蝕む
山田あとり
第1話 カタブキ
薄く目をあけると、赤い蝶が一匹まなかいをかすめた。
見慣れた自室の天井の下。その知らない蝶は、ゆらり、るらりと行方も定まらず飛んでいる。
――家を出なくちゃ。
寝転がったまま唐突に、
ぼんやり起き上がったら床にいた。どうしてここで眠っていたのかわからなくて、首をかしげる。
だけどなんでもいい。まだ昼みたいだから母親は仕事に行っているはずだし、家の中は静かだ。家出するなら今のうちだよね。
心菜はいきなり楽しくなってきて首を傾けたまま笑い出した。久しぶりに笑った。
なんだろう、すごく気が高ぶる。けたたましい声にひるんだか、蝶がドアの隙間から出ていった。
「逃げるんだ。ずうずうしくない?」
自分から出た言葉がとげとげしくてびっくりした。でもあの蝶はなんかムカつく。
……まあいいか。心菜だってもう、こんなところに居るのはやめるんだし。家も親も高校もいらないとわかったから。
家出の前にシャワーを浴びよう。すごく気持ち悪い。乱雑に床に脱ぎ散らかしたままの服の山はいつものことだけど、その上に赤い染みが散っていて意味がわからなかった。下の方からクシャクシャの物を引っ張り出す。
風呂場に行って頭からサアサアと湯を浴びた。白くて肉の少ない太もも。雑なボブカットの下にのぞく頼りない首すじ。やせた体は胸だってボーイッシュ。
「痛」
右の手のひらの皮がむけていて、しみた。腕や肩もひっかかれたような跡があり心菜は唇をとがらせる。
それに洗い場が鉄くさかった。生理じゃないのに。シャンプーの押しつけがましい花の匂いと混ざって吐き気がした。髪を洗ってからもしばらく滝に打たれるようにすすぎ続けた。
洗面所に出ると赤い蝶がまたいた。心菜に出くわすと開いていたドアから廊下に逃げていく。追いかけて握りつぶしたくなったが思い直した。あんなもの、もうどうでもいいや。
素っ気ない下着をつけ、長袖Tシャツとジーンズに身を包み部屋に戻る。手のひらには絆創膏を貼った。それから学校に行く時のリュックにそこらへんの物を詰める。スマホと着替え何枚かと、ありったけのお金。通帳にはわずかなバイト代が入っていた。
ささやかなリュックになど入りきらない物が部屋にはあるけど、もういらない。心菜は出ていくのだから。
そう、行く。どこか別の所へ。
どこならばいいのかわからない。だけどそれでいい。流れていくしかないと心菜は知っていた。それでじゅうぶんだった。
パーカーを羽織って玄関に向かうと、赤い蝶はもうどこかにいなくなっていた。
乗り込んだ電車は大きな街へと走る。車窓をよぎる住宅地や工場はどこにでもある風景のようだけど、たぶんここにしかないのだと思う。心菜だってただの女子高生にみえて地球に一人しかいないし。
平均的とか無個性とかになるのは意外と難しいと心菜は知っていた。みんなそれぞれにどこかが飛び抜けていて、狂っていて。
良い方で凄い人になれるのはほんのひと握り。だけどどん底に堕ちるのは簡単で、心菜はたぶん底辺の側だ。
でも平気。どんなに普通でも普通じゃなくても、勝ち組じゃなくても、気にしなければ知らん顔で生きていける。
だから心菜はカタブキ
吹きだまり。沼。傾き町。カタブキ町はそう噂される街。
そこが心菜の安住の地なのかは、行ってみなければわからない。
「……だる」
口の中でつぶやいた心菜は街角にへたり込んだ。足もとは空気がにごっていて臭いけど、もう疲れて立っていたくない。
ここはたぶんカタブキ町。来てみればそこは、きれいな都会の真ん中にぽっかり空いた穴のような場所だった。
心菜は大きなターミナル駅で電車を降りた。入り組んだ構内から外に出ると、立派な高層ビル群がある。ということは改札を間違えたらしい。カタブキ町は、このピカピカした摩天楼たちと駅を挟んで反対側のはずだった。
そこから迷って迷って吸い込まれてきた小汚い交差点がここだ。
へたり込んだ心菜は道端でぼんやり上を見上げた。焼肉屋の換気扇からの煙にかすむ、風俗の看板がチカチカと明滅する。
背の高い雑居ビル。抜ける風。
渦巻く音が重かった。遠い高速道路や電車、それにどこかの店から流れる曲が混ざって空気の質量を増している。
灰色のコンクリ壁の際を黄色っぽい蝶がふらふらと浮き上がっていく。こんな所に似合わなくて、ふと目で追った。
「――元気ないの? だいじょうぶ?」
点き始めた派手な明かりを背に、茶色いふわふわツインテールの少女が心菜を見下ろした。
雑踏に、その子も一人だ。いきなりだったけど、女の子だったから警戒しつつも返事はした。
「……わかんない」
「ふうん」
同い年ぐらいのツインテちゃんは心菜の隣にしゃがみ込む。髪色と似たような茶色の網タイツは花模様で派手だ。でも膝丈の白いニットワンピースはすとんとシンプル。ドブくさい街に似合わず、かわいい子だった。
少し広めの交差点。その隅っこで目の前を横切っていくたくさんの脚を一緒に眺めた。
路上に散らかるゴミを靴やサンダルが蹴飛ばしていく。
ふり仰いだ空は無秩序に生えた店々の看板で切り取られ狭く、それでも夜が染みのように広がるのが見えた。
首を回すとビルとビルの隙間のような小道の奥にほんのりとした灯りに照らされる鳥居がある。こんな街にも神さまがいるんだ。
暗くて明るい街角には心菜と似たように所在ない少年少女や生きることを投げ出した大人たちがいて、ドブネズミだけが何かギラついて走り抜けていった。でも隣のツインテ少女の視線は揺らがない。
ずっと黙ってそばにいられて、とうとう心菜は訊いてみた。
「ねえ、ここはカタブキ町なの?」
「そうよ。初めて来たの?」
「うん」
「あたしマユ。ここではね」
「……ここでは?」
「カタブキでの名前。昔の名前なんてない方がいいでしょ?」
たぶん十六か七の少女に昔を語られてあきれた。でも考えてみれば、心菜だってこれまでの名などいらない。探されて足がつくのはごめんだった。
「――そうだね。私もここだけの名前ほしいかも」
「じゃ、つけてもらお」
マユと名乗った少女は立ち上がり、心菜の腕を引っ張った。
「行くとこないんでしょ? あたしと一緒にいようよ。アサギさんとスガルさんのとこなら安全だし」
「アサ……? 誰?」
「アサギさん。あたしにマユの名前をくれたおばさん。女ばっかでいるから怖くないよ。無理やりウリとかやらせないし」
「ウリ……」
それはたぶん、セックスのお仕事。なんでもなさそうに話すマユが不思議で心菜は首をかしげた。
「やりたければ、スガルさんが仕切ってるけど。あ、スガルさんもおばさんね」
「やりたくはないよ」
「なら、しなくていいの。あたしもしたことない」
「じゃあマユは、何してるの」
「ご飯、食べてる」
「え?」
「あたしすっごい大食いなの。お店でね、お客さんにご馳走してもらうんだ。女の子が食べるとこ見るの好きって人、けっこういるから」
「ふーん? ちょっと意味わかんない……」
「だよねえ。でもちやほやしてもらえて楽しいよ」
マユはうふふと笑った。細っこい心菜よりは肉のある体型だが、マユは別に太ってはいない。なのに大食いなのか。片手を目の前でキランとして、マユはキメ顔をしてみせた。
「あたしはフードファイトアイドル・マユ! 略してフードルね」
「私そんなの、できないよ」
「お店、大食いの女の子ばっかじゃないし。でも仕事なんかなんでもいいの、皿洗いとかホールとか。人が苦手ならお店じゃなくてもだいじょぶ。ここ、危ないことも多いんだよ。アサギさんのとこは女同士で守り合おうっていう家だから」
「へえ……」
カタブキ町はまともじゃない。警察も踏み込めない。そこで暮らすために身を寄せ合う女たちがいるのなら、心菜も混ざるのがいいかもしれなかった。少なくともここで何もできずに座っているよりはマシだろう。
意気揚々と家を出てはきたが、カタブキ町でどうするというあてはない。つまり今の心菜は家出して数時間、すでに路頭に迷っていたのだった。
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