第4話 ヒヒルさま
目を見開いて何も言えないテコナにかまわず、マユはぶらぶらと池の周りを歩いた。
「突き落としたんだ。ヒヒルヌマはこう見えて深いから。ちゃんと沈んだよ」
水面をのぞくマユは満足げだ。殺した相手が二度と浮かび上がらないことを喜ぶように。テコナはねばつく口をなんとか動かした。
「ヒヒルヌマ……」
「この池。昔はもっと広かったんたけど、少しずつ埋め立てられて今はこれだけなんだって。カタブキはヒヒルヌマの上にできたのよ」
沼の上。このビルばかりの街が、そんな。
街そのものが傾いてズブズブと水に呑まれていく幻がテコナをおそい、足がふらついた。なのにマユは明るく笑う。
「だいじょうぶ、ヒヒルさまがカタブキを支えてるから。この池がカタブキのほんとの中心でね、ここに沈んだ人は、ヒヒルさまへの捧げものになるの」
細めたマユの目がテコナをとらえた。テコナも捧げものにされるのかと一瞬凍りつく。でもそのまなざしは愛おしげだ。
「テコナは沈んじゃだめよ。あたしと一緒にいて」
歩み寄ったマユはそうっとテコナの体を抱いた。とても大事なもののように。
「……どうして、私?」
似たようなことをカタブキ町に来た日にも訊いた気がする。だけど言わずにはいられなかった。微笑むマユの目の底が暗いから。
「テコナはあたしのものなの」
「え?」
「だって、そう決めたから。ひとめ惚れ? そう思ったから声を掛けたんだよね」
晴々とした笑顔を向けられてもテコナには何もわからない。とまどいながら抱き返したマユの体は、やわらかくて心地よかった。
溺れる。そう思ってふるえた。
マユの腕の心地よさに。愛されることに。
これまで望むべくもなかったものを与えられて溺れる。沼に沈まなくても窒息しそうだ。
「あたしのこと、嫌?」
黙りこくっていたら不安げにされた。立ったまま抱き合い、頬を寄せ合っているのに。
「嫌じゃない、けど」
「……怖い?」
「……うん」
それはそう。だって殺したんでしょう、仲間だった人を。いったい何があったのかぐらい訊いてもいいだろうか。テコナはほんの少し体を離した。
「マユが突き落としたのって、どんな人?」
「うーんとね、地下アイドルグループの、同期なんだけど」
「ち、かアイドル!?」
「やってたの、前に」
ちょっと恥ずかしそうに肩をすぼめてマユはうつむいた。
「あたしをすごく応援してくれるファンがいたんだ。お金も突っ込んでくれた。それが気に入らなかったのかな、グループの子にいじめられるようになって」
「ひどい」
「で、めんどくさいから殺したの」
仕方なかったんだ、と寂しい目をされテコナは何も言えなかった。
本当はそこに論理の飛躍があることに気づいている。でもどう言えばいいかわからなかった。テコナは成績もよくないしコミュ力だって高くないのだ。
「あたしその子にね、知る人ぞ知る芸能の守り神があって、いつもお参りしてるんだって言ったの。そしたらちゃーんとここまで尾けてきたのよ。笑っちゃうでしょ」
「そういう神さまなの?」
「まさか。ヒヒルさまはヒヒルさまだもの」
マユは池と祠だけの神の土地をぐるりと見回した。テコナもつられる。
周囲に屹立するビルの裏壁と神域の境には、奉納された石が並び柵がめぐっていた。古い石は角がまるく無くなって、刻まれた文字は欠けて読めない。この祠と神の沼を崇めてきた人々が昔からいた証だ。
ヒヒルさま。ヒヒルさま。
それはいったい、どんな神。
「ヒヒルさまは、いのちを召し上がる。でもヒヒルさまは、いのちを生むんだって」
つぶやいたマユはするりとテコナを解放し、ふたたび祠に頭を下げた。口の中で何かを言っているのは願い事があるのかもしれない。テコナはぼんやりとそれをながめた。
いのちを召し、いのちを生む。とても神さまっぼい。ふーん、と納得した。
そしてヒヒルさまがヒヒルさまなように、マユはマユ。過去に何をし、今何を考えていても。
だからもう、それでいいのだと思った。
ずっと邪魔な子どもだったテコナを愛し、そばにいてと言ってくれるのだから。
テコナが転がり込んだビルには名などない。いや、正式な登記になら何かあるのかもしれないが、そもそもカタブキ町の建物に公の帳簿など存在するのかテコナにはわからなかった。
だからここに暮らす女たちは、自分らのビルのことをただ「家」と呼んでいる。
女の集団を取りまとめているのは、いちおうアサギだ。そのそばにはスガルがいることが多いが、どうやら親戚らしい。どちらも四十代の女で幼い頃からカタブキにいるのだと「家」の女たちは聞いていた。
「子どもを拾ったって? 見かけたけど、小さいね」
一階の事務室にふらりとあらわれ、スガルは探るような笑いを浮かべた。
アサギとは対照的に唇の薄い女で、長めのシャツをコートのように羽織っている。アサギはパソコンから目を上げたが、手は止めなかった。
「あたしじゃなく、マユが拾ってきたの」
「ふうん。いくつ」
「十六だって」
「意外と年いってた」
「あの子は売らせないからね」
アサギの目がけわしくなった。手も止めてスガルに向き直る。
「ロリコンの客なんて、チョン切って叩き出せばいいでしょう」
平然とエグいことを言われ、スガルは目を細めた。アサギが売春を嫌っているのは承知だが、それも必要な仕事なのに。「家」の女たちにもスガルが面倒をみている者が何人もいる。アサギの今さらな態度をスガルは煽り返した。
「あと二年すりゃカタブキの外でも合法ロリじゃないか。本人がやりたがれば今だって」
「スガル」
アサギの声に怒気がにじむ。だがスガルは冷ややかだった。
「アサギのくせにきれい事を言うんじゃないよ。あたしに売られてるおかげで死なずに稼げてる女がたくさんいるんだ。健全なウリまで非難しないでちょうだい」
「ウリはウリだわ」
「売ってでも稼ぎたい女がいるんだから守ってやるしかないだろ。男だってクスリでボロボロの体なんかより健康な女を抱きたいし」
「テコナは、やりたがらないから!」
アサギは強く言い切った。不機嫌なまなざし。鼻白んだようにスガルは眉を上げた。
「……そう。ならやらせたりしないよ。あのやせっぽちちゃんは、テコナっていうの?」
「あたしが、つけた」
「新しい名まえをほしがるなんて、何かしてカタブキに逃げてきたんだ?」
「そうね。覚えてないみたいだけど」
「おや」
それはマユからの報告だった。マユは心配していたが、そんなのはよくあることだとアサギもスガルも受け流す。後々どこかから捜索や追跡があるかもしれないとだけ心にとめておけばいい。
「マユはその子に肩入れしてるんだね」
「どうもねえ、蝶を目で追ってたらしくて」
「……ああ。じゃあ覚えてないって」
「そういうこと。本名で調べたら事件が出てきたわ」
カタブキにいるのは、蝶が見える者と見えない者の二種類。アサギもスガルも、見える側だった。もちろんマユも。
「未成年だし、一般報道だと名まえは伏せられてたけど。何したか知っておく?」
「……あたしのとこには絶対就職できないカンジの内容だね?」
「そ」
「オーケイ。んじゃ仕方ないわ」
事件のことはどうでもいいよ。言い置いてスガルは部屋を出た。そしてつぶやく。
「テコナ……?」
アサギの与えた名にひっかかった。
まあ、意味などないのかもしれないが。
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