帰省Ⅶ

  母さんの寝室のロッカーに隠されていたスペアの鍵をあらかじめ盗んでおいた。僕はその鍵で玄関の扉を開ける。無人の我が家は窓から僅かに日光が差し込むくらいで薄暗く、また何の音もしない。

「わっ」

試しに大きな声で叫んでみる。特に返事はない。

「ただいまー」

「誰かいますかー?」

僕はもう一度大きな声で呼んでみる。あたかもそこに人がいるような口調で言ってみたが、やっぱりそこには誰もいないみたいだ。

僕は警戒しながら靴を脱ぎ、リビングに行く。戦いはもう始まっていた。


 計画の目的は足音の正体を突き止めることだ。幽霊だと思っていた頃にはなかった発想だ。足音が人間のものだと確信したから、確信せざるを得なかったからこそ、その人間が一体どこからこの家に上がり込み、何をして、どこに去っていくのか、という疑問が実態を持って解明できるものとわかる。

 僕はあらかじめ用意しておいた蛍光塗料を床の足音が通りそうな場所に塗っておく。この蛍光塗料はマーカーペンのインクを取り出したもので、ブラックライトを当てると光って見えるのだ。僕は一階から順番に、玄関、キッチン、脱衣所と塗っていき、階段を登って二階にも塗った。

「よし」と小さく呟いた瞬間だった。何処からともなくガコッという微かな音が響いた。


ギシ…ギシ…ギシ…ギシ…


 それはもう何度目とも分からない、あの足音だった。肉体の重力によって悲鳴をあげる床の音。一歩一歩、裸足のむさ苦しい脚が床を踏みしめる。気まぐれに力強くなったり柔らかくなったりする。たしかにそれは男の足音以外に考えられなかった。

 ついに来たか。未だかつてこれほど万全の状態で奴を迎えられたことはあっただろうか?僕は恐怖と興奮が混じったような感情が体の奥底から湧き出すのを感じた。興奮が津波のように押し寄せ、全身の毛をブワッと逆立たせる。僕は思わず身震いした。震える手を押さえつける。僕はもう恐怖に怯える子鹿じゃない。今度は僕が狩人なのだ。

 僕は急いでベッドの下に隠れる。左手にフライパンを持ち、そして最後の切り札として右手に包丁を握りしめている。心臓はバクバク鳴っていたが別に気にならなかった。耳も塞がない。目も見開いてまっすぐ正面を見つめる。もう怖くない。

 足音はいつもよりゆったりとしているようだった。家の中を長い間物色している。

「と、いうことでかわいい猫ちゃんでしたね!さて、cmの後は金曜レギュラー全員でビンゴ合戦〜!?」

突然、騒がしい声が一階から聞こえた。突然のことに一瞬ビクッと肩をベッドにぶつける。一体何事かと思って耳を澄ませると、どうやら男はテレビを見ているようだった。

…は?頭ではテレビの音声だと認識できているのに、それが現実のこととしてうまく認識できない。人はあまりに突飛な事象が目の前に現れると、思考が停止してしまうのだ。たとえば道端で通り魔事件に遭った人が、自分が刺されたことは理解しているのに、あまりにも現実離れしたことで、叫ぶことを忘れてしまうみたいに。

 男の行動はそれほど意味不明で意外なことだった。僕は眉をしかめる。

 男はその後20分ほどの間一階のリビングでテレビを流し続けていた。その間、冷蔵庫を二度ほど開け閉めする音が聞こえたので、おそらく何かを盗み食いでもしたのだろう。

 僕は徐々にいつまでテレビを見ている気かと苛々してきた。ずっとベッドの下でうつ伏せのまま身動きが取れないのだ。その時、突然テレビの音がぷつんと切れた。

 やっと終わったか。僕は少し安堵する。

 男はリモコンを置くとギィィとソファを軋ませて立ち上がる。冷たい床に耳をぺったり付けていると、すべての物音がまるでその場で行われているかのように感じられた。

 男はまた少し一階を徘徊し、やがて階段を登る。

ギシ…ギシ…ギシ…ギシ…

 気持ちの悪い音。その音を聞くと僕の心臓は何かに鷲掴みされたようにキュウと小さく悲鳴をあげる。冷や汗が脇や額からじわりと滲んだ。

はぁ、はぁ、はぁ。

 呼吸が荒くなる。トラウマはそう易々とは消えない。

「ひろと君」

 それはおそろしく渇いた声だった。まるで何ヶ月ぶりに声を出したみたいな地響きのような音。しかし不意に名前を呼ばれたことで僕は思わず「はい」と言いそうになる。すんでのところで抑えたが、ゴンッと頭を強くベッドにぶつける。

 その瞬間、足音がぴたりと止まった。

 不味い。

 僕は頭が真っ白になる。不気味な脂汗が全身から滝のように溢れ出す。息ができない。呼吸の仕方を忘れている。殺される。

 次の瞬間、足音は取り乱したようにドタドタと暴れ出し、階段を慌ただしく上ったり下りたりを繰り返した。ストレスの限界を迎えたのだろう。僕はその音を聞きながら失神した。


 気がついた時、まだ僕はベッドの下に転がっていた。右手に握っていた包丁が眼球から一センチもないところに横たわっている。

「わっ」

僕はびっくりして起き上がると、後頭部をベッドにぶつけた。

そうだ、そういえば、男はどこに行ったんだろう?

失神してしまって最後まで行方を追うことが出来なかったが、男の足音はもう消えてしまっている。僕はベッドの下から這い出ると、計画通り、机の中にしまっておいたブラックライトを持って一階に降りてみる。まだ母さんは帰ってきていないようだ。時計を見ると3時ちょうどだったので、家に帰ってきてから二時間ほど経っていることが分かる。

 僕は恐る恐る手に持っていたブラックライトの電源を入れる。ブラックライトと言うとやたらとかっこいい名前だが、実際のところ、それはプラスチックでできた20センチ大の安っぽい懐中電灯とそこから発される紫色の光でしかなかった。

 ブラックライトで床を照らすと、計画通り、白っぽい足跡がそこら中に付着しているのが確認できた。僕は階段に設置した蛍光塗料のところから足跡を追ってみるが、リビングに行き着いたところで足跡が縦横無尽に交差したり重なったりしていて、とても足跡を追うことはできなくなってしまった。

 僕は肩を落とし、他のところを探してみる。

 すると、一箇所だけ奇妙な場所が見つかったのである。

 脱衣所だった。

 脱衣所といえば去年の11月ごろ、田村君の家に初めて行った日の後で、風呂に入っている時に奴と遭遇した場所だ。

 奇妙なのは足跡の位置だ。相当取り乱したのだろう。走ったり同じ場所で回転したため足跡の順番はまったく分からなかったが、その足跡だけ、なぜか洗面台の上にあった。

「えっ?」

 思わず声が出る。ありえない。いくら焦っても足を洗面台の上に乗せたりなどするだろうか。男の謎はこの足跡がすべてを物語る。僕は直感的にそう感じた。


 熟考の末、僕はある恐ろしい仮説を閃いた。それはとても現実とは思えない仮説だったが、一度その考えが浮かぶと自然とその仮説を補強するように思考が流れて行った。

 何か強烈な根拠があった訳ではない。ただ直感的に閃いたのだ。おばあさんは桃太郎の桃を拾ったが、それと同じ偶然。脳内をぼんやりと漂うように思案していた中で、僕は不意に流れてきたその仮説を拾ってみただけなのだ。

 ともかく、一度仮説を試してみよう。正しければ僕はついに男の居場所を突き止めることができるし、正しくなくても恐ろしい仮説が否定されるだけだ。

 僕はもう一度脱衣所に行き、洗面台の鏡に向かい合った。脱衣所の洗面台は玄関からまっすぐ見える場所にある。それゆえ、玄関の扉から差し込む日光を受けて鏡に向かう僕の背後だけぼんやりと明るく見える。とはいえ家の奥にあるので周りは若干薄暗い。

 それは確かに、僕の最初の幽霊体験の記憶に酷似していた。

 自分を正面から客観的に眺める赤ん坊。背後から差し込むあかり。薄暗い周囲。人型の靄が赤ん坊の背後からやって来る。一歩一歩、ギシ…ギシ…音を立てて。

 僕の記憶は間違っていなかったのだ。僕は確かに鏡越しに自分を眺めていたし、また、薄暗い周囲も背後のあかりも記憶の中のそのままだったのだ。

 しかし、問題はそこからだった。男はついに赤ん坊の背後まで差し迫り、そして赤ん坊の横を過ぎる。そして…僕の記憶ではそこで男はどこへともなく忽然と姿を消してしまう。

 秘密はこの洗面台にあるはずだ。僕は鏡に映る自分に向き合う。そして自分の仮説を確かめるため、恐る恐る手を鏡のへりの部分に手を伸ばす。若干錆びれている。僕はしっかり指をかけると、そのまま手前に引っ張ってみる。硬い。やはり違うのだろうか。いや、しかしそうでなければ洗面台の上のこの足跡に説明がつかない。

 僕はもう一度、今度はもう少し強く引っ張ってみる。

 ガコンッ

 決して大きくはないが、確かに手応えがある。

 そして鏡はゆっくりと開かれたのであった。


 そこにはマンホールの中のような周囲が錆びた鉄で囲まれた人ひとり入れるほどの空間が、井戸のように地下奥深くまで続いており、小さなハシゴがその地下深くまで伸びていた。


 

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