第一章 茜空の蝶 二

「お母様、おぐしを結って」

 思い出すのは、莉恩の髪をいてくれる母の優しい手つきだ。

 鏡台のまえにちょこんと座った莉恩を見て、母はあらあらと朗らかな声を上げる。

「髪は簡単に結ったりしないのよ。ほら、莉恩の髪はこんなにれいなんだもの。このまま背中に流しておいたら」

「お髪を結うのは特別な時だけなんでしょう?」

「そうよ。結婚する時やどうしてもかなえたいお願いごとがある時にだけ、髪は結うものなの」

「知ってる、だから……」

 莉恩はそこで頰を赤らめる。

「私、漣壽のお嫁さんになりたいの……」

「あら、莉恩」

 鏡のなかの母は軽やかな声とともに莉恩へ向けて、陽だまりのように柔らかな笑みを浮かべた。

「……それなら」

 母は鏡台に置かれていたくしを手に取ると、莉恩の髪を梳きはじめる。器用な母が手を動かすたびに絹糸のように繊細な莉恩の髪はほぐれ、さらさらと水が流れる時のような心地のよい音とともにつやを増した。

 母は莉恩の左耳の後ろから髪を一房取り分け、その一房をさらに五等分する。五等分は神がこの大陸に据えた五つの国を意味した。五房の髪が交互に編み込まれていく。鏡越しに眺める母の手つきは規則正しく、その心地よさに身を任せ莉恩は軽く目を閉じた。

「ほら莉恩、できたわよ」

 耳元で母に声をかけられ、莉恩はゆっくりと目を開く。鏡の向こう側で、見慣れない髪型をした莉恩に母が微笑みかけていた。莉恩はそっと自分の頭へ手を触れてみる。耳の後ろ側から編み込まれた髪が左右にそれぞれ三束ずつ伸びて、それが後頭部の高い位置でひとつにまとめられている。細やかな目はまるで蛇のうろこのように美しかった。

 かつていにしえの創陸の時代、神が人の前に姿を現すときかりめに蛇の姿を取ったという。そんな言い伝えから、いまでも翠国では蛇が神聖視されていた。『願い結い』と呼ばれるこの髪結いの手法は、そんな神へのけいの念の表れだ。

 鏡の中の自分の姿に見入る莉恩に微笑みかけた母が、櫛を鏡台へ戻す。

 その時、表玄関の戸口が強く叩かれた。その激しい音に驚いた莉恩は思わず母へ身を寄せる。

「お客さまだから大丈夫よ」

 安心させるように軽く莉恩の肩を抱き締めた母は、ここで待っていてねと言い置いて玄関口へと向かって行った。

 莉恩は母に言われたとおりにしばらくじっと椅子に座っていたけれど、それきり母が戻ってくる気配はない。椅子から下ろした足を大きく揺らしているうちに、莉恩はどうしても母のことが気になり思いきって椅子から飛び降りた。

 母を訪ねる人は昔から多い。文官時代から付き合いのある人たちなのだという。大抵は何かのついでに立ち寄った客人で、母と茶を飲み世間話をして帰る。けれど時折、黒いしようをまとった男たちが訪問することがあった。そして決まってその後、母は数日家を空けるのだ。

 今日のお客様はどちらだろう。

 莉恩が玄関口のある廊下の角へ近付くと、男の話し声が漏れ聞こえてきた。そっと顔をのぞかせると、玄関口に黒い衣裳の男が二人立っている。どちらも険しい顔をしており、一人がなにか説得する様子でしきりに母に話しかけていた。向き合う母のたたずまいにも普段の穏やかさはなく、男の言葉を拒むように何度も首を横に振っている。

 気になって物陰から身を乗り出した莉恩に、話をしていた男が気付いて口を閉じた。不自然に途切れた会話に目だけで問い掛けた母に対し、男は無言のままに視線で莉恩のいる方を示す。

「莉恩……」

 覗き見を𠮟られるのではないかと莉恩は思わず身をすくめたが、振り返った母のひとみにあったのはなぜか悲しみの色だった。しかし母はすぐさま取り繕ったような笑みを浮かべて見せる。

「もうお話は終わるから、向こうで待っていてくれる?」

「……また出かけるの?」

 たずねた莉恩の言葉に、母の笑みがかすかにこわる。返答までにほんの少し、何かを考えるような間があいた。

「そうよ、お仕事なの」

 莉恩はとっさに母に駆け寄ると、その足に強くすがりついた。

「絶対すぐに帰ってきてくれる?」

「やあね。どうしたの、急に。今までだってちゃんと帰ってきたでしょう?」

 必死に背伸びしてそう問いかけた莉恩の傍らに、母はひざをついた。莉恩の背中に手を回し、ぎゅっと小さな体を抱き締める。しばらくそうして身じろぎもせずにいた母は、聞き取れないほどに微かな声でささやいた。

「ええ。……必ず帰ってくるから、待っていてね」


 母が家を留守にして四日目のこと。莉恩はその日、かくの北側に位置する志峰山のふもとの丘を訪れていた。秋の始まりのこの時季にだけ羽化する綺麗なちようがいる。紫色の羽をしたその蝶を、莉恩は帰ってきた母に見せたいと思ったのだ。

 夢中で蝶を追いかけるうち、気付けば夕暮れ時になっていた。莉恩は丘の上から茜色に染まる街並みを一望する。国の行政区画として整備された賀郭区の街並みは景観が統一され、莉恩は自分の家がどこにあるのかすぐにわかった。家からゆうの支度をするかまどの煙が上がっている。

 母が家に戻ってきているのだ。莉恩は思わず喜びに顔を輝かせた。急いで家に帰ろう。家の玄関を開ければ、きっと母が笑顔で莉恩を出迎えてくれる。

 丘を駆け下り小石をよけて小さく飛び跳ねたところで、脇に提げていたむしかごがころんと軽い音を立てた。慌てて立ち止まった莉恩は、虫籠を引き寄せて中を見る。籠の中で、先ほど捕まえたばかりの蝶がゆっくりと羽を揺らめかせていた。莉恩はほっと胸をで下ろす。少しでも早くこの綺麗な蝶を母に見せたかった。

 しかし莉恩の表情は家に近付くにつれ徐々に曇り、軽やかだった足取りも次第に重くなる。自宅の前に見たこともない人垣ができていたからだ。莉恩は一度足を止め、上がった息を整える。その先にあるのは莉恩の家の玄関口で、そこでは母が莉恩を待ってくれているはずだった。

 早く母に会いたいのに、人垣に阻まれて気持ちがれる。莉恩は大人たちの足の合間を縫うようにして、家の玄関口に向かった。

「お父様……?」

 不意に視界が開けたところで、莉恩は思わず戸惑いの声を上げる。輪の中心に見えたのは、なぜか父の背中だったからだ。普段なら父はこの時間、まだ仕事をしているはずだ。それがどうしてこんなところにいるのだろう。

 父は人混みの中であっても、即座に莉恩の声を聞き分けたらしい。振り返った父は、莉恩がこれまでに見たこともないほど張り詰めた顔をしていた。

「莉恩、来るんじゃない!」

 張り上げられた父の声の大きさに、莉恩の足が反射的にすくむ。あまりの剣幕に周囲の人々が父へ目を向けた。父の視線の先にいるのが莉恩であることに気付き、人々の目には同情の色が浮かぶ。

 人波をかき分けるようにして、父が莉恩の元へ駆け寄ってきた。その合間に意味のわからない囁き声が、次々と莉恩の耳を刺す。

「殺された」「獣に襲われて」「ひどい」「なんてありさまだ」

 莉恩に向けて伸ばされる父の手が、ひどく緩慢に動いて見えた。西日が目にみてまぶしい。細めた目の端に見えたのは、路上に投げ出された花唐草の柄の着物だった。そこから土気色をした四肢が伸びている。

 まるで紙面に描かれた無彩色の絵を眺める時のように、自分の目に映るそれらの光景に実感が湧かず、莉恩はしばしぼうぜんとその場に立ち尽くした。

 山際から差し込む夕陽のあかねいろが、莉恩の眼前に広がる光景を濃い朱の色一色に染め上げている。

 莉恩が唯一認識できたのは、花唐草の模様が母の好んで着る着物の柄だということだけだった。

「……お母様?」

 ようやく届いた父の手が、莉恩の肩をつかむようにして強引に引き寄せる。そのまま莉恩の足は地を離れ、気付けば息もできないほど強く父の胸の中に抱きすくめられていた。

「……ねえ、お父様」

 閉ざされた視界のなか、息苦しさをこらえながら莉恩は必死に父の胸に向かって声を上げる。

「お母様はどうしたの?」

 流れるつるくさようを模した黄色の花柄は特徴的で、いつも間近で見ていた莉恩が見間違えるはずがない。けれど莉恩の記憶にある限り、母の着物は青磁色をしていたはずだ。

「莉恩、駄目だ」

 父は莉恩がそれまで聞いたこともないくらい苦しそうな声を漏らした。抱き締める腕の力が強すぎて、息もできない。

「お母様は……」

「──忘れろ」

 言いかけた莉恩の言葉を父が遮る。

 莉恩の手から、それまでずっと握り締めていた虫籠が滑り落ちた。ころりと乾いた音を立て、虫籠は地面の上を転がっていく。その勢いで籠の口が壊れて開いた。

 虫籠が最後に大きく跳ねて止まる。開いたままの口から、今日捕まえたばかりの蝶が微かにはねを震わせ顔を覗かせた。

 蝶が空を見上げる。広がるのは茜色に染まる山のりようせんだ。

「…………あっ」

 莉恩の口から声が漏れた。

 母に見せようと持ち帰った蝶だ。この蝶を見た母は、華やぐような満面の笑みを莉恩に見せてくれるはずだった。けれど、その母は──。

 蝶が翅を揺らめかせると、その体が宙に浮く。優雅な仕草で虫籠を離れた蝶は、茜色の空を目指しふわりと舞い上がった。

「待って……」

 莉恩はとっさに蝶へと手を伸ばす。しかし見る間に蝶の影は薄くなり、長く伸びた紫の尾が瞬く間に夕陽の色と混じり合った。やがて輪郭が茜色ににじんでいく。

 莉恩が伸ばした手は、二度と蝶に届くことはなかった──。


    *


 莉恩の目に映るのは、見慣れた自室の天井だ。

 父から縁談を告げられたその夜、莉恩は寝台に横たわったままいつまでも寝付けずにいた。

 ──お前が決めろ。

 父から告げられた一言が、繰り返しよみがえってはその度に莉恩の心を重くする。まるで薄い膜がまとわりつくように、体中に張り付いたけんたい感がいつまでもぬぐえない。

 莉恩は天井へ両手を伸ばし、描かれた花の絵柄を撫でるようにてのひらを上へと向けた。

 いま、莉恩の手には二つの人生が乗っている。一方の手にあるのは王家との縁談で、もう一方の手にあるのは文官としての道だ。どちらを選んでもへいたんな道ではない。けれど莉恩はいま、この手でどちらか一方を選ばなければならなかった。

 莉恩にはなんの力もない。この手で一体、何ができるというのだろうか。天井へ伸ばしていた手が、するりと力なく両脇へ滑り落ちる。

 莉恩はだるさを抱えたまま、ゆっくりと寝台から身を起こした。部屋の片隅に据えられた鏡台の前に座り、三面の扉を開く。それはかつて母が使っていたものだ。

 鏡に母とよく似た面立ちが映っている。けれどその顔に浮かぶのは憂いだけだ。母のあの、人目をく華やかさはじんもない。

 莉恩は鏡台に置かれていたくしを手に取ると、肩にかかる長い黒髪を一房取り分けた。さらにそれを五等分すると、慣れない手つきで編み込んでいく。あのとき母が、そうしてくれたように。

 どうしてもかなえたい願いがある時にだけ、『願い結い』は結うものだ。莉恩が願うことはただひとつ。この先自分が進むべき道を教えてほしかった。

 編み上がった髪の結び目の数を、莉恩は上から順に数えていく。目の数が奇数ならば縁談を、偶数ならば文官登用試験を受けると決めていた。

 最後のひとつを数え終わった莉恩は、そこでしばし手を止める。立ち上がった莉恩は寝台の脇にあるたんに近付くと、そこからたんの小箱を取り出した。


 翌朝。執務室へ現れた莉恩に、父は軽いいちべつを与えただけだった。莉恩も何も言わず父の座る書斎机へ歩み寄り、手にした物をそっと置く。黒の持ち手に金のはくしでゆきつばめの絵が施されたその筆は、母が文官時代に愛用していた品だ。

 筆を目にした父の顔に、感情らしい何かが浮かぶことはなかった。ただいつもの、あのしんと澄んだ静けさのままに、軽くひとつうなずきを返す。まるで「決めたのか」とでも言うように。

 莉恩が父と直接に言葉を交わすことはなかった。それでいい、と莉恩は思う。言葉で何かを伝えることは、きっと父も莉恩も得意ではない。

 父の執務室を出ると、廊下の窓の外にどこまでも高い秋晴れの空が広がっていた。澄んだ青の空に淡く散るうろこ雲を眺め、莉恩は握り締めた手を胸に押し当てる。


 文官登用試験まで、あと半年──。



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