失恋エモーショナル

竹部 月子

失恋エモーショナル

『ごめん、別れてほしい』


 画面を見つめて、とりあえず「……嘘」と声をしぼり出す。

 その声のほうがよほどウソっぽく響いたのは、こうなることを、心のどこかで理解してたからだ。

 トーク画面を上へスクロールして、優しかった彼の言葉を探す。

『おはよう、今日も暑いけどバイト頑張ってね』

 いってきますのスタンプ。

『終わって時間あったら、ちょっとでも電話したいな』

 ごめんねのスタンプ。

 ここ半月で文字を打っているのは、悲しいほど私一人だった。

 繰り返し、義務的に、同じシリーズのスタンプが私の相手をしてくれている。

 

『もっと早く言えばよかったよな、夏休み無駄にさせてごめん』

 追撃のメッセージが表示されて、慌てて画面をタップする。

『待って、これで終わりとかやだ』

 既読。

『会って話したいよ、お願い』

 既読。

 その後の長い沈黙の間に、だんだん涙でぼやけて見えなくなって、目をこすった。


『わかった。明日の午後とか空いてる?』

『大丈夫』

『2時にいつもの店でいい?』

『うん』

 「うん」に続く予測変換で、「楽しみにしてる」の文字が出たのがひどく虚しい。


 週末の花火大会のために、クローゼットにかけてあった浴衣が目にはいって、顔を覆った。

 やっぱり、あの日で終わっていたんだ。

 次の約束なんてもう、無かったんだ。

 


 私たちは同じ高校で付き合いはじめて、別々の大学に進んだ。

 私は高望みせず安全な進路をとったけど、彼は国立の難関大学を目指して猛勉強していた。

「ウチはあんまし裕福じゃないから、一発勝負」

 そう言ったのは、病気がちなお母さんと、高校受験を控えた弟の存在が大きかったのだと思う。

 

 でも学問の神様は、彼には微笑まなかった。

 このまま高卒で働くと言った彼を、周りの大人たちが必死で説得する。

 迷う彼に、私も進学をすすめた。高校の友達はみんな大学生になるのだから、それが普通だと思った。

 結局彼は奨学金を借りて私立大学に入学し、すぐにバイト漬けの日々が始まったのだ。

 

 憧れのキャンパスライフがスタートしても、お金と時間がかかる遊びはできなかった。

 だから彼のバイトまでの時間で、よく公園デートをした。

 大学でできた新しい友達の話、変な口癖の教授の話。ずっと手をつないだまま、どこまでも歩いた。

 疲れたらベンチに並んで座って、ペットボトルのジュースを半分こにして飲んだ。

 優しく笑う彼のことが、大好きだった。


 でも、しばらく彼のバイト生活が続くと、小さなすれ違いが起こりはじめた。

 バイトが終わるのを深夜まで待っていたのに、連絡をくれずに彼が寝てしまって喧嘩になった。 

 学生のうちは勉学と友人作りに励みなさいと言ったうちの親のことを、甘やかしだと批判した。

 お金を稼ぐことが一番偉くて、働いたことのない人にはそれが分からないんだ。そんなようなことを、言うようになった。 

 私たちの間に「アルバイト」という異物がはさまったことで、小さな溝ができはじめていたのだと思う。

 だけどそれにまるで気付かないフリをして、彼に夏休みの予定を聞いた。

 大学生の長い長い夏休みに、完全にはしゃいでいたのだ。

 

「あーごめん、夏休み中は全部シフト入れますって言っちゃった」

 当然のようにそう言った彼に、今回だけは食い下がった。

「一日くらい休めない? 一緒に海に行きたい」

 電車賃だけならそんなに高くない。お弁当や飲み物は家から持参してもいい。

 悩みながらシフト表を見ている彼は、うーんとうなって頭をかいた。

「リーダーに相談してみるけど、俺まで迷惑かけたくないんだよね」

 バイト先の新人たちが、自分の予定最優先で休みをくれと言ったり、シフトに入れろと言ってきたりするから、バイトリーダーが苦労しているとこぼしていたことがある。

 バイトの入れ替わりが激しい飲食店では、すでに彼は古株の扱いだ。

 休みの予定日でもシフトの穴埋めにかりだされることがあるから、私にとってバイトリーダーとやらはあまり良い印象では無かった。


「頼んでみるよ」

 にかっと笑った後で、彼は何かを思い出すように上を見た。

「……あれ、でも俺、水泳の授業で使ったやつしか水着持ってないかも」

「あはは、スクール水着で海行くの? なら私もおそろいにしようかな」

「ダメだよ、絶対はみでるから」

 視線が露骨に胸元に注がれていたので、ほっぺを押してぐいーっと顔を外側に向けてやる。

「そんなに太ってないし」

「いやいや、そこだけ太ったんじゃないかぁ?」

 言い方がオジサンでーすと、じゃれあいながら木漏れ日の道を歩き、バイト先の店の前まで見送る。

「じゃ、可愛い水着に期待」

 敬礼して裏口に向かう後ろ姿に、思わず頬が緩む。

 その足でデパートに寄って、私にしてはちょっと大胆な水着を選んでしまった。

 

 なのに、海に行く約束をしていた日の朝、メッセージが入った。

『リーダーが熱出して倒れた、今から代わりにシフト入る。海行けなくて、ごめん』

 すっかり支度を終えていた私は、脱力してへたりこみながら返事を書いた。

『バイトなら仕方ないよ、昨日うちに財布忘れていったけど大丈夫?』

 しばらくしても既読が付かない。

『お店まで届けようか?』

『お財布ないと困るよね? 今から行くね』

 彼から返事が無いまま、電車でバイト先へ向かう。

 ランチ客で混み合う店内で、ドリンクだけ注文して誰か見知ったバイトの子がいないかとキョロキョロする。

 不意に彼の声が聞こえた気がして、席を立った。


 トイレに向かう通路の途中で、コックコート姿の彼が女の人と話していた。

「ねぇ、ほんとに大したことないんだって」

「何言ってるんスか、足元フラフラですよ」

「彼女さんと海行くって言ってたじゃない、今からでも……!」

 ふわっと傾いた女性の肩を、彼のたくましい手が支える。 

「いいから。今日は帰って、薬飲んで寝て下さい」

 

 困ったように眉を曲げて、目を細めて言う仕草を見た瞬間、頭の中が真っ白になった。


 駆け寄って、彼の肩口に財布を叩きつける。

「……リーダーって女の子だったんだね」

 一瞬虚をつかれたような顔をした彼は、たちまち表情を険しくした。

「バイトだから海は行けないって言っただろ、店まで文句言いにきたの?」

「財布、私のベッド・・・に忘れてたから届けに来ただけ」

 わざとそう言ったことにも不快感をあらわにして、彼は財布をむしり取るように私の手から奪った。

「頼んでない」


「ちょっと、やめてよ。あの、ごめんなさい私が急に体調を崩したせいで……」

 こちらに向き直ってきたのは、切れ長の目が印象的な女性だった。

「リーダーが謝ることないです」

 彼が彼女をかばうように言ったから、私はただの悪者か邪魔者になってしまった。あまりにもいたたまれなくてその場を逃げ出す。


 テーブルから伝票をつかんで、ひとくちも飲んでいないアイスティーを置き去りに、レジへ向かった。

 冷房の効いた店内から、息が詰まるような湿度の町へダイブする。最低の海水浴だった。


  

 それから一応の仲直りをして、埋め合わせにと夜の観覧車デートに誘ってもらった。

 彼の一日分のバイト代が飛ぶような高額な乗車料金に、半分出すと申し出て断られる。

 私たちは滑稽なほど、バイトリーダーの彼女の話題に一切触れず、熱帯夜にくすむ街灯りを綺麗だとほめそやした。

 観覧車が頂上にさしかかる頃に、キスをねだって目を閉じる。

 唇が触れあう前にかすめた吐息を、ため息のようだと思ったのは、私の気のせいでは無かったのだ。



 念入りに顔周りのマッサージをして、目を冷やしてから眠ったのが良かったのか、まずまずのコンディションで目を覚ました。

 シャワーを浴びて、髪を乾かして、汗がひいてから化粧をはじめる。

 下地で白く塗った顔が死人のようで、思わず鏡の前で自嘲した。

死化粧しにげしょうって言うんだっけ」

 黄泉地へ向かう死者に施す化粧は、別れのトドメを刺されるために喫茶店へ行く自分にピッタリな気がする。

 

 彼の前では泣かないと胸に誓いつつも、海水浴のために買ったウォータープルーフのマスカラを選んだ。

 一本一本のまつ毛を天に向ける。絶対しおれて見えないように。

 綺麗な女だと、別れるには惜しいと、思ってほしい。

 高校二年生から付き合っている彼が、そんなタイプじゃないと分かっていても、願わずにいられない。

 だからリップも、かわいいと褒めてくれた色を選んだ。


 三面鏡で横顔までチェックして、自分に言い聞かせるようにつぶやく。

「大丈夫、完璧」

 私たちはまだ別れてない。

 息の根をとめられるその瞬間までは、私が彼のカノジョだ。


 

 待ち合わせを2時に決めたら、5分前にその場に到着する。

 遅れてくることも、早く来すぎて待っていることもないように、少し離れたコンビニでお互いに時間を調整する。

 私たちは、そういうカップルだった。

 だから、大きな紙袋を下げた彼が、まだ1時半のカフェ前でスマホをいじっているのを見て息が苦しくなる。


「待った?」

 声をかけると、ピクリと肩が揺れて、私のつま先からゆっくり彼の視線が上がってきた。

 サンダルの先から見えるペディキュアは、自信作。

 ふわふわ揺れる白いスカートも、一番好きだって言ってくれたやつだよ。

「いや。入ろうか」

 肩まで上がってきた彼の視線は、私と絡むことなく、カフェの扉に逸らされた。

 彼のTシャツは、高校生の時から着ている色褪せたいつものオリーブ色。

 そういえば大学に入ってから、新しい服を着ているのを見たことが無かった。


 席につくと、メニュー表をこちらに差し出してくれたから、少し笑って答える。

「アイスティーで」

 いつもの、というくらい私は決まってアイスティーを頼んだ。

 注文を聞いた店員さんが席を離れると、彼は持参した紙袋を差し出す。

「借りてたやつとか……」 

 語尾を濁した彼から受け取った紙袋には、貸していた漫画の本2冊と、何故かマフラーが入っている。

「マフラーなんていつ忘れたんだろ、全然気づいてなかった」

 漫画とマフラーを取り出すと、底に細長い黒いケースが入っていた。


 息を呑んで彼の左腕を見ると、いつもつけていた腕時計が無い。

 時計の日焼け跡がくっきりと白く手首に残っていて、取り壊された建物の跡地みたいだった。

 つきあいたての高校2年生のクリスマスに、奮発してプレゼントした腕時計。ケースまでとってあったのがとても彼らしい。

 だけど、私たちが付き合っていた時間ごと突き返されたようでツンと鼻の奥が痛くなった。 

「お待たせしました」

 涙をこらえている間に、店員さんがアイスティーを持ってきてくれた。

「あ、すいません。ガムシロップ要らないので、ミルクをもう1つ下さい」

 ごく自然に、彼は私の前に置かれたガムシロップを回収して、店員さんからミルクをもらう。


  

「アイスティーに求めてるのは、甘さじゃなくて、ミルキーさなんだよ」

 まだ最初の頃のデートで、私は残したガムシロップを横目で見ながら不満をこぼした。

 だいたい女友達からはめんどくさ、と一言で封殺されてしまうこだわりだ。

「もうひとつミルクもらおうか?」

 優しい彼は、嫌な顔もせずそう言ってくれる。

「ミルク2個下さいって言うのは、なんかこう、ワガママ感があって言えなくて……ごめん、私めんどくさいね」

 

 困ったように眉を曲げて、目を細めて。そう、あの日にリーダーにしたのとまるで同じ表情で。

 くはっ、と彼は笑い声をかみ殺して、店員さんに片手を上げた。

「すみません、ガムシロとミルク交換してください」

「どうぞ」

 ミルクを持ってきてくれたウエイターさんに、テーブルの上のガムシロップを渡すと、ちょっと不思議そうな顔をしながらも回収していってくれた。

「これで貸し借り無しでしょ」

 思いもしなかった解決法に私は目をぱちぱちさせた。

「アイスティー好きなんだから、好みの味で楽しんだほうがいいよ」

「ありがとう」

 

 飲みかけのアイスティーにミルクを足して、ストローで混ぜる。

「ひとくち飲ませて」

「いいよ、どう?」

「うーん……微妙!」

 顔をしかめた彼と、額がくっつくような距離で忍び笑いする。

 ミルクが多すぎてバランスが悪いあのアイスティーの味が、ひどくなつかしい。


 

「いらなかった?」

 ミルク2つを手のひらに乗せて差し出してきている彼にハッとする。

「ごめん、いる」

 慌てて2つ分の蓋を開けて、アイスティーを混ぜる。

 ようやく舞台が整ったと思ったのか、彼はポツポツと話しはじめた。


 別の大学に行くようになって、会える機会が減ったこと。

 遊びに誘ってくれても、自分はバイト優先で、申し訳ない気持ちが積もっていたこと。

 働いたことが無い私と話す内容を、一緒に働く仲間たちと比べてしまって、時々自己嫌悪になること。


「そんなの、思って当たり前だよ。全然バイト優先でいい、会うのだってもっと減っても我慢できる」

 忙しいのに返信をねだってごめん、電話したいってしつこくしてごめん。

 別れるくらいなら、何だって我慢できる。

 本当だよ。

 心からの想いをぶつけるたびに、彼の瞳が少しだけゆらっとする。

 だけど「私立に通うから学費は全部自分でどうにかする」って言った時と同じ。

 もう全部、決めてしまった顔をしていた。

 

「一番支えてあげたいって思う人が、今、別にいるから。このまま付き合い続けるのは、できない」

 切れ長の涼しい瞳が、脳裏でまばたきした。

 わかってるよ。

 あの時から、わかってたよ。


 汗をかくアイスティーのグラス。

「わ……わかった。今までありがとう、楽しかった」

 声は震えたけど、涙はまだ一粒も零していない。

 紙コースターに沁み込む雫が、私の涙の代わりをしてくれているみたいだと思った。

 

 紙袋から黒いケースだけを取り出す。

「でもこれは、もう少し使ってて」

 テーブルの上にそっと押しだすと、彼は驚いた顔をした。

「時計の日焼け跡が、消えるまで」

 左手に視線を落とした彼は、そう言われて恥ずかしそうに右手で手首を隠す。

「そうする」

 素直にケースをあけて、時計をつけてくれた。

 最初に渡した時は、ずいぶん手こずって身に着けた腕時計も、まるで今は彼の一部みたいにすんなりとあるべき場所へおさまる。

 でももう、あの左手と、私の右手がつながる事は無いんだ。

「行くね」

 涙腺の限界を感じて、五百円玉を置いて席を立った。


「……っ!」

 漏れた彼の声に、最後の期待を込めて振り返る。

「……ありがとう。でもここは払わせて」

 つまんだ五百円玉を、私の手のひらに返してくれる。

 その時に、少しも触れ合わなかったことが、一番悲しかった。

「ごちそうさま……ぁ、りが……と」

 多分私から精一杯の、ありがとうは、彼の耳に上手に届かなかったと思う。


 粘つくようなアスファルトを蹴り、熱風をかきわける電車に揺られ、真昼の住宅街を馬鹿みたいに疾走する。



 部屋の床に投げ出した紙袋から、コミックとマフラーが転がり出た。

 絶対泣けるからって貸したのに、爆笑しながら読んでたコミック。

 すっかり忘れてたマフラーは、なんかチクチクするから苦手だって言ったら、「じゃあ俺が使お」って首に巻いたやつだ。

 マフラーはピンクのラメのラインが入ってて、全然彼に似合わなくて。

 自転車に二人乗りして、北風が冷たくて。

 床から拾い上げたマフラーから、相変わらずチクチクする手触りと、彼の部屋のにおいがした。

 

「わぁあああぁ!」

 ベッドに飛び込んで、ふきだす汗と涙を枕にこすりつけて、泣きわめく。

「やだ、やだ。やだ、別れたくない」 

 母がいれば何事かと二階に上がってきそうなほど、ベッドの足を鳴らして駄々をこねた。

 幸か不幸か、家には誰もいない。

 誰も、この無様な私を見に来ない。


 喫茶店で彼が困り果てるほど、泣きわめいてやればよかった。

 せっかく綺麗に退場してこれたのに、そんなことを考える自分がどうしようもなく見苦しい。

「ひぃぃ……っぐ」 

 馬のいななきのような声が出て、自分の涙で盛大にむせた。

 咳き込んで、吐きそうで、今の私はきっととびきり醜い。

 やっぱり、彼にだけは見られなくて、よかった……。


  

 いつのまにか泣き疲れて眠ってしまったのか、布団の中で汗だくで目を覚ました。

 ふらつく足で水をガブ飲みして、ガビガビになった顔を洗おうと洗面所に向かう。

「……ひどい顔」

 鏡の中の自分に呆れた。

 顔全体がむくんで、目は普段の半分くらいしか開いていない。全力で戦った後のボクサーみたいだった。

 あれだけ泣いたんだから当然か、とも思う。

 こんなになるくらい、まだ彼のことが好きなのだと、説得力のある顔をしていた。


「ウォータープルーフってすごい」

 さすがに出かける前のような、上向きまつ毛のままではいられなかったけど、マスカラが流れてパンダになることは無かった。

 まつ毛は、強い雨に打たれた後のシダの葉みたいにうつむいているけど、それでも。

「生き残ったね」

 死に化粧をして出かけて、いちミリの望みも無くフラれたけど、もう、彼の心の中に私の居場所はないけれど。

 彼を愛した私の気持ちまで、全部死んでしまうわけじゃなかった。

「好き……まだ、好きだよ」

 言葉と一緒に、再び涙があふれてくる。


 日焼け跡は、いつまで彼の腕に残ってくれるだろうか。

 夏が半分、終わってしまった。

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失恋エモーショナル 竹部 月子 @tukiko-t

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