帰省Ⅷ

 「なに…これ」


 僕は目の前の物が現実の物とは思えなかった。白を基調とした床材、及び壁紙で構成される脱衣所に突如として現れた錆びた赤黒い鉄の空洞。そのコントラストに理解が追いつかない。僕がそこに何を予期していたのかは自分でも分からないが、実際に相対した現実はその予測とはまったく異なるものであったことは間違いない。

 身を乗り出して、その「通路」の中を覗く。しかし底は暗く、先が見えない。

 水滴が滴るピチャ、ピチャという音が空洞にこだましている。まだ春だというのに、通路の奥から漏れ出る冷気にひんやりと鳥肌が立った。

 男はこの鏡の扉を開けて我が家に上がり込んできていたのだ。僕がまだ言葉も話せない赤ん坊だった頃から今まで。ずっと。僕は改めてゾッと恐怖する。洗面台に付いた足跡は通路の奥深くに誘惑しているようだった。男が消え失せた場所。男が何処から来て、何処へ去って行くのか。数年間、住人すら知らなかった秘密の通路が今まさに露わになった。

 僕は知らず知らずのうちにその未知の通路に首根っこを掴まれ、深淵へと攫われそうになっている。しかし、それでいい。男の正体は僕だけの謎であり、男の存在に悩んでもいない部外者が僕より先にその謎を知るべきではない。


 通路はさながらマンホールの中のようだった。円柱型に空洞になっている通路に入ると、ひんやりとしていて、湿度も高いので、なんとも不快な場所だった。壁から出ている梯子の手すりは何かの水滴で濡れている。外壁が錆びや汚れがあり、濡れているので服を汚さないように気をつけて下りる。

 息が詰まる気がしたが、別に臭いということはなかった。強いて言えば、鉄の匂いがするのと、鼻を刺すようなゴムと黴が混ざった匂いがした。

 空洞の中で、はぁ、はぁ、と呼吸の音が反響し、まるで耳音で囁かれいるのかと錯覚しそうになる。あとは、キュッ、キュッ、と僕の靴が梯子を踏んで鳴らす音だけだ。


 一段一段の幅が大きく、降りるのに苦労したが、何歩もいかない内に底が見えて来て安心した。おそらく家の地下にあたる場所だ。ぼんやりと薄い光に照らされている。

 梯子の最後の取手に片足を掛けつつ、もう一方の足でゆっくりと着地する。僕は緊張して手に汗握る。ゆっくり慎重に。音を立てないように。

 手にじわじわ汗が滲む感覚。その瞬間、足に意識を集中していたせいで手が汗で滑って梯子を話してしまった。

 バーン!!

 壁に勢いよく手をつく。破裂音のような音が周囲にこだまし、耳をつんざく。一瞬心臓が飛び出た気がする。強く鼓動する心臓を落ち着けながら、周囲の様子に意識を集中する。その体勢のまま身構えていたが、特に異変はなかった。

 はぁぁ。心臓に悪い。僕は少し身震いしながらため息を吐き、そしてゆっくりと底に降り立った。

 通路の底は四畳半ほどの空間に扉が二つある部屋だった。電気は点いておらず、また、そもそも照明が存在しないみたいだった。暗闇の中では自分の手がどこにあるかも分からない。しかし、その中に一筋の光の線を発見した。それは確かに光の線というしかない。その光は扉の向こうから漏れ出る明かりらしかった。僕はその光景に、昔、押し入れの中に隠れた時のことを思い出す。

 開けてみるべきだろうか。もし開けてそこに人がいたら?そうだ、人がいたら僕は一体どうするつもりだったんだ!なぜ僕はそんな事にすら気づかなかったんだろう。非現実のような秘密の通路の存在に、僕まで物語の主人公にでもなったつもりだったんだろうか?

 僕は…このまま引き返すのか?それは、それこそ、あり得ない選択肢だ。僕は僕自身の決断でここまでやって来たのだ。僕を苦しめ続けた根源はまさにこの家にあった。僕はずっとこの家にいたのに、今ではこの家のことがよく分からない。でも、だからこそ、僕は早晩、知る必要がある。僕はこの家の住人なんだから。

 そろそろと扉に向かって忍び寄る。回転式のドアノブを10秒ほどかけてゆっくりと右にまわす。小さく開いた隙間に顔を押し付け、中の様子を覗いた。

 それは…なんと言えば良いか。和室だった。六畳ほどの和室で、畳張、檜の壁、仏壇、違棚。

「は?」

一体、この家になんでこんなものが。だっておかしいじゃないか。そりゃ謎の通路がある時点で十分不可解ではあるけど、それ以上にこの和室は…。つまり…。

「誰か…暮らしてるのか…?」

 その時だった。不意に反対側の扉がガチャと大きな音を立てて開いた。突然のことに動揺しつつも、その方向に目をやる。しかし、明るい和室の中を見ていたせいで、暗闇に焦点が合わない。開かれた扉から男の気配が飛び出して来る。僕は一面黒い視界の中で男の襲来に身構える。男はなにか小さな箱状の武器を取り出したようだった。

 僕がその武器の正体をスタンガンであると理解した時、それと同時に青い小さな雷によって、僕は髭面の泣いた男の顔がうっすらと見えたのだった。


 目が覚めると僕は爺ちゃんと婆ちゃんの家にいた。飛び起きた僕は慌てて事の経緯を説明しようとするが、どこから説明すればいいのやら、言葉にならない。

「どうしたの?ひろと?」

「具合悪いんか?」

爺ちゃんと婆ちゃんはまるで何事もなかったかのように言う。ふたりの声で冷静になった僕はひとつの疑問が湧く。

「僕、どうしてここにいるの?」

そう言った時、二人は一瞬かたまったように見えた。

「やーねぇ、ひろとは。具合が悪くなって、ひろと、学校早退して爺ちゃんと婆ちゃんの家に来たんでしょう?」

「そうだよ。覚えてないのかい?」

「え?」

いやいや、おかしい。僕は計画して学校を休み、家に帰ったのだ。

「でも、じゃあ…」

僕は反論しようと思ったが、意図的に休んだとは言えないし、何よりもう一度家に戻ってあの通路を確認しない事には、どうしようもない。

 その時、チャイムの音がして、母さんと父さんがやって来た。

「ひろと!」

母さんが寝室で横になってた僕の方に飛んで来る。僕の顔を両手で掴み、母さんと目を向かい合う。

「怪我はない?大丈夫?」

母さんは困り顔をしながら、僕の体調を心配しているようだ。母さんはひどく動揺している。

一方の父さんは、母さんが一体何を心配しているのか、いまいちよく分かっていないようだった。頭を掻きながら不思議そうな顔で母さんと僕の応対を眺めている。

事情を知っているのは母さんだけなんだ!やっぱり僕は確かに家に帰り、あの秘密の通路で奴と対峙したんだ。

「お母さん、あの家……!」

僕はすべてこの場で告白しようと思った。しかし、その時、ふと母さんの顔を見ると、彼女は大きく目を見開き、まるでこの世ならざる異物を見るみたいに顔をしかめ、嫌悪感を露わにしていた。

「えっ」

どういうこと?僕は…どうすればいい?混沌に突き落とされる。誰が正しいのか分からない。母さんはなんでこんな反応を…。母さんのこんな顔…僕は見たことがなかった。

「家がどうかしたのか?」

父さんが言う。

「家が…いや…なんでもない」

僕は口を噤む。

 ふと握りしめた拳に目をやると、僕は震えているみたいだった。なぜ僕が震えているのか、なぜ僕は真実を言えないのか、それは自分でも分からない。本能的に言ってはいけない気がした。そしてまた、この決断が正しかったのかも、僕は分からない。

 僕を苦しめ続ける謎の存在。奴の正体も、目的も分からない。そしてまた、新たな疑問。母さんは何を知っているのか、逆に爺ちゃんや婆ちゃんはなぜ僕がさも学校を休んで爺ちゃんの家に行ったかのようなことを言ったのか。それも分からない。

 僕は一体今まで、何処に住んでいたのだろうか?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る