おごり

大隅 スミヲ

第1話

 いま考えても、あれは何だったのだろうかと思わされる出来事です。


 その店は小さな町中華の店であり、いつも店の前を通るだけで中に入ったことはありませんでした。

  夜勤明けだった私は空腹感を覚えながら、その中華料理店の前を通り過ぎようとしました。すると店のドアが開き、とても良い匂いが漂ってきたのです。中からは鉄鍋を振り、炒め物をする音も聞こえてきます。

 空腹を我慢できなかった私は、その店に入ることにしました。

 店内には、数名の先客が居ました。作業服を着た人や背広姿のサラリーマンたちです。

 私は空いている席を見つけて、腰を下ろすと壁に貼ってあるメニューを見ました。

 ラーメン、チャーハン、餃子、焼売、回鍋肉、天津飯……。

 文字を見ただけでもヨダレが出てきそうなメニューがあります。

 私は水を持ってきた店員に、ラーメンとチャーハンのセットと餃子を注文しました。

 カウンターの向こう側では、白い調理服を着た店主と思われる老人が中華鍋をリズミカルに振っています。

 この店は絶対にアタリだ。私はそんなことを思いながら、注文した料理が出てくるのを待ちました。


 しばらくしてラーメンとチャーハン、そして焼き餃子が運ばれてきました。

 このままビールも注文してしまおうかと思いましたが、この後に車に乗る予定があったため、それは叶いませんでした。

 箸を取り、手を合わせてから、レンゲを使ってラーメンのスープをまず飲みます。

 シンプルであっさりとした醤油ベースのスープ。

 うまい。これはうまいぞ。

 続いて、箸を使って麺を啜ります。

 ほどよい硬さのちぢれ麺。よくスープに絡み、口の中においしさを届けてくれます。そして、何よりも喉越しが良いのです。

 やっぱり、アタリだ。この店はアタリだ。なぜ、このような素晴らしい町中華の店にいままで私は気づかなかったのだ。そんなことを思いながら、次はチャーハンを食べます。

 レンゲを使い、ひと口。

 細かく刻まれたチャーシューとネギの香ばしい味が口の中に広がっていく。

 ご飯はパラパラで、ほどよく水分が抜けている。

 これもまた、うまい。

 チャーハンを頬張り、口の中の水分が無くなったところで、ラーメンのスープを少し飲む。最強のコンビネーション。これぞ、町中華の王道。

 さらに、熱々の餃子。皮を噛んだ瞬間に溢れ出てくる肉汁。そこでチャーハンをかっこむ。うまい、うますぎる。

 ああ、町中華最高!


 しかし、幸せな時間というものは、あっという間に過ぎていってしまいます。

 私は綺麗に全部食べ、ラーメンのスープも残さず飲んでしまいました。

 最後に、水をひと口飲んで口の中をリセットし「ごちそうさまでした」と口に出して言ってから、席を立ちました。


「はい、ありがとうございます」

 レジにいた中年の女性店員がそう言って私から伝票を受け取ります。

「お会計は、ご一緒で?」

「え?」

 私は思わず自分の耳を疑いました。

 いま、何と?

 私の耳がおかしくなければ、この女性店員は「お会計は?」と言ったはずです。

 思わず、私は後ろを振り返りました。

 しかし、そこには誰もいませんでした。

 それどころか、私よりも後に入ってきた客はひとりもいないのです。

 私が店に入ったのは、ランチタイムの終わりに近い時間でしたので、先客はいましたが、後から入ってきたお客さんはいませんでした。そして、先客たちは私よりも先に食事を終えて店を出ていっているのです。


「あ、ああ……ごめんね。間違えちゃった」

 笑いながら女性店員は言い、伝票の値段をレジへと打ち込みました。

 支払いを終えた私はもう一度だけ、後ろを振り返りました。


 チッ


 たしかに私の耳には聞こえました。舌打ちのような音が。

 しかし、そこには誰もいませんでした。 


 あの日以来、私はその町中華には行っていません。

 それどころか、あの町中華がどこにあったのかも、よく思い出せないのです……。



 終わり

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おごり 大隅 スミヲ @smee

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