第2話 新しい名
連れていかれたのは細い道にある五階建ての古びたビルだった。コインランドリーの脇にある小さな入り口から廊下を進み、事務所のような部屋を訪ねる。一人で書類とパソコンに向き合う女がアサギだそうだ。
アサギはふっくらした体つきで垂れ目の、少し崩れた印象を与える女だった。高舘心菜です、という挨拶に「贅沢な名まえね」と笑う。様式に忠実らしい。でもまだ婆々という歳ではなく、頬には中年なりの張りを残していた。
「タカダテココナ……ナタデココみたい」
「は?」
「ああ、気にしないで。じゃあね、今日からあなたは、テコナ」
「テコナ」
「そう。どう?」
笑顔を向けられても本名を忘れ去るようなことはなくて、心菜は安堵してうなずいた。
テコナ。私はテコナ。
「なんか、かわいい」
「よかった。なあに、テコナは家出なの? 親ごさんが探したりする?」
「……わからない、です」
「まあカタブキにいれば警察は手を出せないけどね。ここにはここのルールがあるから。マユが連れてきたんだし、あなたがいろいろ面倒みなさいよ」
「はあい」
いい返事をしたマユは新しい仲間の腕に抱きついた。
「テコナ、いこ。私と一緒の部屋でいいでしょ、アサギさん」
「ん。雑魚寝になるけど我慢してちょうだいな」
「外よりいいもんね。なぐられたりクスリやめらんなくなるよりマシ」
マユがケロリと言う。やっぱりそういう所なのか、ここは。なのにどうして少年少女も大人もカタブキ町に流れ込んでくるんだろう。
「あ、ここに置くからには何かして働いてもらわないと。稼げないなら、自分ちに帰るのよ」
「……働きます」
釘を刺されたテコナはとりあえずうなずいた。働かざる者食うべからずという言葉は知っているけど、自分に何ができるのかはわからない。普通のファミレスバイトぐらいしか働いたことがないから。
「なら明日から職探しだわ。何かないか聞いてみなきゃ」
「あたしと同じ店、行こうよ。あそこはアサギさんの口ききで入店してる人たくさんいるし」
「マユがフードルしてるとこ?」
「いやあなた、フードルって」
アサギが吹き出した。一般的には意味が違う。わかって言っていたのかマユはにいっと口角を上げた。
「似たようなものだもん。ギンギンのお客さんとかいるよ」
「もう! テーブルの下は見ないであげなさい」
クスクス笑うアサギの部屋を出ながら、テコナには理解できないことが多くて首をひねった。その腕を引いたマユはテコナの目をのぞきこむ。
「ご飯、買いに行こ?」
「あ、うん。お腹すいた」
居場所を確保したからか、いきなり空腹におそわれた。
コンビニでいいね、と言うマユに連れられて出たカタブキ町の裏道はジメッとした闇に沈んでいる。すぐそこの広い通りには喧騒が満ちているのに。
「買物したら部屋に案内するから。一緒に寝よ。荷物、貴重品ある?」
「お金ちょっと。あとスマホぐらい」
「あ、捜索願を出すような親ならスマホは電源オフだよ。んで、部屋に置いとくのは着替えだけにして。誰も信用しちゃだめ」
言いながらマユは自分の斜め掛けにしたサコッシュをポンポンとした。なるほど、そういう物も買わなきゃだめか。でも。
「……マユのことも信じない方がいい?」
「……信じてくれる?」
「うん――マユがいなきゃ、私なんにもわかんなかったもん」
「うれしい」
マユがくっつくと腕にむにゅんと柔らかいものがあたった。なんだか申し訳なくて腕を引こうとすると、マユがきょとんと顔をのぞく。
「えと……胸」
「なんだ、女の子同士だしいいじゃない。邪魔?」
「ううん……何カップ?」
「DかE」
「いいな。私AA」
「細くてかわいい」
笑って頭になついてくるマユの方がかわいいと思う。でも小さなテコナより十センチ以上も身長が高そうだし、美人と言った方がいいのかな。
まったく距離なしのマユだったが、テコナは何故か安心できた。これまで家でも学校でも、人との間には透過できないアクリル板があったのに。
「ねえ、マユはなんで私に声かけたの」
「えー?」
「座り込んでる子、いっぱいいたじゃない。私を拾ったのはなんで?」
腕を組んで歩いているから顔は見えない。でもマユはうっすら微笑んだようだった。
「――蝶」
「え?」
「テコナには、蝶が見えてたから」
なんのことだろう。テコナはマユの言葉の続きを待つ。だけどマユは喉の奥で笑うばかりだった。
「ご指名ありがとうございまーす、来てくれてうれしいな」
「マユちゃんに会えるなら、暇な時はいつでも来るよ」
「
壁際のソファ席で待つ男に両手を振って挨拶すると、マユはアヒル口で愛想を振りまき向かいに座った。
一見すると普通のレストランのようなテーブルと椅子。でも席がひとつひとつ仕切られていて客同士はあまり顔を合わせないようになっている。ここは、出勤するマユに連れられて来たデート屋だ。
常連だという桧森は細身で筋肉質の中年男だった。テコナがみるに、ササミとかブロッコリーが好きそう。
とりあえずホールスタッフをやれと言われたテコナはエプロン姿で厨房との境に立ち、店内を見渡していた。
まだ早い時間だけと客はポツポツと入っている。それぞれお気に入りの女の子にご飯やデザートを食べさせながら擬似カップルのように過ごすらしい。
働く女たちはマユのような大食いとは限らなくて、それぞれキャラがあるようだ。客の
「でもマユちゃんリアルは彼氏とかいるんだろ」
「いないもん。男の人とご飯食べるお仕事してるんだよ。それで怒らない彼氏って、あたしのこと好きじゃなくない?」
「僕はマユちゃんのこと好きだよ」
桧森は声を低めてささやいてみせた。
「店で知り合ったから言いにくいけど、やめて僕のとこに来ない?」
「えへへ。桧森さん、いっぱいごちそうしてくれるから好きだけどぉ」
「ごまかすなよ、仕方ないなあ。さて何食べようか」
笑顔のマユに、桧森はメニューを示す。確かにやや年の差はあるが、恋人のような空気感だった。マユからは桧森への信頼がにじんでいて、テコナは安心する。本当にこれは危ない仕事じゃないんだ。
顔を上げたマユがテコナに手を振る。今どきオーダーぐらいタブレットですればと思ったが、客と二人きりの世界にしないためのシステムだそう。
「ええとね、チキンとゆで卵のサラダボウルと」
「あれ、それ僕の?」
「だって桧森さんいつも飲み物だけだもん。炭水化物は抜きでもいいけど、栄養取らなきゃマユ心配……あたしはねえ、小エビのサラダと、パスタ・カチョエペペと、フランクフルトのザワークラウト添えを、とりあえず」
マユのオーダーはそれなりに栄養バランスが取れていた。でも、とりあえずなのか。テコナは注文を復唱し厨房に伝える。ファミレスのバイト経験が活かせて嬉しい。
他のテーブルは、食事に続いてかわいくデザートを注文していた。でもしばらくしてマユの追加オーダーを聞きに行くとハンバーグとカレーとシーザーサラダと言われる。皿に残っているのは太いソーセージ一本だけだ。
うふん、と幸せいっぱいにフランクフルトを口に入れるマユは、細めた目で桧森のことを見つめる。見つめ返す桧森の目が血走っていて、キモ、とテコナは目を伏せた。すると桧森のチノパンがテントを張っていてギクリとする。テコナの視線の先に気づいたか、マユは舌を鳴らしフランクフルトを舐めた。
テコナは無言でサラダチキンの皿を回収し、逃げた。
閉店まで働くと、もう夜中だ。普段なら布団をかぶりスマホをいじっている時間で、テコナはヘトヘトだった。
桧森以外の客の相手もしたマユの腹はまん丸で妊婦のよう。今はバックヤードで休みつつ、テコナと帰るのを待ってくれている。ゴミを出しに裏口を開けたテコナは思わずつぶやいた。
「あれ、吐いたりしないんだ……」
食べては吐く、摂食障害ではないという。それはいいけど、マユが今日たいらげたメニューを考えるとテコナの方が気持ち悪くなりそうだった。
「――おまえ新顔?」
近づいてきた若い男に鋭く言われ、テコナはノロノロとゴミ箱を開ける手を止めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます