帰省 Ⅸ

 日記はそこで終わっていた。日記はまだ半分ほど残っていたが、すべて白紙だった。私はその後の出来事について、ザッと思い返してみる。


 あの日以降、なぜか、母さんではなく、父さんの方が異様な言動を繰り返すようになった。父さんと母さんは一緒の空間にいるだけでまったく他人みたいに振る舞うようになったし、父さんの私への当たりは厳しくなった。父さんはまるで空気みたいに無関心になったかと思えば、臆病な犬みたいに誰彼構わず怒鳴りつけることもあった。よくない兆候であることは子供心に直感していたが、かと言ってあの日の出来事を説明するのは憚られた。

 数日後、母さんと父さんは交通事故で死んだ。その日、なぜか突然、優しくなった父さんが、「みんなでドライブに行こう」と言ったので、それに着いて行った時の出来事だった。私たちの車は山道のカーブを曲がりきれず、崖に落下した。崖に落ちてすぐ車が爆破し、衝撃で私は事故当時のことをよく思い出すことができない。しかし、いまだ私の脳内に、ひとつの写真のように断片的な記憶が存在する。父さんは崖に落ちる直前、たしかに涙を流していた。

 それから私は爺ちゃんと婆ちゃんに引き取られ、両親が残した遺産もあり、一流の大学に入り、一流の企業に勤める事になる。辛いこともあったが、なんとかやって来れたのは死んだ父さんと母さんに代わって僕が頑張らなければいけないと思ったからだろう。大人になるにつれ、私は父さんや母さんの偉業をやっと正確に理解することができたと思う。父さんや母さんは私の誇りだ。私はふたりの顔を立てるためにも、しっかりしなければいけない。僕の存在はその事実によって担保されるし、また、誰にも汚されない確かな真実なのだ。


 その時だった。


ギシ…ギシ…ギシ…ギシ…


 一階奥、脱衣所。床を踏む音。

 私はその瞬間、全身の毛が、ゾワリと気持ち悪い風でも吹いたかのように逆立ち、脂汗が一斉に毛穴から吹き出した気がした。忘れていた数々のトラウマがリアルなその音によって思い出される。そう、まさしくその恐怖は、怪異が同じ屋根の下、すぐそこにあるという点なのだ。姿の見えていない、足音だけの存在。しかし実際にそこにいて、私はそれに向き合うことを余儀なくされている。

 私は決断しなければいけない。また幼い頃のように逃げ、隠れ、やり過ごすのか、怪異に対し正々堂々立ち受けるのか。私は…。


 その男はすでに前に見たような髭面ではなかった。痩せて、白髪が増え、髭は手入れされているが肌が傷ついているのであまり見栄えするような感じでもなかった。

「ひろと君」

 階段を上がってきた男は乾いた声で言った。

「久しぶりですね、不法侵入者さん」

 私はなるべく堂々と言ったつもりだったが、少し声が震えていた。「あぁ」と男は呻くような声を捻り出す。男はしばらくめぼしい反応を見せなかった。瞳がギラギラとひかる。そして、男は突然笑い出した。しゃくりあげるように「クックック」と腹の底から音が出ている。私は毅然と振る舞おうとしたが、それは毅然としているというよりも男の行為に怯え、動けなくなっているだけだった。

「すまない…俺は…」

 男は笑うのをやめて、俯きながら言う。

「真実を…話さなければいけない」

 俺は驚き、「真実って何のことだ?」と訊き返す。

「まあ、座ってくれないか。俺はひろと君に危害を加えたりは絶対にしない」

 それまであやふやな態度だった男は、その時だけはしっかりと私の眼を見据え、はっきりとそう言った。


 なぜその男を信用する気になれたのか、私には分からない。私はその男を嫌っていたはずなのだ。しかし、かつて私があの地下通路に降りた時、私が底に降りることが自分の使命だと感じたのと同様に、なぜだか今回もその男は信用できると思った。

「話は…ひろと君が生まれる前のことなんだ」

男は先ほどまで私が座っていた椅子に腰をかけている。私は男から距離を置くようにベッドに腰を下ろした。

「ひろと君の母さん、つまり夏子さんと俺は学生時代からの恋仲だった。そうだ、君は驚くだろう。しかし本当だ。信じるか信じないかはひろと君に任せる。俺が今から語る話は終始取り留めなく、証拠という証拠も、夏子さんが亡くなった今となっては証明する手立てがない。…それでも聞いてくれるか?…そうか。ありがたい。俺たちは学生からやがて社会人になった。夏子さんは立派なアナウンサーになったよ。俺とは大違いだ。俺は頭が悪かったからなぁ。俺は小さな中小企業に入社したよ。大手企業の末端で細々とおこぼれにありつくような隙間産業だった。だけど俺はやりがいを求めて奮闘したさ。何より夏子さんのために頑張れることが嬉しかったからな。……………。すまない、懐かしくて…。でも、それは長くは続かなかった。それは俺のせいでもあるし、他にも原因はあったのかもしれない。ある時、俺はあるプロジェクトにおいて、自社を代表し取引先の企業様のパーティーに呼ばれる事になった。そこにいたのが、ひろと君の父さん、つまり古谷隆だった。勿論彼は素晴らしい人間だったよ。彼は愛想が良く、頭脳明晰だった。良質な教育を受けてきた結果だろう。俺が初めて彼に会った時も、彼は笑顔で俺に微笑みかけ、俺も彼に気を許してしまった。崩壊への道はもう始まっていたんだ。ある時、彼に夏子を紹介したことがあったんだ。まあ、おそらくその時だったろうな、彼が夏子に惚れたのは。きっと彼の性格もあるだろう。あからさまに俺への態度が変わることはなかったが、たびたぶ夏子に贈り物をしたいと言い出すことがあった。俺も迂闊だったんだな、多分。取引先ということもあって強くは拒絶できなかった。俺にはたしかに夏子が俺を愛してくれているという実感はあったのに…。あの日は…雨が降っていた。暗い…重い…うるさい雨。つくづく俺は最低なやつだよ。不安…て言うと言い訳になるだろうな…。俺は夏子のことやひろと君の父さんのことで頭がいっぱいだった。そして忘れたくて酒に頼った。俺は酔っ払った頭で徐に運転し、そして見ず知らずの子どもを轢いてしまったんだ。そして、これも運命だろうな。「示談金は私が出します。だから…」偶然事故現場に遭遇した彼は俺を見てそう言った。彼が言いたいことは分かったよ。到底了承し難いことではあったけど、俺は馬鹿だからなぁ。情けなく首を縦に振っちまった。……。……あぁ……。弁解は…しようがないな。そしてその時にはもう…夏子の腹には子供がいたんだなぁ。……。その後のことは、まあ想像に任せるよ、いや、まあ概ね想像通りってことだ。あぁ、そう、この家のことだろ。それは俺も分からないんだ。あの通路が何のために作られたのか…。ん?いや、この家は中古だ。でも、俺が想像するに、あの通路はきっと『皺寄せ』なんだよ。表面だけ清潔に繕って、煩わしい物をすべてあのじめじめした場所に押し付けた、その『皺寄せ』だ。まあ、安心していいよ。おそらくもう、前の住人がどうのこうのってことはないだろうから」

男が口を閉じてしばらく何も言えなかった。頭の整理が追いつかなかった。私は朦朧とした頭で幾つか疑問点を尋ねる。彼の返答は以下の通り。まず、男の起こした事件は実際にあり、それは既に決着がついている。次に、なぜ私が通路に潜った日、爺ちゃんと婆ちゃんの家で目覚めたのか。これは男が自ら気絶した私を運んでくれたらしい。実は男は母さんとあの通路を介して私が生まれた後も交流しており、爺ちゃんと婆ちゃんに母さんを通して嘘をついていたらしい。

「最後の質問。」私は半ば泣きそうになりながら言った。

「なんだ?」

「父さんと母さんが死んだ理由。」私は喉の奥から声を捻り出して言った。

「……。そうだな。そりゃ、当然の質問だな。分かった。話そう。だけど、先に言っておく。俺は実はその件には殆ど関わってないんだ。だから…ひろと君が聞くことはすべて、君の父さんと、母さんの決断の結果という事になる」

彼は私を試しているようだった。私はズキズキと痛む頭を押さえながら頷く。

「この件は、説明しようと思えば、たいして入り組んだことでは無かったんだ。ひろと君の父さんは、あの日、ひろと君が通路に入った時に何かに勘付いてしまったんだろうな。夏子さんを執拗に問いただした。悪い事だとは言わないよ。元はと言えば、俺の問題でもあったんだ。俺があの時もっと毅然とした態度で彼を拒んでいれば…。あの時、俺が馬鹿みたいに酒に溺れていなければ…。しかし、それもこれもすべては過去だ。そして彼はついに一縷の可能性に辿り着く。つまり、夏子と俺、そしてひろと君、君の関係だよ。もう分かるだろ?あれは事故ではない。彼の一家心中事件だ。ひろと君が生き残ってよかった。本当は全員救いたかったけど、俺は結局ここでも馬鹿なままだったんだ」

男がすべてを話し終わった時、私はとてもまともでいられる気がしなかった。私はこれからどうすればいいのだろう?私の混乱は留まることを知らず、ぐわんぐわんと視界が揺れながら、世界が崩壊していった。私の家庭がそのような極めて不安定な物の上に辛うじて成り立っていた物だとは思わなかった。足音はその不安定さの皺寄せであり、また、さらなる崩壊への起爆剤でもあった。私を構成する私だけの特別さであったはずの地盤が崩れ落ちてゆく。私の家庭がいかに不安定な物であろうと、その刹那の狭間に育まれた私の根幹は今でもその刹那の瞬間に根ざしている。しかし…。私は…迷う。…決別の時…いや、…新たな扉を開ける時だ。突然、田村君の顔が浮かんだ。なぜこんな時に彼の顔が…。「雑種だよ、俺と同じ」。「血統書付きの馬鹿犬」。あははははは。僕は自然と笑っていた。溢れそうになる笑みを必死で抑えようと口を手で押さえる。僕はその手に冷たい水滴が伝うのを感じて、ハッと気づいた。僕は泣いていた。それは悲しみか、あるいは嬉しさか。おそらく両方だろう。過去への決別、感謝、そして薄汚れた泥にまみれる幸福……。

「ありがとう、とうさん」


私はついに帰るべき場所を見つけた。

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帰省 雲居晝馬 @314159265359

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