海底十メートルの初恋に届かない

夏鎖

海底十メートルの初恋に届かない

 僕の夏休みは泡から始まって泡で終わる。


 八月一日。僕は毎年この時期にだけに寄る海辺の駄菓子屋でキンキンに冷えたラムネを二本買った。一年ぶりに訪れた駄菓子屋は毎年上がり続ける気温にも無関心のように冷房は効いておらず、もはや小学生や中学生のたまり場にもなっていない。唯一涼を感じさせる風鈴は防風林のおかげでここまで届かない海風で揺れることはない。

 だから僕は家から海岸にたどり着くまでにすっかり汗だくになり、白いTシャツが汗でぴっちりと背中に張り付くまま歩き続けることになる。早く冷たいラムネを飲みたいがそれは彼女に会うまでの間、我慢しなければならない。

 いつかの台風被害ですっかり人が住みつかなくなった地域の細い道を抜け、ようやく岩礁までたどり着く。そして地元の人もいつか人が死んだとかで寄り付かない海の洞窟へ。五メートル×五メートルの広さ。両脇に幅五十センチほどの岸辺。その間に深さ十メートルほどの海というちょっとしたプールのような洞窟だ。

 僕は洞窟内の岸辺に腰を下ろしビーチサンダルのまま海に浸かる。下はあらかじめ海パンを履いてきたので海水で濡れても問題ない。


「今年も来たよ。ミナモ」


 僕は重り代わり一本のラムネを持ってきたビニール袋に入れ、洞窟中央の海面に投げ入れる。ビニール袋の中には緑色のパレオも入っている。

 一分ほどだろうか。水面にブクブクと泡が立ちはじめ魚影――人影が現れる。

 そして静かな水しぶきと共に幼さを残す少女の顔が現れる。


「久しぶり。壮馬」

「久しぶり。ミナモ」


 ミナモは去年と同じ顔で僅かに笑みを浮かべると、僕の隣に腰掛ける。まだ幼さを残す人間の上半身には先ほど投げ入れたパレオとセットのビキニタイプの水着(これをなんというか僕は知らない)を着ていて、腰には太ももの半分より上を隠すようにパレオが巻かれている。そして布の隙間から見える脚は――いや尾鰭は手のひらサイズの鱗に覆われていた。


「ラムネ、開けてくれる?」


 恐ろしいほど美しい顔でお願いされて断れる男などこの世にはきっといないだろう。僕はうぶ毛の代わりにイワシのような細かい鱗で覆われた彼女の手からラムネを受け取る。そしてビー玉を押し込んで飲める状態にしたものを手渡す。


「ありがとう」


 ミナモは大事そうに両手でそれを受け取る。僕も同じようにラムネを開けて、どちらともなくラムネ瓶を軽くぶつける。


「「乾杯」」


 二人の声が重なって、短い言葉を吐き出した喉にしゅわしゅわとラムネがなだれ込む。この清涼感を持ってして僕の夏が始まる。


「今年も会えて嬉しい」

「僕もだよ」


 微笑み合って、夏しか会えない彼女との短い一か月が始まる。


×   ×   ×   ×   ×   ×


 僕がミナモと出会ったのは小学一年の頃だった。

 その頃のミナモは今と変わらぬ姿で(人魚は不老不死に近い時を過ごすらしい)、パレオを貸す前だったので美しい身体を何も纏わせることなくさらけ出していた。パレオを貸し始めたのは確か小学四年生(第二次性徴が始まった頃)で、その時の判断は今でも英断だったと思う一方で、思春期の真っただ中の今の僕は彼女の体が薄い一枚布で隔てられてしまうことを素直に残念に思っていた。ちなみにパレオはもうずいぶん前に結婚して家を出て行った八歳離れた姉が中学生の頃に着ていて押入れに眠っていたものだ。

 初めてミナモに出会った時のことは、今も鮮明に思い出せる。


「マーメイド……?」


 今日と同じ洞窟で声変わりもしていない僕が呟いた。


「日本人なのに人魚って言わないのね」


 今と同じ顔でミナモが笑った。


「人魚……? 人魚って人魚姫の?」

「えぇ。そうね。私は姫じゃないけど」

「姫じゃない人魚姫?」

「だから人魚よ」


 クスクスとミナモが笑う。その笑顔はテレビで見たことのあるどの芸能人よりも綺麗で、思わずドキっとしてしまう。僕が記憶する限りこれが初恋だったのだろう。

 しかしその初恋は次の一言で崩れ去ってしまう――いや、崩れ去ってしまったことを知ったのはこれから何年も後の話だ。


「人魚のお姉さんはどうしてここにいるの?」

「んー? それはね――」


「繫殖のため」


 ハンショク。その言葉の意味を当時の僕はまだ知らない。


×   ×   ×   ×   ×   ×


 白いTシャツを脱ぐとイワシの鱗が左手に触れた。

 ゴーグルをかける間もなく海中へと誘われる。慌てて耳抜きしないと間に合わないほどの勢いで海底まで沈むと機械には出せないスピードで大海原への旅が始まる。時間はきっと僕の呼吸が続く三十秒から四十秒。それだけの時間で海の景色は一瞬で流れる。人魚の右手と人間の左手。海中の中で僕らを繋ぐものをたったそれだけなのに、頼りなさよりも頼りがいを覚えてしまう。

 キラキラ光る。そう感じた瞬間には僕は呼吸ができていた。


「楽しい?」

「うん。楽しい」

「よかった。壮馬、すっかり大人になったからもう海を泳ぐだけじゃ楽しくないかと思った」

「まだ高校一年生だし子供だよ?」

「そうなの?」

「そうだよ」


 人魚は幼形成熟するため少女/少年の見た目から一生姿が変わらないらしい。だからきっと人間とは見た目から受ける年齢の感じ方が違うのだろう。


「壮馬、また潜るよ?」


 僕の返事を待たずして再びミナモに手を引かれて海中へ。今度はゴーグルをつける余裕があったので水中をよく観察できた。

 ミナモを通して見る海の世界は、普段海岸から見る海とはまるで違うし、素潜りでも絶対に敵わない。スキューバダイビングをしても絶対に得られることのないスピードで泳げるのだ。自力で泳ぐときとは全く異なる水の抵抗、ミナモが尾鰭を動かすことで生まれるジェットエンジンのような推進力はイルカさえも置き去りにする。この瞬間だけ、ミナモと泳ぐ夏の海だけは僕の体にも鱗が生える。


 でも水面に上がってしまえばそんな仮想の鱗は剝がれ落ちてしまう。


 何度も何度も海中遊泳を楽しんだ僕らは再びあの洞窟に戻ってきた。いつの間にか太陽は海に溶けようとしている。


「また明日も来るよ」

「えぇ。また明日。私は夜に備えて寝るわ」


 ミナモが大きなあくびをする。陸地と海中。足と尾鰭。別れのこの瞬間。僕たちは違う生き物だと認識させられる。


「水着返すわ」

「ありがとう――って! ここで脱がないで! 海の中で脱いで!」

「別に気にすることないのに」

「気にするよ!」


 人魚とはいえ、ミナモの体は尾鰭や鱗を除けば七割は人間のそれである。まっとうな思春期を過ごす僕に彼女の裸は色々な意味で耐えられない。


「わかったわ。じゃあまた」


 ミナモは手を振りながら水中へ。しばらくするとぷかりとパレオが入ったビニール袋が浮いてくる。


「また明日」


 僕はそれを回収して帰路に就く。途中、公園の水道で水を汲み体中についた海水を落とす。僕がミナモと遊ぶ海岸は海水浴場ではないので当然、真水のシャワーなんて気の利いたものはない。家に帰るまでの間、海水のべた付きによる不快感を少しでも抑えるために、こうして公園で水浴びをする。


(まぁやってることはほとんどホームレスなんだけど……)


 そうして帰宅した僕は早々に改めて温かいお湯の出るシャワーを浴び、母親が作ったご飯を食べ、友人たちとLINEのやりとりをして、YouTubeとソシャゲで時間をつぶし二十二時には眠りにつく。

 ミナモが今何をしているのかを考えないように。


×   ×   ×   ×   ×   ×


 人魚という生き物は不老不死に近い時を生きるが、それは人魚が自然発生したことを意味しない。人魚は人間と同じように生殖活動を行う。生殖活動は成熟してから一生をかけて行われ二匹――いや双子か――の子供を産んで死ぬ。生殖活動期間は毎年八月一日から八月三十一日まで。二十二時から四時まで僕の住む海岸近くで乱交に近い形で行われる。

 これが僕の知っている、ミナモが毎年八月に海の洞窟にやってくる理由だ。


×   ×   ×   ×   ×   ×


 八月八日。今年もミナモに会い初めてから一週間が経った。

 とはいえやることは毎日――毎年変わらない。普段の生活では味わえないスピードで海を潜る。時折クジラやイルカがいる海域まで連れて行ってくれる。洞窟で二人肩を並べてたわいもない雑談に興じる。この時、スマホという現代の必需品は介入しない。スマホを持ってきてもミナモに海に誘われれば洞窟に置いておくしかなくなるし、洞窟においておくと潮の満ち引きや波にスマホがさらわれないか心配になる。なら持ってこないほうがいいだろうという判断だ。


 今年も変わらない夏が続くのだろう。そうした予感は不意に終わってしまう。


 いつものようにミナモに連れられて沖合まで泳ぎ洞窟に帰ってきた。洞窟の真ん中でプカプカと浮かんでいるとき、ミナモのビキニがいつの間にかなくなっていた。


「み、ミナモ!」

「どうしたの?」

「あ、その……えっと…ごめん。胸が……」

「?」


 ミナモは自然な動作で自分の胸元を確認する。


「あら。いつの間にか脱げてしまったのね」

「は、はやくつけて……」

「ちょっと待って。落としてしまったの。探してくるわ」


 ミナモは僕を置いて潜水した。何十秒、何分だろう。いつの間にか戻ってきたミナモが僕の真正面。ほぼゼロ距離に浮かび上がってきた。


「見つけた」

「は、はやくつけて」

「別に見てもいいのよ?」

「ぼ、僕がよくない!」

「そう?」


 僕は慌てて目を瞑った。


「もういいわ」


 ミナモがそう言って目を開けると――ミナモはビキニを身に着けておらず、美しい胸を海水にさらしていた。それを僕はしっかりと見てしまう。


「な、なんでつけてないの!?」

「ちょっとからかっただけよ。でも見たかったら見ていいし、触りたかったら触っていいのよ」

「そ、そんなことできない!」

「どうして? 別に人魚の体よ? 人間の体ではないのよ? 人間にとっては魚を見るのと変わらないわ」

「魚と同じじゃないよ! ミナモは――」


 人間だよ。そう言えなかった。

 うつむいた僕にミナモが背後から抱き着く。まだビキニをつけていない胸の感触がダイレクトに伝わってきて、僕の鼓動はこの夏一番高鳴る。どこかに閉じ込めていたはずの初恋が強引に顔をのぞかせる。


「ごめんね。冗談よ」


 短い言葉の後にミナモの感触が消えて、しばらくした後ビキニを付けたミナモが僕の正面に現れる。


「…………」

「どうしたの? 人魚の裸は見たくなかった? 鱗だらけで人間にとっては気味が悪いものね」

「違う! そうじゃない! 僕はミナモのことが――」

「私のことが?」


 自分の気持ちを、この関係を終わらせてしまう二文字をなんとか飲み込む。


「……ごめん。なんでもない。今日は帰るよ」

「そう? ごめんなさい。今日はからかいすぎたわ」

「ミナモは悪くないよ。悪いのは僕」


 水着、返して。そう言うとミナモは音もなく潜水しパレオが入ったビニール袋を水中に浮かしてくる。「またね」もないお別れは随分久しぶりだった。


「帰ろう」


 まだ胸の内で煮えたぎる感情にケリをつけるために独り呟く。しかしそんなことで目を向けないようにしていた感情を裏切ることはできなかった。

 その夜は数年間自ら禁止していたミナモを想像しての行為を幾度となく行ってしまい、自己嫌悪に陥った。

 朝方に降った雨を言い訳に翌日は海に行かなかった。


×   ×   ×   ×   ×   ×


 ミナモの水着の下を見てしまった翌々日からはまたいつもの夏が始まった。あの日の僕の態度をミナモに謝り、ミナモはそれを許した。それだけで関係は修復された。そしていつもの八月が再開された。なんてことはない。変わらない日々だ。海を泳ぎ、洞窟でしゃべり、ラムネ瓶を手渡すだけ。それだけの日々。変わらない毎年八月の日々。なのに僕の中にはミナモをまた意識してしまった。はるか昔から変わらない恋心を自覚してしまった。


 人魚と人間が恋愛なんてできるわけないわ。

 猿が人間に恋をしても人間は取り合わないでしょう。

 人魚と人間の関係も同じよ。

 種族が違うの。それは決定的な壁よ。


 中学一年生の頃にミナモに言われた言葉が夜のベッドで一人リフレインする。そんなことわかっている。だからあの日の告白はなかったことにして、覚え始めの性欲を言い訳にしてミナモとの関係を続けたのだ。そもそもミナモが悪い。僕を振ってから数年間、胸なんて見せていなかったのに。あの日僕に見せるから悪いんだ。そういう他責も芽生える。でもそれは違うと自分を納得させてまた自分が悪いと僕が僕を責め立てる。

それが嫌で嫌で自分の気持ちを消したいのに消えない。恋心もミナモに触れたいという思いも、鱗の肢体に全身を這わせたいという思いも、自分の一番大切で一番汚い部分は決して消えてはくれない。


 そうした僕の下心をミナモは見透かしたのだろう。八月二十日の帰り際。僕に問うた。


「壮馬は私とセックスがしたいの?」

「……は?」


 あまりにもストレートな言葉に、僕は異世界の言葉を聞いているようだった。


「私の胸を見た日以来、なんだかソワソワしていたから」

「い、いやそんなこと……ない」


 動揺が表に出てしまい、それがミナモとセックスがしたいとイコールと捉われてしまっただろうとわかって、僕の顔は熱くなる。


「私、壮馬とだったら一回くらいいいわ」

「えっ……」

「セックス。一度くらいしてもいいわ」

「でも……」

「安心して。鱗と尾鰭以外は人間とそう変わらないわ」


 ミナモは洞窟の岸辺に腰掛ける。そして胸元のビキニを艶めかしく取り払い、パレオも脱ぎ捨てた。数年ぶりに見たミナモの肢体は初めて出会った時と変わりなく綺麗で芸術的だった。


「壮馬も成熟して、思春期になって、セックスがしたくなったのでしょう。別に一回くらいなんてことはないわ」

「いや、その、違う。僕は」

「それとも私とはしたくない?」

「いや、それは――」


 そんなのしたいに決まっている。何度ミナモのことを押し倒したいと思っただろう。何度僕の好きでミナモを満たしたいと思っただろう。何度ミナモと夜な夜な交わる顔も知らない人魚の男たちに嫉妬しただろう。激情のままにミナモを抱きしめる。不器用にキスをする。磯の香りがする髪の香りをかぎ、再びミナモを抱きしめる。その先へ。向かおうとして――


 でも次の一言で我に返ってしまう。


「長い人生ですもの。たまには人魚の男以外と交わっても、ただの思い出にしかならないわ」


 


 それは僕の恋心が永久に満たされないということでは?


「ごめん」


 僕は現実から逃げ出す。ミナモが僕を呼んだ気がした。でも無視した。がむしゃらに足を動かした。人魚には追い付けない場所まで。遠く。遠くまで。

 家に辿り着く。僕は何もかも嫌になって自室に飛び込みタオルケットを深く被った。何も見たく、何も聞きたくなかった。それでも行き場のなくなった性欲だけは押さえることができなくて、明け方まで何度も手を動かしてしまう。結局想うのはついさっき見たミナモの身体だ。我ながら最悪だと思う。

 その夏、僕は海岸の洞窟に行くことはなかった。


×   ×   ×   ×   ×   ×


×   ×   ×   ×   ×   ×


×   ×   ×   ×   ×   ×


×   ×   ×   ×   ×   ×


 翌年の夏、僕は再び海岸を訪れた。八月一日にラムネ瓶を二本買い、新しく購入したパレオを持って海岸の洞窟へ。するとそこには酷く波風にさらされた三十センチ程度のプラスチックのケースが岸壁に括り付けられていた。

 予感がして、僕はそれを開く。中には手紙が入っていた。


<壮馬へ。この間はごめんなさい。あなたのことを弄ぶ気持ちはなかったの。ただ辛そうにしていたから寄り添いたかっただけなの。私の身体くらいで満たされるなら満たしてあげたかったの。これは嘘じゃないの。お願い。信じてほしい。

 そしてこれはお別れの言葉。私のお腹の中に赤ちゃんがいるの。来年にはきっと会えない。十年間あなたと一緒に八月を過ごせて楽しかったって、それだけはちゃんと伝えたかったの。だから手紙を残します。この手紙がいつまで残っているのか、濡れた手で数十年ぶりに書いた文字が読めるのかわからないけど、あなたとの思い出は大切なものだから>


 読み終えると手紙とプラスチックのケースが手からこぼれ落ちた。そして落ちたものの中からきらりと何かが輝いた。それは手のひらサイズの鱗だった。

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