【短編】甘い紅茶になる【1400文字以内】

音雪香林

第1話 甘い紅茶になる。

 独り暮らしをしている彼のマンションまでは駅から徒歩五分くらい。

 けれど、そのたった五分がツラい。


 日傘をさしていてもなお暑い真夏の罪深さよ。

 空気がむわっとしていて、肌をじわじわ痛めつけるような熱を感じる。


 汗がしとどに流れ、たどり着いた彼の部屋の前でハンカチで首筋を拭いてからインターホンを鳴らす。


 返事があったので名前を名乗ると「今開ける」と内鍵が外される音がして「いらっしゃい」と彼が顔をのぞかせた。


 招き入れられ彼の部屋に入る。

 ひんやりした部屋に肌がホッと安堵したようだ。

 冷房のありがたさを実感する。


「喉渇いただろ。はい」


 ソファに座ると同時に渡された透明なグラスに注がれているのは、冷蔵庫でキンキンに冷やされていたのだろう麦茶。


「ありがとう」と受け取ってグイッと一気飲みする。

 生き返るわ~。


 彼はというと、冷房の中にいてかえって身体がひえたのか、あたたかい紅茶をカップに注いでいた。


 シュガーポットから角砂糖を取り出し、紅茶に投入する。


 白い正方形のそれが液体のあたたかさの中で音もなく静かにゆっくりと溶けていき、やがてなくなる。


 いや、なくなったわけじゃない。

 紅茶を変質させるためにまじりあったのだ。


 さっきまで「暑い外から中に入れてほっと一安心」から「冷たい麦茶サイコー!」とテンション爆上がりしていたというのに、いきなり不安になる。


「招待状のことなんだけどさ」


 彼が話し始める。

 招待状、それは私たちが挙げる結婚式に誰を招くかという相談だ。


 そう、結婚。


 ただ単に彼氏彼女で二人だけの世界だったころとは違い、私の苗字は彼のものに変わり、彼の血族に混じるのだ。


 私という存在は彼を……彼の血族を変質させるだろう。

 あの角砂糖のように。


 あの角砂糖は紅茶を甘く変質させるために投入されたことを喜んでいるだろうか。

 だとしたら私は?


 私も彼の血族に混じることを喜んでいるのだろうか?

 よくわからない。


 私……私は……。


「どうしたの?」


 彼の声にハッとする。


「ご、ごめんなさい! ちょっとボーっとしてて」


 彼は私の頭を撫で。


「いいんだ。マリッジブルーってやつなんだろ。結婚するにあたって色々考えちゃうものだって聞いた」


 そう、そうなのだ。

 いつもは考えないことを考えてしまう。

 彼は続ける。


「結婚するのやめるって言われちゃうと悲しいけどな。そうでないならいいよ」


 私は少し引っかかった。


「もう招待する人を選別するだけで、あとの準備は全部整ってるから、今更やめるなんて困るとかじゃないの? 悲しいだけなの?」


 彼はきょとんとして、首を傾げながら口を開く。


「そりゃドタキャンは困るだろうけど、それより結婚したくないって拒否される悲しさの方が大きいだろうな。だって、一生一緒にいられたら幸せだろうなって思ってる女の子にフラれるんだよ?」


 一生一緒にいられたら幸せ?

 彼の手元には、角砂糖の溶け込んだ紅茶。


 もう元の角砂糖には戻れない。

 甘くなった紅茶は、同時に甘党の彼に美味しく飲まれることのできる……幸せな紅茶でもある。


 角砂糖は……私は……。


「うん、私もあなたと一緒になれるのは嬉しいわ」


 変質するのだろう。

 でもそれは不幸なものになるのではない。

 彼が……そして私が、幸せになるための変質なのだ。


「結婚式楽しみね」


 ふっきれた嬉しさでにっこりすると、彼も輝く笑顔を返してくれた。


 私はもうすぐ彼と甘い紅茶しあわせになる。




 おわり

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