1章 帝国からやってきた狂犬 

 クインチェルは弁護士の父と貴族出身の母が駆け落ちして結婚し、生まれた娘である。母は家を出た時点で貴族令嬢ではなくなったため、元はクインチェルも平民であった。


 クインチェルは床を四つんばいで歩いていた頃から、子供らしいものには興味がなかった。


 初めて読んだ本は絵本ではなく父の分厚い法書で、字はその本で覚えた。一度読めばすぐに意味を覚える娘に、父は無表情のまま微かに目を見張って言った。


『……俺の娘、才女?』


 ちなみにクインチェルの死んだ表情筋は父譲りで、初めて書いた文字は【有罪】である。


 元貴族令嬢の母からは食事や使いどころがあるかはわからないが、社交界のマナーなどの教養全般を教わった。


 それも数回反復すれば習得できたため、バイリンガルでもあった母が試しに外国語をクインチェルに教えたところ、これも何度か聞くと二言語ともあっという間に使いこなしてしまったらしい。


『やだっ、私の娘、才女!?』


 母はとても興奮していたそうだ。


 つまるところ、クインチェルの興味はもっぱら知識欲に全振りされており、近所では大陸に存在する五か国すべての言語を扱える才女として有名になっていた。


 そんな少女の噂を聞きつけて、何世紀に渡って続くロイヤル・カレッジの学院長より入学の案内状が届いたのはクインチェルがわずか六歳のとき。


 母の母校でもあるロイヤル・カレッジは、王家の者や良家の子息が集う。政治家や大商人など、世界の第一線で活躍する卒業生を数多く輩出してきた。


 クインチェルに興味を持った学院長は成績さえ優秀であれば奨学金を出すと言い、九歳で格式高いカレッジに入学することになった。


 しかしながら、弁護士の父は平民の中では裕福なほうではあるものの、奨学金を得ても両親に経済的負担はかかる。


 クインチェルは学院長に飛び級を提案し、各学年の試験を合格することを条件に三年通うところわずか一年、十歳でカレッジを卒業した。その話はカレッジの教師や生徒たちの間で伝説として語り継がれているとかいないとか。


 飛び級でカレッジを卒業した少女の話は王城にも知れ渡っていた。


 女性の身で要職に着くのは難しいとされていたが、アーヴルメスの外交を担う大使、七十となっても現役のマテオ・クレマンの強い希望で、クインチェルは彼の下で働くことになる。


 平民出身でしかも子供のクインチェルは、当然ながら同僚に馬鹿にされた。


『お菓子でも食ってろ』だのとすれ違いざまに悪口を叩かれ、机におしゃぶりが詰まれていたこともあった。


 まあ、愛想笑いというものを知らなかった子供であったのと、表情筋が死んでいたので物理的にニコリともできなかったのも原因だったとクインチェルは考えている。


 だが、マテオがクインチェルに皆を認めさせる機会を与えた。


 かねてよりフィリップ国王は、大陸に存在する五か国の統一に向けて動き出そうとしていた。大陸中央に位置するアーヴルメスは、立地的に周辺諸国に四方八方から侵略される危険があり、どの国よりも早く乗り出す必要があったのだ。


 また、先見の明があったフィリップ国王は、この大陸のようにもし別大陸にも国が存在したとき、国内で争っている間に大陸全土が他国の手に渡ると考えていた。


 クインチェルは外交官として、それぞれの国に接触を図った。文通で情報収集をして、彼らの好みそうな贈り物や会話をし、繋がりを作った。


 そのうち、各国が抱える問題を知る機会に恵まれたクインチェルは、その問題を解決するために力を貸すことで各国の元首たちから信頼を得た。


 いつ戦争が起こってもおかしくない状態であったが、それぞれの国に赴き、会談できるまでの関係を築いたクインチェルを次第に皆が認めるようになる。


 そんなクインチェルの働きもあり、一年前にアーヴルメスは統一を果たした。


 これを機にマテオが一線を引いて、議員になることが決まった。その際、彼やフィリップ国王、そして同僚の推薦もあって、クインチェルがアーヴルメス歴代最年少大使に任命された。


 クインチェルの出世でボードモン家は国王から爵位を授かった。このとき与えられたのは、男爵と同等の女爵。平民で初めて爵位を与えられた女性として、平民や女性の憧れの存在だ。


 もちろん、クインチェルをここまで育てた両親も貴族となり、早めの恩返しができたと思っている。


 とはいえ統一から日も浅く、併合せずに支配下に置いた国同士の小競り合いは絶えない。


 主国の外交官として、クインチェルが間に入ることでその関係は維持されており、各国の元首からは調和の国、アーヴルメスの使者であり、平和をもたらす小さな天使プティタンジュと呼ばれ、愛されている――。




 変態犬……否、ユベール・ブラックを帝国に送り返すことを却下されてから、早ひと月。


 朝の支度を始めようとしていたクインチェルは、今しがた彼に渡された書物を読み終えると、静かに円卓に置いた。


「これは……私の伝記……ですか?」


(え、なぜ?)


 頭の中が疑問符で埋め尽くされていく。


「そうだよ。概要程度の代物だし、にわかみたいで恥ずかしいけどね」


 鏡越しに目が合ったユベールは、その口元に微笑とも羞恥ともつかないものを滲ませた。


 どうしたものだろう、恥じらっている理由がまったくわからない。


 クインチェルは初めて遭遇する未知の生物に身震いしながら、勝手に作成された自分の伝記に視線を落とす。


(これ、概要どころか私の幼少期まで網羅されているんですが? 子供の頃の愛読書が法書であることまで、一体誰に聞いて……)


 ふと娘自慢をしそうな両親の笑顔が脳裏に浮かび、脱力しそうになる。


(父、母……!)


 ダンッと額から円卓に飛び込みそうになるのを必死に耐える。


(わざわざ、ふたりに聞きに行ったということですか? え、なんのために? そもそも普通、人の生涯を勝手に伝記として製本しますか? 私の個人情報! ちゃっかりカバーや袖に私の顔の肖像画まで入っていますし、え、肖像権は? ユベール・ブラック、全っ然理解できません……!)


 クインチェルは顔に出さずとも大いに戸惑い混乱しながら、ユベールを振り返る。


「俺がどれほどクインチェルのことを把握しているのか、知ってもらいたくて」


 当然のように先ほどから櫛で人の髪を梳いているユベールが満面の笑みを浮かべた。


(――え、怖い。やっぱり、私には手に負えない……)


 どうしてこうなったのかと聞かれれば、気づけばするすると懐に入り込まれて……という他ないのだが。


『ユベール殿、ではなく、ユベールって呼んでよ』


 呼び捨てにしてほしい、から始まり。


『クインチェル様だと距離があるなあ……ねえ、クインチェルって呼んでもいい?』


 ――といった感じで急速に距離を縮めて来た。


 敬語でなくていいとも言われたのだか、クインチェルのこれは口癖だ。両親に対してもこの話し方なので、丁重にできない旨をお伝えすれれば……。


『なら俺は、遠慮なくいつも通りでいかせてもらうね』


 この調子で、本当に気づいたら護衛業務とは関係ない身の回りの世話のほとんどをユベールがメイドから奪っているので――。


「ユベール・ブラック! またお前か!」


 勢いよく部屋の扉が開け放たれ、大股で中に入ってきたのは褐色の肌ときっちり団子にまとめられた金髪、芯の強さが宿る海色の瞳を持つ美人。足首まで隠れる黒のワンピースの上から白いひらひらのエプロンをつけたメイドのアン・カレだ。


 普段は物腰柔らかだが、クインチェルに近づく者に対しては厳しく品定めをし、害があると判断すると容赦がなくなる。


「それは私の仕事だと、何度言えばわかる!」


 アンが櫛を奪おうとすると、難なくユベールが避ける。その拍子に円卓から書物が落ち、アンが慌てた様子でしゃがんだ。


「あっ、私としたことが! 申し訳ありませんっ、クインチェル……さ、ま……?」


 拾った書物をアンが怪訝そうに見ている。正確にはクインチェルの肖像とユベール・ブラックと記された著者名が載っている表紙を。


 彼女はペラペラとページを捲るうちに顔を険しくしていき、パタンと書物を閉じると小刻みに震えだした。


「私は……母がクインチェル様のお母君のメイドをしていたため、成り行きでクインチェル様のメイドとなりましたが……才女ゆえに孤独だったクインチェル様のお心に寄り添いたいと、幼少期より誠心誠意お仕えしてきました」


 アンはもう二十六歳だ。主としていい縁談相手を探そうとした時期もあったのだが、当の本人がクインチェルのそばにいたいと言って聞かなかった。


 大使となり、家族と離れて王城に近いこの別邸に移り住むことが決まったときも、当然のようについてきてくれた。クインチェルにとってはもう家族も同然だ。


 彼女もそう思ってくれているからか、彼女のクインチェルに近づく男性への値踏みはいつも厳しい。顔を上げたアンのユベールを見る目は据わっている。


「私には、クインチェル様を守る義務がある」


 ゆらりと立ち上がったアンは、むんずとユベールの胸ぐらを掴んだ。


「クインチェル様の未来の夫になるなんて言い出してみろ、シメるぞ?」


 目を眇めるアンの顔面は破壊力が凄かった。


(恐るべし、私のメイド。狂犬に負けず劣らずの狂猫です……)


 冷笑を浮かべながら見下ろしてくる狂犬を、毛を逆立てた狂猫が威嚇する図が頭に浮かんだ。


「わかったら、とっととクインチェル様のお世話を代われ」


 櫛を貸せとばかりに手を出すアンに、終始微笑を浮かべていたユベールが言う。


「アン殿が口を動かしている間に、俺は手を動かしていた。だからもう終わったよ、残念だったね」


 ユベールは両手を軽く挙げてみせる。クインチェルの髪は見事に三つ編みに結われていた。


 悔しそうにその三つ編みを見ているアンに、ユベールは不敵な笑みを向ける。


「残念ながら、これからも俺はアン殿から仕事を奪うつもりだ。俺がいないと生きていけなくなるように、クインチェルの世話は俺が焼く」


(……この人、一番私の護衛になってはいけない人では……?)


 ぞわわっと鳥肌が立った。


「動機がやべえよ!」


 アンが叫ぶ。


(アン……アンの喋り方もやばくなっていますよ……)


 クインチェルが苦笑していると、アンが「クインチェル様ぁっ」と膝に泣きついてきて、伝記を持ち上げた。


「こんな伝記まで作ってくるストーカー、さっさと辞めさせましょう!」


(はい……私も返品しようとしました……が、無理でした)


 献上品(※人間だけど)を返すのは、さすがに帝国に不敬すぎた。


 追い返せないのなら、うまく付き合うしかない。戦闘能力だけで言えば、彼ほど心強い者はいないのだから。


「ええと、ユベール。伝記については情報源が気がかりですし、ちょっと怖――見せられたときの衝撃が強いので、今度から知りたいことがあれば、直接私に聞いてください」


 そう遠回しに釘を刺せば、ユベールはなぜか歓喜の表情を浮かべる。


「それは生身の俺と、もっと話がしたいってこと?」


「な、生身? 言葉選びが独特ですが、概ねそう……ですね。知らないところで話されるよりは、ずっといいです」


「そっかー、クインチェルは自分のいないところで俺が誰かと話すのが嫌なのかー。それならクインチェルの言う通りにするね」


(ちょっと妄想も入っていますが、訂正すると余計に話を盛られそうですね……うん、もうそういうことにしておこう)


 明らかに上機嫌のユベールに、クインチェルはやはり困惑の極みであった。




 その日、北の雪国スノーロヴァの使者がアーヴルメスの王城を訪れていた。


 広間には国王と王太子、議員と大使のクインチェルを始めとする外交官が出席している。クインチェルの隣には、護衛役のユベールの姿もあった。


 そうそうたる顔ぶれが揃う中、スノーロヴァの使者が緊張の面持ちで口を開く。


「先日、ドルヴァローから書状が届き、『ルージュブッシュ』を継続して輸出してほしければ、毎月ルージュブッシュの維持費を収めるようにと伝えてきたのです。もし払えなければ、輸出をやめると」


 皆、それによってどんな被害が起こるのかを理解しているため、場が騒然とした。


 雪国であるスノーロヴァでは薪がしけってしまい、火にくべても燃えない。なので雪国でもよく燃える薪の種類――ルージュブッシュが必需品なのだ。


 しかし、ルージュブッシュは南の南国でしか採れず、輸出を止められればスノーロヴァの民たちは凍え死んでしまう。


「いくら我が国が主国とはいえ、その程度の問題、貴殿の国で解決できないのか?」


 ざわつく議員や外交官たちの声を遮ったのは、国王譲りの赤茶色の髪にサファイアの瞳をした王太子、ルイ・グリュッヴィヒ・アーヴルメスだ。


 二十七歳である彼の下にはもうひとり、歳が十七も離れている王子がいる。


 嫡子であるルイ王太子が王位を継承すると考えている者が多いだろうが、いまだ国王はその意思をはっきりさせてはいない。


 まだ十歳の弟に継承権が渡る可能性も捨てきれないため、ルイ王太子は公の場で目立たなければと焦っているのだろうが、今のは失言だった。


「――なりません」


 クインチェルが静かに発言すると、場の空気が澄み渡るように落ち着いた。


「このアーヴルメスがあまねく国々の主となるにあたり、四か国と結んだ条約に反します」


 ここで言う条約とは、この国が主国となることで、各国にもたらされる利を約束するというもの。それを果たせなければ、併合されていない国々がアーヴルメスに従う必要がなくなる。


 すなわち統一の破綻、再び国々がバラバラになり、大陸内で侵略戦争が起こりうるということだ。


 クインチェルは、スノーロヴァの使者に向き直る。


「スノーロヴァがドルヴァローから安定的なルージュブッシュの輸入ができるよう助けること。なんらかの理由でそれがなされない場合、我が国が仲裁することが条約に含まれています」


「その通り、我々は主国として紛争を未然に防ぐ義務がある」


 国王はルイ王太子を見つめ、言い聞かせるように言った。


「どのように些細なことでも、塵も積もれば火種となるのだ。各国の中立的な立場から、よく見、よく耳を傾け、我々はそのサインを見逃してはならない」


「っ……」


 ルイ王太子は悔しそうに唇を噛み締め、挽回しようと口を開く。


「ならば向こうの条件を受け入れるしかないのではないか。ルージュブッシュの維持費さえ収めれば、これからもスノーロヴァはルージュブッシュを買えるのだからな」


「なりません」


 クインチェルがきっぱりと告げると、ルイ王太子はぐっと呻いた。


「毎月の維持費というのはもはや納税も同じ、税は基本的に国に納めるものであって、他国に納めるものではありません」


「しかし、ルージュブッシュはドルファローでしか作れんだろう。国民を思えば金と命、天秤にかけるまでもないではないか!」


 ルイ王太子の意見ばかりを否定してしまって申し訳なくはあるが、国のためだ。


 噛みついてくるルイ王太子に、クインチェルは説明する。


「それがお金だけ払えばいいという問題でもないのです。ひとつ勝手を許せば、要求は増えていくばかりですから」


「ならばどうするというのだ!」


「はい、交渉をいたします。使者殿、ドルヴァローはこの件について、なにか理由は述べていましたか?」


 クインチェルが使者に尋ねると、彼は困り果てた顔をする。


「維持には多額のお金がかかるからと、それだけでして……我々も困惑しているのです」


「そうでしたか……そのように曖昧な理由では受け入れられませんね」


 クインチェルは国王を見つめて、はっきりと告げた。


「アーヴルメスはそれぞれの国を尊重して各国を併合していません。それにも拘わらず、他国の弱みに付け込み、税の納付を求める姿勢を崩さないというのなら、条約違反に基づき我が国に併合すべきです」


「まさか、かの小さな天使プティタンジュが侵略を陛下に進言するとはな」


 ルイ王太子は鼻で笑い、ここぞとばかりに重箱の隅をつつく。すると、そばに控えていたユベールの纏う空気が張り詰めた気がした。


 クインチェルがちらりと目をやれば、彼は怖い顔で微笑している。それにルイ王太子も気づいたのか、びくりとしながらさりげなく視線を逸らしていた。


「失礼、クインチェル大使は正当な条約の権利を発動しているだけですよ」


 助け舟を出してくれたのは、クインチェルをこの道に誘った恩師、マテオ議員だ。


「アーヴルメスは侵略できるところ、各国の可能性を信じて尊重し、併合せずに主国として各国との調和を図ってきました。しかし、今回のドルヴァローの主張はその調和を乱しかねないものです。条約違反に当たる可能性は大いにある。我が国も頑とした姿勢を見せるべきかと存じます」


 元大使であったマテオ議員は、外交にも明るい。他の外交官や議員は同意見だと頷いている。


 クインチェルは追い風があるうちにと、フィリップ国王に進言する。


「ルージュブッシュは伐採しなければ、民の家々を破壊しながら生え広がります。そして、南国のドルヴァローではルージュブッシュの消費量が少なく、資源が余っていました」


 小柄だからこそ、大きな身振り手振りで人の目を引き付ける。子供だと舐められないよう、ゆっくりと焦らず落ち着いた声音で、それでいて凛とはっきり言葉を伝える。


 外交官、大使として仕事をしてきて、クインチェルが身に着けた技のひとつだ。


「むしろその余った大量のルージュブッシュは、南国の乾燥した空気によって、たびたび山火事を起こす原因となっていました。ドルファローもそのルージュブッシュの受け入れ先が決まり、条約には快諾いただけていたはず。ですので、なにか事情があったのやもしれませんし、すぐに書状にて事実確認を行います」


 フィリップ国王はうむ、と頷く。


「全権をクインチェル大使に任せる」


 そうフィリップ国王が命じたとき、ユベールがクインチェルの視界を遮るように、僅かに立ち位置を変えた。


 不思議に想いながら彼の背から少し顔を出すと、ルイ王太子が忌々しそうにクインチェルを睨みつけている。


(もしかして、庇ってくれたのでしょうか……?)


 クインチェルは彼の服の裾を軽く引き、小声でユベールに声をかける。


「いつものことです、私は気にしていません。ですが……ありがとうございます」


 ユベールは少しだけこちらを振り返り、今まで見たことがないほど静かに笑みを返してくれた。




 広間を出て廊下を歩いていると、壁に寄り掛かっていたルイ王太子が待っていましたとばかりに前に立ち塞がった。


 彼のそばには無精ひげの生えた大柄の男が控えている。


 長い襟足を雑にまとめた薄桃色の髪と銀の瞳、三十半ばくらいに見えるが整った顔立ちをしている彼は王太子付きの護衛、エイスロットだ。


 彼は見世物として互いに戦闘することを強制された剣闘士奴隷グラディエイターだったと聞いている。だから苗字がない。


 各地の闘技場で剣闘士奴隷グラディエイター同士、または猛獣と戦わされ、一度も負けたことがないとか。その噂を聞きつけ、ルイ王太子が買ったというのは有名な話だ。なにせ、ルイ王太子自身がいい買い物をしたと言って、強い護衛を自慢して歩いているのだ。


「口を開けば『なりません、なりません』……そんなに俺の邪魔がしたいのか」


 睨みつけてくるルイ王太子の後ろで、エイスロットは呑気に欠伸をしている。それに内心ぎょっとしていると目が合った。にぃっと笑いかけてくる彼に戸惑いつつ、クインチェルは視線をルイ王太子に戻す。


 やはり、先ほどクインチェルが意見したことが気に障ったようだ。


 外交問題に発展させないためには、避けられなかったことだ。それをわかってもらうべく、丁重に返事をする。


「邪魔……をしたつもりはありませんでした。ですが、私はアーヴルメスの大使です。 必要な支援なら与え、度が過ぎれば言い方は悪いですが圧力をかけ、各国の天秤がどちらか一方に傾きすぎないよう、ときには注ぎ、ときには奪い、常に水平に保つのが役目なのです」


「私のせいで、その天秤が傾きかねなかったと?」


 ルイ王太子は頭に血が上りやすいうえ、否定されることを酷く嫌う。事実、内戦を引き起こす可能性はあったと伝えれば激怒するに違いない。とはいえ――。


「ルイ殿下はいずれ、この国を導くお方です。その言葉ひとつで国は容易く滅亡するのだということを理解してほしいのです」


 外交官は必要とあらば戦地にも赴く危険な仕事で、外交先で捕虜になったり、アーヴルメスの要求を呑めない場合、その意思を示す見せしめに命を奪われることもある。


 外交官たちは命をかけて各国の懸け橋となり、人生を賭して平和を守っているのだから、それを軽いひと言で壊されては困る。


 ルイ王太子は想像通り、自分を貶されたと思ったのだろう。目尻を吊り上げると、低く怒りに震えた声で言う。


「……私がいつ、そのような発言をしたというのだ」


「スノーロヴァの使者の前で、自分で問題を解決しろ、と殿下はおっしゃいました。あれはスノーロヴァとの関係性に、ひびが入る可能性がありました。アーヴルメスの支配下にある国とはいえ、併合されていない状態で、あのように突き放したのはまずかった。公の場では熟考を重ねてから発言していただきたいのです」


 クインチェルは僅かに頭を下げ、失礼を詫びる。


 何年もこうして国政に関わっているというのに、ルイ王太子にいっこうに先見の明が備わらないのは、ひとえに彼のプライドの高さが原因だ。失敗を受け入れられず、ごまかそうとしたり、人を責めるばかりでは成長できない。


 少し踏み込みすぎたとは思うが、外交問題に繋がるのなら大使として見過ごせない。


「フィリップ陛下のおっしゃったように、どんなに些細な問題も見逃してはいけないということを、わかっていただきたく――」


「ちっ、黙れ……! エイスロット!」


 ルイ王太子が呼ぶと、かったるそうな笑みを浮かべていた彼は「はいはい」と面倒そうに言った。次の瞬間、目にも留まらぬ速さでこちらに踏み込んでくる。


「……!」


 突然のことでクインチェルは頭が真っ白になった。


 すると、視界の端で別の影が動く、ユベールだ。血濡れたように瞳を赤くぎらつかせ、クインチェルに襲い掛かろうとしたエイスロットの前に身を滑り込ませる。


 ユベールがその首を片手で掴むと、エイスロットが「ぐっ」と呻いた。そのまま体重をかけられたエイスロットは後ろへよろけ――。


「ぐはっ」


 ユベールによって容易く、エイスロットの大きな身体が床に叩き伏せられた。


「へえ、丈夫だな。骨の一本、二本、折るつもりでやったのに」


 ユベールは感心したふうに、エイスロットを汲み伏したまま見下ろす。


「俺はだらだらしてたいんですがねー、元剣闘士奴隷グラディエイターですから、鍛えざるを得なかったもんで」


 エイスロットもまた、愉しげにユベールを見上げていた。


「貴様……負け知らずだったのではないのか!」


 怒りに顔を赤くしたルイ王太子はふたりのもとに歩いていくと、力任せにエイスロットの顔面を殴りつける。


「がはっ」


「俺は強いから貴様を買ってやったんだ! あの奴隷生活に戻りたいのか!」


「ぐふっ……奴隷なのは、あんま今と変わんねえけどなあ」


「なんだと? 強ければ誰でもよかったとはいえ、主人に対して礼儀がなっていなさすぎる! 犬なら犬らしく、飼い主に従順にしてろ!」


 ルイ王太子は、ままならない現状への苛立ちを弱い立場の者にぶつけているように見えた。


 奴隷だからと容赦なく暴力を振るうルイ王太子を、ユベールは「うわー」と白けた目で眺めている。


 立ち上がったルイ王太子は、最後にエイスロットの顔を踏みつけようとした。


 突然の出来事に思考が停止していたクインチェルは、我に返って口を挟む。


「――ルイ殿下、そこまでに」


 ルイ王太子の纏う空気がさらに棘を増した。ゆっくりと振り返ったルイ王太子は、殺気立った目でクインチェルを睨みつける。


「……お前は、この俺を止められる立場にあるのか? 皇族でもない、父上のお情けで爵位を賜った平民貴族の分際で」


「周りを見てください、使用人たちの目があります。ルイ王太子の評判に関わります」


「下僕にどう思われようと関係ない。物は喋らない、その言葉は存在しないも同じだ」


「ルイ殿下……」


 自分で自分の評判を落とすのをやめなければ、本当に継承権を逃すかもしれないというのに……。


 そうなれば、今でさえあまり良好とはいえない第二王子との関係はますますこじれ、身内同士で争うことになりかねない。


 この先が不安で密かにため息をついたとき、ルイ王太子は「そうだ」と妙案を思いついたかのように言う。


「そっちの犬と交換しろ」


「……はい?」


「護衛だ、わざわざ帝国から取り寄せた血眼の狂犬ブラッド・ドッグが俺も欲しくなった。それで先ほどの非礼は、ひとまずなかったことにしてやる」


 ユベールはただの帝国軍人ではない。王太子に比べれば身分は低いとはいえ、公爵家出身だ。あまりの非礼に絶句していると、エイスロットが起き上がった。彼は切れた口元を拳で拭うと、こちらを見てにやりとする。


(この状況でのへらんと笑っているなんて、変わった人だな……)


 なんというか、ここにいる人たちは濃い。クインチェルはどうしたものだろうと疲労感に襲われる。


「ルイ殿下、申し訳ございませんが――」


 クインチェルが申し出を却下しようとしたとき、ユベールが「ははっ」と笑った。


「引き取ったことを後悔しますよ」


「後悔?」


 ルイ王太子が片眉を上げると、ユベールも立ち上がって片側の口端を上げた。


「知ってます? 犬は群れで生活する動物で、服従本能と権勢本能、ふたつの本能を持ち合わせているんですよ」


 ユベールはひとり語りをしながら、クインチェルのところまで歩いてくる。


「ああ、服従本能っていうのは、安心して身を任せることができるリーダーを求めて、従いたいって本能ですね」


 それはあなたのことだと言わんばかりに、彼はクインチェルの髪を掬い上げ、その先に口づける。目が合うと甘さを含んだ微笑を向けられ、思わず鼓動が跳ねた。


 クインチェルの反応に満足した様子で、ユベールは改めてルイ王太子に向き直る。


「そしてもうひとつ、群れの中で一番強い個体がリーダーになろうとする権勢本能」


「先ほどからなんの話をしているんだ」


 苛立った様子で、ルイ王太子は顔をしかめた。


「俺の話ですよ、俺の。正確には俺たち帝国の人間が引く戦闘民族の血の話なんですが、リーダーがいない群れはないですから、俺たちは自分よりも強い人間がいない場合、自分がリーダーにならないとって感じるわけでして」


 それを聞いたエイスロットが、ぶっと吹き出した。


「つまり、ルイ殿下じゃ逆に躾けられちまうってわけですか」


「なんだと……? 俺では主にはなれないというのか!」


 ユベールはにっこりと笑い、肯定した。


「人をおちょくるのも大概にしろ! そこの小娘のほうがずっと弱いだろう! それなのにこの国の王太子である私には従えず、そこの平民貴族の小娘には従うのか!」


 クインチェルを指さしたルイ王太子に、ユベールの顔からすっと表情が消えた。


「……はい? クインチェルは殿下よりもずっと強いですが?」


 ユベールは低い声で凄む。ユベールに見下ろされたルイ王太子だけではない、その場にいるクインチェルやエイスロットでさえも彼の気迫に圧倒されていた。


「俺の全てを支配できるのは、クインチェルだけだ。クインチェルのために戦えることが快感、クインチェルの命に従うことに喜びを感じ、この手で守れることが俺の幸福。つまり、俺の中に殿下が入る隙は少しもないんですよ」


 そう言い切ったユベールの黒い笑みは、しばらく夢に出てきそうだった。


 さすがのルイ王太子も、変態の域に入った彼の発言に引いていた。


 クインチェルは居心地の悪さを覚えながら、彼らの間に入る。


「ええと、そこまでにしてください、ユベール」


(双方、不敬罪で国が揉めますよ……?)


 本当にわかってるのかな、この人たち……と今後の付き合いが不安になってくる。


 大人しく引き下がったユベールは、クインチェルの背後に立って、褒めてと言わんばかりに肩口に頭を寄せてきた。


(まあ、これくらいなら……)


 実際、ユベールはルイ王太子からも、エイスロットからも助けてくれた。


 クインチェルはぴんと腕を上げて、後ろにいる背の高いユベールの頭を片手で撫でつつ、改めて王太子に返事をする。


「護衛を交換するお話ですが、申し訳ありません。ユベールは私を守るために帝国が派遣してくださった方です。その行為を無下にするわけにはいかないので……」


 これはクインチェルとルイ王太子だけで決められることではないのだということをわからせたかったのだが、押し黙っているところを見るに理解はしているようだ。


「それから……個人的にも、飼うと決めたなら最後まで世話をし、責任を果たしたく思います。責任も果たせない者に、生き物をそばに置く資格はありませんから」


 それを聞いたユベールは恍惚の表情で、なぜか頬を擦り寄せてくる。クインチェルは咳ばらいをして、気恥ずかしさをごまかした。


「役に立たないからと飼い殺しにするおつもりでしたら、いっそ手放したほうがいいでしょう」


 ちらりとエイスロットを見ると、またもにやっと笑いかけられる。ルイ王太子の下で働くのが、相当応えているのかもしれない。


(今度フィリップ陛下にお会いしたら、それとなく相談しておこう)


 クインチェルには王太子の身の回りの世話をする者の人事を動かす権利はないので、これが手一杯だ。


「それでは、私は先の件に取りかからなければなりませんので、これにて失礼いたします」


 クインチェルは拳を握り締めて、怒りに震えているルイ王太子の横を通り過ぎる。


 それからしばらく廊下を進み、彼らの姿が見えなくなると、クインチェルは深いため息をついた。


(いろんな意味で気疲れした……)


 気を抜くと背中が丸まりそうだ。


「あの護衛……エイスロットだっけ。あいつ、本気出してなかっただけで、実は結構やれるかもな……」


 ユベールを見上げると、彼は真剣な表情で前を見据えている。


「そうなのですか?」


「うん、王太子はクインチェルを敵視してるみたいだし、あとあと敵になったりすると厄介だと思って、ひとまず殿下の護衛を使い物にならなくしておけばいいかと思ったんだよね、俺」


(なんて物騒な考え方!)


 ここで突っ込むときりがなさそうなので、クインチェルはとりあえず話を聞くことにする。


「だからさっきも、俺は骨の一本や二本折るつもりで反撃した。けどあの護衛、ぴんぴんして起き上がっただろ? 無気力そうに見えるからって油断しないほうがいい」


 どうやらユベールは、護衛として真面目に相手の力量を図っていたらしい。感心しながら、クインチェルは頷く。


「戦い慣れしているユベールが言うのなら、警戒しておきます」


 ユベールはにっこりと微笑みかけてくる。


「あの状況であの奴隷犬、クインチェルのこといやらしい目で見てたし、本当に油断しないで」


「いやら――!? そっ……んなことはないかと……」


「あるね。クインチェルを見るたび、にやにやしてた」


「あ、あれは笑ってでもいないと、やっていられないのでは? ルイ殿下の下で苦労していそうですし……」


 ユベールは遠い目をして、盛大なため息をついた。


「ああ、うん……クインチェルはそういう方面になると、急ににぶちんになるんだ」


「……にぶちん?」


「まあ、俺が目を光らせておけばいいか」


 そう言って、ユベールはなぜかクインチェルを抱き上げる。


「え、うわっ」


「俺は自分のものを貶されるのも、触られるのも、ましてや掻っ攫われるのも、うっかり相手の喉笛を噛み切っちゃいそうなくらい不愉快なんだ」


 うなじに回った手の指がやんわりとクインチェルの喉元を押さえた。見上げてくるユベールの目を見ていると、胸の奥が恐ろしく甘くぞくりとする。


「だから、ここまで待てができたご褒美に大人しく抱かせて」


「言い方!」


(それに許可を取る前に、すでに抱き上げていますし……!)


 いつもならこんなことはないのだが、思ったことがとっさに声に出てしまった。


 鼓動が早い。こんなに距離が近いと、それが伝わってしまいそうで恥ずかしい。


 こんなとき、照れていることを悟られないので表情筋が死んでいてよかったと思う。


 けれど、時間の問題かもしれない。どうにも、ユベールと接していると調子を乱されてしまう。彼のようにぶっとんだ――変わった人には出会ったことがなかったから。


「それにしても……最後まで世話をして責任を果たすってあれ、プロポーズ?」


 上気した頬、赤くぎらつく瞳――ユベールがまた、危ない顔をしている。


「プロ……ポーズ?」


 宇宙が見えた気がした。


 クインチェルには、まったくその気はない。一体どうしたら、そんな発想になるのか。もはや才女と呼ばれているクインチェルも、お手上げだった。


「クインチェルに躾けられ愛されながら生きていけるなんて本望、末永く愛してよ、ご主人様」


 うなじにあるユベールの手に顔を引き寄せられる。ユベールはそのままクインチェルの額に唇を押しつけた。


 もはや思考の処理能力が追いつかない、頭から湯気が出そうだ。


「う、あ、う……すみません、無理です……」


 クインチェルはなんとかその言葉だけを口にすると、そのまま彼の肩口に突っ伏して、数秒ほど意識を飛ばした。




 数日後、王城から馬車に乗り込んですぐ、クインチェルは眼鏡をずらして思わず眉間を押さえた。


 クインチェルのもとにドルヴァローに送った書状の返事が届き、臨時で議会が開かれることになったのだが……。


   *


 王城を出立する少し前、王城の広間では臨時の議会が開かれていた。


【我々はただ、スノーロヴァでは採取できないルージュブッシュに見合った対価を要求しているだけである。貴国の支配下に置かれた日より、四か国はアーブルメスを主国としたひとつの国も同然。納税の義務が発生しても、なんらおかしなことではないと考える】


 出だしから不穏なその書状をドルファローの使者が読み上げるにつれ、広間の空気はぴりついていった。


『スノーロヴァが条件を呑めない場合、アーブルメスが四か国の主国として、両国がルージュブッシュの安定的かつ継続的な取引ができるよう代わりに維持費を負担することを望む。ドルファローがルージュブッシュを輸出するにあたり、求める条件は以上となります』


 書状を読み上げ終えた使者は、険しい面持ちの国王や王太子、議員や外交官たちの顔を見て、身を縮こまらせていた。


 この場に当事者だからと、スノーロヴァの使者も出席させる案も出ていたのだが――。


(いなくて正解だった……)


 アーヴルメスの者たちでさえ、喧嘩を売られたも同然の書状にこれほどまでに怒りをあらわにしている。


『ドルファローの使者よ、貴国はアーブルメスの支配下にある国々はひとつの国だと言いながら、スノーロヴァの生命線のひとつとも言えるルージュブッシュを盾にさらなる金銭を要求した。この件について、我が国はドルファローが自国の利益しか考えていないと取れる行動であったと感じている』


 フィリップ国王に声をかけられた使者は、びくびくしながら『は、はあ……』とまるで他人事であるかのような返事をした。


『各国からも、ドルヴァローに対してそういった圧力はやめるべきだとの声があがっていることは自覚しているだろうか』


 表情こそ変えないものの、フィリップ国王の投げかける言葉のひとつひとつは厳しいものだった。


『いえ、私に言われましても……』


 使者の反応に、ルイ王太子が声を荒げる。


『貴殿はドルファローの代表として、この国に来たのではないのか! 貴殿に言わず、誰に言えばいいと言うのだ!』


 ルイ王太子は『まったく……』とため息交じりに言い、クインチェルを振り返った。


『これも大使が送った不出来な書状のせいではないのか? ドルファローから、余計な要求が増えたではないか!』


 わかってはいたが、ここぞとばかりにルイ王太子が責めてくる。


『申し訳ございません』


 素直に謝罪をすると、すぐそばから肌を刺すような空気を感じた。


 自分の主が貶められると、喉笛を噛み切ってやりたくなると言っていただけある。


 殺気立つユベールの様子を、皆が冷や汗をかいて窺っているのがわかった。狂犬の異名は伊達ではない。


『ユベール殿、ルイも、少し落ち着きなさい。今は争っている場合ではない』


 フィリップ国王に注意されたふたりは、大人しく従う。


『そして外交はたった一通の書状、一度の会談でうまくいくものでもない。何度も言葉を重ね、ようやく相手と通じ合えるものなのだ』


 クインチェルや外交官の仕事を、フィリップ国王はよく理解してくれている。だからこそ、ついていきたいと思える。命を懸けて、この仕事を成し遂げようと思えるのだ。


『……はい』


 ルイ王太子は納得がいっていなさそうに返し、やはりクインチェルを睨みつける。


 きっとルイ王太子の目には、クインチェルばかり庇われているように映るのだろう。


 フィリップ国王はただ、王になるために必要なことを彼に教えているだけだと思うのだが。


『して、使者殿。これより我が国からも使者を貴国に向かわせる。先に国へ帰還し、貴殿からその旨を伝えてほしい』


 ドルファローの使者はここから退出できるのが嬉しいのか、『はっ、失礼いたします!』と今まで以上にはきはきと答え、すぐに踵を返す。


『あ、お待ちください』


 クインチェルが呼び止めると、使者はその場で心底嫌そうに振り返った。よほど早く退散したかったらしい。


『その書状をお書きになったのは、どなたですか?』


『へ……あ、シモン・カルダン外交官です』


『……? ピエストロ大使はどうされたのですか?』


 ドルファローの外交は主にピエストロ・モリ大使が担っていたはずだ。それが急に別の者、それも大使以下の外交官に代わっていることに違和感を覚える。


『ピエストロ大使はお年を召しているせいか、近頃体調を崩しておりまして、その代わりを次に職務歴の長いシモン外交官が務めているのです』


 確かにピエストロ大使はマテオ議員と歳が近かった。


『そうでしたか、引き留めてしまい、申し訳ございません』


『いえ、それでは』


 使者が広間をあとにすると、この場に残ったのは身内だけとなった。すると議員たちが口々に言う。


『スノーロヴァの必需品だとわかっていてのこの仕打ち。もし交渉がうまくいかなかった場合は、こちらも圧力をかけるべきでは?』


『ドルファローは道の整備や水路などの整備が追いついておらず、我が国は無償で職人を派遣しています。その者たちを引き上げさせるのです』


 確かにアーヴルメスから支援を受けておきながら、金銭まで要求をしてくるドルヴァローには圧力をかけるべきだ。それに異論はないけれど――。


『それは最終手段でしょう。陛下は内戦を食い止めるべく、大陸を統一したのですから』


 クインチェルもマテオ議員と同意見だった。その最終手段を使うのは、あくまでドルファローが会談を重ねても強硬姿勢を崩さなかった場合だ。


『して、クインチェルよ。皆まで言わずともわかるな?』


 ざわつく広間が、フィリップ国王の一声で静まる。


 今日の書状の感じからして、文通だけでは話が進みそうになかった。それをフィリップ国王も感じ取り、先にお膳立てをしてくれたのだ。


 クインチェルは胸に右手を当て、左手でドレスの裾を摘まむと、立ったままお辞儀をする。


『はい。すぐにかの国に発ち、ドルヴァローの王と謁見してまいります』


   *


「お疲れだね、クインチェル」


 向かいに座っていたユベールが、とすんっと隣に腰かける。その拍子に軽く馬車が揺れ、過去にトリップしていたクインチェルは我に返った。横を見れば、美しく整ったユベールの顔が近づいてくる。


「ゆ、ユベール?」


「いい子だから、そのまま待て……してて」


 まるで犬に合図するかのように言い、ユベールはクインチェルの肩に腕を回すと、ぐっと自分のほうへ引き寄せる。次の瞬間、視界がぐるりと回り、気づいたときにはユベールに膝枕をされていた。


「ええと……?」


(これはどういう状況でしょう)


 目を瞬かせながらユベールを見上げていると、彼は目を細めてクインチェルの前髪を撫でる。


「考え事なら、身体を横にしててもできるよね」


(もしかして……私が疲れてるから、休ませようと……?)


 やり方は強引だけれど、休むのが圧倒的に下手な自分には、このくらいがちょうどいいのかもしれない。


「他の四か国をアーブルメスに併合しちゃえば、こんな小競り合いもなくなるのに、アーヴルメスってすごいよね」


「ユベールは……帝国ユニオンがアーブルメスに併合されてしまっても……いいのですか?」


「俺は別に、帝国に身も心も捧げてるわけじゃないしね。というより、軍人が自分たちのために戦うのは当然だって思ってる国民に嫌気が差してたくらいだし」


 そう語ったユベールの眼差しは遠くを見つめており、どこか仄暗かった。


「だから俺は、国でもなく皇帝のためでもなく、ただひとりの女の子のために戦ってるほうがずっと満たされる」


「そう、ですか……」


 どうしてなのかと聞いたら、ユベールの瞳を陰らせる過去に踏み込んでしまうだろうか。そう思ったら、詳しく尋ねることが出来なかった。


「だから俺は、不思議でしょうがないんだよね。どうしてクインチェルは、そこまで祖国や他国のために尽くせるのかなって」


 ユベールはからっと笑ったが、真面目に質問されている気がして、クインチェルも真剣に答える。


「……私、外交でそれぞれの国を訪れるたびに……思うんです。その国にあるもの、そこに住む人々、美しいものがたくさんあって、ああ……陛下はこの宝を残すために、自国に取り込まない選択をしたのだと……」


 頭を撫でるユベールの手が心地いい。だからか、言わなくていいことまで口からこぼれてしまう。


「もし……私が至らないばかりに……ドルファローに圧力をかけなくてはいけない事態になって……事態が好転せず、武力行使が必要になったら……その動揺はドルファロー以外の国にも広がります……」


 ドルファロー以外の国も、いつ自分たちが侵略されるのかと怯え、やられる前にとアーヴルメスに攻め入ってくるかもしれない。各国同士で妥当アーヴルメスを掲げて同盟を結び、袋叩きにされれば太刀打ちできない。なにより……。


「私は……」


「……私は?」


 先を促すように顔を覗き込んできたユベールは、意外なことに穏やかな笑みを浮かべている。


「私は……私を小さな天使プティタンジュと呼んで信頼してくれる人たちと……争いたくない。そうならないために、懸け橋としての役割を果たせるのか……そう思うと、いつも……怖いんです。とても……」


 お腹の上で組んだ両手が震える。その上にユベールの手がそっと重なった。


「……そうか、あのときもクインチェルは、心の中でこんなふうに震えてたんだ」


「あのとき……?」


 ユベールはふっと笑って、瞼がくっつきそうになるクインチェルの目の上に手を乗せた。自分以外の体温に、馬車の揺れも相まって眠気に誘われる。


「いじらしくて、ますます愛しくなったよ、クインチェル」


 意識を手放す間際、そんなユベールの声が聞こえた気がした。




 馬車に揺られること数日、クインチェルはドルヴァローの王宮に着いた。


 馬車の扉が開いた途端、肌に纏わりつくような熱気が入り込んできて、身体がじんわりと汗ばむ。


 先に降りたユベールは、当然のように手を差し伸べてきた。


「あ、ありがとうございます」


 その手を躊躇いがちに取って馬車を降ると、ユベールはマントを広げ、クインチェルをその陰に入れる。


 クインチェルは暑い日差しからも守ってくれる彼を見上げ、思わず口を開いた。


「ユベールの手は魔法の手ですね」


 彼は目をぱちくりさせる。


 クインチェルは繋がれたままの手に視線を落とした。


「あなたの体温は、馬車の中では眠りを誘う温かさがあって、この南国ではひんやりとしていて心地がいい」


「……っ」


「今までは外交に向かう間、気が張ってあまり眠れないことのほうが多かったんですが……あなたのおかげで、よく眠れました。頭もすっきりして――」


 顔を上げると、ユベールはなぜかそっぽを向いていた。


「ユベール?」


「今、こっち見ないで。急にドキドキするようなこと言ってくるんだから。びっくりしたー……」


 真っ赤になっている彼の耳を見て、クインチェルも照れてしまう。


「い、いろいろ喋りすぎました……」


「……いいよ」


 小さな声でそう言ったユベールに、クインチェルは「え?」と瞬きを繰り返す。


 ユベールは微かに目元を赤らめながら、こちらをちらりと見た。


「クインチェルが考えてること、知りたいし……」


 いつもは好きだとか、愛しいだとか、平気で乱用してくるユベールが本気で照れているのが伝わってきて、クインチェルもつられてしまう。


「そ、そうですか……」


(これから外交だというのに、こんなふわふわした気分でいて、いいのでしょうか……)


 いや、駄目に決まっているっ、とクインチェルは気を引き締める。


 すっと背筋を伸ばし、丸屋根クーポルが印象的な大理石の王宮を見つめた。庭園は水路と遊歩道によって東西南北それぞれに二等分されている。


 統一間もないこの大陸の国々は、まだ関係性が不安定なのだ。ちょっとしたきっかけが戦争の火種になる。


 こたびのスノーロヴァとドルファローの件も、その火種だ。両国の調和を取り戻せなければ、アーヴルメスの主国としての権威が弱まる。


 そうして今のアーブルメスと四か国との力関係が破錠すれば、再び大陸では侵略戦争が起こり、真っ先にその矛先を向けられるのは周辺諸国に囲まれているアーブルメスだ。


(なんとしても、傾きかけた天秤を水平に戻す……!)


 改めて決意すると、隣でユベールがふっと笑った。


「いい顔だ、ぞくぞくするよ」


「う、え?」


 また危ない顔をしているユベールに、クインチェルが顔を引き攣らせたとき、迎えの者がやってきた。


「ようこそ我が国においでくださいました、私はドルヴァローの外交官、シモン・カルダンです」


(この方がピエストロ殿の代役の……)


 アーブルメスの言語で話しかけてくれたシモン外交官に、クインチェルは胸の前で合掌し、軽くお辞儀をする。合掌はドルヴァローの挨拶にあたる仕草なのだ。


「クインチェル・ボードモンです。隣にいるのが、私の護衛の――」


「ユベール・ブラックです。以後、お見知りおきください」


 胸に手を当て、ユベールは恭しく低頭する。


 シモン外交官はそんなユベールをまじまじと観察し、微かに緊張の面持ちで答えた。


「ああ、貴殿があの……血眼の狂犬ブラッド・ドッグですか」


 肯定するようにユベールは軍帽のつばを押さえ、小さく会釈をする。


「お出迎え大変嬉しく思います、シモン殿」


 クインチェルが声をかけると、シモン外交官はすぐに表情を引き締めた。


「こちらこそ、かの有名な小さな天使プティタンジュにお会いできて光栄です。それではこちらへどうぞ」


 光栄です、と言っている割にはにこりともしない。


 先に歩きだしたシモン外交官の背を見つめ、ユベールが隣でぼそりと呟く。


「見事に顔と言動が一致してないな」


「私と同じで表情にあまり出ない方なのかもしれませんね……といっても、私も初めてお会いする方なので、どんな方なのかがわからないのですが……」


「そうなの?」


「はい。これまではピエストロ殿が外交の窓口でしたから」


 シモン外交官の案内で建物の中に入ると、さっそく広間に通された。


「ようこそ、アーヴルメスの小さな天使プティタンジュ


 王座に座っているのは金の瞳に後頭部で結い上げた紫の長い髪、首や手首に身に着けた黄金の装飾品がよく映える褐色の肌をした十二歳の少年王だ。白を基調とした露出の多い煌びやかな衣装を纏っている。


 クインチェルが胸の前で合掌し、床に両膝をつくと、事前に教えていた通りにユベールもそれに倣った。これはドルファローの最も礼儀正しいお辞儀の仕方だ。


こんにちはナムシテお久しぶりですねダンニャツァール、プレム・カムダール・ドルヴァロー陛下カイザー


 ドルヴァローの言語で挨拶をすると、広間にずらりと並んでいた臣下たちが息を呑んだ。


「あれがアーヴルメスの小さな天使プティタンジュか……見ていて気持ちがいい少女ですな」


「以前も感じたが、クインチェル殿がそこにいるだけで空気が急に澄んだようだ」


 突然の訪問に身構えていた臣下たちの緊張が僅かにほどけるのを肌で感じる。


 そばに控えていたユベールも、関心したふうにクインチェルを見つめていた。


「こちらは私の護衛のユベール・ブラックです」


 ドルファローの言葉を使ったのだが、ユベールは自分が紹介されているとわかったらしい。合唱をして軽く頭を下げた。


 ドルファローの臣下たちも血眼の狂犬ブラッド・ドッグの噂は耳にしたことがあるのか、若干戸惑っているようだった。


「それで、本日ここへ参られたということは、使者に届けさせた書状の返事を直接聞けるということでよろしいのでしょうか」


 早速本題に入るシモン外交官に、クインチェルはすうっと息を吸って告げる。


「はい、単刀直入に申し上げれば、ドルファローの意向を汲むことはできません」


 アーブルメスの回答を聞いて、臣下たちがざわめいた。


 プレム国王は若いけれど、利発な方だ。アーブルメスのこの答えを想像していないはずはない。それでも止められなかった理由は――。


 クインチェルはドルファローの臣下たちの反応を密かに観察する。


 ドルファローは本来絶対王政で、その権力は議会のあるアーブルメスと違い、国王に集中している。


 特権を持つ貴族やギルドに命じ、国を統治しているが、彼らは常に従順とは限らない。特権を持つがゆえに王に反発し、革命を起こして王政の打倒を図ることもできる。


 ドルヴァローのプレム国王はまだ若い。この場にいる貴族出身の臣下や外交官、ギルドの長は今回の件の関係者だと思うが、彼らを完全に従わせることができていないのかもしれない。


「こちらへ赴いたのは、なぜ今回このような申し出をされたのかをお聞きしたかったからです。ドルファローから来られた使者の方にお聞きしたところ、『私に言われましても』とのご回答をいただきましたので」


 クインチェルがアーブルメスにやってきたドルファローの使者に目を向けると、彼は気まずそうに視線を逸らした。


「書状では把握できないこともありましたので、事情がわかる方に直接お聞きしたかったのです」


 それを聞いたプレム国王は、眉をハの字にして微笑んでいた。


「それは、ご足労をおかけして申し訳なか――」


「ですが我々は、なぜこのような申し出をしたのかにつきまして、ご説明してきたと思うのですが」


 不敬にもプレム国王の言葉をシモン外交官が遮ったことに、クインチェルはさすがに驚いた。


 臣下たちの中にも国王への非礼に憤っているような顔をした者はいたが、誰も諫めない。シモン外交官の権力は、それほどまでに強いのだろうか。


「はい、ルージュブッシュを継続的かつ安定的に輸出するため、維持費を求めているとお聞きしています。また、それをスノーロヴァが支払えない場合、アーブルメスが負担するようにと」


「その通りです。維持費の内容につきましても、追って先の書状に同封したかと。これ以上の説明が必要でしょうか」


 頑として主張を譲らないシモン外交官に、クインチェルは思考する。


(やはり、話が平行線で進みませんね)


 国王の言葉を遮ってまで発言する横暴さ。恐らくシモン外交官は、この外交をほとんど独断で取り仕切っている。


(どうにかして、シモン外交官以外の者と……プレム国王と話ができれば……)


 その状況に持ち込むしかないと、クインチェルは強くシモン外交官を見据えた。


「……承知いたしました。維持費の負担につきまして、その申し出を叶える方法がひとつだけございます」


 勝ち誇ったように口端を上げるシモン外交官に、クインチェルは懐から巻物を取り出して広げて見せる。


「こたびの維持費は書状を見ます限り、スノーロヴァのために育てているルージュブッシュに、ドルファローの土地が侵食されないようにするための設備や住民の保護に使われるとのことでしたね」


「ええ、そうです。それがなにか?」


「そういった生活の維持に関わる費用を我が国やスノーロヴァから出すとして、実際に負担するのは国民です。つまり、維持費は税といっても過言ではありません。国民の負担が増える以上、彼らが納得できる相応の理由が必要になります」


 巻物を閉じると、手を差し出してきたユベールに預けて話を続ける。


「我が国がいくら主国とはいえ、ドルファローを併合してはおりません。他国のために国民が税を納めるには、書状でもおっしゃっていましたように、言葉だけでなく、ドルファローが真に我が国とひとつの国になる他ありません」


「なっ、我が国をアーブルメスに併合するというのか!」


 焦ったようにシモン外交官が叫ぶ。他の臣下たちも絶句する中、プレム国王がくすっと笑った。


「確かに、クインチェル大使の言う通りだ」


「陛下!」


 シモン外交官が不服そうに声をあげるが、プレム国王は穏やかな表情を変えずに言葉を重ねる。


「アーブルメスが我が国を併合せずにいるのは、その国のよさを存続させるため。けれどそれは、アーブルメスの国王の善意で成り立っているものだ」


 高台にある王座から立ち上がったプレム国王が階段を降りてくる。


「僕たちが一線を越えてしまえば、アーブルメスも我が国を併合し、他国に迷惑をかけないよう動かなければならない。それが主国であり、仲裁国でもあるアーブルメスの役割だから」


 プレム国王は下段に立っていたシモン外交官の横で足を止めた。


「より強い支配をせざるを得なくなる。スノーロヴァの生命線のひとつとも言えるルージュブッシュの輸入を盾に、さらなる金銭を要求しようとした僕たちは、今回出すぎたんだ、シモン外交官」


 プレム国王はやはり、今回のことは間違っているとわかっていたのだ。それでも止められなかった。


 奥歯を噛み締めるシモン外交官の横を通り過ぎ、プレム国王はクインチェルの前までやってくると、床に片膝をついて深々と頭を下げる。


「どうかフィリップ国王に伝えてほしい。こたびの非礼の数々を詫びると。どうか、我が国がこれまでも存続できますよう、小さな天使プティタンジュ、懸け橋となってほしい」


 国王が頭を下げたことに、その場には動揺が広がる。そして、国王に謝罪をさせたシモン外交官の立場は完全に悪くなった。


(もしかして……プレム陛下はこれが狙いだった……?)


 大国のアーブルメスが動かざるを得ない状況を招いたとなれば、この国でいくら実権を握ろうとも、シモン外交官は責任を負うことになる。


 ――これはプレム国王が自由に動くための演出だ。


(なんて危ない橋を渡ろうと……)


 クインチェルは利発で、それでいて勇敢なプレム国王に胸を打たれる。


「では、プレム陛下。今後は陛下と直接お話をしたく存じます。こたびの件は大きくなりすぎました。その誠意を見せていただきたいのです」


 この回答で彼の努力に応えられたはず。それを裏付けるように、顔を上げたプレム国王はクインチェルにだけわかるように微かに笑う。


「はい、小さな天使プティタンジュの申し上げる通りに」




 広間での謁見のあと、クインチェルたちはドルファローの衣装に着替えるようプレム国王に命じられた。


(なにか考えがあってのことでしょうけど……)


 姿見に映る自分を見て、頬が熱くなる。


 上半身に密着した上着は肩や胸元が大きく露出する形になっており、丈が短いのでお腹も見えてしまっている。


 腰のベルトで履く、ふんわりとしたパンツも生地が薄くて肌が透けている。


 ヘッドドレスから繋がったヴェールには、上着やパンツ同様にビーズやコインがあしらわれ、動くたびに音を立てるのも落ち着かない。


「私たち、いい仕事をしたわね!」


「なんといっても――」


 メイドたちは顔を見合わせ、「素材がよすぎるっ」と声を揃えて興奮している。


 当のクインチェルはというと、布の面積が少なすぎて、ただただ落ち着かない。


「あの、ご満足いただけませんでしたでしょうか……?」


 クインチェルが無言、無表情だったからだろう。不安そうに尋ねてくるメイドたちに、慌てて首を横に振った。


「いえ、あなた方の腕は国の要人のもてなしを任されるだけあって、とても素晴らしかったです。ただ、私がその……恥ずかしくて……」


 メイドたちは「まあっ」となぜか微笑ましそうにクインチェルを見て、いそいそと耳飾りや首飾りをつけてくる。


「こんなにお若いのに、大使をされているなんて、どんな方だろうと思っていましたが――」


「皆から小さな天使プティタンジュと愛されている意味がとてもよくわかります」


 その意味はクインチェルにはわからなかったのだが、メイドたちが気分よさそうに支度をしてくれたので素直に身を任せることにした。




「護衛の方は先に支度を終えて、待っておられますよ」


 着替えを済ませたクインチェルは、メイドのひとりに案内され、ユベールが待つ応接間に通された。


「お待たせし――」


 振り返ったユベールを見て、クインチェルは最後まで言葉を紡げなかった。


 前が大きく開き、逞しい胸板が露わになっている長い白地の上着と、ゆったりとしたパンツ。頭に巻かれている布や剣を差している腰の帯には、ほどよく金や宝石の装飾があしらわれている。


 軍服とは違って、露出の高い彼の格好は目のやり場に困った。


 思わず戸口で立ち尽くしていたクインチェルは、そろりと彼の様子を窺う。


 ユベールは頬を微かに赤らめて、目を見張っていた。


「なにこれ、ご褒美?」


「……はい? ええと、服のことなら、なにか意図があっての献上品だと思いますけど……」


「そんな真顔で、俺のご主人様はなにを言っちゃってるのかな? 服なんかが俺のご褒美になると思う?」


 ユベールはこちらに歩いてくると、クインチェルの顎を掴んで軽く持ち上げる。


「俺のご褒美はこっち。はあ……ほんと可愛い、満足」


(……っ!?)


 まるで甘く香る花や造形美しい美術品を前にして、酔いしれるかのように眺めてくるユベールに、鼓動が加速するのを感じた。


「でも、可愛いだけじゃないんだよな」


「っ、え……?」


「さっき広間で話してるとき、俺にはドロッセル語はわからなかったけど、それでもクインチェルの言葉で、他国の国王まで跪かせたんだってことはわかった。正直、痺れた。そういうところも最高にそそる。でも――」


 ユベールの瞳が妖しく細められた。


「クインチェルの犬は俺だけだから、他のやつに譲る気ないよ。跪かせるのも、命令するのも、頼るのも、甘やかされるのも……俺だけにしろよ」


「……っ」


 ユベールはときどき、こうして急に口調が変わる。


 そのときのユベールはいつも以上に男らしくて、たじろいでしまう。なぜだか食べられてしまいそうな怖さもあって、クインチェルは逃げ出したくて泣きそうになる。


 クインチェルとユベールが至近距離で見つめ合っていると、勢いよく扉が開いた。


「クインチェル!」


 プレム国王がドロッセル語でそう言い、目を輝かせながら走ってくると、飛びつく勢いでクインチェルに抱き着いた。


「僕の小さな天使プティタンジュ! 会いたかったよ!」


 ユベールは「……僕の?」と頬を引き攣らせた。心なしか笑みに凄みが効いたように見えたが、相手は子供でそれも王族だ。さすがに静かに待てをしている。


「プレム陛下、お元気そうでなによりです。それから……よく頑張りましたね」


 プレム国王を抱きしめ返すと、彼は少しだけ泣きそうな顔をして、へへっと微笑んだ。ここで泣かないところが、さすがは国王だ。


「俺がいつまでも待てができる犬だと思わないでよ」


 ユベールがそばにやってきたと思ったら、屈んで顔を近づけてくる。


「これでも狂犬だからね、ガウルルルッ」


 除け者にされて拗ねたのか、クインチェルの頬をかぷりと嚙んで犬のように威嚇してみせた。


「~~~~~っ!?」


 クインチェルは声にならない悲鳴をあげる。


 ユベールは赤くなったクインチェルの頬を満足そうに舐めると、プレム国王をちらりと見た。プレム国王は両手で顔を覆いながらも、指の隙間からこちらの様子を窺っており、ユベールはふっと不敵に笑ってクインチェルから離れていく。


「あなたは他国の国王の前で、な、なんてことを……っ」


(恥ずかしくて、プレム国王のほうを見られなくなったではありませんか!)


 クインチェルが項垂れていると、ユベールが顔を覗き込んできて不満をこぼした。


「……だって触ったから」


 そういえば、自分のものを貶されるのも、触られるのも、掻っ攫われるのも不愉快だと言っていたような気がする。


「ハグが挨拶の国もあるんですよ? このくらいは我慢してください」


「なにその国、滅べばいいのに」


「こらっ」


 アーブルメスの代表として来ているというのに、ユベールはとんでもないことを口走った。


 反射的に突っ込んでしまうクインチェルの様子を、プレム国王は目を丸くして見上げている。


「……驚いたな。クインチェルでも、そんなふうに取り乱すことがあるんだね」


「彼といると、私は自分を見失いそうになりますね……」


 片手で顔を覆って、ぐったりとしながら答えると、ユベールが頭のてっぺんに顎を乗せてきた。


「ねー。さっきから、ふたりだけでなにを話してるの?」


 また拗ねだしたユベールに、プレム国王は慌ててクインチェルから離れる。そして改めて、ユベールに向き直った。


「失礼しました、ユベール殿。クインチェルの護衛ってことは、アーブルメス語はわかる?」


「はい、わかりますよ……というか、さっきまでと大分、印象が変わってない?」


 どういうことだと言わんばかりに、ユベールはクインチェルを見る。


「プレム陛下はこちらが素なのです」


「ふたりとも、立ち話はなんだし、座って話そう?」


 クインチェルとユベールはプレム国王に手を引かれ、ソファーに腰かけた。


「よかったらお茶とお菓子もどうぞ」


 プレム国王は向かいの席につくと、テーブルの上の湯気立つ紅茶と南国の大きな葉の形をした銀の大皿に乗っているドルファローのお菓子を勧めてくる。


「ありがとうございます、お言葉に甘えて……」


 クインチェルが紅茶に口をつける中、ユベールは腕を組んだままどれにも手を伸ばさない。さすがに気になったのか、プレム国王は戸惑った様子で尋ねる。


「……あの、ユベール殿は甘いものが苦手で?」


「そういうわけではないですよ。ただ、俺は護衛で来てるんで、万が一毒が入ったものを口にして、いざというときに動けないとまずいでしょう?」


「ああ、そうでしたか……」


 プレム国王は納得したように頷く。


(ユベールは常に肩の力を抜いているように見えましたが、相手に悟られないように用心していただけだったようですね)


 あからさまに警戒心を剥き出しにした護衛よりも余裕がある。ユベールはクインチェルが思うよりもずっと、優秀な人なのかもしれない。


 そんなことを考えていると、プレム国王は静かにカップを置いた。話し始める合図に思えてクインチェルもカップを置くと、プレム国王は改めて頭を下げてくる。


「今回は巻き込んで本当にごめん。クインチェルはもう気づいてると思うけど、恥ずかしい話、今の僕は臣下を御しきれていない」


「プレム陛下の後ろ盾であるピエストロ殿が体調を崩し、休まれたのは痛かったですね」


「うん、ピエストロは人脈も功績もあって、由緒正しい家柄の出身だから、皆が彼を慕ってる。だけどピエストロがいなくなれば、次に権力があるのはシモンだ。彼も家柄はいいし、なにより国内最大の収入源であるルージュブッシュを扱っているギルドの長とは血縁関係にあるからね」


(それで先ほどはあのように、国王の言葉を遮れるほど強く出られたのですね……)


 今まで味方だった臣下たちも、ピエストロ大使が復帰できるか否かでシモン派に回るかもしれない。それではプレム国王は、傀儡になってしまう。


「ルージュブッシュが関わっているから特に、外交はシモンに発言力が傾く。だから僕が出るしかない状況を作る必要があったんだ」


「それであんなふうに跪いて謝ったのか」


 腑に落ちた様子のユベールに、プレム国王は頷く。


「クインチェルはそれがわかったから、僕が望んだ動きをしてくれたんだ」


「プレム陛下の作戦勝ちですね。ようやく土台に乗れたことですし、早急に解決に向けて取りかかりたいところですが、やはりピエストロ殿のお加減は……」


 早く戻って来れるのならば外交は円滑に進むうえ、プレム国王も安心するだろう。けれど、彼の表情は曇っている。


「復帰はしばらく難しいと思う」


「そうですか……」


「一時的にとはいえ、代わりに外交の全権を握ることになったシモンは、職務歴が長くてもピエストロがいる限り、それ以上の出世は望めない。だからこそ、今が好機だと思ったんだろうね。大きな功績を作りたかったみたいなんだ」


 それを聞いたユベールは、興味なげに言う。


「それは大使の座に居座りたくてってことですよね? けど、なんでルージュブッシュの維持費を他国に支払わせることが自分の功績に繋がると思ったんですかね。むしろ問題になるっていうのに、それもわからないほど無能なんですか、シモン外交官って」


 ユベールの指摘は的を射ている。クインチェルも疑問に思っていたことだ。


「私も気になります、シモン殿はなぜルージュブッシュに目をつけたのでしょう」


 クインチェルが問うと、プレム国王は深刻な表情で俯いた。


「それはたぶん……今、我が国に起きている大きな問題だから……だと思う」


「問題、ですか? まさか、ルージュブッシュになにか……?」


「そのまさかだよ。ルージュブッシュが山火事で焼けてしまったんだ」


「……! 被害の規模は、どれほどなのですか?」


 ルージュブッシュの損失はスノーロヴァだけでなく、ドルファローにとっても死活問題だ。


 クインチェルは緊張の面持ちで、プレム国王の回答を待つ。


「焼損面積はルージュブッシュの群生区域の四分の三」


(ほとんどが消失……!)


 クインチェルは事態の深刻さに眩暈がしそうだった。


「かなりの損害額も出てる。いくらルージュブッシュの生育が速いとはいえ、今までの通りの輸出量を確保できるようになるには少なく見積もっても三年はかかる」


「スノーロヴァのルージュブッシュの輸入量は莫大ばくだいですからね……」


 そのスノーロヴァという大口の買い手のおかげで、ドルファローの財は潤っていたのだ。


「ルージュブッシュの輸出はドルファローの財政を支える要でもあります。それが失われるということは、国は深刻な財政難に陥るのでは?」


 今回は多額の損害額も出ていると言うし、三年も収入がほとんど見込めなくなるとなると、国庫の蓄えで補わなくてはならない。しかし、それだけで国民の生活を守るのは難しいだろう。


「その通りだよ。そしてそれが、今回の維持費騒動の原因でもある」


 そう言ってプレム国王は、なにがあったのかを話してくれた。

 

 ルージュブッシュはシモン外交官の血縁者が取り仕切るギルドがその品質や価格、販売のすべてを厳しく統制している。国の財政を支えるそのギルドはルージュブッシュに関わる全ての事柄に置いて独占的な権利を有しており、山火事で数が取れなくなったことで商品の値上げをすると決めた。


「僕はスノーロヴァには事情を説明したうえで、値上げしたルージュブッシュを輸出するしかないと思っているんだけど、臣下たちが渋ったんだ」


 ユベールは「なるほど」と、ため息交じりに言う。


「資金がなければ国を守る砦を建てたり、武器の調達や人を雇うことができなくなって国が弱体化する。侵略を恐れてドルファローの実情を他国に知られることを危惧されたんですね」


 何度尋ねても、維持費を求める本当の理由を話さないわけだ。

 クインチェルもユベールの見解に付け加えるように口を開く。


「それでシモン殿はルージュブッシュの値を上げずに維持費を取れば、ドルファローの財政の要であるルージュブッシュになにかあったと気取られないで済むとお考えになった」


「その甲細工のせいで、クインチェルがあの王太子にどれほどいびられたことか」


「ユベール」


 諫めると、彼はもう言いませんとばかりに目を閉じて両手を軽く挙げてみせた。


「ごめん、クインチェル。すべて、その通りだよ」


「ですがプレム陛下、それですとあくまで財政難を隠すための施策をとっただけであって、ルージュブッシュの生産量が減ることへの対策をしない限り、問題は解決しないのでは?」


 ルージュブッシュの収入に比べれば、維持費なんてたかがしれているだろう。ないよりはマシだろうけれど、財政を立て直すことはできないはずだ。


「そうなんだ。けど、シモンはピエストロが戻ってくるまでの間に早く手柄をあげたくて、他のことが見ていないのかも」


(本当にそうなんでしょうか……)


 ずっと、喉に骨が引っかかっているようですっきりしない。この違和感は一体なんなのだろう。


 クインチェルはもやもやしながらも、話を進める。


「なんにせよ、ドルファローは財政を維持するため、スノーロヴァも生命線を確保するために、ルージュブッシュに代わる薪を用意する必要があると思います」


「確かにこの南国ではよく燃える薪を他にも用意できますが、火がつく速さも燃える時間もルージュブッシュには劣ります」


 プレム国王は不安げだったが、それも想像の範囲内だ。


「ですが、品質が劣ろうと雪国でも燃える薪はスノーロヴァでは重宝されるでしょう。ですので高値で輸出される高級品のルージュブッシュと、安価でスノーロヴァの民に多く行き届く代替品のふたつのラインで輸出するんです。安価の代替品はたくさん消費されるでしょうから、利益が出るはずです」


「確かに……それなら、ルージュブッシュの生産量が元の規模に戻るまで、持ち堪えられるかもしれない」


 考え込んでいるプレム国王の表情は、少し明るくなる。


「品物の高騰だけを通達するより、スノーロヴァの人たちが困らないよういろいろ手を打ったことがわかり、対外的にも印象はいいかと。亀裂が入った両国の関係を多少は修復できるはずです」


 クインチェルの策に、プレム国王は大きく頷いた。


「すぐにギルドに当たってみるよ」


「あ、そのギルドなのですが、ルージュブッシュを独占しているギルドはシモン殿の血縁者ということもあり、陛下の味方にするのは骨が折れるでしょう。ですので、他のギルドに代替品の薪の管理を任せ、陛下に恩のある勢力を新たに作るのがよろしいかと」


「……! なるほど、それはシモンの息がかかったギルドは焦るはずだ。向こうのギルドに取って代わられるかもしれないって」


「はい。ルージュブッシュを扱うギルドは、多少下手に出るようになるかと」


「ありがとう! 小さな天使プティタンジュのおかげで、希望が見えた気分だよ!」 


 大喜びしているプレム国王に、クインチェルは肩を竦めて微笑する。


「私は大使の務めを果たしただけですから……それより、ルージュブッシュが焼けた原因はわかったのですか?」


「臣下の調査では乾燥だろうって。この国では水分がなくなった落ち葉同士が摩擦するだけで自然発火、なんて珍しい話じゃないからね。それで周りの木々に燃え広がって山火事になったんだろうって」


 クインチェルが腑に落ちずにいると、ユベールが軽く首を捻る。


「日常的に起きてるなら、予め対策もされていたんじゃないですか?」


「うん、定期的に水をかけていたよ」


「なら……」


「そうだね、僕も疑ってる。人為的に火をつけられたんじゃないかって」


 冷気が背中を昇ってくるようだった。


「信頼できる臣下に密かに探らせたところ、山の麓で爆破音を聞いたという住民がいたらしいんだ。そのあとすぐに炎が燃え広がった」


 クインチェルは深呼吸をして、ずっと胸にある違和感の糸を手繰り寄せながら、静かに切り出す。


「旧ドルヴァロー派の仕業では?」


「旧ドルファロー派?」


 頭を傾けたユベールに、プレム国王が苦い笑みを湛えながら説明する。


「国王だった父上の死後、王位に就いた僕はまだ六つで、摂政の母上……王妃と、その愛人で勝手に宰相を名乗っていた臣下の傀儡だったんだ。王妃が好き勝手に統治していたものだから、散財の嵐で……国が荒れていたときにちょうど、クインチェルが外交官としてドルファローにやってきて……」


 プレム国王は懐かしむように、クインチェルを見つめる。


「僕は自分と同じ子供が、国を股にかけて働いているなんてって驚いたんだ。同時に、ただの操り人形でいることしか求められていない自分が恥ずかしかった。だから頼んだんだ」


 クインチェルも当時のことを思い出す。


 月の綺麗な夜だった。あの日、クインチェルは王妃に招かれた舞踏会に出席していた。外の空気を吸おうとバルコニーに出ると、避難していた先客――プレム国王がおり、人形のように空っぽだった瞳に光を宿して、クインチェルに願った。


「僕に世界を教えてほしいって」


 プレム国王が「ね?」と笑いかけてきたので、クインチェルも口元を緩めて「はい」と頷く。


「プレム陛下があのままドルファローにいてもなにもさせてもらえないかと思いましたので、アーブルメスに留学させ、私が三年ほど教育係を務めました」


「なにそれ、俺のクインチェル、かっこよすぎ」


 首にユベールの腕が回り、ぐいっと引き寄せられる。近づいた距離に心臓が飛び跳ねそうになった。そこへさらに追い打ちをかけるように、頬ずりをされる。


「ユ、ユベールは手放しに誉めすぎです。プレム陛下に王権を取り戻させることは、我が国にとっても利があったのです」


 クインチェルは火照った顔を隠すように俯きながら、やんわりと彼の胸を押し返した。


「統一に賛同してもらうために恩を売ることができますし、ドルファローには併合しなくとも十分な国力を保ったままアーブルメスの支配下に入っていただきたかったので、幼いながらに有能だったプレム陛下にそれを担っていただきたかったのです」


 気恥ずかしさをごまかすように、クインチェルは何度も眼鏡の位置を直す。


 ユベールは「ふーん」と含んだように相槌を打ち、ソファーにゆったりと寄りかかる。意地の悪い微笑を浮かべて眺めてくる彼は、クインチェルの照れ隠しを見透かしている。いっそ突っ込んでくれたほうがよかった。居たたまれなさすぎる。


「どんな事情があれ、僕は感謝してるんだ。知識や人を動かす術を身に着けられたし、クインチェルのお屋敷で過ごしている間は、なんだか家族ができたみたいで嬉しかった。あのときの僕は精神的にも弱っていたから……」


 頼れる父が死に、実母に利用されてきたプレム国王の孤独は計り知れない。共に過ごした時間で気力を回復できていたのなら、よかった。


「そうして僕は三年後に国へ戻って、クーデターを起こしたんだ。そのときもクインチェルには援軍を出してもらったりして、いろいろと助けられたんだ……って」


 プレム国王ははっとした顔をしたあと、すぐに苦笑いする。


「話が逸れてしまったね。つまり、旧ドルファロー派っていうのは、クーデターで追い払った王妃派の貴族たちのことなんだ」


「へえ……その旧ドルファロー派の人間が今回の件に関わってると思ってるんだ、クインチェルは」


 横目で真意を探ってくるユベールに、クインチェルは頷く。


「そして私は、シモン殿がルージュブッシュの件が公にならないよう価格を上げずに維持費を要求したというのも、どうしても引っかかりを覚えるのです。価格が上がっても、維持費を要求しても、どのみち私は事実確認のためにここへ来ていたでしょうから」


「俺も同意見ですね。ルージュブッシュの件を隠すどころか、最悪な形で印象に残った。むしろ、それが狙いだったんじゃないですか?」


 不穏な空気が漂う中、ユベールはそう言って薄く笑った。

 プレム国王には頭が痛い話だとは思うが、クインチェルは考えを包み隠さず伝える。


「私もそう思います。ルージュブッシュを燃やし、スノーロヴァとの貿易で問題を起こし、アーブルメスを巻き込んで事を大きくする。当然その責任を取るのは王、すなわちあなたを貶めるために計画された。それで得をする人間は旧ドルファロー派です。まともに統治できない王に成り代わって、新たな王を立てよう……そんな流れを作ろうとしたとは考えられませんか?」


 プレム国王は「そう、だね……」と重たい相槌を打った。


 ユベールは狩りを前にして高ぶっている獣のように、ぎらついた目を細めて笑う。


「ピエストロ大使が動けなくなったタイミングで仕掛けてくるなんて、敵は内部の情報に精通している人間だ。シモン外交官が旧ドルファロー派なら、筋が通りますね?」


 美しい狂気を纏ったユベールに、クインチェルもプレム国王も息を呑む。


 彼の危うさに圧倒されながらも、プレム国王はなんとか言葉を紡ぐ。


「シモンは長くこの国に仕えているけど、クーデターの際も旧ドルファロー派には加担していなかったはずだよ」


「最近、旧ドルファロー派に寝返ったのかもしれませんよ? だって愛人が宰相やってたんでしたよね? 元王妃はそうやってシモン外交官のことも篭絡したんじゃないですか?」


 ユベールの言うような可能性は大いにある。クインチェルは、まっすぐプレム国王を見つめた。


「プレム陛下の即位を後押ししたアーブルメスは、あなたの後ろ盾も同然です。我が国を敵に回してでも、国内でくすぶっている旧ドルヴァロー派の者たちが動いたのには、なにかきっかけがあるはずです」


「そのきっかけこそ、彼らの強み……」


「その通りです、陛下。まずはシモン殿の素性を調査いたしましょう。そのために私たちを着替えさせたのでは?」


 ドルファローの衣装を手で押さえると、プレム国王は悪戯がバレたとばかりに笑う。


「クインチェルなら気づいていると思った。クインチェルたちなら、アーブルメスの要人だから迂闊に手は出せないし、そうやって民の格好をしていればいろいろ動き回れると思ったんだ」


「したたかすぎない? 俺、クインチェル以外に使われるのは嫌なんですけどね」


 不満げなユベールに、プレム国王は頭を下げた。


「ごめんなさい。でもどうか、僕を助けてください」


 クインチェルは、プレム国王の肩に手を乗せる。


「顔を上げてください。あなたを助けるのも私の仕事です。それに、そのしたたかさはあなたの武器です。ここぞというときに、よく使いましたね」


 プレム国王は泣きそうな顔をして、それでも涙は流さずに、強くクインチェルを見つめ返していた。




 シモン外交官の尾行を続けること二日、クインチェルはユベールの走らせる馬に乗って郊外まで来ていた。


 生い茂る木々の後ろに身を潜め、シモン外交官の様子を窺うと、他の参加者同様に黒いローブのようなものを身に着けて、砂地に立つ寺院に入っていく。


「あの中に入るには、あのローブが必要みたいですね……」 


 言いながらユベールを振り返ると、彼は褒めてと言わんばかりの顔でローブを持った手を上げてみせた。その頭とお尻にひょこひょこと動く耳と、千切れんばかりに振られたしっぽが見える気がする。


 ユベールのすぐそばにある木には、ローブの持ち主だろう男女が寄りかかるように気絶していた。


(いつの間に!?)


 クインチェルが絶句していると、ユベールはクインチェルの心の声に返事をする。


「バッと茂みに引きずり込んで、ドスッとうなじを軽く……ね?」


 そんなお茶目に片目を瞑って言われても、やっていることはさながら暗殺者だ。人としては諫めるべきなのだろうけれど、助かったのは事実なので――。


(ここは目を瞑ることにしましょう)


 綺麗事だけではどうにもできないこともありますしね、と自分を納得させていると、ユベールがローブを着せてくれる。


「あ、ありがとうございます」


 気づけば世話を焼かれていることに戸惑いつつもお礼を言い、クインチェルはユベールと共に参加者の列に並んで中へと潜入した。


 石造りの古い寺院ではあるが、通された拝殿はしっかり形が残っている。皆、床の敷布に胡坐をかいて手を合わせ、祈りを捧げていた。


「よく集まってくれました」


 凛と澄んだ声がしたかと思うと、白いドルファローの民族衣装に身を包んだ女性が祭壇に現れる。


(あれは……!)


「聖なる王妃様に敬愛を!」


 参加者たちが次々と声をあげた。


(先のクーデターで廃された王妃がまさか、このようなところにまで顔を出していただなんて……これはやはり、旧ドルヴァロー派の集会……!)


 あれが王妃で間違いないか、と問うようにユベールが視線を寄こしてくる。


 クインチェルは首を縦に振ってそうだと答え、再び祭壇に向き直った。


「今の国王はまだ子供。国という玩具を手に入れて好き勝手に遊ばれては、ドルファローは滅亡します」


「そうだそうだ!」


 参加者たちが拳を天に突き上げて、興奮したように叫んでいる。


「ですがご安心ください!」


 声高らかにそう言って、祭壇に歩いて行ったシモン外交官が王妃のそばに跪く。そして王妃の手を持ち上げると、その甲に口づけた。


「神はあなたに味方した」


 顔を赤らめ、王妃の手に頬を擦り寄せるシモン外交官を見て、ユベールが呟く。


「あーあ、あんなに鼻の下伸ばしちゃって。今回はやっぱり、別に出世のためでもなんでもなくてさ、あの王妃様に入れ込んでやったんじゃない?」


「そのようですね……」


 王妃はそうやってプレム国王の臣下に近づき、自分に惚れさせて意のままに動かしていたようだ。


 シモン外交官は立ち上がると、皇后の手を取って持ち上げる。


「今のドルファローの現状を憂い、皇后様が我が国を取り戻せるよう、あの大国が後ろ盾になるとおっしゃった!」


(大国……? まさか、アーヴルメスが……?)


 今のプレム国王の即位にクインチェルという大国の後ろ盾が手を貸したように、旧ドルヴァロー派の残党にも大国の協力者がいた。だからこそ、今のプレム国王の勢いを殺せるなどと、無謀な考えを抱いたのではないだろうか。


 もしその大国がアーブルメスを指しているならば、我が国に裏切者がいることになる。その何者かのせいで、旧ドルファロー派の動きが活発化した。


 主国として仲裁の役割を担っているアーブルメスの者が混乱をもたらしたとなれば、我が国の立場を揺るがす由々しき問題だ――。 


「この爆薬も大国の使者がもたらしてくださったもの」


 シモン外交官のもとに、参加者であろう大柄なローブの男が爆薬の載ったトレイを運んでくる。


「この爆薬のおかげで、ルージュブッシュを簡単に燃やすことができ……ん? なぜ、火が――」


 爆薬に繋がっている導火線には火がついており、シモン外交官は驚愕の表情を浮かべた。


 爆薬を運んできたローブの男は、頭巾を深く被っていて口元しか見えなかったが、笑ったように見えた。


 ユベールは舌打ちをして、クインチェルを抱き上げる。


「ユベール!?」


 とっさに見上げた彼の顔には余裕がなく、ユベールは勢いよく寺院の出口に向かって走っていく。次の瞬間、大きな爆発音と共に炎と煙があがった。ユベールに抱えられたまま、クインチェルは吹き飛ばされる。


「……くっ!」


 人並み外れた身体能力で地面に着地したユベールは、すぐさま寺院に背を向け、飛んでくる瓦礫や火の粉からクインチェルを庇った。


「ユベール!」


 爆発の衝撃で眼鏡がどこかに飛んで行ってしまったのでよく見えないが、ユベールは今ので傷を負ったはずだ。


 慌ててその顔に手を添え、彼の無事を確かめる。痛みを堪えるように呻いたユベールは額に大量の汗をかいており、必死の形相でクインチェルに迫る。


「っ、怪我は!」


「……! ありま……せん……あなたが、守ってくださいましたから……」


 ユベールの勢いに気圧されつつも答えれば、彼はほっとしたように笑みを浮かべた。


「……っ」


 クインチェルはたまらず、その首に両腕を回して抱きしめる。


「私のことよりも先に、自分の心配をしてください……っ」


 ユベールが自分の護衛になったばっかりに死にかけたこと、爆発の恐怖……いろんな感情と共に涙が一気に溢れ出た。


 ユベールは驚いたように息を呑み、それから強い力で抱きしめ返してくる。


「クインチェル以外のことを優先するなんて無理だよ」


「……なら、命令です。自分のことも守ること、取り返しのつかなくなるような無茶はしない。いいですね?」


 涙でぐちゃぐちゃの顔をユベールの胸に押し付けて、ぐずりながら彼に言い聞かせる。


「わかった、わかった。俺のために泣いちゃうクインチェルも可愛いんだけど、本気で悲しませたいわけじゃないしね」


 ユベールの手が慰めるようにクインチェルの頭を撫でた。


 クインチェルは顔を上げてポケットからハンカチを取り出すと、ユベールの頬についている煤を拭う。するとユベールは、嬉しそうに身を委ねていた。


(それにしても……)


 クインチェルは燃え盛る寺院を見つめる。


「これでは誰も助からなかったでしょうね……」


 ユベールも、クインチェルの視線の先に目をやった。


「俺はクインチェルさえ無事なら、他なんてどうでもいいよ。まあ、どのみち他の連中に声をかけたところで助かる見込みはなかっただろうけど」


「そうですね。あなたの声に耳を傾けることもしなかったでしょうし、一瞬のことでしたので、凡人の足では逃げ切れなかったでしょう」


「そう、そんでひとりだけ凡人じゃないやつが寺院から逃げてったんだよね」


 あの状況で脱出できる人間がいたなんてと、クインチェルは衝撃を受ける。


 ユベールはその逃走者の残像を追うように、寺院の横の森を冷ややかな目で見つめていた。


「見かけたのは、寺院の外に出てすぐだ。たぶん爆薬をシモン外交官に渡したあの参加者だ。あいつはここにいる旧ドルファロー派を消すことが目的だったんだろうね」


 クインチェルは身を震わせる。南国の乾いた空気のせいで寺院はよく燃えている。肌を焼きそうなほどの熱風が吹いてくるというのに、冷や汗が止まらない。


 すると、ユベールが冷えたクインチェルの手を温めるように握った。


「でもさ、悪いことばっかりじゃないみたいだよ」


 ユベールがクインチェルの背後に視線を向ける。振り返ると、ユベールがローブを奪うために気絶させたふたりの男女が眠っている。


「この爆発でも起きないって、すごいよね」


「……そう、ですね。彼らを連れて帰りましょう。ここで私たちにできることは、もうありませんから……」


 ユベールが「ん」と答え、気絶している参加者たちのところへ歩いていく。


「ユベール!」


 クインチェルは参加者が乗ってきたのだろう馬車を見つけ、ひとりで証人ふたりを軽々と抱えた彼を呼んだ。


 そうして馬車を拝借したクインチェルたちは、燃え盛る寺院に背を向けると、王宮へ戻るのだった。




 ユベールと共に王宮に戻ったクインチェルは、すぐにプレム国王や他の臣下の前でシモン外交官が元皇后を筆頭とする旧ドルファロー派の集会に出席していたことを伝えた。


 そこで彼らが現国王を失墜させ、元皇后をその座に据えるために爆薬を使ってルージュブッシュを燃やしたと発言していたことも話し、ユベールが気絶させたあのふたりの集会参加者からも減刑を条件にそれらを証言させた。


 参加者のひとりによって、他の証人が全滅してしまった件については、今の国王派――新ドルファロー派の者が不安の種を摘み取るためにやったのではないか、そんな声もあがったが、犯人の目途はいまだ立っていない。


 とはいえ、シモン外交官の不正が明らかになったことでプレム国王は動きやすくなったらしく、自分が主体となってすぐに代替品の薪を探しだし、ギルドにも話をつけた。


 その間にクインチェルは、主国であるアーヴルメスで両国の会談を取りつけた。


 ルージュブッシュは引き続き輸出、その生産量が今まで通りに戻るまではブルーオークという代わりの薪がスノーロヴァの生活を支えることで双方合意に達し、夕暮れ時まで続いた会談は幕を閉じた。


「本当にありがとうっ、クインチェル!」


 会談が終わり、スノーロヴァの大使が帰ったあと、アーブルメスの王城の庭園で馬車を待たせているプレム国王が抱き着いてくる。


「今度は仕事は抜きで、絶対にまたドルファローに来てね!」


 ひとまずこたびの外交問題が解決し、肩の荷が下りたのだろう。プレム国王は清々しい表情で大きく手を振りながら、馬車に乗り込んだ。


 クインチェルは馬車を見送りながら、今回の出来事を振り返る。


 あの爆発の犯人は見つかっていないが、プレム国王とその臣下たちは恐らく、犯人を捜さないだろう。というのも、プレム国王の臣下たちは新ドルファロー派の者の仕業だと考えており、旧ドルファロー派は不安の種であったことから、どんな形であれその勢力を減らした仲間の罪を公にする利がないからだ。


 彼らに爆薬を支援したのが大国だという話は、心苦しいがプレム国王には報告していない。アーブルメスだという確証はもちろんないが、大国というだけで我が国が結び付けられてしまう可能性があったからだ。


 生き残ったふたりの証人には、王宮に向かう馬車の中で密かに問いただした。しかし、気絶していてあの日の集会に参加していなかったため、旧ドルファロー派に手を貸したのがどこの国なのかは知らないと話していた。


(でも本当に、アーブルメスの人間だったら……?)


 クインチェルたちが問題を解決するためにドルファローに向かうことになれば、手を貸したその大国の者も気が気でないはず。きっと手下にでも、あとをつけさせただろう。


 そして、クインチェルたちがあの寺院を突き止めた時点で、すべてが明るみになることが想定できたため、爆薬で証拠隠滅させた。


 事件の裏で手引きしていた者は、クインチェルの予定を把握できる人物。同業の外交官か、それ以上の地位がある議員や王族――。


 ただ、その黒幕が旧ドルファロー派に協力する動機が見えない。


 ひとつだけ、これは思い過ごしかもしれないけれど、黒幕は国王の即位に手を貸したクインチェルと同じように、旧ドルヴァロー派の後ろ盾になった。まるでクインチェルに対抗するかのように。


 そんな風に考えてしまうのは、きっと脅迫状の存在を思い出したからだろう。


(考えすぎだといいのですが……)


 忍び寄る悪意を感じて身震いしたとき、後ろからふわりとなにかに包まれる。視線を落とせば、ユベールのマントだった。


(あったかい……)


 思わず、ほうっと息をついた。身体のこわばりがほどけていくようだ。


「ねえ、クインチェル」


 マントごとクインチェルを抱きしめていたユベールが耳元で囁く。


「俺はクインチェルを誰にも触れさせないし……」


 大きな手が伸びてきて、骨ばった指がクインチェルの目を挟むように添えられた。


「もし傷つけるやつが現れたら、もう二度とクインチェルがそいつの目に映らないように眼球を抉って――」


 目元に触れていた手が、今度はクインチェルの首に移動して、軽く掴まえる。


「クインチェルの名前を呼べないように、喉元を噛み切る」


 恐ろしいことを口にしているのに、鼓膜をくすぐる彼の低い声は甘く、まるで毒のようにクインチェルの思考を鈍らせていく。


「それだけじゃ俺の腹の虫が収まらないときは……クインチェルに迷惑がかからない程度に処理してあげるから……」


 ユベールの手に振り向かされ、クインチェルは息を呑んだ。


「もう少し、あなたの番犬を信頼してほしいな」


 唇が触れ合いそうな距離で見つめ合う。妖しく獰猛に光る血眼に、恐ろしくも惹かれてしまう自分がいた。


「ユベールを……信頼していないわけでは……あなたは実際、その身を挺して私を守ってくれましたし……」


 どうして、そこまでしてくれるのかはわからないけど。


「ただこれは、私自身の問題であって……」


「クインチェル、俺は腹の探り合いをしないとならない外交相手でもなければ、あなたが守らないといけないほど弱くもない。クインチェルだけの犬だ」


 それを証明するかのように、ユベールはまた跪く。


「なにを聞いても、どんなあなたを知っても、俺の気持ちは変わらない」


 ユベールはクインチェルから目を逸らさず、指で自分の唇に触れた。その指を見せつけるかのようにゆっくりと、クインチェルの靴のつま先に落とす。


 間接的にではあるが、彼は主人への忠誠を示すようにつま先に口づけた。そのことにかっと顔が熱くなり、クインチェルは「ううっ」と呻きながらしゃがみ込む。


 そのとき、ふっと笑われた気がして、クインチェルは少し恨めしい気持ちでユベールに視線だけを向けた。すると『話して?』と促すかのように、ユベールの手が前髪に触れてくる。


「……本当は……怖いのです。命を狙われているのもそうですが、私がこの仕事を続けることで、大切な人たちが巻き込まれてしまうかもしれない……そんなふうに考えてしまって、夜も熟睡できたことがありません」


 ユベールが静かに耳を傾けてくれているのがわかり、クインチェルは普段なら絶対に、アンにさえこぼさない弱音を吐露する。


「ですから……あの爆発の中、自分だけでなく私のことも助けてしまえるくらいに強いあなたが、私の護衛になってくださったことを心強く思っています」


「ふーん」


 ユベールは蠱惑的な微笑を口角に漂わせる。


「っ、なんですか……?」


(そんな風に見つめられると、落ち着かないのですが……!)


 つい顔を逸らすと、ユベールがずいっと顔を近づけてきた。


「なら、これからは一緒に眠ろうか」


「……はい?」


「脅迫状を送ってきたやつからも守るよ。クインチェルは俺の地雷だ。それを踏み抜いてきたそいつを、この世から消してあげる」


「どうしてあなたはそう、過激思想なんですか!」


「ははっ、その調子」


 ユベールは笑いながら、軽々とクインチェルを抱き上げた。


「もっと見せてよ、クインチェル。俺はどんな本音も素顔も、クインチェルのことなら骨の髄まで全部知りたい」


 ユベールは至福の顔で見上げてくる。


 きっといつか、ユベールはクインチェルのすべてを暴いてしまう気がした。


 ユベールと出会ってからというもの、クインチェルは調子を狂わされてばかりで、普段なら口にしないようなことも言ってしまうし、表情筋が死んでいるはずの顔にも感情が出てしまう。


(そういえば、一緒に眠ろうとかなんとか言っていましたが……あれ、本気じゃないですよね?)


 頬にすりすりしてくるユベールに、なんでかまあいいかと思ってしまった。


 今はただ、彼の体温に甘えていたかったのかもしれない。


 今日は本当に疲れた。なのでクインチェルも、彼の首に腕を回して、その肩口に額を埋める。


「帰りましょう、ユベール」


 ユベールはふっと笑うと、クインチェルを抱える腕に力を込めた。


「仰せの通りに、我が愛しのご主人様」


 抱えられたまま運ばれると、子供に戻ったみたいだ。どうしてかそれが、クインチェルは嬉しくてたまらなかった。

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