泣いた朝陽がもう笑う④

 洙園しゆえんに行けと言われてから一刻そこらで出発の準備は整った。もとより纏めるほどの荷もなく、矢立やたてと筆と紙、それから多少の着替えを用意すれば、旅支度は終わりだ。一方、武曲むごく輔星そえぼしのほうは、それなりの大荷物だった。もっとも、本人たちの荷物というより、洙園しゆえんに運ぶ荷という様子である。

「ごめんごめん、おーまーたーせー!」

「歳華さま、いい子で待っててえらい!」

 手を振るふたりの後ろでは、大小さまざまな荷袋が風に浮いている。急かされるままに扉をくぐると、湖を抜けてきた冷風が、びゅうと耳を突き刺した。

 落星橋はその名の通り橋のため、上に出ると、風を遮るものがなにもない。

 天空を仰げば、国中から注ぐ穹水そらみずが、絡まる糸のように綾を成している。垂れこめる雲の狭間から、雪がはらりと舞い落ちてきた。極寒の恒玄国こうげんこくの雪は軽く、花びらのようにも、鳥の花のようにも見える。

 辰星に嵌められた足枷が、肌を冷やした。

「見事な瑞花ずいかですね」

「東に住んでると、雪は珍しい?」

「そうですね、華胥城のあたりはあまり。北のほうはむしろ、悩まされるぐらいですが」

 何年か前、都に雪が降ったときは、陽駿が外を気にしていた。遊びにいきますかと声を掛けてみたものの、もうはしゃぐ歳ではないからと断られたのを覚えている。歴代の皇帝たちとも、雪にまつわる思い出は多い。珍しいものだからこそ、印象に残る。

 吹きすさぶ風のなか端まで歩けば、白い細雲が、へりの部分に留まっていた。雲舟くもぶねといい、龍が天を往くときに、舟替わりに喚び寄せて使う。武曲むごく輔星そえぼし雲舟くもぶねは大きく、ふたりの力の強さが伺えた。

「ちょっと待ってね」

「さきに荷物置いちゃうから!」

 宙に浮かんでいた荷袋が、ぽんぽんと舟に置かれていく。ふたりがぱんと柏手かしわでを打つと、舟の真ん中に坐具が生まれた。

「はい、歳華さまはここ」

「落ちないように、真ん中に座っといて」

 馬鹿にされている感が否めないが、一応は気遣いなのだろう。大人しく腰を下ろすと、ふたりが両脇に座り、呪言を口にする。雲舟くもぶねはなめらかに、空へと漕ぎ出でた。

 はらはらと舞い落ちる雪を、手のひらで受け止める。融けた水が肌に染みていくのを、じっと見つめる。

(なんとまあ、おかしな事態になりましたね)

 ほんの少し前までは、うららかな陽の注ぐ華胥城で、せわしくも楽しく過ごしていたというのに。歳華の生活は一変して、花々の色彩は彼方に遠ざかった。そして、うら寂しい北の国で、灰色の空と雪の花を眺めている。

 

 かつて。

 かつてはこの地で、あの龍を支えて生きたいと願ったことも、あった。

 

 本気で思った。だから、伝えた。三千年の昔、泰青国が起こる前の話だ。異郷の神々との陰惨たる戦で、数々のものを失い、傷つきながらも、中ノ原を守り抜いた辰星に告げた。


『貴方のおそばで、貴方のために、尽くさせてください』

 あの頃のふたりは、いま以上に気安い盟友だったのだけれど。友人としてのふるまいは敢えて脇に避けて。深く頭を垂れて、懇願した。

 貴方のために生きさせてくれと、乞うた。

 ――――好き、だったのだ。

 戦場に向かう、すくりと伸びた背中を、美しく思った。帰ってきて息を吐く、穏やかな目元を、愛しく思った。真顔で口にする冗談には何度も笑ったし、ひとり静かに空を見る、寂しげなまなざしにも、心を奪われた。

 あの戦において、歳華の役目は後方からの支援だった。神のはしくれ、まったく戦えぬわけではなかったが、補給線を維持するという大命から前に出ることは極力避けるようにと仰せつかっていた。一方の辰星は、前線の中核であった。誰が流したとも分からぬ血を身にまとい、歳華のもとに帰ってきては、こう言った。

 ――――ああ、朝か。

 ――――ふふふ、言葉遊びとは、心に余裕があるのですね。これから夜じゃないですか。

 ――――いや、おまえの顔を見たら、ぽろっとな。

 ――――我が身は太陽の成る枝にて、朝陽に通ずるものもありますか。

 ――――そうややこしい話ではないだろう。

 ――――といいますと?

 ――――おまえの笑顔は、朝陽に似てる。それだけだ。

 そんな、ふうに。

 そんなふうに、歳華の前で、目を細めてみせるから。

 もっと、笑ってほしくなった。早く、穏やかな日々を与えたかった。東の青き龍が散り、北の玄き亀が沈み、南の朱き鳳が堕ち、西の白き虎の槍が鈍り、麒麟がその身を差し出しても。死屍累々とした中ノ原で、最後まで剣を握り続けた彼に、寄り添いたくて。

 長き戦いの終わりに、歳華は告げた。

『貴方のためならば、なんだってできる。――――この命も、惜しくないのですよ』

 愛さなくていいから、愛させてほしい。なにもくれなくていいから、捧げさせてほしい。そんな、歳華の想いは。

『結構だ。そんなもの、頼んでない』 

 ――――あの鉄面皮に、見るも無惨に破り捨てられたわけだ。

 

(いやまあ……その……私もちょっとのぼせすぎというか、重すぎというか……ちょっと、ちょっとだったのは、認めますけれどね……)

 辰星の言う通り、彼はただの一言も、献身など求めていなかった。あの頃、辰星を想う女は多く、戦で没した先王の代わりに恒玄国の玉座に就くとあれば、引く手も数多だった。そのすべてをすげなく断った男が、自分だけはそばに置いてくれるかもしれないなどと、よくもまあ、思い上がれたものである。

 ありがた迷惑も甚だしい、という話だ。

 とはいえ、俯瞰して考えらえるようになったのも、ほとぼりが醒めてからであり。ふられたばかりの歳華が、半ば自棄になって扶桑樹の下に創り上げた国が、今日こんにちの泰青国である――――というのは、さすがに脚色の面が強いが。しかし、あの国の根本が、歳華の勝手な奉仕欲の発散に端を発するのは、薄暗い事実である。

 助けたかったから、助けた。

 救いたかったから、救った。

 あぶく銭を賭けに使い込む人間と、さして変わらない。歳華は、瞬間的な衝動のままに誰かに手を差し伸べる。その行動のなかには、大局的に人に毒となることも、多くあったのだろう。ゆえにこそ、陽駿から不要の神獣と切り捨てられた。

 所詮は、ありがた迷惑の尽くしたがり。辰星にふいにされたころと、やっていることは、さして変わらない。

(そこまで、分かっちゃいるのですけれどねえ)

 頭上で、轟と音を立てるものがある。見上げれば、南からの穹水そらみずが、ちょうど上を横切っていた。きんと冷えた大気のなかでも、不思議と凍ることはなく、透徹と澄んだ空の河。

 これこそが、辰星の国だと思った。

 巡り巡り、巡り続け、淀みも甘えも許さず、強きが生き残る、浄の国だ。歳華のような甘ったれを必要とはせぬ国。

「――――なのに、なんで」

 思わず口にすると、両脇で子どもたちが言った。

「どうしたの、歳華さま」

「また落ち込んでるの?」

「いえ。ただ、不思議で」

 穹水かわの音のなか、言葉はするりと流れ出た。

「辰星はどうして、いまさら泰青国たいせいこくに攻め入ったのでしょう……なぜ、私をよこせなどと言ったのでしょう」

 辰星が泰青国たいせいこくを疎んでいることは知っていた。

 一応は同盟国同士、玉石と穀物を交換する貿易が続いていたが、それはあくまで、民草同士の話だ。皇帝が即位するたびに書状を送るものの、辰星が即位の儀に顔を出したことはただの一度もなく、ごくまれに歳華と言葉を交わしても、やれ甘えた国だとか、いなごの集まりだとか鼻白むばかり。ひと昔、増長した皇帝が国境を侵そうとしたときは、頭を地につけ謝罪する歳華を、「いい。赤子の世話をしていれば、こんなこともあるだろう」とあざけった。

 いつか、我慢の限界がきても、おかしくはないと思っていた。けれど、此度こたびの侵略で、辰星はただ、歳華ひとりを連れ帰った。

「私なんて、どうでもいいと思っているでしょうに。まったく、わけが分かりません」

「「……」」

 武曲むごく輔星そえぼしは、顔と顔を見合わせると、両脇で大きく息を吐いた。

「「はー……」」

「こら。なんですか、その態度は」

「べっつにー。なーんも思ってないよ」

「そうそう、僕たちもとっても不思議」

「……なんだか、耳に引っかかる言いかたですね」

 歳華が睨むと、ふたりは首を傾げ「「気のせいじゃなーい?」」と声を合わせた。

 

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