第二章 明暗を分かつ一筆 四

 翌朝、莉恩を迎えにきたのは面接試験の会場へ向かうための馬車だった。

 宿から馬車でおよそ半刻、向かった先は安郭区の北側にある上級官吏用の居宅が建ち並ぶ区域だ。どの家も立派な門構えをしている。馬車が止まったのはそのうちの一軒、杏王朝風の濃い茶色を基調とした重厚感あるやかたの前だった。翠国の木目を生かした建物と違い、彩色された柱や門扉の装飾が目を引く。

 莉恩が馬車から降りると、門の前には既に二十人ほどの男たちが集まっていた。莉恩と同じ二次試験の合格者だろう。皆一様に不安そうな顔を見せている。

 そんな受験生の中に、一人だけ飛び抜けて背の高い男がいることに莉恩は気付く。見覚えのあるかつこうは、昨日の二次試験で一番に別室へと消えて行ったあの男だ。

 このとき初めて顔を見たが、年の頃は二十歳前後だろうか。せいかんな顔立ちに、眼光鋭い目付きが印象的だ。

 その時、男が不意に顔を持ち上げた。気怠い様子でさ迷わせたまなしが、なぜか視界の端にいたはずの莉恩へ真っ直ぐに向けられる。男の目が無遠慮に細められ、続いてその唇がゆっくりと「女か」と動いた。

 莉恩はとつに顔を伏せる。もしかしたらあの男も、女が官吏になることに対して思う所のある一人なのだろうか。莉恩は思わずこの場から逃げ出してしまいたい衝動に駆られたが、それを引き留めたのは屋敷から出てきた黒い衣裳の男の一言だった。

「全員揃ったようだな。それではついてきなさい」

 返答を待たずきびすを返した男の背を追い、受験生たちが一斉に動き出す。その人波に流され、莉恩も重い足取りのまま屋敷へ足を踏み入れた。

 受験生たちが通されたのは、建物の一番奥にある大広間だ。

 室内も濃い茶色を基調とした杏王朝風のしつらえで、床はこくたん、天井には翠国の国花である忍冬のせいな文様が描かれている。部屋の右手の窓には繊細な透かし彫りの格子戸に硝子がらすめ込まれており、その隙間から覗く庭には色とりどりの夏の花が咲き誇っていた。屋敷は隅々まで手入れが行き届き、そこかしこから家主の品の良さが感じられる。

 部屋の中央にはごうしやな椅子が据えられており、そこに小柄な老人が一人鎮座していた。ここまで受験生を案内してきた男性が恭しくその椅子の後ろに控えて立つ。この老人は一体誰なのだろう。受験生の誰もがその疑問を胸に老人を注視していた。

かくおう様でいらっしゃいますね」

 その時出し抜けに上がった声に、その場にいた全員の目が一斉に声のした方へと向けられる。声の主は先ほどの、あの背の高い男だった。その場の注目を一身に集めながら、彼はそんなことを露ほども気にせず涼しい顔をしている。

「ほう、わしの名を知っているとは」

 老人の声はしわがれて、面白がっているのか怒っているのか判断つきかねる不思議な響きをしていた。そのうえ立派に伸びたまゆあごひげが老人の顔全体を覆い隠し、顔色が一切読み取れない。どこかつかみどころのないひようひようとした様相を漂わせていながらも、なぜか彼には人の目をきつける強い存在感があった。

 そこでようやく莉恩は思い出す。鶴黄と言えば、この国で国王の最も傍近くに仕えるしゆくしんと呼ばれる官職に就く者の名ではなかっただろうか。

 粛臣とは、一人の王の生涯にただ一人存在を許される従者のことだ。王は即位の儀式の際にこの国の神山であるせいらいさんへ登頂し、山頂に住む神官から直接に神の託宣を得ることになっている。儀式を終えた王は、神山にいる神官の中から当代の王に就く粛臣を一人選ぶのが習わしだ。

 王の右腕としてその生涯を王の傍らで過ごす粛臣は、滅多に人前に姿を現すことがない。そんな翠国の要人が、なぜこのような場にいるのだろうか。

「鶴黄様、そろそろ……」

「おお、面接であったな」

 背後に控えていた男性から控えめに耳打ちされ、老人がおもむろに顎鬚をでる。

「今年は随分と良い顔をした者が多いのう」

 長く伸びたはくの奥から、鶴黄がこちらを眺めた。そのひとみが金色に見えた気がしたのは、光の加減だったのだろうか。いよいよ始まる面接試験に、受験生たちはただ一人を除き皆揃って緊張した面持ちを見せている。もちろんその『ただ一人』は、厚顔なうえに無礼な態度の、あの背の高い男に他ならない。

 全員の顔を順に見回した鶴黄は、つと枯れ枝のような細い指先を持ち上げた。

「では、そちらの者から順に話を聞かせてもらおうかの」

 指先は迷いなく、あの背の高い男に向けられている。

「其方は何故、文官を目指す?」

 突然声をかけられたにもかかわらず、男には全く焦った様子がなかった。わずかに眉を持ち上げると不機嫌そうに鶴黄をり、それから思い直したように一歩前へ出る。

「第三りようはんせいりゆうすいです。文官を志した理由は、ほうろくのため。以上です」

 不愛想このうえなくどこまでもそんな態度の口上に、あきれたのは莉恩だけではなかった。鶴黄の背後に控えていた男は不快な顔を見せ、他の受験生達は驚きに目を見開いている。この場にいる全員が劉彗と鶴黄の顔を交互に見比べ、かたをのんで事の成り行きを見守った。この部屋の中で唯一表情を変えなかったのは、質問した本人である鶴黄ぐらいのものであろう。正確には表情を変えなかったというよりも、読めなかったと言った方が正しいのだが。

 鶴黄は椅子に座った姿勢のまま、おうように劉彗の顔を見上げた。そして久方ぶりに旧友と顔を会わせたときのような、ごく親しい口調で問いかける。

「俸禄はそんなに魅力的かの?」

「もちろんです」

 劉彗は平然とそう返した。続く答えは、あらかじめ用意されていたかのようによどみなく劉彗の口から流れ出る。

「お金があればこの世の大概は思い通りだ。わたしの郷里である華清府は港町で、住民の多くが港で働いている。仕事は危険が多くその割に給料は安い。そんな彼らを見て育ったわたしは、幼い頃より官吏になろうと心に決めていました」

 鶴黄「ほお」と呟き、それきり沈黙した。老人の場違いなほどに軽い態度につい忘れかけてしまうが、これは文官登用試験なのだ。答えを間違えればここで失格もあり得る。問われているのは劉彗なのに、何故か莉恩の方が緊張してしまっていた。

 吐き出す息とともに、鶴黄が椅子からわずかに身を乗り出す。それはまるで劉彗の心の内をのぞき込むような仕草だった。

「……右腕か」

 長いようでいて短い沈黙の後、鶴黄が発したのはそんな意味の分からない言葉だった。受験生たちが困惑に互いの顔を見合わせる中で、劉彗だけが驚いたように大きく目を見開く。先程までの自信にあふれた態度はすっかり崩れ去り、彼の顔には焦りが浮かんでいた。

 そんな劉彗に、鶴黄は先ほどまでとは打って変わって妙にきっぱりとした口調でたずねる。

「さて、もう一度問おう。其方そなたはなぜ文官を志した?」

 劉彗がゆっくりと左手を持ち上げる。その手が自身の右の二の腕を強くつかんだところで、莉恩はようやく気が付いた。

 さっきから彼は、一度も右腕を動かしていない。

 しばし鶴黄をにらむように見遣っていた劉彗の口元に、ふと自虐的な笑みが浮かんだ。そうして彼は内心のかつとうを吹っ切るようにすっと姿勢を正し、今度は挑むような強い眼差しを鶴黄へと向ける。

「ご指摘の通り十五の歳に事故で右腕に怪我を負いました。幸い命に別状はなかったものの、後遺症から今でも右手は動きません。元は武官を目指していましたが、利き手が使えない以上それを務めることはかなわず。そこで武官の道はあきらめ、左腕一本でもなれる文官を目指す事にしました。俸禄は変わりませんので」

 受験生たちの中からきようがくと感嘆の入り混じったどよめきが上がる。莉恩もその一人だった。生来の利き手とは異なる手で、しかも文官を目指せるほどの整った字を書くために、彼はどれだけの努力をしたのだろうか。

 利き手でありながら落第した者もいる中で、しかも二次試験は一番に退出している。

 しかし劉彗の言葉を聞いたところで鶴黄の態度に何一つ変化はなかった。さして興味もない風に「ふむ」と吐息ともつかない声を漏らし、伸びたあごひげをするりと撫でる。

「お主は随分と俸禄にこだわっておるようだが……」

 眉に隠された目を劉彗へと向けた鶴黄は、さも不思議だといわんばかりに軽く首をかしげた。

「金はしよせん、金だ。人の概念が具現化した物に過ぎん。金に意味を持たせるのはその金を使う人間の心根にある。さて。お主にとって金とは、一体どんな意味を持つのかのう」

 劉彗がその言葉にぐっとのどの奥で何かを詰まらせ、続いて気に入らないとでも言いたげに深く眉根を寄せる。鶴黄は粛臣として長く現王に仕える人物だ。おそらくこの質問は、劉彗が心の奥底に隠していた根本的な問題に触れるものだったに違いない。

 彼はその問いかけにしばらくして、ひどく重苦しい口調で渋々口を開いた。

「わたしの腕の治療に、親はばくだいな金を支払いました。国内のありとあらゆる高名な医者に診せ、どうにかしてこの右手が再び刀を握れるようにしてくれと頼み続けた。しかし結果はご覧の通り。この腕は二度と動くことはありませんでした。そうしてようやく親がわたしの腕を諦めた頃、今度は妹が病にかかった。治療に多額の費用が掛かると言われたが、わたしの完治することのない腕に金を使い果たした我が家には妹に満足な治療を施す余裕がなく、随分と苦しんだ末に妹は亡くなりました。その時学んだのは、この世で最も大切なのは金だということです」

 淡々と話す口調がかえって莉恩の胸を締め付ける。この場にいる誰もが沈痛な面持ちで劉彗の話に耳を傾けていた。唯一鶴黄だけが、まるで旧友の家に茶でも飲みに来たようなくつろいだ態度で顎鬚を撫でている。

「ふむ、良かろう」

 しばらく劉彗を眺めた鶴黄はごく軽い口調でそう言った。相変わらず真意が読めないが、どうやら老翁の中で結論は出たようだ。不快もあらわに向けられる劉彗の鋭い視線を気にした様子もなく、それどころかまるでそれまでの会話などすっかり忘れてしまったかのように、鶴黄は劉彗の横に立つ受験生へ指先を向ける。

「ほれ、次。そこの」

 劉彗の隣にいた青年が、不意打ちに驚いて飛び上がった。まさか面接でここまで深く問われると思っていなかったのだろう。明らかに緊張した面持ちを鶴黄へと向ける。

 そこから続く数人の受験生の回答を、莉恩は上の空で聞いていた。鶴黄の質問はどれも相手の核心を突くものばかりで、途中で言葉に詰まりそれきり黙る者や、泣き出す者、これ以上答えたくないと言って回答を拒否する者が続出し、面接試験はさんたんたる有り様となった。

 莉恩は自分の番を待ちながら、人前で本心をさらされる恐怖におののいていた。なぜ文官を目指すのかと問われても、莉恩は彼らのように明確な返答をすることができない。

 そんな莉恩の心中を察したように、鶴黄は最後に莉恩を指名した。

 莉恩の心臓が緊張に高鳴る。受験生の一番後ろに立っていた莉恩は息を整えつつ列から前に出ると、時間を稼ぐようにことさら丁寧に鶴黄へと一礼した。

「第四亮藩は賀郭区から参りました、莉恩です」

 緊張に声が震えていないだろうか。腹の前で重ねた手が汗でれている。莉恩は覚悟を決め、鶴黄が口を開くその時をじっと待つ。

「……これはしやの娘御ではないか」

 しかし鶴黄から莉恩へと発せられた一言は、あまりにも予想に反したものだった。不意を突かれた莉恩の思考は停止する。沙紗とは、母の名だ。

 なぜこの老人が母の名を知っているのだろうか。混乱する頭で考えを巡らせたところで、莉恩は母の名が有名であることを思い出す。

「よく似ておるな」

 鶴黄の声には深い親愛の情が込められていた。他の受験生たちから向けられる無遠慮な視線を背中に感じて、莉恩はとっさに顔を伏せる。この国で文官を目指す者ならば一度は母の名を耳にしているだろう。沙紗の娘という重圧が、莉恩の胃のの辺りをぐっと重くした。

「ときに其方……」

 鶴黄がおっとりと声を上げ、莉恩はそこで慌てて姿勢を正す。今は目の前の面接試験に集中しなければ。今度こそ文官を志した理由を訊ねられるものと、莉恩は再び身構える。しかし続く鶴黄の言葉は、さらに莉恩の予想を超えたものだった。

「昔のことは思い出したかね?」

 思わず言葉を失った。昔のこと、とはなんだろう。質問からして自分はそれを忘れてしまっているようだが、自覚のないことを問われても答えようがない。それともこれも、鶴黄が得意とする相手の核心を突く技なのだろうか。

「おっしゃっている意味が私には、よくわかりません……」

 返答に窮した莉恩は、正直にそう答えた。鶴黄のはくに隠された目がじっと莉恩を見つめている。心の内を覗き込まれるような居心地の悪さに、莉恩はしばし耐えなければならなかった。

「……そうか」

 やがて鶴黄が、ひどく落胆した様子でそうつぶやいた。莉恩の背にひんやりとしたものが走り抜ける。答えを間違えてしまったのだろうか。焦燥が一気に沸き上がり、息苦しさから莉恩は無意識に襟元をつかんでいた。

「鶴黄様……」

 鶴黄の背後にいた男性が見かねたように口を挟み、そこでようやく鶴黄は文官登用試験の面接の最中であることを思い出したようであった。

「ああ、これはいかん」

 大仰に肩をすくめた鶴黄の態度は、相変わらずとらえどころがない。ゆったりとあごひげでながら莉恩を眺めている。

「あまりにも沙紗に似ているから、つい懐かしくなってしまった。しかし、なあ……」

 思いを巡らせるように、そこで鶴黄の鬚を撫でる手が止まった。背後に立つ男性へ首だけ回して顔を向ける。

「この娘に、これ以上訊ねることはないのだよ」

 あまりに明朗な口調で言われ、男は驚いたように目をしばたたかせた。もちろん莉恩も同じ気持ちだ。他の受験生たちも、互いに顔を見合わせている。

「のう、莉恩とやら」

 顔をうつむかせかけた莉恩に、鶴黄はおっとりと呼びかけた。莉恩はためらいがちに顔を持ち上げる。鶴黄の顔は、真っ直ぐに莉恩へと向けられていた。

其方そなたを見て確信したよ。やはり其方には沙紗と同じく、官吏としてこの国を支えてもらいたいものだな」

 鶴黄の声には静かな、それでいて有無を言わせぬ力強さが宿っている。

 ──特別扱いだ。

 莉恩のすぐ後ろで誰かがささやく声があった。その声は瞬く間に受験生の間へでんしていく。まるで波紋が広がるように、ざわめきはゆっくりと室内に浸透した。険や含みのある視線が莉恩へ向けられている。彼らには莉恩が親の威光によって優遇されているように見えたことだろう。一度は上げた顔を、莉恩はいたたまれなさに再び深く伏せる。

 鶴黄だけが一人ひようひようとその様子を眺めていた。騒ぎ立てている者が誰なのか確かめるように、その顔を順に受験生たちへと向けていく。

 気付けば鶴黄に見つめられた受験生たちは、いつしか自然とその口を閉じていた。老翁の奇妙な存在感に、室内は水を打ったようにしんと静まり返る。

「この国の万象を整えるのがわしの役目だ。其方達は何一つ案じる必要はないよ」

 ぐるりと部屋の中を見回した鶴黄の顔が、莉恩の上でぴたりと止まる。

「其方にはぜひとも、この国の一助となってもらいたいものだな」

 もう誰も莉恩を悪く言う者はいなかった。静まり返った部屋のなかで莉恩ができたのは、ただ深々と首肯することだけだ。

 そしてこれが、この年の面接試験の全てとなった。

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