第二章 明暗を分かつ一筆 二
五日後、莉恩は二次選考の会場を訪れていた。一次選考の結果が出た翌日のことだ。
前日会場前の掲示板に張り出された一次試験通過者の中に自分の名前があるのを見た時は信じられない気持ちだったが、何度確認してもそれは間違いではなかった。
二次試験の会場に集まった受験生の数は一次試験の十分の一ほどに減り、会場の規模もかなり縮小されている。既に席に着いていた受験生らの横顔にも、一次試験のときのような浮き足立った気配はなく、誰もが皆落ち着いた様子でこれから始まる試験に向け意識を集中させていた。莉恩に対し露骨な態度を取る者もおらず、指定されていた席もすんなりと見つかった。
着座したところで、莉恩の目がなぜか前方に引き寄せられる。そこにあったのは居並ぶ受験生たちの中でも、一際体格の良い男の背中だった。
座った状態でもわかるほどに背が高い。
しかし何よりも莉恩の目を
──りん。
そのとき、定刻になったことを知らせる涼やかな鈴の音が打ち鳴らされた。同時に会場前方の演壇に試験官が姿を現す。受験生たちが一斉に居住まいを正すなか、莉恩も意識を演壇へと向けた。
登壇した試験官はずいぶんと目つきの悪い男だった。決して大柄ではないが、妙な威圧感がある。黒い衣裳の
「諸君らは一次選考を通過した実力ある者達である」
低いがよく通る、張りのある声が会場の隅々まで響き渡る。誰もが
「しかし二次試験は、さらに難しいと心得よ」
試験官の挑むような鋭い
「これから行う試験だが」
試験官の声を合図にして、他の試験官が受験生へ小冊子を配りはじめる。
「合否の判定は全問正解であること、その一点のみである。結果は本日中に通知され、合格者は明朝三次試験の面接試験会場へ呼び出されるので、そのまま王都に
男が右手で指示した方向、莉恩から見て左前方に別室へと続く重厚な扉があった。その扉の両側にも二人、同じく後ろ手で直立する試験官が立っている。
「では、これより二次試験を開始する」
すべての受験生のもとに冊子が行き渡ったことを確認したところで、試験官の鋭い一声が響いた。同時に会場には受験生が小冊子を一斉に開く乾いた紙の音が響き渡る。莉恩も息を整え手元の冊子へ手を伸ばした。冊子は全部で三十頁程あり、その全てが楷字で記載されている。所々が空欄となっており、適宜適切な文字を書き込むよう指示されていた。
翠国の人間が楷字のみで書かれた文章を読み解くためには、その文字を一度翠国の言葉に書き下してから意訳する必要がある。この言葉の読み替えをどれだけ早く行えるかが二次試験の
問題文の文字量に対して設けられた制限時間を考えると、書き下し文を紙に書き出していては時間が足らない。ということは、ある程度の速度をもって頭の中で楷字を翻訳できる能力がなければ、全ての解答を行うことはできないということだ。
問題文をざっと見たところ、内容は旧友同士が交わす文の形式を取っていた。一人は翠国内を遍歴しており、もう一人は事情があって郷里を離れることができずにいる。
設問は二人の人物の近況報告の体裁を取って多種多様な情報が実に多彩にちりばめられていた。翠国各地の地名から始まり、地方特有の天候や時候の
受験生にとってはこの時点で既に多すぎるほどの情報量だ。だが更に厄介なことに、
隠し文字とは、
莉恩は慎重に解答を進める。本文中の空欄を埋めるためには幅広い知識に加え、前後の文脈を読み取る能力も必要だ。これまでに読み込んだ書物の知識を総動員しても追い付けそうにない。
──りん。
気付けば試験開始から一刻が過ぎたことを知らせる鈴が会場内に鳴り響いていた。その涼やかな音色に反し、莉恩の内心は穏やかではない。手元の冊子は半分ほど解答を終えたところで、順調とはいえない
──りん、りん。
二刻が過ぎたことを知らせる鈴の音が鳴り、莉恩は思わずはっとして顔を上げた。一刻を知らせる鈴の音からほんの一瞬しか経っていない気がする。しかしそれだけ集中していたのだろう、この時点で全体の三分の二まで解答は進んでいた。おおよそ予定していた通りの進捗状況だ。ここからあと一刻のうちに全ての解答を終えなければならない。莉恩は改めて気を引き締め、墨を筆先に取り直す。
そのとき、前方の席で誰かが席を立つ気配があった。
あまりの緊張に気分を悪くしたのだろうか。視線は紙面に落としたままに、莉恩はその気配を追う。しかしその人物がしっかりとした足取りで別室へ続く扉へ向かっていることに気付き、思わず筆を持つ手を止めた。
何かの間違いではないだろうか。あまりの衝撃に、莉恩の集中力はそこで途切れる。思わず顔を上げると、莉恩の目に映ったのは今まさに別室へと続く扉を通り抜けようとする男の後ろ姿だった。
随分と背が高い。扉の上枠に頭が当たりそうなほどの背丈がある。それは先程莉恩が目を留めた、あの一人だけ雰囲気の違う男の背だった。
吸い込まれるようにして男の背が扉の先へ消えていく。音もなく扉が閉じられると、会場内には静寂が満ちた。その瞬間、莉恩の背筋に悪寒にも似た震えが走る。まさか彼はこの短時間でもう解答を終えたというのだろうか。
筆を持ったままだったことを思い出し、莉恩は慌てて筆を
しばらくして徐々に別室へ消えて行く人の気配が増え始めた頃、莉恩はようやく最後の設問へ辿り着くことができていた。旧友二人が再会することになったという趣旨の文だ。これならなんとか時間内に解答を終えられそうだと気が緩みかけたところで、莉恩の手が止まる。
最後の空欄を埋めるべき文字が、見つからなかったからだ。
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