第二章 明暗を分かつ一筆 三


遠方り渡り鳥しようらいし せつげつこうの兆しを知る

水面みなもに映る白翼の色を観れば ほうゆうの黒髪の変わりくを想ふ

霜柱の抱擁 平安のじんそくに満ち

淡雪の酒交 歓笑に夜は更け

こうはかなさ 別れの訪れを告げる

我之久しくとどまらずを知らず

故にまた( )別離の地をあそ


 これを意訳すると次の内容になる。

 遠方から渡り鳥が飛来し、間もなく雪の降る季節だと気付く。白い鳥の羽が水面に映るのを見て、君の黒髪も変わったのだろうかと思う。霜柱の時季に抱擁し、互いの無事を喜び合おう。淡雪を見て酒を飲み交わし、笑い声は夜遅くまで続く。日の光を受けて空は輝き、別れの時が近いことを知らせる……。

 最後の二行については即座に解釈することができなかった。なぜならここで文中に初めて、『我』という主語が現れるからだ。私信においては通常、『我』の文字の直後に隠し文字がある。ここに隠された筆者の本心に配慮しつつ、空欄に入る適切な文字を考えなければならない。

 設問は至って簡潔なものであった。最後の一行に置かれた空欄には主語に当たる単語が入る。ここで問題なのは楷字の文法規則で、同一の主語が連続する場合は記述の重複を避け、再出の主語の表記を省略しなければならない。ここに設問が置かれているということは、行動を取るのは『我』以外の人物ということになる。そして作中に登場する人物は二人しかいない。入れられる単語はおのずと相手を示す『君』となり、最後の一行は『だからまた君は旅に出る』と訳すことができる。そこに違和感なく直前の一文が続くためには、隠し文字に「心残りに思う」ことを意味する楷字『愁』を当て、『私は君が長居できないことを知り残念に思う』と読み解く。これで最後の二行は不都合なく意味が通る。

 しかしそうすると、今度は前半部分に書かれている情報と不整合が生じてしまうのだ。

 まず『渡り鳥』と『白翼』の二語から、これがゆきつばめを指していることがわかる。杏王朝が本格的に冬を迎える十月下旬から十一月にかけて一斉に翠国へ飛来する雪燕は、翠国に冬の訪れを知らせる代名詞として有名だ。

 次に『雪月の候』は、一般的に十一月を指す。王都で初雪が降るのがその時季だからだ。これは慣例的な挨拶として広く使用される言葉だが、今回は文官試験の問題なので問われているのはもっと専門的な知識だろう。上級者向けの書簡文の規則を適用するならば、筆者が今現在いる場所の初雪の時季を示していることになる。

 これまでの文の取り交わしから、二人の郷里は第三りようはんと判断できた。文中にはへきわんを中心とした港町の情景や、河川航行により杏王朝へ向かってずいろうたいじようする貿易船の描写が度々登場している。

 第三亮藩は翠国最大の港湾貿易都市として有名だ。国の南西に位置しており、国内でも比較的暖かい。飛来する雪燕の数は少なく、初雪の記録は一月が最も多い。これらの情報から、『我』が第三亮藩にいることは非常に考えにくい。

 そこで次に、『我』が旅に出た人物であるとして解釈を進めてみる。

 旅に出た人物は郷里の第三亮藩を出立して北上し、第二亮藩へ入った。翠国の土地は神山のすそが東西に広がり、それ以上は北上することができない。そのため旅の主はそこから街道に沿って東に向かい、第一亮藩へ。そこからさらに東へ歩みを進めて現在は隣の第六亮藩に至っていると考えられた。直前のふみでも第六亮藩の特産品であるがいの美しさについて触れられていることからも間違いないだろう。ここまでは提示された情報とも一致している。

 すると『我』のあとに当てられる隠し文字は、「当然そうなる」ことを意味する楷字『必』だろうか。『私が長居しないことを当然知っているだろう』と読み解き、最後の一行を『だからまた私は旅に出る』と訳すと自然だ。そしてこれは旅に出ている人物の心情ともぴたりと重なる。これらの情報を勘案しても、やはり文の書き手は旅に出ている側の人物と考えるのが妥当だろう。

 だがそうすると、今度は最後の空欄を埋める文字がなくなってしまう。これではいつまでたっても堂々巡りだ。

 何か、重要な情報を見落としているのではいないだろうか──。冷たい汗がゆっくりと莉恩の背中を流れ落ちていく。そのあまりに生々しい感覚に、筆を持つ手がかすかに震えた。危うく墨を紙に落としかけ、慌てて筆を硯に戻す。墨の滴下は書処において大きな失態だ。

 莉恩はひざのうえに両手を揃えて置くと、心を落ち着けるため目を閉じた。二次試験の合格条件は全問正解すること、ただその一点だ。さいな失敗も許されない。

 ゆっくりと深呼吸を繰り返すうち、莉恩の思考は徐々にめいりようになってきた。すると試験開始前に試験官が話していた言葉も徐々によみがえってくる。

 彼はまず、合否判定について「全問正解であること」と断言した。次に二次試験終了後の合格者の段取りについて述べ、最後に今回の試験の流れについて説明を行っている。

 りりーんと長く、試験終了の半刻前であることを知らせる鈴の音が涼やかに鳴り響いた。莉恩はそこで一つの確信を胸に、閉じていた目をゆっくりと開く。

 もし全問正解が合格の条件であるならば、ここは空欄とすべきだ。

 そこで莉恩は覚悟を決め、解答用紙全体に目を通す。問題文を通して見るとさらに確信は深まった。やはり空欄を埋めるべき言葉はない。莉恩は唇を引き結ぶと席を立った。まだ解答用紙に向かっている他の受験生達の席の合間を縫い、別室へと続く扉へと向かう。

 重い扉を押し開きそこを通り抜けると、直後に背後で扉の閉まる重い音が上がった。


 そこは、思っていたよりも薄暗い場所だった。先ほどいた受験会場が日当たりの良い部屋だったので、落差はなおさらだ。

 目が慣れてくると、そこが窓のない廊下であることに気付いた。細く長くどこまでも続く狭い廊下が、まるで先行きの見えない自分の人生のように思えて莉恩の足をひるませる。

 廊下の右側には等間隔に扉が並んでいた。廊下の奥にも試験官が一人いることに、そこでようやく莉恩は気付く。彼は莉恩と目が合うと、無言で廊下に並ぶ扉の一つを示した。そこで解答用紙を提出せよ、という意味なのだろう。

 莉恩はまだ墨の乾ききっていない解答用紙に気を付けつつ、軽く二回扉をたたいた。

「入りなさい」

 部屋の中からくぐもった男の声が上がり、莉恩はおそるおそる扉を押し開く。そのとたん、正面の窓から差し込むまばゆい光が莉恩の目を強く刺した。逆光に辛うじて見えるのは、濃い色のしようを身にまとった男の輪郭だ。何度か目を瞬かせるうち、ようやく莉恩の目が試験官の姿をはっきりととらえる。

 男は机の上にひじを突き、組み合わせた両手の上にあごを乗せていた。文官らしくせた体つきに、ずいぶんと血色の悪い青白い顔をしている。その割に一重の目は鋭く光り、くように真っ直ぐに莉恩を見ていた。

 それは先ほど、前方の演壇に登って開始のあいさつをしたあの男だ。莉恩は思わず息をむ。面と向かうと、彼の放つ威圧はなお一層すごみを増して感じられた。

「解答用紙をこちらへ」

 吐き出されたのはじんの愛想もない声で、伸ばされた男の手をぼんやりと眺めた莉恩は、その意味に気付き慌てて解答用紙を差し出す。彼は必要最低限の動きでもってそれを受け取ると、莉恩の書き記した解答に目を通し始めた。

 彼の表情からは一切の感情が読み取れず、呼吸もしていないのではないかと思えるほどに生気がない。唯一漆黒の瞳だけが鈍い光をたたえ、紙の上の文字を追って動いていた。むさぼるように解答用紙を見つめるその瞳はまるで獲物を狙う蛇のようだ。

 解答用紙の最後の設問に目を落とした所で、男が動きを止める。彼は蛇が鎌首を持ち上げるように、ひどくだるげな仕草でその顔を莉恩へ向けた。

「最後の解答が未記入なのは、何故だね」

 試験官に射るような目で見られ、あまりの眼光の鋭さに莉恩はついたじろいだ。しかし必死に緊張を押し隠し、細心の注意を払って口を開く。

「最後の設問ですが、本試験において全ての空欄を埋めるようには指示されていません。よって、空欄も解答のひとつと解釈しました」

 もつれる舌でやっと答えた言葉の最後は、消え入りそうなほどに小さくなった。もしかしたら試験官には、あまりにか細い莉恩の声が届かなかったのだろうか。無言のまま、また紙面に目を落としてしまう。その沈黙が莉恩にはとてつもなく長く感じられた。緊張感に押しつぶされてしまいそうになる気持ちを抑え、着物のそでぐちを強く握り締める。

 てのひらがひどく熱かった。

「なるほど」

 しばらくしてつぶやかれた試験官の言葉に、莉恩の全身には緊張が走る。

「ここを空欄としたのは、わたしの担当では今のところ其方そなたが二人目だ」

 抑揚のない声で淡々と告げられる言葉からは、試験官の真意が一切読み取れない。不正解、という意味なのだろうか。だとしたら莉恩は、国議の定めた縁談に応じなければならない。

 息を吞みじっと言葉の続きを待つ莉恩の前で、試験官は音もなく机の上に莉恩の解答用紙を置いた。そうして莉恩が部屋に入って来た時と同様に、組んだ手の上に顎を乗せる。

 男の唇の両端が、ほんの微かに引き上げられたのはその時だった。

「正解だよ」

「……え?」

「正解だと言ったんだ。他の箇所についてもざっと目を通した程度だが、問題ないだろう。正式には今夜通達するが、私の所見では合格だ」

 何を言われたのかすぐには理解が及ばなかった。試験官の口から発せられた言葉の意味を理解するのに、優に三拍分の時が掛かる。

「……合格?」

 のどがからからに乾いて舌がうまく動かない。しかしぼうぜんとする莉恩に、試験官は一切の気遣いを見せてはくれなかった。抑揚のない声が、ただ事務的に淡々と用件だけを伝える。

「今回の試験は、この箇所についてどのように解答するかが何よりのかなめであった。其方は我々が十分に満足する解答を述べている」

 何か言わなければと思うのに、状況に頭が追い付かず言葉が見つからない。その場に立ち尽くしたままの莉恩に、試験官はあの蛇のような無感情な目でいちべつをくれた。

「もう退出していいぞ」

 無愛想に投げつけられたその一言に莉恩ができたのは、ただぎこちなく一礼することだけだ。なんとか粗相のないように部屋を出たところまでは覚えているが、不思議なことにその後の記憶の一切がない。気が付くと莉恩は宿に戻っていた。

 そしてその夜、莉恩の元に二次試験の合格を告げる使者がやって来た。


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