泣いた朝陽がもう笑う ⑦

 兎止水うしすいとともに洙園しゆえんを巡ったのち、歳華は庁舎の客間に通された。客間とはいっても、ほかの職員の居室とそう変わらぬ造りのようで、文机と寝床があるだけの、質素なものだ。兎止水うしすいが行ってひとりになると、矢立やたてから筆を出し、洙園しゆえんに関して気付いたことを、さらさらと書きつけた。普段、頭のなかで処理していることも、人に伝えようと紙に書き起こすと存外ややこしく、ときおり筆が止まっては、うんと悩むことになった。

 武曲むごく輔星そえぼしが戻ってきたのは、陽が沈んだあとのことだ。

「お待たせー!」

「ごめんごめん、うーちゃんと仲良くできた? 怖がらせたりしてない?」

「もちろん。必ずや、洙園しゆえんを善くしてみせましょう」

「おっ、高まる期待!」

「よっ、鴉の羽の見せどころ!」

「それはそれとして。貴方たちに聞きたいことがあるのですが」

「「聞きたいこと?」」

 首をかしげるふたりを手招きし、「どうぞお座りください」と敷き布を指で示す。素直に従う二人のむかいに腰を下ろし、にっこりと微笑んだ。

「貴方たち、泰青国たいせいこくとの国境に行ったでしょう」

「「ぎくっ」」

「なにが、『ぎくっ』ですか。あんな方向に飛んでいって、隠すつもり、ありました?」

「……うーん、絶対隠せとは言われてないけれど」

「歳華さまの耳には、できるだけ入れるなって」

「きっと気に病んで、ますます気がそぞろになるだろうって」

「ほほう。気がそぞろになるような、酷い事態になっているのですね?」

「「違う違う、それはない!」」

 瓜二つの顔が、ぶんぶんと揺れる。

「国境の近くに、あっちの人たちが、集まりつつあって」

「なんかねえ、玄龍君に一生懸命謝ってるの。我らに金鴉娘娘きんあにやんにやんをお返しください、よろしくお願いします、って」

「……そう」

 きっと、そのように願う者も、いるだろうとは思っていた。とくに、恒玄国こうげんこくに近い北側の民は、都への遠さから皇帝への忠誠心が薄い一方、寒さのなかでも実りを約束する歳華への依存が強い。歳華もまた、慕ってくれる彼らを、愛しく思っていた。

「ふむふむ。見張りの兵から報告が上がっていたので、貴方たちに様子を見に行かせたと。私を洙園しゆえんに飛ばしたのは、貴方たちの用事と、同じ方面だからですか?」

「ちっ、違う違う! それは違う!」

「玄龍君はほんとうに、歳華さまが落ち込んでるから言い出したの! むしろ、様子見のほうがついでだよう!」

「でしょうね。そうでしょうとも。あれでずいぶん、私に気を遣っているようですし」

「「えっ?」」

 ぽかんと口を開けるふたりを、じろりと睨む。

「貴方たちでしょうが。『こんなのを三千年も想って、苦労する』だとか、『がっかり』だとか、ほかにも、聞えよがしにため息を吐いたり。あれだけ主張しておいて、こちらが態度を改めれば、しらばっくれると?」

「いやいやいや、違うよー! そういうんじゃないって!」

「ただ、僕たち、歳華さまは都合の悪いことは聞こえなくなっちゃうから、全然頭に入ってないんだろうなーって思ってたの!」

「……そういう面があったのは認めますが……認めますが、受け入れないと、始まらないでしょう」

 続きを口にするとき、一瞬、喉がつかえた。こんなにもこんがらがった間柄なのに、言葉にするととても単純で、その単純な輝きに、目がくらむ。

「辰星はずっと、私を仲間として、大切に思ってくれていた」

 それもこれも、あの仏頂面が悪い。

 口を開けば苦言ばかりなのが悪い。

 優しさが分かりづらいのが悪い。

 ――――受け入れるのが下手な、私が悪い。

「というのは、前提です。武曲むごく輔星そえぼし、いまから落星橋に――辰星に繋ぎなさい。龍なら、水鏡の術ぐらい、お茶の子さいさいでしょう」

「上からくるなあ」

「歳華さまって、ちょくちょく神さま目線になるよねえ」

「う…………おふたりとも、よろしくお願いします。この通りです」

「「うむうむ、仕方ないから、願いを叶えよう!」」

 溌溂とした声とともに、どこからともなく水の糸が現れる。小さな穹水そらみずにも似たそれは、寄り集まって平たい板をかたち作り、なめらかな鏡面を成した。

 ふたりの声が、ぴったりと重なる。

「「玄龍君、玄龍君、我らにすがたをお見せください!」

 水が、いちどだけ波打つ。

 鏡は彼方と結びつき、はるか落星橋の風景を映し出した。

『……ん?』

 そこに映る男は、相も変わらず、美しかった。突然のことに驚いたのか、やや間抜けにまばたきをするすがたすら、妙に絵になるのが憎い。

『なんだ、まだ連絡するようなことが……』

 問いかけたくちびるが、途中で止まった。歳華は首をかしげる。

「あらあら、まだもなにも、こちらに来てはじめての連絡ですけれど。ああ、ふたりとは、国境の様子をじっくりと話し合ったばかりなのかしら。仲がよろしいこと」

『……おい。武曲むごく輔星そえぼし

 地を這うような声を聞いて、ふたりがびゃっと竦み上がる。

「ちっ、違うの! 僕らからはなにも言ってない!」

雲舟くもぶねの航路を見た歳華さまが、勝手に勘ぐってるだけ!」

「そうです、私が勝手に言い出したこと。駄目ですよ、そう怖い顔をしては。眷属を無為に怯えさせるのは、貴方のやりかたではないでしょう?」

『……それで? 今度はなんだ。国境に連れていけとでも言うのか?』

「まあ、最終的にはそのような交渉を、と考えておりますけれど……まずは、貴方と話をしたいなあと」

『俺と?』

「はい。さんっざん誤魔化されてきましたけれど、もう無敵です。貴方が注いでくださる友愛の情と、向き合う覚悟をしましたから」

『…………』

 辰星が、眉を寄せた。金の双眸が、鋭い光を帯びる。けれど、反論はない。それでじゅうぶんだった。この男のこと、致命的な間違いならば、即座に訂正するはずだ。

此度こたびの、泰青国たいせいこくへの侵攻。兵は国境に配備するだけ、攻め入るのは貴方だけにしても、双方の国に大変な混乱を与え、貴方には、暴君の汚名すら与えたはずです。こんなことをしたのは、なぜ?」

『前も言った。おまえが疑うような事情なんてない。ただの私利私欲だ』

「利にも欲にも、さまざまなかたちがありますの。貴方もご存じの通り、私の内にある、誰かを支えたいという願望も私利私欲。私は貴方の、欲のかたちを問うているのです」

『話す義理はない』

「むしろ、話せば、私が気に病むから?」

『……』

「ふふふふふ、今夜の貴方は、黙ってばかりですね」

 おかしくなって笑ってみると、両脇でこそこそと声がする。

「……なんか歳華さま、調子に乗ってない?」

「これが噂の、地の性格なんじゃない?」

「そこ、お黙りなさい。私は貴方がたの御主人様と、大事な大事な話をしているんです」

 しかしまあ、少し態度が悪かったかもしれない。歳華は辰星を馬鹿にするつもりはないし、そんなことが許される立場でもない。

(三千年前から、変わらないですね)

 いまも、昔も。

 守られているのは、自分ばかりだ。

「――――辰星」

 けれど、だから。

 与えられるだけは嫌だから、歳華は問う。

「貴方、私の命が擦り切れていると、知っていたでしょう」

 金の目が見開かれたのを見て、やはり、と息を吐いた。

 思えば、単純な話だった。武曲むごく輔星そえぼしの発言を素直に受け入れて、立場を反転して考えれば、相手がなにを望むかは分かるというもの。国から離すのはなぜか。足枷まで嵌めて力を制限するのはなぜか。眷属をそばにやり、頭が痛めば世話をさせるのはなぜか。

 歳華に健やかにあってほしいからに、決まっているだろう。

「心配を、お掛けしました」

『べつに。目に余っただけだ』

「貴方が選ぶと、そういう言の葉になってしまうと。まあ、やりかたも無闇に荒っぽいですものねえ。ひとりで攻め入って掻っ攫って帰ってくるって。私が自滅してしまったら、どうするおつもりだったんですか」

『……あのときは』

 辰星の口元が、苦く歪む。

『あのときは、生きた気が、しなかった』

「……」

 ああ、そうだった。歳華が好きになったのはそういう男だった。言葉は素っ気ないのに、周りをよく見ていて、ふとしたおりに声をかけてくる。そして誰かを失うとき、あるいは失いそうになったとき、痛みに堪えるように、苦しげに眉を寄せるのだ。

 貴方に、そんな顔をさせたくなかった。

 あの頃の歳華の、いっとう強い願いは、それだった。

(――――好きでもないくせに、罪なかたです)

 しかし、嬉しくないはずがないのだ。どれほど時が流れても、国の支えかたが相容れなかろうと、盟友として気をかけてくれている。それでもう、じゅうぶんだ。

「ありがとうございます。生きて、こうして貴方と言葉を交わせて、よかった」

 歳華が口にした瞬間、ずぴ、と鼻をすする音がした。武曲むごく輔星そえぼしが、大きなまなこから涙を零す。

「よがっだねえ、玄龍君……!」

「歳華が、歳華がって、ずっと心配してたもんねえ……!」

『……おい。話していいとは、言っていないぞ』

「じゃあ、いますぐ許可を!」

「この鳥頭にもうちょっと思い知らせたいです!」

『まったく……検討はするが、あとにしろ』

「「はい!」」

 唱和するふたりの、ぴんと伸びた背を見ると、笑みが零れる。歳華は数々の王を知るけれども、これほど臣下に慕われる者は、なかなかいない。

「貴方はどこからか、私の不調を知った。その原因が神力の使い過ぎであることも察した。泰青国たいせいこくにいる限り、私は力を使い続ける。ならば、と思い立って、単身攻め入ることと、駿に手紙を送ることを決めた、と」

『ひとつ訂正がある。時系列を整理するのならば、一番頭にくるのは、手紙だ』

「それは――――いえ、まさか」

『数年前、蒼帝の即位を報せる手紙が俺の元に届いた。そこにはひとつ、簡単な文が付けられていた。俺しか読めぬよう、法術を為された、内々の手紙だ』

 辰星は言った。

『そこには、おまえの消耗と、この国から引きはがしてくれとの頼みが書かれていた』

 

 ――――いつの日か、うららかな陽のなかで、皇子おうじに語ったことがある。

泰青国たいせいこくの扶桑樹は、仙境の果てに在るまことの扶桑樹より流れ着いたただの一枝ひとえだ。ゆえに、この地に太陽はひとつのみ。その化身たる私も、所詮は代えの利く枝に過ぎぬのです」

 だから、と歳華は笑った。

「じつはここ百年ほど、私はとても、調子が悪うございまして。もしかしたら、いずれは土に還ることになるかもしれません。けれど、ええ、問題はございません。枯れた枝には、替えがある。新たな枝がまた流れ着き、中ノ原に恵みを振りまきましょう」

 それを聞いた陽駿は、ひどく泣いた。どうして、なんで、と悲しんだ。歳華はしまった、と後悔しながら、幼い皇子おうじの癇癪をなだめた。安心させたくて言った言葉で、こうも悲しませるなんて、思っていなかったからだ。

 陽駿はひとしきり泣いたあと、ぽつりと言った。

「……いつか、必ず、姉さまに恩返しを」

 小さな皇子の小さな誓いに、歳華は目を細めた。

「ええ、楽しみにしております」

  

 思えば、そうだ。

 陽駿は、歳華が国回りから帰ってくると、必ず使いを寄越してきて、なにかしらの差し入れをくれた。力を使った歳華が消耗し、隠れて臥せっていることを、知っていたのかもしれない。

 陽駿の、蒼帝の即位の日を思い出す。

 慣れぬ礼服に身を包み、よろしくお願いしますと頭を下げてくれたこと。皇帝ともあろうものが、ただの鴉に頭を下げるべきではない、と嗜めたこと。歳華はそのすべてをただ喜んで、今日は良い日だなどと感慨にふけっていたけれど、彼はもう、あの日には。

『俺は泰青国の在りかたが嫌いだし、おまえのやりかたも気に食わない。しかし、烏合の衆と言ったこと、自浄なき国と断じたことは、これを機に訂正する』

「……」

『あの、若き皇帝がいなければ、俺はまた、みすみす失っていたかもしれない』

 ああ、人は万華鏡のようだ。歳華がまばたきをする間に姿を変え、成長する。愛した姉を思えばこそ、心を鬼にし、もう貴方など要らぬと突き放す。

 大切だと思ったものののために、考え、選び、ひとりになっても前へ進む。

 歳華の愛した、人間のすがただ。

「――――う」

 肩が震えた。歯を食いしばって耐えても無駄で、歳華の両目からはぼろぼろと涙が溢れていく。武曲むごく輔星そえぼしがおっかなびっくり振り返るのを、辰星が「泣かせておけ」と止めた。

『そいつは泣くのが下手なんだ。上手くできたときは、好きにさせろ』

「……知ったような口を、叩きますね」

『知っている。嫌になるほど』

「そうですか」

 頬の涙を指で拭う。泣いて洗われた視界は、少し鮮やかになった気がした。いまならば見えるものも、できることもあるだろう。

「辰星、相談があります」

『戯言じゃないのならば聞こう』

「国境に集う泰青国の民の説得を、私に任せてはくれませんか」

『……最終的にはそのような交渉を、だったか』

「貴方に汚名を着せ、陽駿だって、危うい立場を生きている。私だけなにもせぬ、というのも道理に――――いえ、私の性に合いません」

『頼んでないことばかりしたがるな、昔から』

「そう、それです。そのときのように、振る舞おうと思うのです」

『なに?』

 歳華は顔を上げた。

 久方ぶりに泣いたなら、次することは、決まっている。

「恋にのぼせた愚かな女として、みなに幻滅していただきましょうかと」

 朝陽のようだと貴方が言った、この笑顔で告げるのだ。

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