泣いた朝陽がもう笑う ⑧
寝台のある臥室から隣室に出ると、外に面した大窓から、霧氷の柱が遠く見えた。
たゆまなく巡る
「……今日も、雪ですねえ」
薄曇りの空から落ちてくる切片は、はらはらと風に舞う花びらのように優雅だ。しかし、ついさきほど天に昇ったばかりかと思うと、慌ただしく落ちてきて、とも感じる。
歳華は窓から離れると、てきぱきと身支度を始めた。似合うと言われた赤い
「おはよー歳華さま!」
「今日も自分で起きて、えらいぞ!」
「おはようございます。今日はどちらが
「僕が
「僕が
「では、改めて。……おはようございます、
「「おはよー!」」
いつも通りの挨拶をすると、二人は風を操って、部屋の埃りを払い始めた。一番入念にするのは玻璃の大窓で、遠くまでよく見えるよう、術で清めていく。ここに来たばかりのころ、窓なんて数刻もすれば曇るのだから気にしせずとも、と申し出た歳華に、ふたりは首を振った。
――――歳華さまは雪が好きだから、外がよく見えるよう、玻璃は磨かないとって。
ふたりの主が誰かだななんて、考えるまでもない。相も変わらず迂遠な優しさに、呆れるやら喜ぶやらの歳華だった。
一瞬で掃除を終えた
「おはようございます」
「おはよう。……今日は新
「あら。たしかに
歳華の助言をもとに、土や苗の管理を見直した結果、
「
「……食べたくなるようなことを言ったのは、貴方でしょう」
「俺はただ、有益な情報を伝えてやっただけだ」
「はいはい、私ががめついのが悪うございました」
やいやい言ってくるのは無視し、口に入れて噛みしめてから、まばたきをする。
「なるほど。これは美味しいです」
「ふ」
「……なんですか、言いたいことでも」
「いや、とくには」
「嘘です。絶対間抜けとか、安いやつとか、お気楽とか思ってる顔でした」
「自覚があるじゃないか」
「あ、あのですねえ……!」
睨む歳華などどこ吹く風で、辰星は吸い物に口を付けた。この男の厄介なのは、細かな所作がいちいち絵になるところで、そのたび歳華はなんだか悔しいような気持ちになる。
「……食事なんて、ろくにしない御仁のくせに」
「龍は玉水さえあればいい。そもそも俺は神獣ゆえ、玉水すらほとんど必要ない」
「だったら、毎日朝ごはんなんて付き合わなくていいんですよ。私だって神獣ですから、食事はそうは必要ありませんし」
「しかしおまえは、
「……まあ、できれば」
「俺は心が広い。それぐらいの贅沢は許してやる。そして、どうせ作らせるものならば、俺も食べたほうが、無駄がないだろう」
それに、と辰星は言った。
「
「…………こ、こいつ……!」
数か月前の芝居をなおも引っ張り出す辰星に、叫ぶ。
「あれはその、仕方なしの、詭弁でしょう! さっさと忘れなさい!」
「はてさて。なかなか印象深かったもので、千年経っても忘れまい」
にやりと口角を上げられれば、歳華は唇を噛みしめるほかなかった。
――――時は遡る。
「
東海の果てに在る、十の太陽の成る大樹。そこから流れ着いた
春、芽吹き、朝陽。
人々が焦がれるそれらを、歳華は司る。
求められるのがうれしくて、花を贈った。みなに笑ってほしくて、恵みを渡した。誰も泣いてほしくなくて、病を祓った。
募った無理が、やがてこの身を蝕んだ。
(――――ああ、実際にみなの顔を見ると、私の命なんて、と、思ってしまう)
この命、擦り切れるまで、神であり続けることもできる。けれど、その結末を悲しむ者がいた。それぞれが、それぞれの覚悟を以て、歳華に国を離れろと促した。言葉で告げても聞かなかろうと、荒っぽく攫ったり、わざと拒絶したりして。どちらも大局的に見れば、王としては愚行かもしれないが、それでも、歳華だけは、その厚意を否定したくなかった。
だから。
「みなの者。私を求めて集った、
だから。
「去った神を求めるような、馬鹿な真似はおやめなさい」
歳華はきっぱりと、人々の希望を折る。
「え……」
「い、いまなんと」
「我らの、我らの
人々のあいだに狼狽が広まる。それはそうだろう。この国には生まれたときから神獣がいて、実りを約束して、あまねく災いを祓ってきた。生活上の依存はもちろん、精神的な依存はとても大きい。
酷いことをしている、と思う。
人間は、前に進む強さをその内に備えている。けれど、それは誰しもが持つ者でもない。命言葉を読める歳華には、生まれつきの弱さがあるのを理解しているし、人のなかで生きてきたからこそ、歳月が人にもたらす弱気の呪いだって知っている。
ゆえに。
ゆえに、この裏切りは、大局的な論理だけで正当化できるものではなく。
最後に自分を動かしたのが、親しき者の想いなのなら。自分の選択もまた、想い以外では語るべきであるまい。
「貴方たちは、私の本性について、大きな勘違いをしているようですね」
歳華は笑う。足元の人々を、神のように見下ろして。
「この身はただ、私のもの。私は、私の心に従って生きております。どうして私が中原の東に人の住む場所を創り、
後ろのほうに立つ細身の女性を指させば、女性は竦み上がりつつも答える。
「どうして、って……
「はい、大外れ。私はただ、好いた男の言葉を守っていただけのこと、『三千年のあいだ、善き神獣であれ』と言われ、そのように振る舞っていたのです」
「好いた……相手?」
「あらやだ、まさか分からないなんて、ありませんよね?」
口元に手を当て、くすりと笑めば、足元でざわめきが広まった。
「……玄龍君⁉ まさか、玄龍君ですか⁉」
「はい、まさに。私はむかしっから、あのかたに魅入られておりまして。かつての戦のあと、それはもう積極的に言い寄りました。『貴方のおそばで、貴方のために、尽くさせてください』とね。泰青国ができる前、東の地に人が集まるよりも前のことです」
「そ、それじゃあ……この国は」
「ふふふふ、ようやく分かってきたようですね」
両翼を大きく伸ばす。
ここに集ったものの目に、国を捨てた鴉の姿が、焼き付くように。
「私にとって
そして、最後に祈りを以て付け加える。
「三千年の約定は、ここに果たされました。なれば、鴉の在るべき場所は、北の湖上にてこれからの
――――その、ほんのわずかに真実を孕んだ言の葉は、
とくに焦ったのは農夫たちで、空模様や雨模様は無論のこと、これまで見向きもしなかった吉兆まで気にして、
農学書の原本は、北から送られているという噂もあるが、
「……まあ、その、やり過ぎたと反省はしています。反省はしていますから、あまりいじらないで下さいな」
自らの足首に指を伸ばせば、辰星の嵌めた足枷が肌に触れる。相変わらず冷たいのに、温かくも感じてしまうのは、そこにある真心を知っているゆえだろうか。
(とはいえ、結局、態度最悪なのは相変わらずなんですけれどね)
口を開けば苦言、口を閉じたかと思えば鼻で笑う、たまに優しげな顔をしたと思えば、視線のさきは
どうして、の答えを、自分で分かっていても、だ。
「しかし、これから私はどうしましょうね」
「うん? 今度は大豆の育てかたについて、書にするのではなかったか。兎止水からも、呼ばれているんだろう」
「よく覚えてますね、人の細々した仕事を。……そうではなく。なんとか、神の力の使いかたを改善し、泰青国に戻らねばと、思っているのですが」
目下の悩みを口にすれば、辰星の眉間に皺が寄る。
「……泰青国に戻るだと?」
「え、だって、いつまでもここに居られても、迷惑ですよね? ……うぎゃ⁉」
突然足首がきんと冷えて、声がひっくり返った。見ると案の定、例の足枷からとんでもない冷気がたちのぼっている。
「なにするんですか! 神じゃなかったら凍傷ものですよ!」
「それは俺の台詞だ」
「また、わけの分からないことを!」
「失礼だとは思わないのか? あれだけ大々的にうちに嫁いでおいて、さっさと抜け出されたら、俺がふいにされたようではないか。もし力の使い方が無理のないものになったとして、泰青国を助けるのは許してやってもいいが、ここを出ていくだと? ふざけるな」
「いやいや貴方、民にどう誤解されても、気にやしないでしょう⁉ 貴方、昔言ってたじゃないですか、私がそばにいるなんて嫌だって! その頑固頭が、三千年で様子が変わるわけもないでしょうし!」
「…………」
辰星は舌打ちののち、ぼそりと言う。
「俺は、尽くすなと言っただけだ。そばに来るなだんて一言も告げていない」
「……それ、同じことじゃないですか?」
ぽかんとしたまま見つめ合うと、辰星は大きな大きなため息を吐いた。
「足枷の次は、首輪か?」
「ちょっと、物騒なこと言わないでください!
「他のやつに縋るな。
「それとこれとは別でしょう⁉ だいたい、貴方のご機嫌の取りかたなんて、分かるものですか!」
「毎朝、へらへら笑って挨拶をするだけで、許してやる」
「注文が多いんですよ、注文が」
「……」
辰星はまた、ため息を吐いて、「驚嘆に値する呑みこみの悪さだな」と、聞き捨てならぬことを言った。
龍華鈔 別海ベコ @bekabeco
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