第一章 茜空の蝶  一

それは、静かな晩秋の斜陽が窓から差し込む夕刻のことだった。

「えんだん……ですか」

 莉恩は父の言っている言葉の意味がわからず、戸惑った声でそう繰り返していた。自分で言葉にしてようやく気付く。えんだん、とはあの『縁談』のことか。

 莉恩はこの日、初めて父の執務室に足を踏み入れた。

 りようはんと呼ばれる翠国に置かれた六つの領地。そのうちのひとつ、第四亮藩の藩主を務める父のこうは、職場であるかくしや内に執務室として一室を与えられている。広い室内に据えられた調度品といえば、部屋の奥に置かれた簡素な書斎机だけで、父の座る椅子の背もたれには装飾のひとつも施されていない。藩主の執務室にしてはあまりにも殺風景なこの部屋が、かえって父らしいと莉恩は思う。父は、物にも家族にも固執しない。

 藩主という立場上、史晧は普段からあまり感情を表に出すことがなかった。だから莉恩は十五歳になった今でも、父との距離の取り方がよくわからずにいる。しかし今日の父は、莉恩がこの部屋に入ってきた時からひどく難しい顔をしていた。

 史晧が身に着けているのは、国の上級武官が正式な場でのみ着用するにびいろの官服だ。首元まできっちりと閉じられた襟に、流したすその末端に至るまでしわひとつない。上級官位の官吏の訪問を受けたのか、会議にでも出席していたのだろうか。いずれにしても見慣れぬ父の姿にいつも以上に近寄り難さを感じた莉恩は、部屋の中ほどまで進んだところでためらいがちに足を止めた。

 薄く長く、莉恩の小柄な体をかたどった細い影が床の上に延びている。会話はそれきりふつりと途絶え、所在なく立ち尽くす莉恩は、しばらくの間ぼんやりと自分の影を眺めていた。

 年が明ければ莉恩は十六歳になる。この国では「花盛り」とたとえられる年齢だ。その手の話があってもおかしくはない。しかし父はこれまで一度も、莉恩に対してそういった話題を口にしたことはなかった。

「その、お相手の方は……?」

 沈黙の息苦しさに耐えきれず、しばらくのしゆんじゆんの末に莉恩はおずおずと口を開く。父と直接に言葉を交わすのはいつ以来だろうか。記憶にないほど久方ぶりすぎて、気後れした莉恩の問いかけは自然と口の中でつぶやくようなめいりようなものになる。父のまゆが軽く寄せられたがそれすらもさいな動きでしかなく、それきり父の顔に感情らしい何かが浮かぶことはなかった。

 夕陽のだいだい一色に染め上げられた室内は、まるでこの部屋だけ世界から切り離されてしまったように静かだ。次第に室内には空白が広がり、その虚しさにみこまれそうになった莉恩は逃げるように自分のつま先へと視線を落とす。

 そこには色鮮やかなたんが咲いていた。

 薄黄の地に大きな紅の花のしゆうが映えるこのくつは、かつて母が愛用していたものだ。ようやく寸法が合うようになったものの、十五歳の莉恩が身に着けるにはまだ少し早すぎたかもしれない。自分には不釣り合いな大人びた色柄が余計に落ち着かず、莉恩はそっとつま先を持ち上げた。

 きっと父は、この沓が母ののこした品だということにも気づいていない。もしかしたら莉恩が自分の娘だということすら忘れてしまっているのではないだろうか。つま先を上げては下ろすを繰り返しながら、莉恩はぼんやりとそんなことを考える。

「縁談相手だが」

 静かな声が響き、莉恩は持ち上げていたつま先をそっと床へ下ろす。おそるおそる緋牡丹から顔を上げれば、しんと澄んだ冬の朝を思わせる父のそうぼうと正面からぶつかった。向けられた瞳の冷たさに、莉恩は無意識のうちに丸めていた背をそっと正す。

「第三王位継承者のじん様だ」

「……王位?」

 およそ自分の生活とはかけ離れた存在の名に、莉恩は即座に理解がおよばなかった。頭の中で何度もはんすうするうちに、その名が持つ意味の重さが徐々に身の内にみてくる。ひどい眩暈めまいを感じて目を落とせば、つま先で紅の花がぐらぐらと揺れていた。

 莉恩はやっとのことで言葉を返す。

「……お相手は王家の方なのですか?」

「そうだ」

「だとしたら翠国の、国議の許可が必要ですよね……?」

 またも「そうだ」と返答を重ねられ、莉恩はそれきり言葉を見失う。淡々とした父の物言いは、実の娘に対して向けるにしてはあまりにも無情だ。

 翠国の仕組み上、王族が自分の意思で縁談相手を決めることができないことは、世間知らずな莉恩でもさすがに知っている。王位継承者の公私の全てを、国議と呼ばれる議会が取り決めていることも。その相手がなぜ、莉恩なのだろうか。疑問は胸中に募るばかりで、莉恩はすがるようにして父を見る。

さい武官長より国議に提案があり、可決された」

 けれど莉恩がその目に込めた思いは、父に顧みられることはなかった。


 大陸の東に位置する翠国は、現存する三つの国家のうち唯一王制の形態を取っていない。国を動かしているのは国議で、正式名称を「すいこくさいこうかんかく」という。参加できるのは翠国官吏の上位二官位に当たるいつじゆんいつで、莉恩の父の史晧もその一人だ。史晧は第四亮藩の藩主であるとともに、準一師士の官位を持つ武官でもあった。

 翠国が王政を敷いていない理由は、そうりくと呼ばれる神話の時代にまでさかのぼる。かつて神はこんとんに満ちたこの世界からひとつの大きな大陸を創造し、その礎として東西南北と中央に五座の神山を据えた。山のふもとに五国を定め、五人の従者にそれぞれの国を任せている。大陸の東に位置するこの国を預かったのが初代翠国王であるすいほういんだ。初代翠王は、王という一人の人間が国の全てを掌握することを憂慮し、複数の人間が協議して政を行うよう律令を整えた。

 古来の慣習に従い、現在の翠国において王とは神に代わって翠国を預かる〈だいしんのう〉という神職を指す。即位した時点で王は神の代理人と見なされるため、人としての「個」の一切をはくだつされる。当然、国を動かす裁量もそこにはない。

 つまり、この縁談は翠国上級官吏の多数決によって承認されたものなのだ。決まったからには藩主である史晧もそれを覆すことはできず、ましてや莉恩のような一個人には否を唱える権利すらない。

 秋の斜陽特有の静寂が、ふたたび部屋の中に落ちた。一度は高まった莉恩の感情のたかぶりも、その静けさになだめられるようにして次第に収まってくる。

 あらかじめそれを見越していたかのように、父がそこで再び口を開いた。

「国議において、王位継承は何よりも重要な課題だ。王位に近い立場のがいせきほど国議では強い発言力を持つ。賀仁様はぼう殿下の第一子で、その母君は崔偉武官長のご息女のけいしん様だ」

 翠国で王は実権を持たないが、国の機能の一部として『王』の存在は必要だ。翠国で王位を継げるのは王家直系男子のみと法で定められており、王位継承の優先順位は王の長子、次いで長孫とされている。現翠国王には四人の子がおり、男子はそのうち第一子のこうさくと、第二子の普望だ。翠国王の在位は長く、二人の子息は既に三十代でそれぞれにきさきと子がいる。

 縁談相手の賀仁は、国王の孫であると同時に崔偉武官長の孫でもあるのだ。

「一方で第一王位継承者の晃朔殿下に嫁がれたのは、文官長のそうかん殿のご息女であるしようしよう様だ。祥昌様は三人のご息女を生み、数年前に亡くなられている。これにより国議は一時期、文官長派と武官長派に大きく分かれたが、近年では二人の男の御子をもうけた惠眞様の功績をたたえる声が高まり、武官長派が主導権を握りつつある」

 そこで父は、言いにくいことを口にするとき特有の重苦しさで深く息を吐く。

「だからこそ、莉恩。お前が縁談相手として選ばれたのだ」

 その時ばさりと、大きな羽音が外で上がった。烏だろうか、黒い影が窓の向こう側を横切っていく。その黒翼に西日が遮られ、父の横顔に憂いとも迷いともつかない濃いかげりを落とした。

 そこでようやく莉恩は気付く。

 武官長は翠国武官を取り仕切る最高位の人物で、藩主である父の直属の上官に当たる。ここで莉恩が王家へ嫁げば武官派の外戚はまた一人増え、父は武官長と縁戚関係を結ぶことができる。

 そのうえ莉恩の母は、翠国史上初の女性文官として名をせた人物だ。

 十八歳で文官登用試験に合格し、そのたぐいまれな才覚で翠国の官僚制度に大きな影響を与えたと公的記録にある。母の名声は今でも衰えておらず、娘の莉恩が輿こしれすれば外聞的には申し分ない演出となるだろう。そのうえ運よくことが運び男児が生まれれば、武官長派は思惑通り国議内でさらなる権力を振るうことができる。

 唐突に背負わされた重荷に重圧を感じ、莉恩は父の視線から逃げるようにして顔を伏せた。震える肩から長い髪が流れ落ち、莉恩の顔を覆い隠す。見下ろした先で、沓の先に咲いた紅の花の輪郭が次第にぼんやりとにじみ始めた。

 莉恩はただ願うことしかできなかった。望まぬ縁談を受け入れなければならない娘の気持ちの、ほんの一片でも父がんでくれたなら。霜が結ぶほどに凍てついたその声音に、ほんのわずかでもぬくもりを感じさせてくれたなら。そうしたら莉恩のこの胸の痛みも、少しは和らいだだろうか。

「莉恩、顔を上げなさい」

 莉恩はその言葉に、ぎゅっと強く唇をみ締める。牡丹の花弁を一枚ずつぎ取られていくような喪失感を覚えつつ、緩慢にそのおもてを持ち上げた。

 窓の形に切り抜かれた夕陽の色が、床の上に等間隔に並んでいる。その色はこれまでに見たこともないほどに澄んで美しく、莉恩にはその光の向こう側にいる父がはるか遠く彼方かなたの存在に感じられた。

 これが、政略結婚なのだ。

 父と真正面から目が合った。次に言うべき言葉を吐き出すため、父の口がゆっくりと開かれる。けれど莉恩は続く言葉を聞きたくなくて、それよりも早く自分の頰を無理矢理に笑みの形へと引き上げた。

「国が私を望まれたのでしたら……」

 その言葉に、父が静かに目を見張る。何か言いたげに薄く開かれた唇は、しかし何も言わないままに再び固く引き結ばれてしまった。その時父のそうぼうに浮かんだのは、なぜか今日の夕陽と同じくらいに切ない色をしたれんびんだった。それは父が今まで莉恩に一度も見せたことのない、素の表情だったのではないだろうか。莉恩はその顔を、きっとこの先ずっと忘れないだろう。かい見えた父の表情はそれほどまでに強く莉恩の胸をいた。

 机の上で組み合わされた父の手の右の人さし指の先が、何か考えを巡らせるようにしばらくの間、とんとんと軽くもう一方の手の甲をたたいていた。

 微かに向けただけの莉恩の視線に、武官である父はすぐに気付いたのだろう。指先の動きがそこでふと止まる。父は自身の胸の内にある迷いを振り払うように、ごく軽くまぶたを閉じた。けれど次に莉恩へその目が向けられた時、そこにあったのはいつものあのえたまなしだった。

「お前は、それでいいのか」

 何の感情も伴わないその言葉が、かえって莉恩の心を打ち据える。父の瞳に浮かぶ光は強く、反して口調はどこまでも平淡なものだった。莉恩は返事に窮して沈黙し、そうして父もそれきり口をつぐむ。その場にはただ、静寂だけが残った。

「莉恩」

 静かに名を呼ばれ、はい、と答えたはずの声が緊張にかすれて消える。父は束の間、組んだ自分の指先へと意識を向けた。おそらく、言葉を選んだのだろう。続く言葉を予想して莉恩はそっと覚悟を決める。

 しかし父から告げられたのは、思いもしない一言だった。

「文官になれ」

 莉恩の心臓は思わずぎゅっと強く締め上げられる。

「お父様、それは……」

「いいから聞きなさい」

 口にしかけた弁解の言葉を、父は強く遮った。言い訳が夕陽にまれてき消える。

 翠国の文官登用試験は毎年五月と決まっており、期日まではあと半年しかない。莉恩には母のような並外れた才覚もなく、そのうえ文官になるための勉強もこれまで真剣に取り組んだことはなかった。父の提案はあまりに無謀すぎる。

 しかし莉恩の動揺をよそに、父はいつもの通りの静けさで言葉を続けた。

「文官試験を受けると言えば、先方も納得してくれるだろう」

「それは……」

「ただし」

 莉恩の言葉を、父は即座にねつける。そこには有無を言わせぬ断固とした強さがあった。

「それを口実に縁談を断れるのは、一度きりだ」

「お父様……」

「なんだ?」

 明らかに拒む調子で言葉を返され、言いかけたままに莉恩は下を向く。足元のくつに咲いた紅の花に母の笑顔が重なった。最終的に上級官吏となった母は、人づてに聞く限り利発で明朗、ものじせず誰にでも意見を述べ、それでいて誰からも好かれる理想のさいえんだった。翠国の歴史に名を残した母に対する惜しみない賛辞は、幼い頃の莉恩の耳にも十分すぎるほどに届いている。

 だからこそ莉恩は、その一言を父に伝えなければならなかった。

「私に、文官は無理です」

 情けないことに、莉恩は幼い頃から見た目だけは母によく似ていると言われ続けてきた。けれど莉恩は、母のようにはなれない。周囲の期待にはこたえられないのだと、自分の価値をそう認めることは莉恩にとって何よりもつらいことだった。

「縁談を受け入れる方が楽、ということか……」

 まるで指の隙間から水がこぼれ落ちるように、父の声音から何かがするりと抜け落ちていく。莉恩はそのこぼれ落ちた何かを探すように床の上へと目を向けた。気付けば夕陽は山の向こう側へと傾き始めている。室内には次第に濃い翳りが落ち、色彩を失った床が本来の黒灰色をさらしていた。

 無言のままに席を立った父が、莉恩の立つ場所へ向かってゆっくりと歩いてくる。硬い床板を踏む父の沓底の、規則正しい音だけが室内に鳴り響いた。

 その足音が莉恩のすぐ脇で止まる。正面を向く父とうつむく莉恩とでは、視線が嚙み合わない。そのまま父は静かに告げた。

「すべてはお前次第だ、お前が決めろ」

 再び規則的な沓音が響く。直後に背後でぱたりと扉の閉まる乾いた音がして、莉恩は父の執務室に一人取り残された。

 誰もが莉恩のなかに母の姿を探そうとする。できることなら莉恩もその期待に応えたかった。けれど莉恩には母のような才能がない。その事実に、誰よりも無力さを感じているのは莉恩自身だ。

 母はなぜ文官になったのだろうか。莉恩の記憶のなかの母は、いつもあかねいろに染まっている──。

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