退会しますか?

麻田 雄

第1話


 『退会しますか?』

 『はい』

 『いいえ』


 PCモニター上に表示されたこの表示。


 カーソルは『はい』の上で止まっている。


 この表示を見つめながら私は冷や汗をかいていた。

 今がどのような状況か説明しよう――


 

  ◇  ◇  ◇



 時間は深夜。

 新しい小説を書き上げた後、小説投稿サイトへ投稿しようとしていた。

 アルコールはだいぶ入っている。


 そこでふと、ログイン用PWを忘れていた事を思い出した。

 普段、自動で入力されるので、PWを忘れた事に気付いてはいたのだが気にすることは無かった。

 だが、何となく忘れていたことを思い出してしまった以上、今やっておくべきだという義務感が生じた。


 私はアカウントの設定項目からPW変更の項目を選んだ……つもりだった。

 が、カーソルの位置合わせを間違え『退会する』の位置でマウスをクリックしてしまったのだ。


 退会への注意喚起文が表示された。

 その下には、自分のIDとPWが表示されている。

 もっとも、忘れているPWの項目は『●』が並んでいるだけだ。

 こんなところでも自動入力は活かされているのか、と、若干のありがた迷惑を感じていた。


 だが、この段階ではまだ焦ってはいなかった。

 単にこの画面から前のページに戻れば良いだけの話。


 私はマウスを操り、前ページへ戻ろうとした。その時――


 マウスの横に置いてあったコップを転倒させた。

 中の液体がマウスへと盛大にかかる。


 そこでは流石に焦ったが、先ずはマウスにかかった表面上の水分を拭き取る事にした。

 下手な場所にカーソルが移動したり、誤ってクリックされないようにUSBの接続線を抜いた。


 水分をひとしきり取り除いた後、再びUSBを接続し直し、マウスの動作を確認してみた。

 『光学式マウス完全に沈黙』という、結果となった。

 USBを何度さしなおしても回復することは無かった。


 そして、この状況で何が最悪だったかと言えば、まだネズミさんが生きていた頃、偶然にもカーソルが『はい』の位置へと移動してしまっていた事だ。


 これはまずい……。



 何がまずいのかを記す。


 ・予備のマウスは手元に存在しない。ついでに私はかなりの僻地に住んで居るため、時間的にもマウスを購入できる場所が無い。なにしろ最も近いコンビニですら車で片道一時間近く掛かる(本当にそんな場所があるのです)。

 ド〇キホーテ的なお店に行こうと思ったら片道二時間だ。加えてアルコールが入っている為、車の運転は不可。

 前述の通り他の移動手段は現実的ではない。


 ・ノート型PCを使用していた為、タッチパッドは付いている。

 だが、このタッチパッドが曲者で高確率で触れた瞬間にクリックしたと認識される(単なる故障)。

 現在は養生テープで塞いでいる(機能をオフにすれば良いだけの話だという事は無視しておいてください)。



 この状況に戦慄していた。

 それが冒頭の状況である。



  ◇  ◇  ◇



 タッチパッドの封印を解くことが最善手かとも思ったが、やはりリスクも高い。

 いっそのこと膠着状態を保ったまま、後日新しいマウスを用意する方が良いのか?

 しかし、それはそれで精神衛生上よろしくない。

 どうするべきか……。


 悩みながら、一つの推論が生まれた。

 「退会をワンクリックで可決にはしないのでは無いか?」という事だ。


 流石に重要な事項ではあるし、追確認があるだろうと。

 ならば一度封印を解き、試してみるべきでは無いだろうか……



 私は養生テープの端を指でつまんだ。


 いや、待てよ。

 もし、無かったらどうするのだ?

 そんな当たり前の恐怖心が芽生え、手を止めた。

 そこまでの度胸が無い。


 再び思慮する時間が流れた。



 そこで新たな案が浮かんだ。

 「このまま電源を落としてしまえば良いのではないか?」と。


 

 僥倖!僥倖!僥倖!……

 私は青天の霹靂に打たれたかの如く衝撃を受け、そして歓喜し安堵した。



 電源ボタンを長押しし、PCのモニターが『プッ』という物悲しい音を立てて真っ暗になる。



  ◇  ◇  ◇



 そう。アカウントは守られた。

 戦いは全て終わったのだ。


 失われたのは、私が苦心して書き終えた小説のみだ……。

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退会しますか? 麻田 雄 @mada000

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