泣いた朝陽がもう笑う ⑥

 案内された庁舎は、瓦屋根の大きな建物だった。石窟ばかりの恒玄国こうげんこくでは、あまり見ぬ造りだ。壁はゆるやかな弧を描いており、上空からは円形に見えていたように思うので、泰青国の円形集合住宅、客家土楼はつかどろうに近い造りをしているのだろう。ただし、壁材はあちらで主流の漆喰ではなく石材で、こちらの気候に合わせて工夫しているのが伺えた。

 庁舎には二十人弱の職員がいるのみだったが、全体では五十人ほどの拠点らしい。外で野良仕事をする者、資材の買い付けに出張する者、当番の関係で今日は非番の者など、いない理由はさまざまとのことだ。みな、西の出と見える獣人で、狐や猫の耳、あるいは鹿の角の生えた頭で、歳華たちにぺこりと礼をした。

 兎止水うしすいはみなに普段通りに働くよう告げると、歳華に尋ねてくる。

「さて、これからいかがしましょう。まずは畑をご覧になりますか」

「そうですね。いくつか気になる点がありますので」

「承知しました。武曲むごくさま、輔星そえぼしさまは、いかがします?」

 てっきり着いてくるかと思ったが、ふたりは「ううん」と首をひねった。

「じつは僕ら、ちょっぴり野暮用があるので!」

うーちゃん、ごめん。歳華さま、いい子にしてるんだよ」

「はいはい、さっさといってらっしゃいませ」

「「はーい!」」

 ふたりは雲舟くもぶねを呼び寄せると、洙水しゆすいの流れと逆方向へと飛んでいった。あちらは南方、すなわち泰青国の方角である。野暮用とやらが気がかりだが、捕虜の分際で口出しできることでもない。

 歳華は兎止水うしすいを伴って、圃場の細道を歩いた。研究用の区画と、生産用の区画があり、研究圃場で色々試してこれと決めたものを、生産圃場で規模を大きくして実用化しているらしい。研究圃場は、さらに細かな区画に区切られていて、それぞれにあわを撒き、よく育つ肥料や土、水の撒きかたなど、比較調査しているとのことだ。

「神獣様からすれば、あくびが出るほど、地味な研究でしょう」

 苦笑する兎止水うしすいに首を振る。

「いえ、むしろ勉強になります」

「勉強? 貴方が?」

「はい。私も頭のなかでは色々と考えておりますが、じっさいに試行錯誤した経験は、あまりなく。……泰青国では、こういった研究はほとんど行われませんから」

「あれほど、農耕が盛んな国なのに?」

「恥ずかしながら、私のせいですね」

 泰青国の人々は、なによりさきに、金鴉娘娘きんあにやんにやんに縋りつく。呼ばれた歳華は田畑に飛んでいき、芽吹きが悪ければ、神力を注いで成長を促し、病の予兆が出れば、すぐさま祓う。それで救われた命もあれば、歩みを止めた者もいるのだろう。

 あの国の農夫たちは、創意工夫を億劫がる。それどころか、作物の値段を釣り上げたいだとか、競争相手を蹴落としたいだとかのために、歳華に賄賂を送り付けて、「どこそこの農村には、恵みをもたらしてくれるな」なんて訴えるほどだ。無論、そのような手合いは相手しないが、なにもかもが神頼みな民草の姿勢は、放置したようなものだった。

「いまは、どういった肥料を?」

「いろいろ試してはみておりますが、結局、魚ですね。他国の書物では枯れ葉が奨められますが、木の繁らぬこの国で仕入れようとすると、非常に高くつきます。その点、魚なら空を泳いでいますから」

 兎止水うしすいは天を仰いだ。空を横切る洙水しゆすいの流れのなかに、銀の鱗がかすかに光る。

「恒玄国の魚は、穹水そらみずで星の光を喰らって育つ。かたちは魚ですが、その内実は、草木に近いのでは、と睨んでおります。実際、肥料にして得られる効果も、草木のそれに近い」

「そうですね。穹水そらみずの魚の命言葉いのちことばには、光を力に変える仕組みに関係する詩が何篇かありますが、その節回しや語彙は、草木の命言葉によく似ております」

 歳華が返すと、兎止水うしすいは目を見開いた。

「命言葉とは」

「ああ、すいません、私が付けた、適当な呼び名です。……私の目は、ぐぐいと力を込めると、生き物の命に刻み込まれた言の葉を読み解けるのです」

「命に……ですが? それはまじないで言うところの、運命、のようなもので?」

「いいえ、未来に触れるような力は、いっさいございません。病に罹りやすい、罹りづらいなどは読めますが……そういう、生まれ持った性質が、お品書きのように記されているのです」

 歳華の読む命言葉には、その生きもの全体の特徴も、その個体のもつ特徴も、どちらもつぶさに書かれている。瓜二つの武曲むごく輔星そえぼしも、命言葉には性差という大きな特徴が刻まれているため、歳華には見分けがつく――――そもそも本人たちが名前を入れ替えてしまうので、かえって困惑する羽目になるのだが。

「それは、摩訶不思議な……」

「神の力のなかでは、地味な部類ですよ。恐らく人でも読み解けることですし」

「面妖な呪術によって?」

「ううん……命言葉は、形而上のものではなく、現実に書かれたもの。薬学が発展すれば、解き明かせるのではと思っております。無論、遠い、遠い未来になりましょうが」

「貴方がそう言うとなると、私にとっては途方もない話ですねえ」

 兎止水うしすいは一瞬の間のあと、ぽつりとつぶやいた。

「そこには白髪の多寡も書かれていますか? 兎の耳の垂れる、垂れないも?」

「はい、もちろん」

「私の父も、私によく似た、まっすぐ伸びた耳を持ち、早々と白髪になりましたが」

「それはきっと、親御様から、詩をもらったのでしょう。命言葉は、親から子へと伝わるもの。草も人も、次代に言葉を伝えながら、生きている」

 歳華は畑の前で腰を折り、下裳したもを汚さぬよう押さえてしゃがみ込んだ。

「この子たちの故郷は、中ノ原の北西ですね?」

「命言葉には、そのようなことも?」

「いいえ、はっきりとは。しかし、詩の中身を読むと、おおまかな出自は、分かります。寒さに強く、わずかな陽の光でも生きていける。そういう子たちですね」

「そう期待して、育てております。……私と、同じ生まれです」

「――――そうですか、貴方は西方から」

 辰星も言っていた。洙園しゆえんを作ったきっかけは、西の内紛だと。

 西は昔から、神獣白虎が治める地なのだが、異郷の神々との戦い以降、神獣はすがたを見せなくなってしまった。そこから西では、短命な王朝の興亡と、断続的な戦乱が続き、とくにここ千年ほどは、ひどい戦国の世となっており、遠く泰青国にも亡命する者がいる。

 西由来のあわの、薄緑の葉が風に揺れる。

「貴方は、あちらでも、あわを?」

「幼いころに。私の故郷は畑作りがさかんで、西では平和な部類でした。ですが……」

 兎止水うしすいは黙り込んだ。西で生まれた者が恒玄国こうげんこくで暮らす理由が、穏やかなものではないことは、誰の目にも明らかだった。話してくれるのならば、と黙って待っていたが、彼は笑って誤魔化して、あわ畑に向き直った。

「ご覧の通り、洙園しゆえんの作物はあまり元気がございません。あわだけでなく、芋も、きびも、似たようなありさまです。このあたりはそう寒いわけではないはずなのですが。一方で、作物が病気にかかるということも、とんとない」

「それは、病の原因になりうる、細かな生きものたちが苦手とする土地柄ゆえですね」

「細かな……生きもの? ありや、油虫あぶらむしのことですか?」

「もっと、もっと小さな生きものです。目には見えぬほど、小さな命です」

 歳華の目にも、それらのすがたは映らない。けれど、気を研ぎ澄ませると、、たしかにそこにあるのだと、感じることができる。

「土の中にも、草木の葉の周りにも、たくさんの、小さな生きものが棲んでいるのです。彼らは病を運ぶこともある一方で、土と根とを結びつけて、植物の育ちを良くすることもございます。しかし、恒玄国こうげんこくの清涼な水は、彼らを遠ざける性質がある」

「……ゆえに、ここの作物は、土との結びつきが弱いと?」

「さようでございます。しかし逆に言えば、そこをちょいと工夫すれば、育ちはぐぐっと良くなるはず。恒玄国こうげんこくにも、それらがまったくいない、というわけではございませんし」

 歳華は微笑んだ。

「できることはいろいろと。さきほど申し上げた命言葉も、強いあわを作るにあたっては、役立つでしょう」

「そうか、大きいものと大きいものを掛け合わせて、大きな作物を作ることの本質は」

「命言葉にございませす。昔から人々が試してきたように、強いと強いをかけ合わせれば、強い子どもが生まれやすいですが、一方で、言葉には誤謬がつきもの。命言葉に、誤謬と誤謬が揃ってしまうと、病気になることもあります」

「王族の近親婚で、身体が弱い子が生まれるように?」

「まさしく。さすが洙園しゆえんの長、呑み込みが早くていらっしゃる」

 泰青国の皇帝たちに言って聞かせても、匙を投げられるのがほとんどだった。そして、仮に理解できたとしても、結局歳華が全部片付けるので、本気で学ぶ意義も薄い。

 しかし兎止水うしすいは、真剣な面持ちでうなずく。

「この土地に合った、育ちやすい作物を作ることと、小さな生きものの力を活かすこと」

「その二本柱で取り組めば、多少は実りも増えましょう。私が神力で行うことも、根底はそれらにありますから」

「……願うだけで、花畑を生むあなたも?」

「願いは、具体的でなければ、効果が目減りします。料理人に鍋をと頼むだけでは、具材は望んだものにはなりませんでしょう? たまにこう、考えすぎて頭がくらくらしたりもするのですよ」

「……」

「ですから、その…………兎止水?」

「ああ、いえ……」

 兎止水の長い耳が、てろんと垂れた。眉を下げて笑いながら、頬をかく。

「その……なんというか……自分の見聞の浅さを恥じておりました」

「ええ⁉ いえ、これでも神獣ですから、私しか知らぬことがあるのも当然で」

「いえ、いえ、違うのです……私は自分のなかの、神への偏見を思い知りました」

「……神への、偏見?」

 兎止水はそれからしばらく悩んだのち、こう言った。

「貴方がたは我々のように考え、悩み、試行錯誤することなど、ないのだろうと」

「……それは、面映ゆい幻想ですね」

 歳華はとくに、失敗してばかりだ。目の前の感情に流されてしまうことも、これはもう変えられぬと、諦めてしまうことだって多い。

 それでも人が、歳華の力を求めてくれたからこそ。

 さも万能のようなふりをして、この翼で飛び続けた。

「私は、最初、ほっとしてしまったのです」

 兎止水は、ぽつぽつと語る。

「玄龍君が神力の使用を禁じていると聞いたとき、安堵した。もし、神が指一本でこの圃場を茂らせるのならば、我々の、私の努力に、どれほどの価値があろうと」

 洙園しゆえんが生まれたのは、数百年前。始まりは辰星の哀れみだったかもしれないが、ここに働く人々は、自分の遺志で心血を注いだ。そうでなければ、王の食卓に並ぶようなあわが、不毛の地で実るようになるはずもない。西を追われ、多くを失った獣人たちが、それでもなにかを為そうと、戦い続けた、穹水そらみずの下の農園。

「貴方がなにを思い、なにを考えていようと、我々とのあいだの隔たりは、依然として、大きい。貴方がたが雲舟くもぶねで半日で飛ぶ距離を、羽虫は一生かけても飛べない。そのような一生に、さほどの意味はないでしょう。けれど、意味があってほしい、と思ってしまう」

「貴方にとっては、この圃場が、生きる意味である、と」

「そう、信じていたいという、分不相応な我が儘ですが」

 なんと、いじらしい我が儘だろうと思った。

 思ってしまったあと、自らの思考に待ったをかけた。

(――――いけないいけない、私はすぐ、人を可愛く感じてしまう)

 兎止水が求めているのは、慈悲でも、愛玩でもないのだ。自らの手でなにかを為したい、世界に爪を立てて去りたいというその思いは、他者に与えられるものでは満たせない。

 自ら前に進み、なにかを摑むしかない。

 泰青国で歳華はさまざまな人間を見てきた。兎止水のような心持ちで生きていける者が、けっして多くはないことも知っている。人が、あるがままで世界を善くしていけるのなら、そもそも白虎亡き西が、あのように荒れることもなかろう。

 けれど、たしかにいるのだ。未来を求め、自らの足で進むことを望む者が。

「きっと、多くの人々も私と同じではと思います。神や、あるいは、上に立つ者の心の内について考えることをせず、最初から理解できぬものと遠くにおいてしまう」

「…………遠くに」

「自分がそれをされたら、きっと、寂しいのに」

 脳裏に幾人かの影が浮かんだ。哀れだ可哀想だで片付けて、寄り添わなかった人々を、思った。歳華のやりかたを疎み、会話を拒んだ皇帝がいた。宮廷のいざこざに病み、なぜ政敵を殺してくれないと、歳華を責めた皇女がいた。歳華に宝剣を向けて、要らぬと言い放った青年がいた。

(――――私が、悩み、考えながら、なにかを選ぶように)

 みなだってまた、思い、考え、生きているのだ。

 それは陽駿も――――辰星だって、そうだろう。

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