泣いた朝陽がもう笑う③

 漬物が思いのほか塩辛くて、歳華は箸を置いた。白湯さゆで舌を和らげてから、魚へと箸を伸ばす。こちらはかなりの薄味で、漬物と交互に食べてちょうどいい。主食のあわは東方の米に比べると硬いが、さっぱりしていて美味だった。

穹水そらみずの魚は、豆腐に風味が似ていますね」

「ああ、最近流行っているという、豆料理か」

「最近って。流行り始めて何百年、下手したら千年は経っていますよ」

「最近じゃないか」

「否定はしませんけども」

 恒玄国こうげんこくの食事風景は、泰青国たいせいこくのそれとは大分違う。しようのたぐいは置かず、石床いしゆかに布を敷いて、机上の皿をつつく。歳華の感覚では、古い時代の礼法だった。並ぶ料理も趣きは違うし、運ばれてくる飲み物も、茶ではなく白湯だった。そもそも、恒玄国こうげんこくには、食事への依存が低い龍の種族が多く、高位の仙龍は霞と水だけで生きていける。力をもつ者ほど、食事には無頓着なのだ。

 その筆頭であるはずの男は、歳華のむかいで、大人しく箸を動かしていた。

「あの玄龍君が毎日朝ごはんだなんて。昔は『俺は水だけで生きられる』と威張っていたくせに、変わるものですねえ。長生きをしたら、娯楽が恋しくなりましたか」

「まさか。おまえに合わせているだけだ。どこぞの居候は、人の真似をして食事を摂るのが習慣らしくてな。攫ってきた以上は、と、気を遣ってやっている」

「ははあ、気遣い」

 いろいろと言いたいことはあったが、口争いをしたところで、食事がまずくなるだけだ。それは作り手に失礼だろうと、歳華は嫌味を控えて、箸を動かした。

 恒玄国の料理は味が濃い。実りに乏しい北の地では、食材のほとんどを、遠方から運ばれる保存食に頼っているからだ。唯一安定して採れるのは魚で、これは新鮮なものが運ばれるため、薄味だ。そして、調味が薄くなると、今度は水の違いが顔を出す。少し苦みのある水には、この国の玉石ぎよくせきが融け込んでいるのだろう。

 白湯を口に含み、そっと呟いた。

「ここは、石と水の国ですね」

 玻璃硝子越しの空を見やれば、天を往く河たちが、陽に透けて光っている。恒玄国の河は、地ではなく、天を往く。この国の者はただ「かわ」と呼ぶが、異国の者は通常の河と区別し、「穹水そらみず」と呼んでいる。

 大地を潤さぬ不浄の水脈みおが、この国が龍の国たる所以だ。

(大昔、米と砂利ぐらい違うだとか言っていましたっけ)

 故国の水とこちらの水はどう違うか、と問うた歳華に、辰星は真顔で返したのだ。贅沢ですよと笑うと、「分かっている」と鼻を鳴らすのが子どもっぽかった。

 しかしまあ、この風景を知ると、そう言いたくなるのも当然かと思う。

 辰星のような神獣から、武曲むごく輔星そえぼしのような仙龍、さらに位の下がる龍人まで、恒玄国こうげんこくには数多の龍が集まる。彼らは往々にして寿命は長く、清き水を主食とする。龍たちにとっては、恒玄国こうげんこくを包む北斗の大気と、濁りにまぬ水こそが、なによりの糧なのだ。

 恒玄国こうげんこく穹水そらみずは、ただひとつの湖に集まってから、天を巡る雲となる。その湖の名は、落星湾らくせいわん。そして、湖上に建てられた巨大な橋が、この国の都である、落星橋らくせいきようだ。

「絶景だろう。おまえには、いささか勿体ないかもしれないが」

「……もしかして、根にもってます?」

「それほどでもない。千年も経てば忘れる程度の嫌味だ」

「しっかり本気じゃないですか!」

「なにを言う。本気の感情が、千年程度で朽ちるものか」

 辰星が箸を置いた。見れば、皿が空になっている。

 金のひとみが、歳華だけに向けられた。

武曲むごく輔星そえぼしが、嘆いている。おまえは放っておくと、だらだらと物思いに耽るばかり。せっかく遊んでやっているのに、身が入っていない様子だと」

「……あのですねえ。あの子たちと遊んであげてるのは、むしろこっちなのですが」

「なにを言う。ふたりはきっかりと仕事をこなしているだろう。一方おまえは、暇を明かして横になり、落ち込んでいるだけだ」

「そりゃ、落ち込みもしますよ。貴方の岩石頭じゃ理解できないかもしれませんが、私は愛した国から放り出された立場なんです。ちょっとは慮ってくださいな」

 実際問題、歳華の気力はすっかり折れてしまった。泰青国たいせいこくを支える、という生き甲斐を失えば、なんのためにここに在るのか分からなくなるのも当然だろう。

 剣を向けてきた陽駿の、冷たいまなざしが頭を過ぎる。

「駿……ああ、かわいい駿……貴方の成長を喜べぬ、駄目な姉様でごめんなさい……」

「また、家族ごっこに興じていたのか。よくもまあ、飽きないな」

「飽きるものですか。人の子はみな、愛おしい。なにを捧げても、惜しくないほど」

 二十にも満たぬ陽駿との思い出はそう多くないが、どれもが彩りに満ちていた。ともに笑ってくれたこと、歴史を教えてくれとせがまれたこと、即位の日、慣れぬ礼服に身を包み、よろしくお願いしますと頭を下げてくれたこと。皇帝ともあろうものが、ただの鴉に頭を下げるべきではない、と嗜めたこと。すべてが遠い、遠い過去だ。

「うっ……思い返したら、ごはんの味が遠のきました……せっかく美味しく作っていただいたのに、申し訳ない」

「……」

 辰星が大きく息を吐いた。

「なるほど、腑抜けた国が育つわけだ」

「……どういう意味です」

「どうもこうもない。赤子と遊ぶようにすべてを与え、すべてを許して、恵みを振り撒き続ける太陽。その結果が、あの烏合の衆だろう」

「辰星」

 箸を置き、顔を上げる。

泰青国たいせいこくを愚弄するのでしたら、ここを戦場とするのも、やぶさかではありませんよ」

「事実だろ。敵将が現れても逃げ出すばかり、やれ金鴉娘娘きんあにやんにやん、お助けください。聞けば都には汚職も多く、国庫の管理も不行き届きだったそうではないか。無益な増税を重ね、農村が困窮すれば、鴉が飛んでいき、神の恵みで辻褄を合わせるときた」

「……」

「たしかに、かの国に飢えはない。見えるかたちの不幸も、少ないだろう。しかし、天に甘やかされ続けた人間は、自らなにかを選ぶ強さを失う。無能な政治家に反発することもなく、なあなあに片付け続ければ、自浄の作用も失われる」

「自浄、ですか。水を司る貴方らしいお言葉ですこと。その論でいきますと、最初に浄化された汚泥こそが、私なのでは?」

 歳華は微笑んだ。

泰青国たいせいこくの若き皇帝は、自らの手で、鴉のいない明日を選びました。旧い泥を濯ぎ落とせば、清かな水も流れましょう。貴方好みの結末です」

「詭弁だな。恐怖のあまり動転して、おまえを差し出したとは思わないのか」

「駿はそんなに愚かな子じゃない――――というのは、当てにならぬ雑感ですが」

 なにせ、要らぬと言われるだなんて、予想だにしなかった者の言葉だ。あらぬ思い違いをしていても、おかしくはない。

「貴方を恐れたにせよ、そうでないにせよ、駿はなにかを決めるときに、自分で考えようとする子です。考えたすえの結論だというのなら、私は尊重したい」

 辰星の指摘するように、泰青国たいせいこくはけっして、清いばかりの国ではなかった。汚職や暗殺、醜い権力争いも多く、ぼろぼろの国を歳華の力で無理やり縫い合わせていたようなものだ。しかし陽駿――――蒼帝には、あの国の根本を替える手腕があると見込んでいた。

「つまり、仮に解放されたとしても、国に戻る気はないと」

「駿が私を求めるか、駿が討たれるか、あるいは泰青国が荒れ果てない限りは。ふたつの支柱が国にあれば、要らぬ火種を生むばかりですから」

 彼が自分に向けた宝剣を思い出す。

 泰青国たいせいこくの扶桑樹は、ひとつでよいのだ。

「蒼帝は、おまえが自ら『捕虜になる』と申し出た、と喧伝しているらしいぞ」

「当然じゃないですか。皇帝が金鴉娘娘きんあにやんにやんを売ったとなれば、さしもの民草も黙っていません。そのように騙るのが、道理ではないですか?」

「……おまえ、そこまで物分かりのいいやつだったか?」

「そういうふりを、しているだけです。気分はもう、最悪。――――私は駿に、『ともに歩もう』と言われたかったんです」

「……」

「そう、言ってもらえるものだと、思っていたのです」

 辰星が、唇を斜めにした。

「……腹が立つ」

「はい? なにが?」

「なんでもない。ひとりごとだ」

「これはこれは、ずいぶんハッキリしたひとりごとですね」

 まあたしかに、歳華の人間への甘さは、辰星には受け入れがたいものだろう。なにせ、泰青国たいせいこくを烏合の衆と言い切るような性分だ。

「不愉快な思いをさせて恐縮です。とはいえ、そもそもの発端は貴方でしょう。それで? どんな事情があって、侵攻なんてしたんですか?」

 この国にやってきてから、幾度も問うたことだ。返す辰星の言葉も、いつも通りだった。

「事情なんてない。ただの私利私欲だ」

「誤魔化しかたが下手すぎます。貴方、私に執着なんてないでしょう」

「そう見えるか」

「見えます。まるっとお見通しです。賢帝と名高き玄龍君が、三千年の平和をぶち壊した以上、なにか理由があるはず。この私に頼らざるをえない、事情が」

 歳華は、春の芽吹きや、草木の茂り、つまりは恵みをふりまく力をもつ神獣だ。雷雨を操る辰星が戦に優れるのとは対照的に、民草を支えてこそ、真価を発揮する。

「どうせ縋ってくるなら、もうちょっと穏便な方法を取れ、と思いますが。私の力で助けられる誰かが民がいるのなら、力はお貸ししますよ。ですから、いい加減に腹を割って、事情を話してはくれませんか」

「……頭の鈍い女だ」

「ちょっと⁉ 仕方ないでしょう、自国ならともかく他国、それも水ばっかり飲んでる龍の国ですよ⁉ どうして私を呼び寄せたのか、分かるもんですか!」

「はあ」

「失礼! 失礼ですよ、そのため息は!」

 肩を怒らせる歳華を流し見て、辰星はまた、ため息を吐いた。

「まあいい。おまえに期待はしていない。せいぜい、思い知るまで喚いておけ」

「こ、この……むやみやたらと偉そうに……」

「しかし、城に閉じ込めたところで、塞ぎ込むばかりだろうというのも目に見える。かといって、外に出せば、勝手に張り切り、頼んでもいないことをに心血注ぐのもまた、目に見えている……なら、仕方ないか」

「仕方ない? 仕方ないって、なに……え?」

 歳華は目を見開いた。皿や箸、果ては盆の乗る卓まで、宙に浮き始めたからだ。原因は勘ぐるまでもない。風を操る風操術、辰星の神力によるものだ。

 遮るものが亡くなったところで、辰星が身を起こした。

からす、足を出せ」

「……はい?」

「だから、足を出せと言っている」

「くり返せってことじゃないんですよ! 説明を! 私は説明を求めているのです!」

「説明などせずともすぐに終わる」

「貴方はどうしてそう、言葉を面倒がっ……ぎゃー!!」

 遠慮もなく下裳したもを捲り上げ、襦袢もべろりと開く。ほとんど押し倒されたような体勢で、歳華は耳を真っ赤にして叫んだ。

「最低! 最低です! いきなりすることですか⁉」

「おまえが足を出さないのが悪い」

「貴方の説明が足りないせいでしょうが!」

「ふむ」

 辰星は露出した足首に指を這わせると、感触を確かめるように、するりと撫でた。

「枷は、ここでいいか」

「そんっなことだろうと思いましたよ!」

 分かっている。天衣無縫の朴念仁が、歳華の身体を暴こうとするはずもない。分かっていても、一瞬、恥じらってしまったのが悔しい。もっと暴れてやろうかと思ったが、こちらに向く金の目を見たら、言葉が失せた。

(どうして、そのような)

 痛みに耐えるような顔で、こちらを見るのかと。声を呑み込んで黙りこくれば、辰星のくちびるが、呪言を唱える。

「――――龍雲玉華りゆううんぎよつか

「うっ……」

 歳華の足首を、冷たい風が吹いた。それをなぞって、白い影が生まれる。小さな蛇にも似た、細い雲だった。巻きついた雲はやがて凍り付いて、足枷へと転じた。

 それが顕現しきると同時に、言い知れぬ不快感が襲い掛かる。

「……これ、は」

 凍らされた、と思った。肉体の奥の奥、神の力が凍らされた。

「ふむ。物は試しとやってみたが、成功したようだな」

「ぶっつけ本番で、なんてことしてくれてるんですか、貴方」

「気分は」

「いいわけがないでしょう。最悪も最悪、怒る気力すら抜けていきます」

「だろうな。力の大部分を凍らせた。いまのおまえは、せいぜいが下位の仙獣だ」

「なんという横暴ですこと」

「捕虜が文句を言うな」

 辰星は足枷を点検したあと、「飾りが足りないか」とつぶやいた。ふたたび、肌の上を冷気が覆ったかと思えば、足枷の表面に雪の花が咲く。

「これで機嫌取りになるか」

「なるわけないでしょう。祭りの日の娘子じゃあるまいし」

 手の甲を軽く蹴ってやると、雪花が白く光る。玉飾りめいた美しい輝きに、眉を寄せる。

 平時はこんなもの、寄越しやしないくせに。

「枷なんて嵌めずとも、貴方に歯向かうほど無謀じゃありませんけど」

「全力で戦おうとしたやつがよくも言う」

「あれは民の生活が懸かっていたからこそです。……自分ひとりのために戦うだなんて、無鉄砲はしません」

「ならば返すが。俺だって、単に気勢を削ぐためだけに、こんなものを嵌めない」

「はいはい、大事な御用があればこそ、ですものね」

 辰星は捲った衣服を直してから立ち上がり、正面に座り直した。歳華が跪座きざを組み直すのを待ってから、話し始める。

「おまえも知っての通り、恒玄国こうげんこくには人はほとんどいない。しかし、まったくいないわけではない。東の民のような只人ただびとも、西の民のような獣人じゆうじんも、いくらか住んでいる」

「さきほどのお食事を作ってくださったのも、そういうかたですよね」

「龍は固形物の味には無頓着だからな。調理場は概ね、人が仕切る。そして、細々とではあるが、農耕も行っている」

「あら、それは知りませんでした」

「今日食べたあわは、そこで採れた」

「ずいぶん軌道に乗っているですね」

 恒玄国の地質は、致命的に農業に向いていない。それを克服するとなると、相応の手間が必要なはずだ。

「もしかして、術は貴方が?」

「最初だけはな。あとは勝手にやってもらっている状態だ。数百年ほど前か、西の内紛がひどくなって、国境沿いに流れ着く移民が増えた。大半は泰青国を目指している者だが、まれに、力尽きて居着く者がいる」

「それを受け入れているあいだに、畑が必要となったと」

「最初は保護でいいが、やがては自立させねばならない。しかし恒玄国の民は長命だから、寿命の短い者を雇いたがる者は少ない。国の事業で受け皿があると都合がよかった。間に合わせで作った研究圃場が、南東にある。名は洙園しゆえんという」

洙園しゆえん……」

 南東というと、泰青国の方面だ。あのあたりには、洙水しゆすいという穹水かわがあった。名の由来はそれだろう。

恒玄国こうげんこくではおまえの能力を活かせる場は少ないが、洙園しゆえんは別だ」

「はい、承りました……と言いたいですが、私、どっかの誰かさんに力を凍らされているのですけれど?」

「うん? それのどこに、問題が?」

「大ありでしょう! 専売特許ぜーんぶ差し押さえられてるんですよ⁉ 私に働けと言うのならば、さっさとこんな枷は解いてください!」

「……まさかおまえは、その専売特許とやらで、洙園しゆえんを花畑にでもするつもりか?」

「え? そうですけど」

「馬鹿か」

「あっ、なんと端的な悪口!」

「おまえは恒玄国こうげんこくにおいてもなお、自国と同じ轍を踏もうとするつもりか? 甘やかせるだけ甘やかして、清き水通うこの国に泥沼を生むと? いい加減にしろ」

「う……いやいやいや、これに関しては貴方も大概民に甘いでしょうが! 短命の人々を受け入れるための圃場なんて、甘さの極致じゃありませんか!」

「将来性を見越してだ。多少は移民族がいないと、いざというとき、国外での情報収集が立ち行かなくなる」

「これはこれは、苦しい言い訳ですね」

「なんとでも言え。そして、なんと言われようと、俺はその枷は解かない」

「この、分からずや……!」

 しかし、やたら我の強いこの男が、歳華の説得に応じるはずもない。歳華は結局諦めてしまうし、辰星も辰星で、歳華が諦めると分かっている。

 たちが悪い、と思う。こころから。

洙園しゆえんは、武曲むごく輔星そえぼしの担当だ。同行させるから、ふたりの言うことをきちんと聞けよ。大人しくしていたら褒めてやってもいい」

「あのですね、あんまり馬鹿にすると、部屋に閉じこもりますよ」

「そうしたら仕置きだな。枷をふたつに増やしてやろうか」

「こ、こいつ……」

 頬が、ひくりと引きつった。

 

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