雨妖精の妹

海音まひる

雨妖精の妹


「まだ歩くの?」


 ヴォンは尋ねたが、その声は吹きすさぶ猛風にかき消されそうになるのだった。


「ああ、水が集まってるのはもう少し先だから」


 先を歩いているプリュイは、前を向いたまま答えた。



 二人の妖精は、雲の端を歩いていた。

 地上が見えないほどの、はるか上空で。



 プリュイは、雨妖精だ。

 雲の上に棲んでいる。

 雲の中でも水の集まっているところに行って、雨を降らせるのが仕事だ。

 プリュイがいないと、水は重みで崩れてしまい、地上には滝のような雨が降ってしまう。


 だからプリュイは雨を正しく降らせるために、一刻も早く水の集まっているところにたどり着くために、地上に落ちる危険のある雲の端の道を歩いているのだった。


 後ろをついてきているのは、妹のヴォンだ。

 ヴォンは、半人前の風妖精。

 半人前の妖精は修行をするのが常だが、彼女はいつもプリュイとともににいた。雨妖精の仕事を見ていても、風妖精の仕事ができるようになるわけではないのに。

 でも、二人は何も気にしていなかった。二人は、お互いさえいれば自分たちの生活は満ち足りていると思っていた。



「風が強いから、気をつけて」


 プリュイは優しい声で言った。


 返事はなかった。


 風で彼女の声が聞こえなかったのだろうとプリュイは考えて、後ろを振り向いた。


 そこには誰もいなかった。


 ただ茫洋と灰色の雲の峰が広がるばかりだった。




 そこから、どこをどう歩いただろうか。

 気がつけばプリュイは目的地に着いていた。


 水はすでに限界に近いほど集まっていて、フルフルと震えていた。

 プリュイはその水が濃いところに手を伸ばした。


 伸ばしたプリュイの手もフルフルと震えていた。

 目の錯覚だとプリュイは自分に言い聞かせた。


 自分は、雨妖精だ。

 雲の中でも水の集まっているところに行って、雨を降らせるのが仕事だ。


 ——しかし。

 前触れなくフラッシュバックする光景。

 果てしなく広がる無人の雲……風の音が轟々と……


 プリュイはおもむろに水をつかみ、力任せに投げようとした。

 けれども、すんでのところで思いとどまった。


 つかんだ水を手に、雲の縁まで歩き、膝から座り込んだ。

 水を掌で丁寧にほぐし、さらに細かくちぎり、粉々に砕いた。

 まだ気は済まなかったけれど、限界まで小さくしてしまったので、粒を地上に撒いた。



 地上には、霧のような雨が降った。

 一人の詩人が上空を見上げた。


「——空が泣いている」



 限界に近いほど集まっていた水は、なかなかなくなってくれなかった。

 だから雨は延々と降り続けた。



 ノクスが空を覆った。

 プリュイは南を向き、膝を抱えて座っていた。


 この、雨妖精としての生活は明日も続くのだろう。明後日も来週も、来月も来年も。

 あの子が自分の前から姿を消しても、世界は歩みを止めてくれない——


「どうしたの。そんな顔して」


 顔を上げると、夜空に輝いていたのはさそり座スコーピアスだった。


「……妹がいないんだ」


 プリュイは短く答えた。


「それってずっと?」

「いや、今朝から」

「ふうん……」


 さそり座スコーピアスはちょっと傾いた。


「それなら、追いかけないの? 追いつくかもしれない」

「……追いかけられたら、どんなに楽だろう。雨妖精には雨妖精の生活があるんだ。妹を探しに行くことは、そこに含まれてない」

「ふうん。妖精って大変なのね」


 ふと気になったプリュイは聞いてみた。


「君は、誰かを追いかけているの?」

「ええ、追いかけているわ」


 いったい誰を、とプリュイが尋ねる前に、さそり座スコーピアスは答えていた。


オリオン座オリオンを」


 彼女の赤い心臓アンタレスがほんのりと瞬いた。


「何万年かしら……? 覚えてないわ。何万年もの間、ずっと追いつけてないの」

「……諦めないの?」

「諦めるとか、そういう感じじゃないわね。彼を追いかけることが、私の生活そのものなの」


 どんどん位置を変えていく彼女に合わせて、プリュイも向きを変えて座り直した。


「……星座って、もっと不自由だと思ってたな。みんな東から昇って、西に沈んで」

「あら、みんな自由に動いてるわよ。例えばあそこ、こと座ライラわし座アクィラはくちょう座シグナスは、いつも三人でいたがるの」


 そう言ってさそり座スコーピアスは、大三角トライアングルを指差した。


「……みんな、大切な人といたいんだね」


 君も、僕も、とプリュイは言いかけたけれど、わざわざ言うのは野暮だと思った。


「……君に会えてよかったよ」

「あら、光栄ね」


 低空のさそり座スコーピアスはあっさり沈んでいった。



 プリュイはゆっくりと立ち上がった。


 朝が来ようとしていた。

 太陽ソルが大地と空の裂け目から姿を見せかけていた。


 いつの間にかプリュイは、ヴォンが姿を消した場所までやって来ていた。


 雲が虹色に輝いているのは、太陽ソルの魔法だろうか。

 プリュイはその極彩色の光景を、しっかりと目に焼き付けた。

 もう二度と、見ることはないだろうから。



 そして、ポン、と。

 プリュイは雲から身を投げた。



 あまりの距離に、一向に近づいているように見えない地上。

 ……あそこはどれくらい広いのだろう。


 すぐには出会えないだろうか。

 いつまでも出会えないだろうか。


 ——いや。彼女とともにいられるその日まで、風を追いかけ続ける。


 それが自分の新しい日々だ。

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雨妖精の妹 海音まひる @mahiru_1221

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