泣いた朝陽がもう笑う⑤

 そのまま半日ほど雲舟くもぶねに乗っていると、洙園しゆえんのすがたが見えてきた。切り立った岩山の隙間に、唐突に現れる圃場は、この国においては一種の奇景だ。

 穂を結ぶ前のあわ畑が、薄緑の葉を茂らせている。

「やはり、水操術で水を流しているのですね」

 恒玄国こうげんこくに降った雨は、穹水そらみずとなって天を往く。他国を流れる大河のように、大地を潤すことも、野山の養分を運ぶこともない。転がるのは大ぶりの礫ばかりで、土や砂とはほとんど出会わない。根本から、農耕に不向きな土地なのだ。

 しかし、洙園しゆえんには地を這う河が通っていた。付近を通る洙水しゆすいから、水をいくらか拝借しているのだ。大規模な水操術を動かしているのは、農園の中央にある楼だろう。数百年前と言っていたが、辰星の術はじつに強力で、劣化の気配はない。

 ちょうど真上に差し掛かったところで、雲舟くもぶねは下に降りた。地表は風もゆるく、落星橋に比べると、ずいぶんと温かい。

「「よーし、着いた着いた!」」

 武曲むごく輔星そえぼしは舟を飛び降りると、積み込んだ荷物を風で浮かし始める。そのまま園内のあちこちに風で運び始めるので、歳華の出る幕はなさそうだった。長く座っていたせいか、立ち上がろうとしたおりに、眩暈がした。歯を食いしばって堪えると、ふたりが振り返る。

「だいじょうぶ? また、頭痛い?」

「僕らを撫でないからそうなるんだ」

「馬鹿を言わないでください。……ただの疲れです、お気になさらずに」

 微笑みを浮かべて告げて、洙園しゆえんを見回す。上からも広いと感じたが、中に降り立つと、ことさら広い。踏みしめた土は黒くやわらかで、恒玄国こうげんこくでは、ほとんどありえぬものだ。まさに、神の力が生み出した奇跡だろう。

(……けれど)

 ここに育つあわはみな、活気に欠ける。原因を探ろうと、畑に歩み寄ったところで、後ろから声がした。

「これはこれは、武曲むごくさまに輔星そえぼしさま。本日いらっしゃるとは、知りませんで」

 振り向くと、穏やかな顔立ちの男性がひとり歩いてくる。白髪混じりの長髪を低い位置で結って、恒玄国こうげんこくでは珍しい、生成りの袴褶はかまを着ている。頭からぴょんと伸びる長い耳は、兎のそれだった。

 武曲むごく輔星そえぼしが、大きく手を振る。

「やっほー、うーちゃん!」

「元気してたー?」

「はい、おかげさまで。芳しい報告がなかなかできず、歯痒くはあるのですが」

「しょーがないしょーがない!」

「じっくりゆっくり根気よくー! 仕事とは百年かかるもの!」

「ははは、貴方たちの感覚で働くと、あっというまに寿命が来てしまいますね」

 男性は苦笑ののち、歳華を見やる。

「はじめまして、私は兎止水うしすいと申します。貴方は……?」

「ええと、私は泰青国の……」

 そこまで口にしたところで、名乗っていいものかためらった。辰星の単身での侵攻が、この国でどう伝わっているか、分からなかったからだ。しかし、歳華の気遣いなど素知らぬ風で、武曲むごく輔星そえぼしが胸を張る。

「ふふふん、聞いて驚け、見て笑うのだ」

「このかたはなんと、泰青国の神獣、金鴉娘娘きんあにやんにやんなのだ!」

「はい? いま、なんと?」

 長い耳をぴんと伸ばした兎止水うしすいに、ふたりが頬を膨らませる。

「聞こえないふりしないで! うーちゃんの耳がいいって、知ってるんだからね!」

「ちょっと前に、玄龍君がこのへんを通っていったでしょ? そのとき連れててきたの」

「それは……なんと……」

 兎止水うしすいは目に見えてうろたえた。他国の神獣が突然現れたとなって、どんな態度をとるべきか分からなかったのだろう。気の毒に思いつつ、声をかける。

「はじめまして、名は歳華と申します。金鴉娘娘きんあにやんにやんなどと呼ばれることもありますが、名のほうで呼んでいただけると幸いです。気を抜いてというのも難しいでしょうが、どうかこの子たちに接するときと、同じようにしてくださいな」

「あっ、この捕虜、大きく出たぞ! 僕らと同列を望むとは何事か!」

うーちゃん、いまは僕らが上司だからね! 惑わされてはなりませんぞ!」

「な、なるほど……肝に銘じます」

 兎止水うしすいはぎこちなく微笑んだ。歳華も合わせて微笑みを浮かべる。

兎止水うしすいは、洙園しゆえんの官吏ですね?」

「はい。洙園しゆえんの長を務めております。あわの世話をしつつ、収穫量の改善のため研究に励む身であります」

「それは素晴らしい」

「めっそうもない。私のことなどより金鴉きんあ……いえ、歳華さまといいますと、春と芽吹きを司る、太陽そのもののようなおかたでしょう? 洙園しゆえんに恵みをもたらさんと?」

「え、ええと……それはですね、その、なんというか」

 あまりの情けなさに、視線が地面に行く。

「本来ならば、指さきひとつで森や草原を生み出せるのが、私の力です。しかしいまは、玄龍君から、力を使うなと厳命されておりまして……助言程度が精一杯です」

「……そうですか。むしろ、ありがたいぐらいです」

「え? ありがたい?」

 落胆される覚悟で言えば、思いがけず晴れやかな声が返って、ぽかんとする。見上げたさきの兎止水うしすいは、声と同じく、穏やかに笑っていた。

「神獣様からご助言いただけるとは、またとない機会。みな、大層喜びますよ」

「そう……ですか?」

 ありがたがられるほどのこととは到底思えず、なんだか狐につままれたような気持ちで、兎止水うしすいの長い耳がゆらゆら揺れるのを見つめた。

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