カサネの檻

とりにく

本編

(どうしたんだい?辛気臭い顔をして、あたしにそっくりな綺麗なお顔が台無しだよ。

あは、泣きみそなのは変わらないね。あたしたち、中身は昔から正反対だ。

あたしは納得しているんだよ?かみさまになってみんなに愛され続ける。立派なお役目じゃないか。

でもそうだね。もしあんたがあたしをかわいそうに思ってくれるなら、■■を一つ買って、肌身離さず持ってておくれよ。

それがあればあたしはいつだってあんたに会える。きっとあんたはあたしを忘れないでいてくれる。

だいすきだよ。あたしの愛しい――)



 あれは今から十年前のことでございましょうか。季節は夏、そう、夏の終わりでした。蝉の声が弱まり始め、空気には秋の気配が忍び寄っていました。

 夕暮れ時になると、遠くの山々が紫がかった影となって村を包み込むようでした。その年は私が村の生き神様であるカサネ様に嫁入りする年で、それを祝う秋の祭りも間近でした。村中が祭りの準備に忙しく、笑い声と活気に満ちていました。色とりどりの提灯が家々の軒先に吊るされ、夜になると幻想的な光景を作り出していました。

 当時の私は、己を特別な娘だと理解していました。幼い頃から親元から引き離され、村の社で大切に育てられていたからです。15歳という年齢にもかかわらず、私の手はシミもあかぎれもない、苦労知らずの綺麗な手でした。それは村の娘たちの、日に焼けて荒れた手とは対照的でした。


(手と言えばうんと小さい頃……)


 私に手鏡を託す、しわくちゃの細い手だけを覚えています。その人は私の母親だった人なのでしょう。あのあかぎれだらけの手から考えても決して裕福な暮らしをしていた人とは思えません。その手鏡は桜貝で細工がされたかわいらしい意匠のよくできたものでした。そんなものを幼子などに手渡す以上、愛されていたのでしょう。その小さな手鏡こそが私の唯一の家族との縁でした。


 当時の私は自分がお姫様か何かだと思っているようなところがありました。社の中でなら思い通りにならないことはないような環境で育てられていたからです。私の務めは村の社に鎮座することだけ。逆に言えばそれしか許されていませんでした。

 側使えの村娘をちょいと脅しつけ、時折社から抜け出し村を散策することが、私の唯一の気晴らしでした。

 村は深い山々に囲まれた小さな集落でした。私は村のあらゆる場所に足を運びました。苔むした石垣、古びた寺社、そして季節の花々が咲き乱れる野原。しかし、私が行ったことのない場所がひとつだけありました。それはカサネ様の住むお屋敷です。

 カサネ様の屋敷は村の外れにありました。鬱蒼とした雑木林に囲まれ、高い忍び返しがついた塀で囲われていました。その塀は年月を経て苔むし、所々に蔦が這い上がっていました。屋敷の周りには不思議な静けさが漂い、鳥の声さえ聞こえないほどでした。

 私は小娘の無謀さと好奇心から、カサネ様の顔をひとめ見ようと目論みました。慎重に下調べをし、塀の片隅に穴を見つけました。その穴は当時の私なら何とか通り抜けられそうな大きさでした。


 私はその日大人たちがカサネ様の屋敷に近づかないことを知っていました。長者の屋敷で村の会合がある日なので、みんなそこに集まっているのです。夕暮れ時、赤く染まった空の下、私は穴をくぐり抜け、屋敷の敷地に忍び込みました。


(屋敷というからにはさぞから立派な御殿なのだろう)


 そう思っていた私は正直、肩透かしを食らいました。それは貴人の住む屋敷というよりも、かみさまのおわす、祠や社と言った方が近かったのです。

 特に異様なのは本来なら庭に続いてる筈の縁側に格子がしつらえてあるところでした。格子に近づくたび、重苦しい空気が身を包むのを感じました。それは人の住まう場所には似つかわしくない雰囲気でした。夕闇が迫る中、格子の向こうから声が聞こえてきました。


「いけません、あなた様ともあろう方が――」


 その声に驚いて、私は草陰に身を隠しました。障子戸がずるずると開く音とともに、白い着物に身を包んだ美しい女性が現れました。

 その姿は月光のように輝いていました。長い黒髪は夜の闇のように濃く、肌は雪のように白く、その対比が一層彼女の美しさを引き立てていました。

 私は息を顰めるのも忘れて、物陰からその姿に見入っていました。なぜでしょう。一目見て私にはその女性が村の生き神様であり、これからわたしの夫になるカサネ様だと気づきました。


(でもどうして、女性――?)


「いいじゃないか。いつも親父連中には好きにさせているんだろう」


 そんな疑問に思考をめぐらす暇もなく、カサネ様にまとわりつくように奥から青年が現れました。彼は村の若衆の中でも村長の息子という、将来を嘱望されている青年でした。


「私はあと少しでカサネの座を退く身、この十年、子を宿すこともなかった石女に執心しても何もよいことはございません」

「いいじゃないか子供なんて、なんなら俺がお前を妾として貰いうけよう。美しいお前をむざむざ見殺しにするのは忍びない」


 見殺し?今、彼はなんと言ったか。私は驚きの余り、声を抑えるのをわすれそうになりました。


「貴方、なにを言ってるかわかってらっしゃるの?」


 カサネ様がはじめて男性に声を荒げました。


「ああ、もちろんわかっているとも。お前はカサネ、村のしきたり囚われた哀れな女だ」

「あなたがそれ以上戯けたことをおっしゃるようでしたら、私も長者様に知らせぬわけには参りません」

「ならばこの口を塞いでおくれ。人払いにも限界がある、今日はこっちで口説かせてもらおう」

「皆様方を愉しませるのがこの身体で私の役目、どうか見張りの皆様まで呼んでくださいまし」

「カサネ、お前は誰よりも残酷で美しい女だよ」


 それから先の情景は、あまり覚えていません。目の前で何が起きているかを理解する程度の知識はありましたが、それの意味するところを私の頭は拒んだのでしょう。

 覚えているのはカサネ様の白い肌、そして時折開かれる口から覗く赤い舌の艶めかしさでした。カサネ様が草陰に隠れた私に時折ちらと目線をよこしてることにすら気づかず、くりひろげられた狂宴から私は目をそらすことができませんでした。その夜、どうやって私が己の暮らす社に戻ったかは覚えていません。


 一晩中、眠ることなく考え抜いた私の頭は、まるで霧の中を彷徨うようでした。窓の外では夜明け前の薄暗い空が、少しずつ明るさを増していきます。鳥たちの最初のさえずりが聞こえ始める頃、ことの最中に男が嘯いていたカサネ様への『口説き文句』を整理し、私は三つの考えに至りました。


ひとつ、カサネ様とは村の女性が背負う、襲名制の役割である。

ふたつ、カサネ様は十年に一度、代替わりをしてその役割を『終える』。

みっつ、そして私はカサネ様の嫁御なのではなく、次代のカサネ様そのものである。


 これらの忌まわしい結論は、世間知らずの小娘に熱い使命感を抱かせるのに十分でした。頭の中では、「カサネ様を助けなきゃ」という言葉が、まるで呪文のように繰り返し響いていました。

 理性の声は私に、己の身の安全を確保するべきだと囁きかけていました。しかし、その微かな声は、カサネ様への想いの奔流に押し流されてしまいました。私の脳裏には、檻に囚われた美しい女性の姿が焼き付いて離れません。その姿は夕闇に照らされ、まるで幻のように儚く、それでいて強烈な存在感を放っていました。

 次代のカサネ様となる私こそが、彼女を救う使命を負っている。そんな思いが、私の胸の内で炎のように燃え上がりました。今になって思えば、これら全ては彼女の巧みな策略だったのでしょう。私は知らず知らずのうちに、彼女の掌の上で踊らされていたのです。


 翌日の夜、私は再びカサネ様の屋敷へと足を運びました。空には異様な赤い月が浮かび、その光は世界全体を血に染めたかのように見せていました。木々の葉は風もないのに微かに揺れ、不吉な予感が空気を満たしていました。

 奇妙なことに、昨夜とは違い、特別な事情もないこの夜に、私はカサネ様の屋敷まで誰にも気づかれることなく辿り着きました。村は異様な静けさに包まれており、ただ遠くで鳴く梟の声だけが、この世界が現実であることを伝えているようでした。

 カサネ様は昨日と同じように、格子のついた縁側に佇んでいました。彼女の姿は月光に照らされ、まるで幽玄の世界から抜け出してきた幻のようでした。長い黒髪は夜の闇よりも濃く、白い肌は月明かりに照らされて妖しく輝いていました。

 そして、木陰に隠れているはずの私に、カサネ様は甘い蜜のような声で語りかけたのです。


「おや。昨日の子ネズミちゃんは今日も顔を見せてくれないのかい?」


 カサネ様への畏怖の念と同時に、胸の奥で歓喜の炎が燃え上がりました。カサネ様は昨日も、今日も私の存在に気付いてくれていたのです。その事実が、私の全身を震わせるほどの喜びをもたらしました。


「失礼いたしました。昨日はお取込みのようだったので、話しかけられず――」


 私の言葉に、カサネ様は妖艶な笑みを浮かべました。その表情は、月光の下で一層魅惑的に見えました。


「お取込み、ね。ふふっ。して子ネズミちゃんは何の用でこんなところまで?ここのお世話になるにはちょいと若すぎないかい?」


 カサネ様の言葉には、からかいの色が滲んでいました。彼女は狐のように目を細め、その瞳には赤い月が映り込んでいました。気がつけば、私は篝火に誘われる虫のように、カサネ様を捕らえる檻へとふらふらと近づいていました。格子越しに見るカサネ様の姿は、まるで異界の美しい獣のようでした。


「私は次代のカサネです。あなたを助けに参りました」


 意を決して告げると、カサネ様の表情が一瞬にして変化しました。細められていた目が、まるで今夜の赤い月のように丸く見開かれたのです。


「私を、助けに?」

「そうです。私がカサネを継いだ後、カサネ様がどうなるか私にはわかりませんが、きっとひどい目に遭うに決まっています。今だってこんなに――ひどい目にあっているのに」


 私の言葉に、カサネ様の唇が妖しく歪みました。その笑みは、優しさと残酷さが混ざり合ったような、不思議な表情でした。


「ロクな目、ねぇ。……子ネズミちゃんはとても優しい子なんだね」


 カサネ様は私に手招きをしました。その仕草は優雅で、まるで舞を踊るかのようでした。素直に近づく私に、カサネ様は格子越しに手を伸ばし、私の頬に触れました。その手の感触は冷たく、しかし不思議と心地よいものでした。


「――似てる」

「……カサネ様、さま?」

「なんでもないさ。確かに私もそろそろこの村に飽いてきた。潮時だろうね」

「なら私と一緒に――!」


 私の言葉を遮るように、カサネ様が囁きました。その声は、夜風のように冷たく、しかし蜜のように甘美でした。


「復讐を、してみないかい?」


 その瞬間、私はようやくカサネ様の手が血に染まっていることに気がつきました。月光に照らされたその手は、まるで紅い花弁のようでした。そして部屋の奥から漂ってくる異臭、それはきっと――


「私を貪った男たちに、見て見ぬフリをした女たちに、お前をお姫様のように誉めそやしといて騙していた村に」


 私の頬にへばりついた赤が、ポタリと地面に吸い込まれて消えました。カサネ様の甘い毒はポタリ、ポタリと私の心に染み込んでいきます。


「なぁに私たちは被害者だ。ちょこっとやり返す位、お天道様はゆるしてくれるさ」


 その言葉は不思議と私を納得させるのに十分な響きがありました。


(私だけがこのひとを救える。私だけがこのひとを、理解できる。誰でもない、この私だけが――!)



 そこから先は、まるで夢の中にいるかのようでした。私の意識は霧の中を漂い、身体は流れに身を委ねるままに動いていきます。気がつけば、村は炎に包まれ、赤い月の下で燃え盛る炎が夜空を染め上げていました。

 幼い頃から私が生まれ育った村は、今や凄まじい火の海に呑み込まれていました。赤い月が照らす夜空に、橙色の炎が舞い上がり、黒煙が渦を巻いています。家々が次々と崩れ落ちる音が、遠くで鳴り響く不吉な太鼓のようでした。耳を劈くような笑い声が響き渡りました。


「あはは!気分がいい。こんなに気分が良いのはいつか振りだ――!」


 カサネ様は少女のように火の海の中で踊り狂っていました。その姿は、炎に照らされて影絵のように見え、まるで地獄の宴の主役のようでした。長い黒髪が風にたなびき、白い着物は炎の色を映して紅く染まっています。その美しさは、恐ろしいほどに妖艶でした。

 夢見心地の私は、カサネ様の笑みを見つめながら、心の底から思いました。井戸に毒を投げ込んで、村に火をつけてよかったと。罪の意識は不思議なほどに薄く、むしろ陶酔感に似た高揚感が全身を包んでいました。

 私のこの体は、この命は――このひとを満足させるためにある。そう、心の底から信じていました。カサネ様の喜ぶ姿を見ることが、私が生まれた意味、そのものであるかのように。


 その時、突如として大きな風が吹き荒れました。「びゅう」という音とともに、渦を巻くように雲が広がり、赤い月を覆い隠しました。世界が一瞬にして暗闇に包まれ、まるで幕が下りたかのようでした。

 その瞬間、私の心に閃光が走りました。まるで目の前の靄が一気に晴れたかのように、すべてが鮮明に見えてきたのです。私はこのひとに、この化生に、巧みに操られていたのだと。


「……どう、して?」


 耳を澄ませば、炎で崩れた落ちた瓦礫の下で呻く村人の声が聞こえます。いがらっぽい煙に紛れて鼻につくのはきっと、人の髪と肉がが焦げる――。呆然と立ち尽くす私の前で、カサネ様は心の底から可笑しそうに笑い転げていました。その笑い声は、燃え盛る村の音さえも掻き消すほどに甲高く、耳に痛いほどでした。


「そうだよ。その顔が見たかった。私の大好きなその顔……」


 カサネ様の目は、獲物を捕らえた猛獣のように輝いていました。その瞳に映る私の姿は、きっと惨めなほどに混乱し、恐怖に震えているのでしょう。


(逃げなきゃ)


 本能が必死に警告を発しているのに、私の足はまるで石のように固まって動きません。むしろ、カサネ様に引き寄せられるように、少しずつ前に進んでいきます。とうとうカサネ様は私の目の前に立ちました。

 炎の熱気が二人の間に渦巻き、息苦しいほどの緊張感が漂います。カサネ様はゆっくりと手を伸ばし、あの時のように私の頬に触れました。その手は不思議なほどに冷たく、まるで死者の手のようでした。


「いとしい、いとしい子、お前の顔を私に頂戴」


 カサネ様のなまめかしい唇が、ゆっくりと私の口に近づいてきます。その唇は、艶やかな紅色をしており、まるで熟れた果実のように魅惑的でした。

 しかし、最後の一線で私の理性が戻りました。私は必死に抵抗しました。それこそ窮鼠が猫にかみつくような勢いで。もみ合う中で、私の懐から何かが落ちる音がしました。カランと澄んだ音を立てて地面に転がったのは、母から譲り受けた手鏡でした。月光と炎の光を反射して、鏡は不思議な輝きを放っています。


「これは……?」


 カサネ様の目が鏡に釘付けになった瞬間、私はその隙を突いてカサネ様から身を離しました。全身の毛を逆立てて、まるで野生動物のように彼女を必死ににらみつける私。その姿は、きっと滑稽なものだったことでしょう。

 数秒の沈黙の後、カサネ様は突然、身を翻しました。その仕草は、まるで舞台の幕が下りるかのようでした。


「やめた。――興がそがれた」

「なにを、言って」

「興がそがれたと言っているんだ、それともまだ私に嬲られたいなら遠慮はしないよ」


 意味がわからずとも、その言葉が本気であることは察せました。カサネ様の目には、もはや先ほどまでの狂気や興奮の色はなく、ただ冷たい月光だけが映っていました。


 私は着の身着のままで、生まれ育った村を背に、逃げ出しました。足元はおぼつかず、何度も転びそうになりながら、ただひたすら村から遠ざかっていきます。背後では、まだ炎の音が聞こえ、煙の臭いが鼻をつきます。しかし、決して振り返ることはしませんでした。



「ふふ、『狐につままれた』って顔、今のお兄さんのことを言うんでしょうね」


 赤い月が照らす夜道で、私は見知らぬ男性に向かってそう言いました。男性の顔には、困惑と恐怖が入り混じった表情が浮かんでいます。


「大丈夫ですよ。こんな赤い月の夜だから、ちょっと奇妙な作り話をしたくなっただけですから」


 私の言葉に、男性はほっとしたように肩の力を抜きました。私は月を見上げながら、しみじみと言葉を続けました。


「でもそうですね。仮にもしこの話が本当だとしたら、私は――」


 そこまで呟いて、気づきました。赤い月の光が男の顔を照らし、その瞳には遠い日の炎の名残が揺らめいていました。


(そう、あの日のカサネ様のよう、な?)


 その時、あの夜の再現のように、突如として大きな風が吹き荒れました。「びゅう」という音とともに、渦を巻くように雲が広がり、赤い月を覆い隠しました。世界が一瞬にして暗闇に包まれ、そして――。


「久しぶりだね。子ネズミちゃん」


 そこには何度も夢にみた、私を破滅においやった化生――カサネ様――が佇んでいました。カサネ様はずいと距離を詰め、私の唇に人差し指をあて、蠱惑的に嗤いました。


「いけないよ。大事な秘密を簡単に見知らぬ人に話しては」

「どうし、て――」

「ふふ、子ネズミちゃんに会ったのはほんの偶然だよ。月の導きも、あったのかもしれないけどね」


 そういってカサネ様は夜空を仰ぎみて、大仰に肩をすくめました。


「どれ、今日の私は機嫌がいい。一つ昔話をしてやろう」


 むかしむかし、ある所に美しい双子の姉妹がいました。ふたりは姿こそそっくりでしたが、泣きみその姉と勝気の妹、その中身は正反対でした。

 ふたりはとても仲良しでしたが、村にはとあるしきたりがありました。村一番の美しい娘を生き神様への生贄として捧げなければならないというしきたりです。

 そのお役目は、勝気な方の妹が務めると自ら言い出して決まりました。泣く泣く姉に、妹はこう言いました。


「あたしを可哀そうに思うのなら、手鏡を一つ買って、肌身離さず持ってておくれよ。それがあればあたしはいつだってあんたに会える。きっとあんたはあたしを忘れないでいてくれる」


 姉はその約束を守りました。妹を生贄に差し出したことで手に入れたわずかな金子で、見事な意匠の手鏡を手に入れたのです。しかし、その姉も一人娘を残して病に倒れてしまいます。さらに不運なことに、その娘は次の生贄に選ばれてしまったのです。

 姉は無力な自分を、そして娘に待ち構える運命を恨みました。そしてせめてもの祈りとして、娘に手鏡を渡し、命果てました。


 カサネ様はそういって懐からとりだした手鏡を懐かしそうに撫でました。桜貝で細工がされたその手鏡は偶然か必然か、鏡面がちょうど半分ほど欠けていました。


「もはやカサネは『あたし』ではない。あの日、姉様に残酷な呪いをかけた『あたし』とは別の存在だ。カサネと赤い月の下で口づけを交わし、『あたし』は消え去った。様々なカサネが重なり合い、混ざり合い、引き裂かれて生まれた、そういう神様。化け物。人の世にまつろわぬ者」


――私は二度、見逃した。でも次はないよ。


 立ち尽くす私を前に、カサネ様はまるで慈しむ母のように、そして同時に獲物を弄ぶ獣のように、私の頬を優しく撫でました。その仕草には愛情と残酷さが混在し、私の心を恐怖と恍惚の狭間で揺さぶりました。

 闇夜に響く哄笑と共に、カサネ様は手鏡を宙に放り投げました。鏡は月明かりを反射して、一瞬だけ不思議な輝きを放ちました。そしてカサネ様は、振り返ることもなく深い闇へと歩み出しました。その姿は、やがて霧散するように見えなくなっていったのです。

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