【受賞作試し読み】銀の蝶は密命を抱く 翠国文官伝/佐木真紘

佐木真紘/角川文庫 キャラクター文芸

序章

「この景色もしばらく見られなくなるな」

 ほうざんふもとの丘の上で、ささやくようにそう言ったのはれんじゆだ。

 丘へ登ろうと言い出したのは、おさなじみの漣壽だった。おんと漣壽は幼い頃からこの土地で育ってきた。眼下には整備された郷里の街並みが広がり、立ち並ぶ民家からはほの明るい光が漏れる。名残惜しそうにその景色を眺める漣壽の美しい横顔を、莉恩はとなりでそっと見つめた。

 漣壽の肌は白磁のように滑らかで、憂いを帯びた切れ長の目は月明かりを照らし深い黒紫色に輝いている。春先のまだ冷たい夜風が街から吹き上げ、漣壽の肩にかかる黒髪を巻き上げた。その拍子に右のの後ろから、そこだけ一筋白い色をした髪がのぞく。

 髪も瞳も黒色をした人たちの中で、生まれつき黒以外の色をした漣壽の髪色はとても珍しい。普段は人目につかないように隠しているので、そのことを知っているのは漣壽の家族以外では莉恩だけだ。

「……今日で最後ね」

 思いがけずねた子供のような言葉が莉恩の口から漏れた。漣壽と二人きりで話せるのは今夜が最後だというのに、そんなことしか言えない自分が嫌になる。言葉にしてからすぐに後悔して、莉恩はそれきり顔を上げることもできない。

 漣壽は明日郷里をつ。すいこくの武官養成学校であるこくいんへ進むのだ。それは漣壽がこの国の武官となる道を約束されたことを意味している。そんな漣壽の栄えある人生の一歩を、莉恩はどうしても手放しで喜ぶことができずにいた。

 明日から漣壽は莉恩の傍にいない。

 空は満天の星に彩られ、新月に近づいた細い三日月が淡い銀の輝きを放っていた。どこまでも広がる夜空を見上げてしまったら、きっと莉恩はこの土地に一人残されるさびしさと真正面から向き合わなければならない。行かないで、という一言を伝えられたら、何かが変わるだろうか。

 天を振り仰いだのだろう、漣壽が隣でかすかに身じろぎする気配があった。うつむく莉恩の耳に、今日の夜空と同じくらいに澄んだ漣壽の声が響く。

「そういえばどうしてわたしが武官を目指したのか、まだ話していなかったね」

「……漣壽のお父様もお兄様も、武官だからじゃないの?」

 莉恩がうつむいたままでそう問うと、漣壽が穏やかに「そうじゃないよ」と言葉を返す。その声には莉恩を思いやる優しさがにじんでいた。

「わたしが武官になろうと決めたのは、もう二度とあんな悲劇を起こしてはいけないと思ったからだ」

「それはもしかして、私のお母様の……?」

 予想外の言葉に胸をかれ、莉恩は思わず漣壽の顔を見た。莉恩がまだ幼い頃、莉恩の母はせいさんな死を遂げている。その一件は十分な調査もされないまま、不慮の事故として処理された。

 莉恩は胸に広がる鈍い痛みをなんとかこらえる。平気な振りをしたけれど、いまだに心の整理はついていなかった。

 そんな莉恩の胸の内を全部見透かしたように、漣壽が涼やかな切れ長の目の端を下げる。

「わたしはもう誰にも悲しい思いをしてほしくない。けれど今のわたしには、目の前にいるたった一人すら救う力がなくて、そのことがずっと悔しかった」

 伸ばされた漣壽の大きくて温かな手が、莉恩のてのひらを優しく握る。それはこれまでずっと莉恩の傍で、莉恩を支え続けてくれた手だった。そしてこれからは莉恩の元を離れ、翠国を守る手になる。

 夜風は冷たく、春の匂いはまだ遠い。静寂が満たす夜の中で重ねられた掌から伝わる優しい熱だけが、唯一莉恩の心を温めた。思わず泣いてしまいそうなつんとした痛みが鼻の奥を刺す。漣壽は自分の意思で自らの進むべき道を選んだのだ。それはどれほど勇気のいる決断だっただろう。

 ふと、幼い日に漣壽と見た一夜限りの幻想的な光景が鮮明によみがえる。

『ほら、莉恩のお母様が会いに来てくれたよ』

 漣壽の指先に、寄り添うようにらんりようが止まっていた。

 それは満月の晩にだけ姿を現すしよう種のちようだ。蜻蛉かげろうのように薄いはねに流線形のみやくが透けて見える。蝶が翅を震わせるたびにりんぷんが舞い散り、ほしくずきらめきを放ちながら夜の闇に溶けては消えていった……。

 誰かを想う気持ちは蝶となり、満月の夜にいとしい人のもとを訪れる。そう教えてくれたのは漣壽だ。その言葉は、あの時の莉恩にとって確かに生きる希望となった。

 見上げれば静寂に包まれた夜空に、で刷いたような星の帯が一条、はる彼方かなたの地平線まで延びている。空の端には微かに淡い光を放つ三日月が、ぽつんとひとつ浮かんでいた。あまりに頼りないその瞬きは、まるで今の莉恩の気持ちを映しているかのようだ。

 莉恩、と漣壽が優しく名を呼んだ。

「どうか壮健で」

 祈りにも似た囁きに、漣壽は一体どんな想いを込めたのだろう。彼は優しい。けれど決して、その場限りの気休めの言葉を口にしたりはしない人だ。いつ果たせるかもわからない再会の約束はしないと、最初から決めていたのだろう。

 莉恩が大切に想う人は、いつも莉恩の元を去って行ってしまう。伸ばした手が何もつかめなかった時のむなしさを知ってしまってから、莉恩は願うことをやめた。

 だから莉恩は、行かないでという一言をきつく胸の内に閉じ込める。きっとこの言葉を伝えても、漣壽の意思を変えることはできない。それどころか莉恩の淋しさが募るばかりだ。莉恩にできることはただその淋しさにじっと耐え、いつか漣壽が郷里へ戻ると信じて待つことだけ。それが莉恩にできる唯一の、そして最良の選択だった。

 ──この想いもいつかは蝶となって、愛しい人の元へ届くのだろうか。

 まるで莉恩の想いに呼応するように、夜空で星が瞬いた。


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