泣いた朝陽がもう笑う ⑧

 恒玄国こうげんこくの都・落星橋らくせいきようは、国ただひとつの湖、落星湾らくせいわんにある。この湖が湾と呼ばれるのは、あらゆる穹水かわが注ぐ、海に近しい場所だからだ。ここに注がれた水は、みな霧氷となって天に昇り、いつかふたたび、雨となる。

 寝台のある臥室から隣室に出ると、外に面した大窓から、霧氷の柱が遠く見えた。

 たゆまなく巡る恒玄国こうげんこくの水の、還る場所であり、旅立つ場所。

「……今日も、雪ですねえ」

 薄曇りの空から落ちてくる切片は、はらはらと風に舞う花びらのように優雅だ。しかし、ついさきほど天に昇ったばかりかと思うと、慌ただしく落ちてきて、とも感じる。

 歳華は窓から離れると、てきぱきと身支度を始めた。似合うと言われた赤い長衣ちよういを着て、髪を結えば、とりあえずの準備は終わる。

「おはよー歳華さま!」

「今日も自分で起きて、えらいぞ!」

「おはようございます。今日はどちらが武曲むごくで、どちらが輔星そえぼしですか?」

「僕が輔星そえぼし!」 

「僕が武曲むごく!」

「では、改めて。……おはようございます、輔星そえぼし武曲むごく

「「おはよー!」」

 いつも通りの挨拶をすると、二人は風を操って、部屋の埃りを払い始めた。一番入念にするのは玻璃の大窓で、遠くまでよく見えるよう、術で清めていく。ここに来たばかりのころ、窓なんて数刻もすれば曇るのだから気にしせずとも、と申し出た歳華に、ふたりは首を振った。

 ――――歳華さまは雪が好きだから、外がよく見えるよう、玻璃は磨かないとって。

 ふたりの主が誰かだななんて、考えるまでもない。相も変わらず迂遠な優しさに、呆れるやら喜ぶやらの歳華だった。

 一瞬で掃除を終えた輔星そえぼし武曲むごくのあとをついて、食事の間に向かう。さきに座っていた辰星が、こちらを見上げた。むかいに腰を下ろしながら、にこりと言う。

「おはようございます」

「おはよう。……今日は新あわだそうだ」

「あら。たしかに兎止水うしすいが、そろそろだと書いていましたが」

 歳華の助言をもとに、土や苗の管理を見直した結果、洙園しゆえんの粟は、ずいぶんよく育つようになった。ここからは他の穀物にも同様の調整をして、恒玄国こうげんこく内で自給できるように励む予定だ。無論、歳華も最大限協力するつもりである。

 輔星そえぼし武曲むごくが机を盆を運んで来た。白湯に口をつけてから、箸を取る。まっさきに粟に手を伸ばすと、辰星が笑った。

あわから食うのか、おまえは」

「……食べたくなるようなことを言ったのは、貴方でしょう」

「俺はただ、有益な情報を伝えてやっただけだ」

「はいはい、私ががめついのが悪うございました」

 やいやい言ってくるのは無視し、口に入れて噛みしめてから、まばたきをする。

「なるほど。これは美味しいです」

「ふ」

「……なんですか、言いたいことでも」

「いや、とくには」

「嘘です。絶対間抜けとか、安いやつとか、お気楽とか思ってる顔でした」

「自覚があるじゃないか」

「あ、あのですねえ……!」

 睨む歳華などどこ吹く風で、辰星は吸い物に口を付けた。この男の厄介なのは、細かな所作がいちいち絵になるところで、そのたび歳華はなんだか悔しいような気持ちになる。

「……食事なんて、ろくにしない御仁のくせに」

「龍は玉水さえあればいい。そもそも俺は神獣ゆえ、玉水すらほとんど必要ない」

「だったら、毎日朝ごはんなんて付き合わなくていいんですよ。私だって神獣ですから、食事はそうは必要ありませんし」

「しかしおまえは、洙園しゆえんで採れたものを食べたいのだろう」

「……まあ、できれば」

「俺は心が広い。それぐらいの贅沢は許してやる。そして、どうせ作らせるものならば、俺も食べたほうが、無駄がないだろう」

 それに、と辰星は言った。

金鴉娘娘きんあにやんにやんのなによりの望みは、俺のそばで過ごすこと、とのこと。いつも、というのはさすがに厳しいが、毎朝の食事ぐらいは、付き合ってやってもいい」

「…………こ、こいつ……!」

 数か月前の芝居をなおも引っ張り出す辰星に、叫ぶ。

「あれはその、仕方なしの、詭弁でしょう! さっさと忘れなさい!」

「はてさて。なかなか印象深かったもので、千年経っても忘れまい」

 にやりと口角を上げられれば、歳華は唇を噛みしめるほかなかった。

 

 

 

 

 ――――時は遡る。

 恒玄国こうげんこく泰青国たいせいこくの国境に、歳華は雲舟くもぶねで現れた。辰星に頼み、この日のあいだは、足枷は外してもらった。みなの手元に花びらを降らせ、金の翼を露わにすれば、集った人々は見上げて言う。

金鴉娘娘きんあにやんにやん!」

 東海の果てに在る、十の太陽の成る大樹。そこから流れ着いた一枝ひとえだにも、当然、太陽が実っている。ゆえにこの身は太陽のからす金色こんじき金鴉きんあだった。

 春、芽吹き、朝陽。

 人々が焦がれるそれらを、歳華は司る。

 求められるのがうれしくて、花を贈った。みなに笑ってほしくて、恵みを渡した。誰も泣いてほしくなくて、病を祓った。

 募った無理が、やがてこの身を蝕んだ。

(――――ああ、実際にみなの顔を見ると、私の命なんて、と、思ってしまう)

 この命、擦り切れるまで、神であり続けることもできる。けれど、その結末を悲しむ者がいた。それぞれが、それぞれの覚悟を以て、歳華に国を離れろと促した。言葉で告げても聞かなかろうと、荒っぽく攫ったり、わざと拒絶したりして。どちらも大局的に見れば、王としては愚行かもしれないが、それでも、歳華だけは、その厚意を否定したくなかった。

 だから。

「みなの者。私を求めて集った、泰青国たいせいこくの民よ、お聞きなさい」

 だから。

「去った神を求めるような、馬鹿な真似はおやめなさい」

 歳華はきっぱりと、人々の希望を折る。

「え……」

「い、いまなんと」

「我らの、我らの金鴉娘娘きんあにやんにやんではないのですか!」

 人々のあいだに狼狽が広まる。それはそうだろう。この国には生まれたときから神獣がいて、実りを約束して、あまねく災いを祓ってきた。生活上の依存はもちろん、精神的な依存はとても大きい。

 酷いことをしている、と思う。

 人間は、前に進む強さをその内に備えている。けれど、それは誰しもが持つ者でもない。命言葉を読める歳華には、生まれつきの弱さがあるのを理解しているし、人のなかで生きてきたからこそ、歳月が人にもたらす弱気の呪いだって知っている。

 ゆえに。

 ゆえに、この裏切りは、大局的な論理だけで正当化できるものではなく。

 最後に自分を動かしたのが、親しき者の想いなのなら。自分の選択もまた、想い以外では語るべきであるまい。

「貴方たちは、私の本性について、大きな勘違いをしているようですね」

 歳華は笑う。足元の人々を、神のように見下ろして。

「この身はただ、私のもの。私は、私の心に従って生きております。どうして私が中原の東に人の住む場所を創り、泰青国たいせいこくの建国を後押し、千年奔走したか、分かりますか? そうですね、そこの貴方」

 後ろのほうに立つ細身の女性を指させば、女性は竦み上がりつつも答える。

「どうして、って……金鴉娘娘きんあにやんにやんは、慈悲深い神獣様で」

「はい、大外れ。私はただ、好いた男の言葉を守っていただけのこと、『三千年のあいだ、善き神獣であれ』と言われ、そのように振る舞っていたのです」

「好いた……相手?」

「あらやだ、まさか分からないなんて、ありませんよね?」

 口元に手を当て、くすりと笑めば、足元でざわめきが広まった。

「……玄龍君⁉ まさか、玄龍君ですか⁉」

「はい、まさに。私はむかしっから、あのかたに魅入られておりまして。かつての戦のあと、それはもう積極的に言い寄りました。『貴方のおそばで、貴方のために、尽くさせてください』とね。泰青国ができる前、東の地に人が集まるよりも前のことです」

「そ、それじゃあ……この国は」

「ふふふふ、ようやく分かってきたようですね」

 両翼を大きく伸ばす。

 ここに集ったものの目に、国を捨てた鴉の姿が、焼き付くように。

「私にとって泰青国たいせいこくとは、私の努力を証明するための手段であり、いつか玄龍君が迎えに来るまでの、仮宿にすぎません」

 そして、最後に祈りを以て付け加える。

「三千年の約定は、ここに果たされました。なれば、鴉の在るべき場所は、北の湖上にてこれからの泰青国たいせいこくは、神なき国となります。こんなところで油を売っていないで、おのが仕事に戻るのが、お利口な選択という者ですよ」

 ――――その、ほんのわずかに真実を孕んだ言の葉は、泰青国たいせいこくの民にとっては絶望的な報せとなって、国中を駆け回った。

 とくに焦ったのは農夫たちで、空模様や雨模様は無論のこと、これまで見向きもしなかった吉兆まで気にして、いなごが出ぬよう祈っている。そこに助け船のように差し伸べられのは、都・華胥城よりもたらされる農学書だ。蒼帝自ら先導して写本を作り、各地域の役所から官吏の手に渡った。やる気のない官吏のなかには読まずに投げ出そうとするものもいたが、鬼気迫った農夫に詰め寄られれば、そうもいかない。

 農学書の原本は、北から送られているという噂もあるが、金鴉娘娘きんあにやんにやんこそ最低の悪女、魔性の傾城というのが世論の主流とあっては、流行らぬ噂となっている。

 

 

 

 

「……まあ、その、やり過ぎたと反省はしています。反省はしていますから、あまりいじらないで下さいな」

 自らの足首に指を伸ばせば、辰星の嵌めた足枷が肌に触れる。相変わらず冷たいのに、温かくも感じてしまうのは、そこにある真心を知っているゆえだろうか。

(とはいえ、結局、態度最悪なのは相変わらずなんですけれどね)

 口を開けば苦言、口を閉じたかと思えば鼻で笑う、たまに優しげな顔をしたと思えば、視線のさきは武曲むごく輔星そえぼし。どうしてこんなのを、とつとに思う。

 どうして、の答えを、自分で分かっていても、だ。

「しかし、これから私はどうしましょうね」

「うん? 今度は大豆の育てかたについて、書にするのではなかったか。兎止水からも、呼ばれているんだろう」

「よく覚えてますね、人の細々した仕事を。……そうではなく。なんとか、神の力の使いかたを改善し、泰青国に戻らねばと、思っているのですが」

 目下の悩みを口にすれば、辰星の眉間に皺が寄る。

「……泰青国に戻るだと?」

「え、だって、いつまでもここに居られても、迷惑ですよね? ……うぎゃ⁉」

 突然足首がきんと冷えて、声がひっくり返った。見ると案の定、例の足枷からとんでもない冷気がたちのぼっている。

「なにするんですか! 神じゃなかったら凍傷ものですよ!」

「それは俺の台詞だ」

「また、わけの分からないことを!」

「失礼だとは思わないのか? あれだけ大々的にうちに嫁いでおいて、さっさと抜け出されたら、俺がふいにされたようではないか。もし力の使い方が無理のないものになったとして、泰青国を助けるのは許してやってもいいが、ここを出ていくだと? ふざけるな」

「いやいや貴方、民にどう誤解されても、気にやしないでしょう⁉ 貴方、昔言ってたじゃないですか、私がそばにいるなんて嫌だって! その頑固頭が、三千年で様子が変わるわけもないでしょうし!」

「…………」

 辰星は舌打ちののち、ぼそりと言う。

「俺は、尽くすなと言っただけだ。そばに来るなだんて一言も告げていない」

「……それ、同じことじゃないですか?」

 ぽかんとしたまま見つめ合うと、辰星は大きな大きなため息を吐いた。

「足枷の次は、首輪か?」

「ちょっと、物騒なこと言わないでください! 輔星そえぼしー! 武曲むごくー! ちょっと、貴方の主人のご機嫌を取ってくれませんか!」

「他のやつに縋るな。泰青国たいせいこくに自立を説いた以上、俺の機嫌ぐらい自分でとれ」

「それとこれとは別でしょう⁉ だいたい、貴方のご機嫌の取りかたなんて、分かるものですか!」

「毎朝、へらへら笑って挨拶をするだけで、許してやる」

「注文が多いんですよ、注文が」

「……」

 辰星はまた、ため息を吐いて、「驚嘆に値する呑みこみの悪さだな」と、聞き捨てならぬことを言った。

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龍華鈔 別海ベコ @bekabeco

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