クインチェル令嬢のブラッドドッグ~献上された護衛役は、血眼の狂犬と呼ばれる軍人でした~

@toukouyou

序章

 大国アーヴルメスは世界を統一して日が浅く、支配下に置いた国々の小競り合いが絶えない。そんな各国の関係を維持し、アーヴルメスの平和を守っているのが才女として名高い歴代最年少大使、女爵令嬢クインチェル・ボードモンだ。


 その日、クインチェルはいつものように白いブラウスに瞳の色と同じアッシュピンクのコルセットワンピースを合わせ、上から仕事着である腕章がついた裏地が赤い白のローブを羽織り、王城の広間にいた。


 その場にいる国王や議員、外交官、騎士……どこを見てもクインチェルより年上の男性ばかりで、小柄な十六歳の少女の存在は浮くはずだった。


 しかし、細身のリボンで三つ編みにされた長い白髪と知的な双眼にかけられた大きな丸い眼鏡、なにより佇まいが何百年と生きていそうな賢者のようで、厳格な空気に馴染んでいる。


 クインチェルがここへ呼ばれた理由には、心当たりがあった。


 各国の元首から小さな天使プティタンジュと愛されているクインチェルのもとにある日、それが届いたからだ。


【天使は羽根を捥がれ、地に堕ちて虚空を見つめるだろう】


 つまり要約すると、クインチェル・ボードモンは死ぬだろう、という脅迫状なわけなのだが……。


 王座の前で跪いていたクインチェルは顔を上げる。


 クインチェルが仕える齢四十七になるフィリップ・グリュッヴィヒ・アーヴルメス国王は、目が合うと穏やかな笑みを浮かべて言った。


「クインチェルよ、アーヴルメスの天使を守るべく、このたび帝国ユニオンが護衛役を献上してくれた」


 帝国ユニオンはアーヴルメスの支配下にある国の中でも、互いを兄弟国と呼ぶほどに良好な関係を築いている国だ。とはいえ――。


(聞き間違いでしょうか。今、人を献上って……?)


 戸惑うクインチェルの後ろで広間の大扉が開く音がした。


 クインチェルの表情筋は、生まれたときから死んでいる、と両親は言った。


 そんなクインチェルを必死に笑わせようと可愛い人形をくれたり、お化けの仮装で驚かせようと試行錯誤する両親には期待に沿ったリアクションができずに申し訳なかったのだが、内心では物凄く喜んでいたし、驚いてもいた。


 それが外にうまく伝わらないだけで、いつも真面目で冷静沈着だと勘違いされるのだが、内心慌てることだってある。まさに今、非常に取り乱している。


 コツコツと近づいてくる靴音に、クインチェルは立ち上がり、ゆっくりと振り返る。


 黒軍服に赤いサッシュやマントを纏い、すらっとした長い脚で広間の中央に敷かれたレッドカーペットの上を歩いてくるその青年を、クインチェルは知っていた。


 歳は二十三、触り心地のよさそうな艶やかな黒髪に健康的な小麦色の肌をした美しい軍人。


 皆が彼の姿を見て、「あれはっ」「血眼の狂犬ブラッド・ドッグ?」「あれに小さな天使プティタンジュを守らせるのか?」とざわついた。


 ――血眼の狂犬ブラッド・ドッグ


 アーヴルメスが大陸を統一する前の戦で、返り血に染まりながらほくそ笑み、敵を圧倒的に容赦なく排除していたことから、彼につけられた異名だ。


 もともと帝国ユニオンの祖先が戦闘民族ということもあり、血気盛んな人種ではあるものの、彼の場合はその域を軽く超えて、もはや狂犬だそうで……。


「お初にお目にかかります」


 彼は軍帽を脱いで胸に引き寄せると、血のように赤い瞳を細め、綺麗な顔に微笑を浮かべた。


「俺はユベール・ブラック。クインチェル様の……犬です」


 目の前までやってきたユベールは、国王への挨拶よりも先にクインチェルに恭しく跪いた。


 そして、極上の果実でも前にしたかのように、恍惚の表情でクインチェルの手を持ち上げると、僅かに頬を上気させてその甲に唇で触れる。


 傍からは平然としているように見えるだろうが、クインチェルは混乱していた。


 嫌われてはいない……と思う。むしろ、なんでか好かれているような……? いや、それよりもこの恍惚の顔、なんだか危ない感じが……。


 献上された狂犬に手を掴まれつつ、クインチェルはギギギッとぎこちなく首を動かし、だらだらと大量の汗をかきながら国王を見上げた。


「……すみません、陛下。変態――犬の飼育は専門外……と言いますか、武功もある方ですし、私ひとりのために彼を独占してしまうのは申し訳ないので、帝国に送り返――再献上するというのは……」


 早口で説得――というより、半ば懇願しながら言い募るも、フィリップ国王は満面の笑みで答えた。


「却下」

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