽い口調でそう言った。相変わらず真意が読めないが、どうやら老翁の中で結論は出たようだ。不快も
「ほれ、次。そこの」
劉彗の隣にいた青年が、不意打ちに驚いて飛び上がった。まさか面接でここまで深く問われると思っていなかったのだろう。明らかに緊張した面持ちを鶴黄へと向ける。
そこから続く数人の受験生の回答を、莉恩は上の空で聞いていた。鶴黄の質問はどれも相手の核心を突くものばかりで、途中で言葉に詰まりそれきり黙る者や、泣き出す者、これ以上答えたくないと言って回答を拒否する者が続出し、面接試験は
莉恩は自分の番を待ちながら、人前で本心を
そんな莉恩の心中を察したように、鶴黄は最後に莉恩を指名した。
莉恩の心臓が緊張に高鳴る。受験生の一番後ろに立っていた莉恩は息を整えつつ列から前に出ると、時間を稼ぐようにことさら丁寧に鶴黄へと一礼した。
「第四亮藩は賀郭区から参りました、莉恩です」
緊張に声が震えていないだろうか。腹の前で重ねた手が汗で
「……これは
しかし鶴黄から莉恩へと発せられた一言は、あまりにも予想に反したものだった。不意を突かれた莉恩の思考は停止する。沙紗とは、母の名だ。
なぜこの老人が母の名を知っているのだろうか。混乱する頭で考えを巡らせたところで、莉恩は母の名が有名であることを思い出す。
「よく似ておるな」
鶴黄の声には深い親愛の情が込められていた。他の受験生たちから向けられる無遠慮な視線を背中に感じて、莉恩はとっさに顔を伏せる。この国で文官を目指す者ならば一度は母の名を耳にしているだろう。沙紗の娘という重圧が、莉恩の胃の
「ときに其方……」
鶴黄がおっとりと声を上げ、莉恩はそこで慌てて姿勢を正す。今は目の前の面接試験に集中しなければ。今度こそ文官を志した理由を訊ねられるものと、莉恩は再び身構える。しかし続く鶴黄の言葉は、さらに莉恩の予想を超えたものだった。
「昔のことは思い出したかね?」
思わず言葉を失った。昔のこと、とはなんだろう。質問からして自分はそれを忘れてしまっているようだが、自覚のないことを問われても答えようがない。それともこれも、鶴黄が得意とする相手の核心を突く技なのだろうか。
「おっしゃっている意味が私には、よくわかりません……」
返答に窮した莉恩は、正直にそう答えた。鶴黄の
「……そうか」
やがて鶴黄が、ひどく落胆した様子でそう
「鶴黄様……」
鶴黄の背後にいた男性が見かねたように口を挟み、そこでようやく鶴黄は文官登用試験の面接の最中であることを思い出したようであった。
「ああ、これはいかん」
大仰に肩をすくめた鶴黄の態度は、相変わらず
「あまりにも沙紗に似ているから、つい懐かしくなってしまった。しかし、なあ……」
思いを巡らせるように、そこで鶴黄の鬚を撫でる手が止まった。背後に立つ男性へ首だけ回して顔を向ける。
「この娘に、これ以上訊ねることはないのだよ」
あまりに明朗な口調で言われ、男は驚いたように目を
「のう、莉恩とやら」
顔をうつむかせかけた莉恩に、鶴黄はおっとりと呼びかけた。莉恩はためらいがちに顔を持ち上げる。鶴黄の顔は、真っ直ぐに莉恩へと向けられていた。
「
鶴黄の声には静かな、それでいて有無を言わせぬ力強さが宿っている。
──特別扱いだ。
莉恩のすぐ後ろで誰かが
鶴黄だけが一人
気付けば鶴黄に見つめられた受験生たちは、いつしか自然とその口を閉じていた。老翁の奇妙な存在感に、室内は水を打ったようにしんと静まり返る。
「この国の万象を整えるのが
ぐるりと部屋の中を見回した鶴黄の顔が、莉恩の上でぴたりと止まる。
「其方にはぜひとも、この国の一助となってもらいたいものだな」
もう誰も莉恩を悪く言う者はいなかった。静まり返った部屋のなかで莉恩ができたのは、ただ深々と首肯することだけだ。
そしてこれが、この年の面接試験の全てとなった。
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