第二章 明暗を分かつ一筆 一

 五月、すいかずらが長くつたを伸ばしその先端で白くれんな花がかぐわしい香りを放つ季節。莉恩は文官登用試験のため翠国の王都である第一りようはんあんかくを訪れていた。

 翠国には六つの藩があり、各藩の中心市街地には行政の中枢機能が集約された「しゆかく」とよばれる行政区画が置かれている。とりわけ安郭区は翠国随一の繁華街として有名だ。

 文官登用試験は安郭区の中心市街地からやや南東に移動した場所にある、国営施設のうちのひとつで執り行われることになっていた。

 試験の開始時刻にはまだ余裕があったが、莉恩が到着した頃には既に会場の半分以上の席が埋まっていた。そのうえ会場内は肌を針で刺すような緊張感で満ちている。息をすることすらはばかられるその重苦しさに耐えつつ、莉恩はあらかじめ指定されていた席についた。

 そんな莉恩に、近くの席の数人が鋭い目を向ける。ある程度覚悟していたことではあったが、居心地の悪さに莉恩はそっと顔を伏せた。

 文官は翠国内で最も待遇の良い職業だ。多額のほうろくと安定した生活を約束された文官を目指す者は増え続けているが、比例して登用試験の難易度は年々上がっている。

 そのうえ先々代の王の時代に、女性の文官登用制度が始まった。男女平等を推し進めたい国の意向とは裏腹に、一部ではいまだ根強く女性官吏の存在に抵抗感を持つ者も多い。元より競争率の高い登用試験だが、女性の参入によってさらに倍率が上がったと勝手な主張をする者もいた。

 莉恩はそんな視線に耐えながら、持参した文房道具を卓上に並べ墨をる。そうしていると少しずつだが落ち着きを取り戻すことができた。

 文官登用試験はとにかく出題範囲が広い。国が文官の職務に必要と定める法律、歴史、地理、算術の知識に加え、翠国の史書を幅広く理解している必要があった。そのうえ過去に出題された問題は全て非公開となっており、課題の内容は毎年変わる。中でも一番の難関がしよしよと呼ばれる読み書きで、文官を目指す者はこの技術の習得に、最も多くの時間を割いた。書処院と呼ばれる専門の学習院があるほどだ。

 しかし莉恩は、これまで一度も書処院へ通ったことがない。

 代わりに莉恩は幼い頃からずっと、文官だった母が残してくれた数多くの書物を読み、母が書き記した文字を書写し続けてきた。それが幼い莉恩が唯一できる、母に想いをせる手段だったからだ。

 文官試験を前にして、莉恩は初めてそれが書処の技術だと知った。

 ──りん。

 涼やかな鈴の音が鳴り響き、続けて部屋の前方右手側にある扉から数人の男たちが会場へと入ってきた。

 試験官だろうか、皆揃って黒っぽいしようを身にまとっている。会場内は水を打ったように静まり返り、張りつめた緊張感がその場を満たした。先頭の一人が会場前方に据えられた演壇に登り、ほかの試験官たちは会場内へと散っていく。登壇したのはどこか眠そうな目をした男だった。「では」と物静かに告げた声はあまりにおっとりとしていて、思わずこちらの気が抜けてしまいそうなほどだ。

 しかしそれきり続く言葉はなく、しばらくの間が空く。何か問題が起こったのだろうかと、開始の指示を待つ受験生たちに次第に不安が広がり始めた。

 その頃合いを見計らったように、ようやく試験官の間延びした声が上がる。

「これよりめいらく三十八年度、翠国文官登用試験の一次選考を開始する。各々、準備をなさい」

 会場のあちこちからあんの息が漏れ聞こえ、受験生たちはあらかじめ手元に配られていた紙を一斉に開いた。紙質は最も安価ないねわら製で、縦の寸法は莉恩のひじから掌まで、横幅は莉恩が両手を広げた長さほどある。丸まった紙面を軽くでて広げれば、薄い土色をした紙はざらりとした手触りをしていた。

 莉恩は隣の席の者の邪魔にならないよう左端をれいに丸め、紙の右端に文鎮を載せると筆を手に取る。ここまでの所作は、会場内の受験生たち全員があらかじめ申し合わせていたかのように、皆一律に揃っていた。

「それではまず一行目。さん下った箇所より、各々の地籍と名を一行のうちにかいで書き記すように」

 そのとき会場内を満たしたのは、なんとも表現しがたいどよめきだった。

 ──全く、冒頭から気が抜けない。

 莉恩はその言葉に気を引き締めつつ、筆先に墨を取る。試験官はいま、その一言のうちに三つの設問を含めたのだ。

 まず、三紙下るとは書処の専門用語の一つを指す。今回の指示通りに記述するのであれば、紙の縦方向を正確に八等分した位置から三紙、即ち八分の三下げた位置に文頭の文字を配置する必要がある。

 翠国の文語文には元来、敬意を示す相手の名を文頭に置く技法と対をなし、けんそんの意を込め自身の名の字下げを行う習慣があった。これは身分の低い者が目上の者へ送る書簡文で使用される。

 また翠国の公文書において文頭の書き出し位置を正確に揃えることは、公的に記載された文書であることを示す重要な証左とされた。

 今回の指示通りに文字を記すのであれば、書き出し位置はかなり厳密でなければならない。普段から文字を書くことに慣れていなければ、この位置を見極めるのは相当に難しいだろう。

 そして地籍と名。翠国で家名を継ぐことが許されているのは王家のみで、一般国民は地籍と名を組み合わせて名乗るのが慣例だ。翠国の民であればみな戸籍を持っており、戸籍は地籍と呼ばれる居住地とひもづけられている。これにより国は、誰がいつどこに住んでいるのか把握していた。地籍は藩、府、郷の順に細分化されていくが、試験官の指示通りに記すとすればその文字数はおよそ二十字あまりとなる。

 一番の問題は、それを全て楷字で書くことにあった。楷字とは、隣国のきよう王朝から輸入された文字を指す。

 元より翠国内で使用されていた文字をせいと呼ぶ。まるでこの国の国民性を表すような流麗で繊細な筆遣いのその字体は、一字に一音を当てる表音文字でもある。

 一方で、千三百年程前に隣国の杏王朝から輸入された文字を楷字と呼ぶ。こちらは表意文字で、縦横比率の等しいその一文字の中に意味を持つ。古来の翠国民にそれは、さぞかし奇妙な記号に見えたことだろう。

 そのため翠国では当初、楷字を国の重要な機密情報の秘匿のために使用した。しかし時代が下ると楷字は徐々に文官の間に広まり、やがて文官にとって重要な教養の一つとなった。

 文官は楷字を知っていて当たり前という風潮が一般化されると、翠国の公的文書の記録は全て楷字で管理されるようになる。ちようめんな性格と評される翠国人にとって、体裁を整える目的もあったのだろう。だが同時にそれは、楷字を正しく扱えるだけの教養を持った者が記したという証明にもなる。つまり楷字を正しく読み書きできることが、翠国の文官であることの大前提なのだ。

「そして三行改行してのち、各解答を五行以内に収まるよう簡潔に書き記すように」

 会場のあちらこちらで受験生たちが頭を抱えた。三紙下った箇所からの書き出し位置を決めかねていた者たちだろう。彼らには試験官の次の言葉が早すぎたのだ。莉恩はこの時既に指示通りに楷字を書き終わり、試験官の次の言葉を待っている状態であった。

「なお、問題は二度繰り返す。それ以上は言わず質問も受け付けないため、子細聞き漏らすことのないように」

 会場内の受験生のうち約半数がその言葉に姿勢を正し、残りの者は今にも泣き出しそうな顔をして紙面に張り付いている。これが噂に聞く文官試験なのだ。試験官が最初の問題文を読み上げた時、莉恩の意識は筆先の一点に集中していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る