2章 狂犬の初恋
翌朝、クインチェルはカーテンの隙間から差し込む光で目が覚めた。
前には同じベッドに横になり、クインチェルを強く抱擁しているユベールがいる。
(冗談じゃなかった……)
いつから起きていたのか、彼は嬉しそうに頬を緩めてクインチェルを眺めているのだが、こちらは茫然とするばかりだ。
「いつの間に……このベッドに入ったのですか?」
「夜、こっそりと。よく眠れた?」
「おかげさまで……って、そうじゃなくて――」
「寝間着姿も可愛いね、今度は俺が買ったものも着てくれたりする?」
「あの……私に話をさせてもらっても?」
彼の腕から出て起き上がると、鉄さびの臭いがした。怪訝に思っていると、自分の手のひらが湿っているのに気づく。
恐る恐る視線を落とせば、手にべっとりと血がついていた。
「え……」
シーツを見れば、赤い染みがユベールの身体の下から広がっているのがわかる。
ユベールは爆発に巻き込まれた際に傷を負っていた。
もちろん、ドルファローの王宮でも治療は受けたが、すぐにアーブルメスに帰国しなくてはいけなかったこともあり、馬車では簡単な手当てしかできなかった。それもユベールが自分でやると言ってきかなかったので、まさかここまで出血するほど傷が塞がっていなかったなんて思わなかったのだ。
「ア……アアア、アン! 救急箱っ!」
クインチェルの叫び声が屋敷に響き渡った。
*
「あなたに任せたのが間違いでした。どうして自分のこととなると、手を抜くんですか。言いましたよね、自分を大事にしてくださいって。今からでもお医者様を呼びましょう」
ベッドに胡坐をかくユベールの後ろで、珍しく怒ったクインチェルが背中の傷に薬を塗っていた。
ベッドサイドに立ち、ひたすら自分の心配をしている彼女には申し訳ないとは思うが、口端が上がってしまう。
(怒られて気分がいいなんて思ったの、初めてだな。それに……)
初めは男の裸に免疫がないのか、ユベールが上着を脱いだだけでそわそわしていた。そのときの彼女を思い出すだけで高ぶる、本当にたまらない。
「戦場で負う傷に比べれば、こんなのは掠り傷だから、いいよ。それに、医者を呼んでクインチェルの手当てが受けられなくなるほうが悪化する」
「あなたはまた、そんなことを言って……」
困った人ですね、そんな心の声が聞こえてきそうな物言いだった。
相変わらず表情は乏しいが、よく見れば僅かに眉尻が下がり、頬が赤くなっている。肌が白いから、血色の変化がよくわかる。
滅多に顔色を買えない彼女が自分のせいで乱れているのだと思うと、最高に気分が高揚する。
(まあ、本当は傷を見せたくなかったんだけど)
彼女は自分を庇ってできた傷を見たら、罪悪感を抱く。だから自分で手当てをしたのだが、止血が甘かったようだ。
少しかわいそうではあるけれど、もう見られてしまったのだから仕方ない。彼女の関心を引けるのなら、大いに利用させてもらう。
(だから思う存分俺の心配をして、俺のことばかり考えていればいいよ)
彼女に背を向けているのをいいことに、意地の悪い笑みを浮かべている自覚はある。
結局のところ自分は、彼女のためと従順な犬のふりをしながら、己の欲に忠実なだけの野蛮な狂犬でしかないのだ。
「……っ、ずっと不思議だったのですが……私たちは護衛役と護衛対象として会ったあの日が初対面ですよね? それなのにどうして、その……」
「俺がこんなにも、クインチェルを愛しちゃってるのかって?」
からかいながら彼女を振り返ると、やっぱり表情はそんなに動いていないのに、さっきよりも熟れた林檎のような顔になっていた。
どうしたらそんな器用な照れ方ができるのか、見ていて飽きない。
(ほんと、なにこの可愛い生き物。野放しにしたら駄目だろ。俺のにしていいかな……てか絶対にする)
初めて会ったときの彼女からは想像もできなかったが、クインチェルは表情がほとんど動かないものの、強引に迫られるといろんな顔を見せるし、話もする。
(俺としては、もっと素のクインチェルを暴いてみたいんだけど……)
才女であるがゆえになんでも自分で解決することに慣れてしまっているのか、周りがなんでもできると持て
隙のないクインチェルは、ふとした瞬間にぽっきりと折れてしまいそうな弱さを見せるときがある。
護衛役にならなければユベールも〝小さいのに凛としていて強い子〟という表向きのクインチェルしか知ることはできなかっただろう。
「もう少し俺のことを考えててほしいから、この話はとっておきたかったんだけど……」
彼女の願いなら、なんでも叶えてあげたい。これは本心。
クインチェルに出会わなければ、自分にこんなに尽くし癖があるなんて気づかなかっただろう。
ユベールは不意打ちでクインチェルの手を掴むと、その手首に唇を寄せた。
「あなたが望むから、教えてあげるんだよ」
特別な存在なのだと刻み付けるように、強く彼女を視線で射抜く。捉えて、自分から目を逸らせないように瞳に熱を宿す。
クインチェルが望むからと言いながら、ほとんどは彼女を逃がさないための毒だ。
優しくするのも、絶対的な味方になって自分を頼るように仕向けるため。甘やかして溺れさせて、離れられないようにするために彼女の心を麻痺させる。
「俺たちは、もっと前に出会ってるんだよ」
ベッドに誘うように彼女の手を引いて隣に座らせると、ユベールは欲と期待に塗れた過去語りを始めた。
*
統一前の大陸では領地を巡って戦争が勃発しており、父もユベールが十八で軍に入ってすぐに戦死した。
若くして公爵家を継ぐことになったのだが、軍人である以上、いつ自分も父と同じ末路を辿るかわからない。
母もそれをひどく心配していた。仕事から戻るたびに次はいつ帰ってくるのかとユベールに泣いて縋り、日に日に心を病んでいった。
そしてある日、ぽっくりと病で逝った。
『こんなに早く両親に先立たれるなんてね……』
葬式で参列者から散々同情されたが、ユベールの心には響かなかった。
悲しい……というより、もう生きて帰らなければと必死にならなくていいのかと思うと、なぜか気が楽になった。
そうして、自分の命すらなりふり構わず戦っていたら、フロンティエール領の国境守備軍に配属された。最前線であるがゆえに、強者ばかりが集まる場所だ。
そこでのちの新たな帝国ユニオンの皇帝となる国境守備軍指揮官のローガン・ダヴィッドと出会った。
『……そろそろ限界かもな』
他国の侵略を防いだあとだというのに、ローガンはそう言った。
自分たちはもともと戦闘民族だ。その血を継いでこれまで排出されてきた軍人は皆、戦闘能力に長けている。どんな武器が来ても、敵に
しかし、他国に頼ることをよしとせず、鎖国していた帝国ユニオンと違って、争いながらも利害が一致すれば交易をする他国の武器はみるみる発展していった。やがて、自分たちがどんなに戦闘能力に長けていても、進化した兵器に苦戦を強いられるようになっていった。
『現状を変えなければならない。手伝ってくれ、ユベール』
ローガンのように国のために尽くそうなんて高い志はない。
ただ、ユベールが知る中で一番強い男だったローガンになら、ついていってもいいと思った。二十も歳が離れていたせいか、勝手に息子扱いしてくるローガンになんだかんだ情がわいていたというのもある。その誘いをユベールは断らなかった。
ローガンはまず、人員確保のために貴族以外の平民から兵を徴募した。やがてその規模は大きくなり、地元の者たちから地名をもじってフロンティエール軍と呼ばれるようになる。
フロンティエール領は国境沿いにある。フロンティエールの領主は、真っ先に敵の手に落ちるのは自分の領であるとよくわかっていたため、共に国境を守るべくローガンと会談した。そこで進化した兵器に対抗する武器が必要だと訴えたことで、領主が皇帝にとりなし、鎖国中ではあったが、特例で国境を守護するために必要な武器を入手するためであれば、いかなる貿易も許可するという権利を与えられた。
皇帝を始め多くの王侯貴族の寄進を得たフロンティエール軍だったが、鎖国していた帝国ユニオンといきなり交易をしようとする国がなかなか見つからなかった。
頭を悩ませていたところに、アーヴルメスの外交官から返事があった。
指令所の執務机で、その外交官から送られてきた書状を読んでいたローガンの手元をユベールは覗き込む。
『クインチェル……ボードモン? 女みたいな名前ですね?』
『みたい、じゃなくてそうなんじゃないか?』
『アーブルメスは女が政治の世界で活躍できるんですか? 進んでるんですね』
『本当だな。俺たちはその遅れを取り戻して、対等に渡り合えるようにならないとだろう? けど実際は、交易ひとつ始められずに躓いている』
ローガンは書状の一文を人差しでとんとんと叩く。
そこに書かれているのは輸出される武器の値段だったのだが、フロンティエール軍にある資金では到底払えるものではなかった。
『最新式の武器ともなると、値が張るらしい。クインチェル殿はそれも見越して、こんな策を寄越してくれた』
ローガンがもう一枚の書状を手渡してくる。すぐに目を通すと、アーヴルメスは冬になると国内のワイン消費率が高くなる。ブドウ栽培に適した気候や風土に恵まれている帝国ユニオンでは、さまざまな度数や風味のワインで戦に勝利した際に祝杯をあげると聞いたので、アーヴルメスにも輸出してはくれないだろうかという提案だった。
『つまり、資金を作る方法を教えてくれたってことですか?』
『そうなるな。まあ、向こうにも俺たちに恩を売っておきたいなにか下心があるんだろうが、それにしたって親切だよな』
(クインチェル、か。どんな子なんだろうな)
書状の文字を指でなぞってみる。
綺麗な字だ。きっと気が強く、男みたいな風貌の女に違いない。でなければ、女の身で外交官なんてお堅い仕事には就けないだろう。
いつか会えるだろうか。母が他界してからただ無心で戦ってきた自分が、久しぶりに興味というものをなにかに向けた瞬間だった。
それからローガンはクインチェルの案の通りにワインを輸出し、そこで得た利益で代わりにアーブルメスから強度の高い剣や威力の強い銃を輸入することに成功した。
ユベールは新たに手に入れた剣の試し斬りがてら、誰よりも大勢の敵を容赦なく倒していった。そのせいか、
そしてユベールが軍に入って三年目、二十一になる頃にはフロンティエール軍の戦功はさらに目覚ましいものとなり、国防を一手に担う軍事組織となった。
王室の財宝や国庫資金の保管を任されるだけでなく、ワインの輸出で商業面での成功を収めると、財産は一国を凌駕するほどとなり、ローガンはフロンティエールの領地の一部を買い上げた。
所有する領地内では自治を行えるほどの権力を持ち、事実上国の中にもう一つ国があるような状態であった。
しかし、フロンティエール軍が勢力を拡大することを不服に思う者がいた。今までフロンティエール軍に肯定的であった皇帝だ。
『フロンティエール軍は母国の情報を他国に売って利益を得ている売国奴である。よって、領地と財産の撤収を命ずる……あらぬ容疑をかけられたものだ』
ローガンは皇帝からの書状を執務机に放り投げる。
『戦争は資金を使いますし、それらをフロンティエール軍がすべて負担し、命がけで国境を守っているというのに、大した財政援助もせずに面の皮が厚いことで。怖くなったんですかね、我が軍が大きくなりすぎて』
対局が見えずに鎖国を貫き、最新式の化け物のような兵器を操る敵に向かって、十分な武器も鎧も与えず、戦闘民族の身体こそが最強の武器だ。そう信じ込んで身ひとつで特攻しろと命じてきた、あのぼんくら皇帝の考えそうなことだ。
『それで? 向こうは他になにを要求してきたんです?』
『俺たちに皇帝が新たに作ったサントル軍に入れと。皇帝自らがその司令官の座に就くそうだ』
『フロンティエール軍の真似がしたかったわけですか。俺は自分より弱い人間に従うなんて御免です。いっそ革命でも起こします?』
口端を上げながら半分本気で言えば、ローガンは不敵に笑った。
『屈するのは性に合わん。ましてや自分より弱い相手になど、耐えられん。お前にも付き合ってもらうぞ』
『いいですよ。司令官は強いですし、ついていくに相応しい相手だ』
『だが、これは賭けになる。冤罪でも匿名の証言を採用できる異端審問を用いれば有罪に持ち込めるからな。そして俺たちは有罪になるまでの間に、革命を起こせるだけの援軍を手配しなければならない』
『国内に皇帝に逆らってまで手を貸してくれる者はいないでしょうね』
そこまで言って、ある可能性の尾を掴む。
『まさか……』
ローガンを見れば、今まさに追い詰められている軍の指揮官とは思えないほど頼もしく口端を上げた。
『そのまさかだ。アーヴルメスに援軍を頼む』
サントル軍に捕えられたフロンティエール軍の軍人たちは、異端審問を待つまでの間、監獄領にある牢の中でやってもいない罪を自白するまで酷い拷問を受けた。
『ローガン指揮官、捕まっていないといいですね……』
片目を潰された仲間が壁に寄りかかりながら、天井を仰いでそうこぼす。
アーブルメスと交易ができるローガンは、フロンティエール軍の本部がサントル軍に囲まれる前に外へと逃がした。
ユベールはあえて、その場に残った。サントル軍の連中が
『捕まっていたら、サントル軍の連中が俺たちを絶望させるために、真っ先に教えにくるはずだ』
『でも、俺たちを置いて逃げたりは……』
牢の中にいる者たちが不安に顔を曇らせる。度重なる拷問と、これまで尽くしてきた国から反逆者のような扱いを受け、彼らの気力は擦り減っていた。
『ローガン指揮官は、俺たちを見捨てて逃げるような人じゃない』
『ですが、アーブルメスの援軍なんて本当に来るんでしょうか……?』
宥めてはみたものの、もう限界だ。
そう思った矢先のことだった。拷問に耐え切れなくなった仲間のひとりが罪を認めたのだ。そうすれば助けてやるとでも言われたのだろうが、全員もれなく牢の外へ出され、刑場で生きたまま火あぶりにされることが決まった。
『
他の仲間同様に棒に縛りつけられたユベールを眺めながら、刑場にいるサントル軍の軍人たちが嘲笑う。
『国を守るためとはいえ、それはもう惨たらしい殺し方をしたそうよ』
『裁かれて当然だな』
刑場には見せしめのためか、民衆の姿もあった。
国のため、家族のため、志があって戦っていたローガンや他のフロンティエール軍の仲間たちは、さぞ悔しい思いをしているだろう。
だが、自分にはもう守るべき家族もいない。父が軍人だったから自分もそうなっただけで、流されるままにその場その場で求められる仕事をしてきただけだ。
とはいえ、今まで安全な場所にいた連中に、外野から好き勝手に言われる筋合いはない。
★(まったく、仕事だったとはいえ、こんなやつらのために戦っていたのが馬鹿馬鹿しくなるな)
炎のついた松明を手にサントル軍の軍人が近づいてくる。
餌を待つ獣のように、これから執り行われようとしている処刑に熱狂する民衆をユベールは冷めた目で見つめた。
(どっちが狂犬なんだか)
ローガンは間に合わなかった。自分はここで死ぬ。
軍人である以上、人より早く死ぬだろうとは思っていたが、まさかこんな形でとは。戦場で死ねたほうがずっとましだった。
(俺は、こんなやつらのために死ぬのか)
ユベールの胸を占めているのは怒りだ。腹が立ちすぎて、いっそ笑いが込み上げてくる。
ユベールが口端に嘲笑を滲ませたとき、
――コツンッ。
ふと、ざわめきの中から澄んだ靴音が聞こえた気がした。
――コツンッ、コツンッ、コツンッ。
静かに、それでいて強く鳴り響く靴音。興奮していた民衆たちも静まり、まるで空気が浄化されているのではないかと錯覚する。
『初めまして、帝国ユニオンの皆さん』
ユベールには鈴が転がるようなその声が福音のように聞こえた。音の鳴るほうを食い入るように見つめていると、魔法でも使ったかのように人垣が割れていく。
『私はアーブルメスより参りました、外交官のクインチェル・ボードモンと申します』
騎士を引き連れて現れたのは、この刑場に似つかわしくない少女だった。
(あれが……?)
男みたいな風貌の女だと思い込んでいたユベールは、頭を金槌で殴られたかのような衝撃を受ける。
柔らかで艶やかな白髪が太陽を浴びて淡く発光している。まるで白い羽のようだと思った。
彼女が近づいてくると、日差しが反射して白く遮られていた眼鏡の奥が見えた。儚さのベールの向こうに、聡明さと芯の強さが透けているアッシュピンクの瞳がある。
『天使だ……』
皆の考えを代弁するかのように、誰かが彼女をそう形容した。
恐らく十四かそこらの無垢な子供。天使と形容されるに相応しい、愛らしい顔立ちと清らかな佇まいの少女。
(この子供が本当に、フロンティエール軍に絶大な富と権力をもたらしたあの外交官なのか……?)
『アーヴルメスは近いうち、大陸を統一します。新しき帝国ユニオンの皇帝、ローガン陛下はそれに力を貸してくださると、お約束くださいました』
その場にいた者たちは『ローガンが新しい皇帝だと!?』『はったりだろう!』とざわめく。
クインチェルが後ろに目配せすると、アーブルメスの騎士が前に出てきた。
騎士にしっかりと縄を握られ、捕えられているサントル軍の軍人のひとりが力なく地面に膝をつく。
『間違いなく……俺はこの目で見ました。ロ、ローガン・ダヴィッドが皇帝を討ち、新たな皇帝に即位……し、城はすでにアーブルメスの援軍を率いたローガン・ダヴィッドによって陥落……』
(おいおい……)
まさか、クーデターまでやり遂げていたとは想定外すぎる。驚きすぎて、いっそ可笑しい。にいっと口端が勝手に上がってしまう。
『新しい皇帝は大陸を統一するアーブルメスに協力するって言ったんだろう?』
『やっぱり、この国を売ったんじゃないか!』
混乱が広がる中、クインチェルは静かにすっと手を挙げる。次の瞬間――。
――ドゴオオオォォォォンッ!
耳をつんざくような音を轟かせ、砲撃が彼女の脇をすり抜けて刑場の壁を破壊する。悲鳴をあげることも忘れ、その場にいた者たちが壁に空いた大きな穴を見つめていた。
『いかがでしたか、これが我が国の最新式の武器の威力です』
少女は顔色ひとつ変えずに、天使の風貌で容赦なく、愚かな人間に圧倒的な力を振るってみせた。
『細身の銃でありながら、これほどまでの威力を出すために、耐久性に優れた外装に改良を重ねた一品です。使われているのは、異国から仕入れた剣をも砕く剛鉄』
少女は騎士が構えている銃に目をやる。先ほど銃を撃ったアーブルメスの騎士の腕は、衝撃と重みのせいか小刻みに震えていた。
『重量と威力がありすぎるのが難点ではあったのですが、戦闘民族の血を引く皆さんほどの腕力があれば、連射も可能でしょう』
アーブルメスは最新式の武器を作れるだけの技術と、鎖国していては得られない豊富な武器の素材を集めるための伝手を持っている。彼女はそれを言葉が通じない帝国ユニオンの者たちに見せつけたのだ。
『我が国を含め他の国でも、このような武器が日々当たり前に造られています。それを数えきれないほど所有している』
少女から伝えられる現実が、その場にいた者たちから戦意を奪っていた。
『今は国内で争っている場合ではないのです。もっと言えば、大陸内で争っている場合でもない』
立ち止まっていた彼女は前に出て、茫然としている彼らの顔を見回しながら告げる。
『この大陸に国があるということは、他の大陸にも同じように国があるかもしれない。私たちは外からの侵略に備えて、いち早く手を取り合わねばなりません』
少女はゆっくりと、ユベールの前までやってくる。
『その一歩を帝国ユニオンと始めたいと思わせてくださったのは、フロンティエール軍の戦士たちです』
白く透き通った柔らかな手が頬に触れた瞬間、全身の血が熱く
ユベールはごくりと喉を鳴らす。棒に縛りつけられていたのが幸いだ。こんなにも清廉な眼差しで自分を見つめてくる彼女を、本能に従って抱き潰してしまうところだった。
『帝国ユニオンには幾度か書状を送らせていただいてはいたのですが、これまで一度も返事がありませんでした。ですが、フロンティエール軍が交易に踏み切ってくださったので、こうして縁を結ぶことができたのです』
きっと、ユベールにしか見えなかっただろう。彼女は微かに笑い、身を翻すと、民衆やサントル軍の軍人たちに向き直った。
『我が王は統一後も、可能な限り各国をアーブルメスに併合せずに存続させることを望んでいる。そして新たな帝国ユニオンの皇帝と、兄弟のように国を発展させていくことを約束されました。そのために我々は、あなた方の戦士としての強さを……武力を求めます。そして我々からは、あなた方を守るための武器と鎧を授けます』
断れば、帝国はアーヴルメスや他国に侵略される。それを受け入れる以外の選択肢はもちろんないのだが、彼女はなぜか理解を求めた。
もはや、彼女がアーヴルメスの使者なのかと疑う者はいなかった。ただ静かに、皆が彼女の言葉に耳を傾けている。
流れる戦闘民族の血のせいか、帝国ユニオンの者たちは強き者に従い、いなければ己がリーダーとなって動く……そんな性質を持っている。
クインチェル・ボードモンという少女は武器を手に戦ったわけではない。けれど確かに、他の誰にもない強さを兼ね備えていた。
刑場の一件から数日、ローガンの即位式が執り行われた。クインチェルもアーブルメスの代表であり、功労者のひとりとして式に出席した。
式典のあと、皇帝となったローガンや黒軍服に身を包むフロンティエール軍の軍人たちが見守る中、彼女は帰国の挨拶をしに城の広間に現れた。
この国の礼装に従い、白軍服に身を包んでいる彼女に、皆が息を呑む。
『この素晴らしい日に、心置きなく旅立つことができますことを嬉しく思います』
クインチェルは片膝をつき、肘を曲げた腕を額の前に翳しながら深々と頭を垂れると、帝国ユニオンの最敬礼をした。
『これは……驚いたな。
帝国ユニオンを尊重する姿勢に、王座に座っていたローガンが満足げに笑う。
『こちらの装いは少し慣れず、お見苦しいかもしれませんが……その、いわれのない罪を被せられながらも勇敢に戦い、こうして未来を手にした皆様方に敬意を示したかったのです』
これまで表情がほとんど動かなかった彼女が、ふと照れくさそうにそう告げた瞬間、胸に熱が込み上げた。言葉にするならばそう、愛しさだ。それを感じたのは恐らく、ユベールだけではないだろう。
『もう帰国しなければならないなんて、クインチェル殿は忙しい身なのだな。いっそ、我が国の外交官にならないか』
ローガンの誘いにクインチェルは顔を上げると、まっすぐな目で答える。
『大変魅力的なお誘いではありますが、私はアーブルメスの外交官ですから。教えを乞いたい方も、お仕えしたい王もおります。なにより、私の愛する者たちが住むあの国を守りたいのです。ですので、申し訳ございません』
『そうか、残念だ』
クインチェルは一礼して、振り返らずに去っていく。その潔さもいい。
(はあ……本当、最高な女)
ユベールはその背中が見えなくなったあとも、彼女が消えた広間の出口を飽きずにいつまでも見つめていた。
アーヴルメスの大陸統一が本格的に始まり、武力行使が必要な際は帝国ユニオンからも援軍が出されることになった。
ユベールは皇帝の側近にも拘わらず、それに率先して参加し、指揮官として戦った。
『ローガン指揮か――じゃなかった。陛下、報告に来ましたよー』
皇帝の執務室を訪ねると、ローガンは顔を顰めた。
『……おい、せめて血を拭いてこないか』
『ああ……』
ユベールは返り血を浴びた自分の姿を見下ろす。
戦場からそのまま執務室に直行してきたユベールを、廊下ですれ違ったメイドたちが卒倒しそうな顔で見ていたのを思い出す。
『すみません、屋敷に語学の先生を待たせてるんで、急いでて』
『その先生のためにも、身なりをどうにかしてから行け』
ローガンが眉間を押さえながら、手ぬぐいを差し出してきた。それを受け取って顔の血を拭いていると、ローガンがなんとも言えない顔で見てくる。
『……アーブルメスの言葉を覚えているんだったな。……クインチェル殿と話すために』
『そうですよ――って、なんかちょっと引いてません?』
『ちょっとじゃなく、だいぶ引いている。お前に好かれたクインチェル殿が不憫だ。お前は目的を達成するためなら、手段を選ばないからな』
『ははっ、ひっどいなあ』
『お前、自分の行動を振り返ってみろ。クインチェル殿が好きすぎて、皇帝の側近の仕事をそっちのけに統一戦争に皆勤賞で参加。返り血に染まった姿で敵を笑いながら容赦なく排除していれば、
改めて聞くと、我ながら浮かれすぎだなと思う。
『クインチェルのために戦っていると思うと、喜びが込み上げてきてしまって……つい』
『クインチェル殿、な。勝手に呼び捨てにするんじゃない。まったく、誰の側近かわからないな』
呆れているローガンに報告を済ませたあと、ユベールはすぐに屋敷に戻ってアーブルメス語を学んだ。
仕事で授業が受けられなくても、眠る前の空いた時間、自室で復習をするのが日課になった。
ランプの明かりに照らされた寝室で、何度クインチェルの名をアーブルメス語で綴っただろう。
いっそ留学でもすれば、クインチェルに会う機会もできるだろうか。
クインチェルはあの日、流暢に帝国ユニオンの言語を話していたので、アーブルメス語でなくても話せるのだろうが、せっかく会うのなら彼女の国の言葉で話したい。そのほうが彼女の考えをより正確に理解できるだろうから。
(知りたい……どんな女の子なのか)
どうにかして、彼女に近づく方法はないだろうか。そう考えて統一戦争に参加した。言語を習得しようとしたのも、そのいつかのためだ。
けれど、他国の皇帝の側近である自分が、彼女のそばにいられる方法は、まだ見つけられずにいた。
それから二年後、その機会は急にやってきた。
『ユベール、お前をアーブルメスの献上品にする』
『わー……開口一番に尊厳を踏みにじってくるなんて、俺なんかしました?』
執務室に呼ばれたかと思えば、まさかの通達を受けた。さすがのユベールも面食らう。
『なんだ、アーブルメスに行けるのに嬉しくないのか? 愛しのクインチェル殿がいるんだぞ』
『そりゃあ嬉しいですけど、ちょっと引っかかりますよね。俺、狂犬なんて呼ばれてはいますけど、公爵家の出身で純潔の血統書付きみたいなものじゃないですか? それに強いのに、あっさり他国にやるなんて』
『献上な。あと、気持ちいくらいに自己評価が高いな』
ローガンがわざわざ言い直すので、ユベールも訂正する。
『〝献上〟なさるなんて、相当ですよね。なにかあったんですか? あと、正当な評価ですよ。盛ってませんし』
嫌な予感がぷんぷんするし、うまい話には大抵裏がある。まあ、罠でもクインチェルに会えるかもしれないこの機会を逃す気はないのだが。
『フィリップ国王たっての願いでな、クインチェル殿に脅迫状が届いたらしい』
『……は?』
自分でも驚くほど、低い声が出た。怒りに口角に浮かんだ笑みが引きつる。
『この間の会談の際に護衛役を探していると相談されてな。クインチェル殿はこの国の救世主で、各国の平和を維持している尊き
想像していた以上に深刻な事態、託された新たな役目も重大だった。
『まあ、お前を手放すのは痛いんだがな。息子の初恋となれば応援してやりたいだろう。それにお前は、国や民のためにと崇高な志を掲げて戦うような男ではない』
その通りだ。命にそれほど執着はなかったとはいえ、だ。あの刑場でサントル軍の軍人や民衆から今までしてきたこと、この命さえも軽んじられたとき、この国の人間のために戦うのも死ぬのも馬鹿らしいと思った。
その冷めた心を、ローガンは見抜いていたのだ。
『だが、クインチェル殿のためなら戦いたいのだろう?』
(――戦いたい)
刑場でのクインチェルとの出会いは鮮烈だった。身体が、心が、魂が、強く彼女に惹かれたあの瞬間を、昨日のことのように思い出せる。
『のらりくらり、いつだって流されるままに生きてきたお前が急に語学を学んだり、戦に出向くようになった。俺はあんなふうに、なにかに熱中するお前を初めて見た』
熱を思い出したのだ。気づけば彼女のことばかり考えるようになって、手を伸ばし、求めずにはいられなくなった。――欲しくなった。
『できれば俺が、お前の唯一の男になりたかったんだがな。強さ、忠誠心のどちらをとっても、クインチェル殿の護衛にお前ほどの適任者はいない』
『俺は彼女のためなら、この命を懸けてもいい。彼女のために戦うことに喜びを感じていますからね』
ずっと彼女に近づくための手段ばかりを模索していたが、今ようやく自分が求めるものの輪郭がはっきりとした気がする。
護衛役は彼女のそばにいながら、彼女のために戦えるまさに理想の役目だ。
『というわけで、お前を献上することにした。達者でな』
『はい。彼女に引き合わせてくれて、ありがとうございました』
一礼をして踵を返す。部屋の出口まで歩いて行ったユベールは足を止め、ローガンを振り返った。
『俺がローガン陛下と戦ったのは、別に流されたわけじゃないですよ』
『……!』
『自分の意思でした。俺より強い、唯一の男だと思ってます』
それだけ言って部屋を出ると、後ろでローガンがふっと笑う声が聞こえた気がした。
それから幾日か経ち、アーブルメスの王城の広間でクインチェルとの対面の日を迎えた。
広間の扉が開いた先にいた彼女は、記憶の中の彼女より少し大人になっている。愛らしく、それでいて美しかった。
(ようやく、この時が来た)
喜びを噛み締めるように、彼女に向かって一歩一歩、ゆっくりと足を踏み出した。
『お初にお目にかかります』
軍帽を脱いで胸に引き寄せると、微笑を浮かべる。
『俺はユベール・ブラック。クインチェル様の……犬です』
自分が仕えるのは、アーブルメスの王ではない。なので王よりも先に彼女の前に跪き、その手をたまらない気持ちで持ち上げた。
(業火の中だろうと、どこまでもついていく。あなたのためだけに戦う)
誓うように彼女の手の甲に口づけると、顔を上げる。欲しかったものが確かにそこにあった。
(やっと会えたな、俺のご主人様――)
*
「――そういうわけで、俺たちは前に会ってるんだよ」
クインチェルは案の定、目を見張ったまま言葉を失っていた。
あの日、たった一度、会っただけだ。それも彼女と目が合ったのは一瞬に等しいほど短い時間。忘れられていても致し方ない。
ただ、自分にとってそうであったように、彼女にとっても特別な出来事だったならいいのにと、欲張りにも思ってしまった。
「……あの日はとても緊張していて、今なら絶対に忘れませんが、誰になにを話したのかまでは覚えていないんです」
「え……あれで緊張してたの?」
「お恥ずかしながら……ものすごく」
「あんなに、はきはき喋ってたのに?」
「はきはき……喋っていましたか? その、まだ外交慣れしていなかったもので、とにかく勢いと虚勢で乗り切りました」
その答えを聞いてユベールは唖然としたが、すぐに笑いが込み上げてきた。
「ぷっ……ははっ、あー、最高。知れば知るほど好きになる」
「……っ!?」
「なに驚いてるの。俺の話、聞いてたらわかるよね? 俺がどれくらい、クインチェルに惚れ込んでるのか」
同じベッドの上にいるクインチェルににじり寄れば、彼女は目元を赤らめながら後ずさる。
(うわあ、かっわいい。あまり顔には出ないけど、内心ものすっごく焦ってるんだろうなあ)
そう思うとたまらなくなり、つい意地悪がしたくなって追い詰めてしまう。すると後ずさるあまり、クインチェルがベッドから落ちそうになった。
「あっ」
「クインチェル!」
すぐにその腕を掴んで引き寄せれば、腕の中に彼女が飛び込んでくる。
(やりすぎたなあ。けど、予期せぬご褒美だ。堪能させてもらおう)
ここぞとばかりに抱きしめれば、クインチェルが身じろぐ。
「あの、離して……」
「うんー?」
しっかりと耳に届いていたが、聞こえなかったふりをした。
「ユベール」
「なにかな?」
「私のために、アーブルメスの言葉まで必死に覚えてくださって……嬉しかったです」
小さな声でそう言った彼女は照れ隠しのためか、ユベールの胸に顔を埋めて動かなくなった。
生まれて初めて執着した人が、この腕の中にいるというだけでも浮かれてしまいそうなのに……。
(嬉しいのは、俺のほうだよ)
追い詰められているのは、実のところユベールのほうなのかもしれない。
(クインチェルはどのくらい、俺のことを考えてる? できればあなたにも、俺のことで頭をいっぱいにしてほしい)
クインチェルは大使の仕事に誇りを持っているし、彼女の助けを求めている人は大勢いる。だから自分のことだけを考えてほしいなんて、そんなのは無理だということもわかっているのだが、彼女が欲を抱かせる。
「俺の行動原理はクインチェルなんだよ。あなただけが、俺の心を動かすんだ」
クインチェルがユベールの腕の中で顔を上げた。その赤い頬を親指の腹で撫でれば、彼女の体温が高くなった気がして、口角が上がってしまう。
(俺の気持ちを知れば、きっと優しいクインチェルは絆される。そうして、もっと俺のところに落ちてきてよ)
クインチェルはきっと、ユベールがそんな邪な考えで過去を語ったとは思っていないだろう。その無垢さに自分は付け込んでいる。
(覚悟してね、クインチェル。俺は絶対にあなたを手に入れるし、自分のものになったなら、嫌だって泣かれても絶対に離してあげないから)
(※コンテストの文字数の関係でここまでになります)
クインチェル令嬢のブラッドドッグ~献上された護衛役は、血眼の狂犬と呼ばれる軍人でした~ @toukouyou
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