頭を撫でる蝉

月井 忠

一話完結

 私が初めて死体を見たのは小学生の頃だった。


 うだるような暑い夏で、今思い出しても汗が滲んでくる。

 当時、夏休みが始まると決まって行く場所があった。


 そこはとある事情で立ち入りを禁止された場所であり、大人たちの目を盗んで忍び込むのが楽しかったのだ。

 フェンスで囲まれているわけでもないので入るのに苦労はいらないが、見つかると後でこっぴどく叱られる。


 私は朝早くに家を出て、そこへ向かう。

 早朝であるほど、成果は大きい。


 緑色の虫かごについた紐をたすき掛けにし、右手に持った虫取り網を肩に担ぐ。

 そんな、いつもの出で立ちで山に入る。


 枝をかき分け、根を飛び越え、小石を蹴飛ばす。

 そうして上っていくと、目的の場所にたどり着く。


 山の中でも一二を争うのではないかという大木が目の前に現れた。


 そこに死体があった。


 男は大木の根本に背中を預けるような格好で座っていた。

 頭から血を流し、顔の半分は真っ赤に染まっている。


 私は息を呑んだ。

 声を出すことができなかった。


 気づくとその場にへたりこみ、足も動かない有り様となった。


 とても暑かったのを覚えている。

 汗が背中を伝っていくのを感じ、私は少しだけ正気を取り戻した。


 その時、初めて山が蝉の大合唱で覆われていることに気づいた。

 蝉の声など日常のことで、背景の一部と化していた。


 私は走り出した。

 蝉の鳴き声に急かされるように走った。


 途中、木の枝に何度も引っかかりながら山を下りる。

 手や足にひりつくような痛みが増えていく。


 森を抜け、あぜ道まで戻ってくると、膝に手をついた。

 見下ろす土に、ぽたぽたと汗が落ち、染みができる。


 私はあの男を知っていた。

 死体の名は日向といった。


 下校の途中でよく見かけるその男は、いつも地べたに座りカップ酒を飲んでいた。

 働いている様子はない。


 子供の間ですら近づかない方がいいと囁かれる有り様だったが、日向の方もそういった視線を気にした風はなかった。


 そんな日向は、なぜか私に声をかけてくることが多かった。

 初めは警戒したが、話してみると気さくなおじさんという感じで、悪い気はしなかった。


 それに日向はこづかいをくれた。

 ある意味、恩であったり情のようなものがある相手。


 そんな男が死んでいた。


 変わらぬ暑さが体を包んでいたが、頭は冷静になってきた。

 すぐに知らせなければと思って顔を上げるが、踏み出すことができない。


 振り返って山を見上げる。

 この山は立入禁止だ。


 ここで死体を見たと言ったら、山に入ったことがばれてしまう。

 怒られるのは確実だろう。


 当時はよくわかっていなかったが、村に伝わる神事を行う場所がこの山だった。

 特定の日時に、特定の人物のみが入ることを許された場所。


 神事のことは詳しく知らないが、山の奥で古びた社を見つけたことがある。

 おそらく、そこで祈祷や何かを行っているのだろう。


 子供ながらに雰囲気だけは感じていた。

 だからだろうか、日向のことを口外してはいけないような気がした。


 なぜかとても罰当たりな気がしたのだ。


 勝手に山に入って虫取りをしていたこと。

 そこで死体を見つけてしまったこと。


 そうした考えは更に先へと伸び、日向の死そのものが罰当たりなものに思えてきた。


 日向は山を汚すような何かをして、あそこに躯をさらすことになったのではないか。

 その死を吹聴すれば、次は自分がああなってしまうかもしれない。


 私は駆け出した。


 祟りが背中に張り付いてしまったような気がした。

 その黒い影を振り切るように走った。


 家に戻ると、玄関にいた母がいきなり怒鳴った。

 一瞬、山に入ったことを見抜かれたのかと思った。


 しかし、母が怒ったのは傷だらけの手足を見てのことだった。

 それらは急いで山を下りた際に、できたものだ。


 普段なら適当な口答えをして、その場から逃げ出したかもしれないが、その時は死体を見捨てた後ろ暗さがあった。

 私は黙って母のお小言を聞きながら、絆創膏を貼ってもらう。


 母の手は温かかった。


 しばらくして、父が帰ってきた。

 私が早朝に家を出たとき、すでに父は出勤していた後だった。


 何かの用事で戻ってきのかもしれない。


「アナタからも叱って上げて」


 普段から言う事を聞かない私に業を煮やしたのか、母はそう言って父を見上げる。


「どこか行っていたのか?」

「うん……虫取りに」


「そうか」

 父はそれだけ言うと、家の中に入っていった。


 何事か不満を述べていた母だったが、最後は父の様子に呆れ私の方に向き直る。


「あんな風になっちゃダメよ」


 母の言いたいことはなんとなくわかった。


 こうしたやり取りで、ほっとしてしまったこともあるのだろう。

 結局、日向のことは言えずじまいとなった。


 日が暮れて布団に潜る。


 夜の孤独な静けさは、隠したはずの恐れを暴き始める。


 日向の死を口にすれば、次は自分が死体になって横たわる。

 そんな祟られたような呪われたような感覚は、私の心を弱くした。


 私が言わなくても日向の死体はいずれ発見されるだろう。

 あの場所に自分はいなかった。


 そういうことにしよう。


 明くる日。

 目が覚めると私は昨日のことが幻だったのではないかという錯覚にとらわれる。


 きっとあの死体は見間違いか何かで、夢と混同していたのだろうと思い始めていた。

 それでも私の手足にはしっかりと絆創膏が貼られていて、あれが夢でないことを主張していた。


 その日は夏祭りがあった。

 陰鬱な気持ちを振り払いたかったのだろう。


 夕暮れを待たず、私は幾人かの友達を誘い、会場を目指した。

 未だ準備中の屋台をめぐりながら、私は目の端で日向の姿を探していた。


 もし彼の浴衣姿を見つけたなら、あのできごとは幻であり、死体などなかったということになる。

 もしくは、頭に包帯を巻いた日向を見つけられたらと願った。


 彼はあの場で足を滑らせ頭に怪我を負ったが、その後病院に行き、今は祭りを楽しんでいる。

 そんなシナリオを描いていた。


 日が落ちてからいくつもの屋台を回った。

 こづかいもすっかり尽きてしまった。


 日向の姿はどこにもなかった。


「なんか、まだ帰りたくないなあ」

「お金のかからない遊びない?」


 そんな会話になって、私はひらめいた。


「肝試しとか、どう?」

「お、いいじゃん」


 私はあの山にみんなで入ろうと提案した。

 初めのうちは渋っていた一人も最後は折れた。


 私は彼らを利用して、もう一度死体を確認しようとしたのだ。


 夜の山は暗い。

 月明かりだけでは足元もおぼつかないので、家からこっそり懐中電灯を持ち出した。


 言い出しっぺということもあり私が先頭を行き、あの場所を目指した。

 見るものを圧倒させる大木の前。


 やはり、そこには何もなかった。


「ここまで来たらもう十分じゃない?」

 最後まで抵抗していた子が、弱音を吐いた。


「そうかもね」

 私は同意する。


「いいじゃん、もっと奥まで行こうぜ」

 他の子達は、先を願ったがこれ以上は危険だと諭して帰ることになる。


 目的は達成したのだから、もう十分だった。




 幾日か経った。

 結局、日向の死体が発見されたという話は出てこない。


 かわりに日向が行方不明になったという噂を聞いた。

 夏祭りから姿を見ないということだった。


 それは私の望んだシナリオとは違った。

 知らないふりをして、村人に日向の行方を聞いて回った。


「きっと夜逃げだよ。あんな奴いなくなっても、誰も困りゃしないさ」

「お前もあんなろくでもない男にはなるなよ! お前の親父さんみたいな立派な人になんるんだぞ」

「あいつ、俺から金を借りてるくせに!」


 確かに日向は働くことなく、昼間から酒を飲んでいるような人間だった。

 しかし、私だけには優しかったこともあり、村人たちの非難は不当に思えた。


 夕方となり、ヒグラシの声が聞こえる。

 釈然としないまま家路につくと、いつものように母が玄関で私を迎えた。


「ダイキ、また後片付けしないで! さっさとどかしなさい!」

「何のこと?」


「あの虫かごよ!」

「えっ?」


 母は虫が嫌いだった。

 だから怒鳴る理由も納得がいく。


 しかし、虫かごという単語には疑問が湧いた。

 庭へ走ると、縁側にはたしかに緑色の虫かごが置かれていた。


 死体を見つけたあの日以来、虫取りをしなくなった。

 一人であの山に入るのは怖かったし、なにより虫かごも虫取り網もなくしていたのだ。


 走って家に帰ったとき、私はそれらを持っていなかった。

 逃げる途中、どこかに落としてしまったのだろうと思った。


 本当に自分のもなのか。

 緑色の虫かごに近づく。


 中には何か虫が入っているようだった。

 あの日、私は死体を見つける前に虫を入れた覚えはない。


 となると私のものではないのだが、虫かごには私の名が書かれたシールが貼ってある。

 かごの中の虫はぴくりとも動かない。


 私は蓋をそっと開け、かごをひっくり返す。


 ぽとりと手のひらに落ちる。


 頭のない蝉だった。


「ひっ!」


 私は思わず手を払う。


 庭に蝉が落ちた。


 雑草に紛れ、姿は半分も見えない。


 あの感触を忘れられない。


 小さく軽い物体であった。

 なのに、今も手のひらに残る、かさかさとひっかかるような手触りは、私の心を大きくえぐった。


 きっと虫かごと虫取り網は、死体のあった場所に落としたのだ。

 それがこうして戻ってきたということは、拾ったのは犯人だ。


 かごには私の名があった。

 犯人は私のことを知っている。


 私が日向の死体を見たことを知っている。


 一歩退きながら、頭をちぎられた蝉を見下ろす。


 誰にも言うな。

 そんな意味が込められているような気がした。


 言えば、お前もこうなる。

 そんな声も聞こえた。




 それから私は日向のことを村人たちに聞かなくなった。

 それどころか、村人たちと積極的に関わることもなくなった。


 この村にいる誰かが、日向を殺し、私を脅している。

 それなのに私は犯人を知らず、探す術もない。


 いつしか私はこの村に住むすべての人が犯人なのではと考えるようになった。

 日向の悪口を言っていた全員が協力して殺し、死体をどこかに捨てた。


 だから、犯行が表に出ることもないのだと。


 こんなことなら、もっと早くに父に報告しておくべきだった。

 父はこの村で唯一の駐在所の警官だった。


 尊敬してやまない父。

 だからこそ言えなかった。


 立ち入りが禁止されている場所に入って虫取りをしていた。

 それは偉大な父に対する、ちょっとした反抗だったのかもしれない。


 そんな気持ちも知らず、村人たちは皆、私に向かって父のようになれと言う。

 日向のようなだらしない人間になるなと言う。


 そのくせ私が虫取りに山に入ると、お前は父と似ていないと叱った。


 あの死体を見つけた日、父は私を叱らず、無表情なまま自室に引っ込んだ。

 私は父に怒られたことがない。


 あの時叱られていたら、結末は違ったかもしれない。




 私は中学生になっていた。


 その夏、近くの山でがけ崩れがあった。

 何日も続いた雨が山に染み込み、山肌を削ったということだった。


 あれからというもの、あの山に近づいていないかったが、久しぶりに足を向ける。

 崖くずれのあった場所を正面から見れる位置にあるのが、あの山だった。


 当時、虫取りのために歩んだ道を懐かしく思いながらたどる。


 あの大木の前に来た。


 向かいの山でがけ崩れがあったのだ。

 だから、この山にも何らかの影響があったのだろう。


 ところどころ土がえぐり取られていた。


 私は大木の根本に場違いな色を見つけた。

 土や草とは違う、白い色だった。


 近づいてみる。


 明らかに頭蓋骨だった。

 半分ほど埋まっていて、片方の面のみが地表に現れている状態だが、人骨だとわかる。


 目があったはずの場所は空洞となり、その下には歯がいくつも並んでいる。


 日向だ。


 すぐにそう思った。

 当時は死体がなくなったことを疑問に思っていたが、何のことはない。


 犯人は死体を埋めたのだ。


 がけ崩れが起きるほどの雨は、表面の土を洗い流し、こうして過去の犯罪をむき出しにした。


 私は急いで山を下り、自宅に戻った。

 すぐに戻ってきて、再び骨の前に立つ。


 かしゃっと陶器の割れるような音がする。

 私は何度も骨を踏みつけた。


 その度に骨は小さく砕け、ばらばらになっていく。


 家から持ち出したスコップであたりを掘る。

 肋骨やら大腿骨やらが出てくる。


 それらは雨に洗われることなく、土にまみれ茶色かった。

 試しに何度も踏みつけてみるが、その骨は頑丈なため砕くことができない。


 私はスコップを振り上げ、それらに振り下ろす。

 そうして細かく砕いた茶色と白の骨。


 スコップで土をまぶしながら埋めていく。


 こうしてバラバラにして埋めれば、再び地表に現れても、人骨だとは気づかない。

 人骨だとわからなければ、事件化はしない。


 私はあの事件を闇に葬ろうとしていた。


 今更なのだ。


 日向のことなど皆忘れている。

 私も忘れるはずだった。


 それなのに。


 私はスコップを動かしながら、あの頭のない蝉を思い出していた。


 何年も土に埋まっていた日向が、こうして骨をさらし、自らの存在を示す。

 それは土の中で成長し、夏になると這い出て、うるさくわめく蝉のようにも見えた。


 だから私は蝉の頭を引きちぎる。

 鳴かないように、骨を砕いて再び埋める。


 これでもう二度と思い出すことはない。


 そう思っていた。




 そうして、今。

 父が亡くなった。


 職場に長期の休みを願い出て、故郷へ帰る電車の中に私はいた。

 流れる景色をぼんやり眺めながら、過去に思いを馳せている。


 急な知らせだった。

 なんの予兆もなかったため、この帰郷は五年ぶりのものとなった。


 こんなことならもっと顔を出しておくべきだった。

 よく聞く言い訳を自分がするとは思ってもみなかった。


 大人になると日常に追われる日々が続く。

 過去の忌まわしい記憶は遠い。


 それでも夏が来て、その年初めての蝉の声を聞くと、夢に見る。

 縁側に置かれた緑色の虫かごを見下ろしているのだ。


 ゆっくり近づき覗き込むと、そこには頭のない蝉がいる。

 その蝉は頭がないというのに、うるさく鳴いた。


 気づくと、なぜか私はその蝉になっていた。

 虫かごに閉じ込められ、精一杯、鳴いている。


 目覚めると、汗でぐっしょり濡れていた。

 頭で忘れたと言っても、心には刻まれたままだった。


 それでいい。


 とりあえずその日を暮らしていけるなら、人間らしい生き方にはなる。


 物思いに一区切りつけたとき、列車は駅に着いた。


 懐かしい道のりの先に実家が見える。


 玄関で迎えた母は老いて見えた。

 腰は曲がり、頭はすっかり白くなっている。


「おかえり」

「ああ」


 そっけない会話と同じく、葬儀もそっけなく終わった。


 父を焼き、骨を拾い、壺に入れる。

 それだけだ。


 仕事柄、葬式は嫌と言うほど見てきた。

 さすがに父親のものなら涙の一つも出るかと期待したが、やはりいつもと変わらぬものだった。


 むしろ、大変だったのはその後だ。


 遺品の整理やら、母のこれからのこと。

 決めることは山のようにあった。


 やっとのことで片付きつつある父の部屋に入る。

 未だ残る机の引き出しを開けると、小さな箱のようなものが出てきた。


 箱は封筒でくるまれていた。


「ダイキへ」

 封筒にはボールペンの細い字で、そう書かれていた。


 私はセロハンテープを剥がし、畳まれた封筒を開いていく。


 ころりと手のひらに落ちたのは小さな箱だった。

 透明な箱の中には脱脂綿のようなものが詰まっている。


 箱をひっくり返した。


 蝉の頭だった。


 虫の標本のように針で固定されている。


 声を出すことはなかったが、あの時のように息を呑んだ。

 あの夏、虫かごをひっくり返し、頭のない蝉を見た時と同じだった。


 再び封筒を見る。

 そこには「ダイキへ」の文字がある。


 犯人は父だった。

 日向を殺し、埋めたのは父だ。


 その瞬間、私の脳裏には、あの日の光景が浮かんだ。

 死体を発見し、私は尻餅をついた。


 そのとき父は、あの大木の後ろに隠れていたのではないか。


 私が立ち去った後、その場に置き捨てられた虫かごや虫取り網を手に取ったのではないか。


 私が山を駆け下り帰宅した後、父は帰ってきた。

 あの時、父はどこに行っていたのかと私に聞いた。


 私は虫取りにと答えた。

 虫かごも虫取り網も持っていないのに。


 その後、私は日向のことを聞き回った。


 父は私の行動を知っていたはずだ。

 我が子の口を封じることはできず、かわりに頭を引きちぎった蝉を虫かごに入れ、縁側に置いた。


 いや、断定するのは早計か。


 そもそも、殺害かどうかもわからない。

 事故に近い形だったかもしれないし、他に共犯がいるかもしれない。


 だが、父が深く関与し、それを私に告白する意味があるのは確かだった。

 蝉の頭は、私と父にしかわからない暗号だった。


 なぜ父は日向の殺害に関与し、死体を埋めたのか。


 つい動機を考えてしまう。


 不意に机の上にあった鏡を見た。

 そこには疲れ切った男の顔がある。


 父とはあまり似ていない顔だ。

 しかし、どこか見覚えのある顔でもあった。


 その考えが浮かんだ時、私はぞっとした。

 とんでもない推測が頭を支配し、振り払うことができない。


 私はすぐに行動を開始した。


 手早く後片付けをしつつ、日向の家族の居場所を調べた。

 こうしたことに慣れているとはいえ、時間はかかった。


 見つけ出した日向の従兄弟に会いに行き、それらしい事情をでっちあげ、DNAを提供してもらう。


 結果はすぐに届いた。


 私の本当の父親は日向だった。

 正確に言うなら、日向と母の間にできた子供が私だ。


 母からもDNAを提供してもらって確認した事実だった。


 日向と母は密通していた。

 あるいは、無理やりということもあるのか。


 本当のところはわからない。

 だが、父はおそらくこの事実を知っていたのだろう。


 これが殺害動機とどう絡むのかは不明だが、父と日向の関係は普通ではなかった。


 様々な記憶が私の中でつながっていく。


 地べたに座り込んでいた日向は私によく声をかけてきた。

 たまに小遣いもくれた。


 父は私に対して、どこかよそよそしかった。


 私の顔は父よりも日向に似ている。


 がけ崩れの起きた中学の夏が思い出された。

 あの日、私は骨を砕いた。


 それは実の父親のものだった。


 元々私は、喪失感や虚無感が強い方だった。

 今はそれらが増したような気がする。


 足元がぐらつく感覚はいつまでも続いた。




「ねえ、パパ~」


 娘がじゃれついて来た。

 父の死に関するほとんどは終わり、私は日常の中にいる。


 久しぶりの休暇でソファに寝そべっている私を、娘は見逃してくれない。

 普段はできない家族団らんを過ごす必要があった。


 結局、私は父の影を追っていたのだろう。

 父と同じく警察官となり、今では刑事として忙しくしている。


 たまの休日は事件から遠ざかるべきだろう。

 今守るべきは目の前の現実だ。


 そのために、これ以上の追求はしないつもりでいる。


 母はまだ存命だ。

 日向との間に何があったか聞くことはできる。


 しかし、私はそれをしないと決めた。

 老い先短い母を問い詰めたところで何になる。


 母が何も言わないのなら、こちらから聞くことはない。


「パパ、これ見て」


 いつも見る夢を思い出している。

 頭のない蝉の夢だ。


 その中で最後に私は蝉になっていた。


 確かにそうなのだ。


 私は土の中を生きている。

 夢の中でだけ真実を叫び、鳴いている。


 だが、それでも日常をこなしていけば、人間らしく生きることはできる。


 父がいい例だ。

 日向との因縁を口にすることなく死んだ。


 ならば、私にだってできるだろう。


「できたよ! パパ!」

「本当だ。うまいね」


 私は娘の頭を優しく撫でた。

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