金の亡者

猫魔怠

金の亡者

 都会とはいえず、田舎とも言い切れない中途半端な地域。その片隅に門を構える県立幡川高等学校。

 その高校には生徒たちの体育の授業で使用されている体育館と、様々な諸事情によって未だ解体作業が行われず、使用されないままに十五年ほどの時間が経過した旧体育館が存在する。


 普段であれば誰も近づかないほどに雑草の生い茂った旧体育館周辺。そこを一人の女子生徒が歩いていた。

 その目的は、県立幡川高等学校に流れる一つの噂。


 曰く、旧体育館の器具庫には生徒でも教師でもない人物が住み着いており、人には言えない悩み事を解決してくれる。


 誰もが面白半分に作られた嘘だと考えた。だが、一縷の望みを賭けてその噂を信じる人間もごく少数おり、この女子生徒もその一人だ。

 女子生徒は錆びついた扉をスライドさせ、土足のままそっと体育館の中に入っていく。長く使われていないせいか、至る所に蜘蛛の巣が張り、埃が宙を漂う中を恐る恐る進み器具庫の前に辿り着く。

 女子生徒はそこで一旦深呼吸をすると、器具庫の扉に手を掛けて横にスライドさせる。


「いらっしゃい。こんな古びたところになんのご用かな?」


 体育館の中より幾分かひんやりとした空気と共に、若い女の声が女子生徒に投げかけられた。

 一縷の望みに賭けてきたとは言え、本当にいるとは思っていなかったせいか女子生徒は驚きに体が固まる。


「別に何もしないよ。それよりも早くこっちにきなよ。そっち、埃舞ってて気持ち悪いでしょ」


 その言葉にはっとなった女子生徒はゆっくりと器具庫の中に足を踏み入れ扉を閉める。

 声の方向に向けた視線の中に映るのは、少女と女の境目にいるような黒髪の女性だった。オーバーサイズのパーカーに紙パックのジュースを片手に、昔使われていたであろう古びたマットの上に腰掛けていた。


「そこ、座っていいよ。椅子あるでしょ」

「あ、はい……」


 背後に置かれていた椅子に女子生徒が腰を下ろしたのを確認すると、女性は再び口を開いた。


「まずは名前を教えてもらおうかな」

「安城麗那、です。」

「そ、麗那ちゃんね。それで、麗那ちゃんはこんな古びたところになんのご用かな?」


 女性が投げかけた先ほどと同じ質問に女子生徒――麗那は顔を俯かせ、自身なさげに口を開く。


「えっと、信じてもらえるか、わからないんですけど……。私、なんか良くないものに取り憑かれてる、みたいなんです」

「と、言うと霊とか悪魔とか?」

「はい。多分、そうです」

「なるほどね。もしかして、麗那ちゃんの後ろに立ってる黒い人間のこと言ってる?」

「――ッ!?」


 麗那がバッと立ち上がり後ろを振り返ると、ほんの一瞬だけ黒い人影が視界に映り込み、消えた。

 麗那の中で恐怖と不安が一瞬にして大きくなる。


「い、イヤ、イヤァッ!ヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダ――」

「――大丈夫。落ち着いて」


 イヤと連呼してパニック状態になりかけた麗那の体がふわりと包み込まれる。


「大丈夫、大丈夫。私がそばにいれば、アイツは何もしてこないよ。私が一緒にいる。大丈夫」


 ゆっくりと優しく背中を撫でられているうちに麗那の心も落ち着いてくる。数分もすれば麗那はもとの状態に戻っていた。

 女性に抱きしめられていることに気恥ずかしさを感じ、麗那は頬を薄く染めながら女性の手を軽く叩く。


「あの、もう、大丈夫です」

「わかった。じゃあ、そこは怖いだろうし、私の隣においで」


 女性に手を引かれそのまま並んで古びたマットの上に腰を下ろす。使い古され薄くなったマットの感触を下に感じつつ、目の縁に残っていた涙を服の袖で拭き取る。


「それじゃ、辛いだろうけど詳しいことを聞かせてもらってもいいかな?情報がないと何もできないからね」


 女性に促され、麗那はポツポツとここ数日の出来事を話し始めた。


「えっと、ここ最近特に体調を崩してるわけでもないのに体がだるい、って言うか重くて。それが日に日に酷くなってきてたんです。流石におかしいなって思って病院にも行ったけど、原因はわからなくて。しばらくは様子見ってことになりました。それで数日いつも通りに生活してたんですけど、体の重さは全然なくならなくて、時々息苦しさも感じるようになってきて。そしたら昨日の朝、鏡の前に立った時に、私の後ろにさっきの黒い人影みたいのが見えたんです」

「……なるほどねぇ」


 いつの間にか手にしていたメモ用紙に何かを書き込んでいる女性。麗那はその姿を黙って見つめ、次の言葉を待つ。


「その一連の出来事に対してどう感じた?例えば怖いとか恐ろしいとか。あとは不安だ、とか」

「すごく怖い、です」

「そっか。なら、すぐにでも祓った方がいいんだろうけど、残念ながら今はまだ難しいかな」

「な、なんでっ!?」


 女性の口から出た言葉に麗那は思わずといった様子で大きな声をあげ、立ち上がる。この恐怖から解放されるために真偽の不確かな情報に頼って旧体育館を訪れ、情報が本当であったことで安心感を覚えていたと言うのに。ここにきて否定の言葉。恐怖の継続宣言。麗那の中でいくつもの感情が暴れる。

 だが女性はそんな麗那を前にしてもその表情を変えずに淡々と説明を始める。


「さっきのアレ。麗那ちゃんに憑いていた人影は人の欲望から生まれた存在でね。祓うタイミングを間違えると、完全に祓いきれず人の体内に残っちゃうんだ。だから、今は祓えない」

「そんな……い、いつになればできるんですか!?」

「そうだね。早くても二週間後かな」


 その言葉に足からスッと力が抜け、麗那はその場に座り込んでしまう。麗那の顔に浮かぶのは絶望。

 女性はそんな麗那の様子を冷えた目で見つめている。


「二週間も……。そんなに、耐えられない……」

「こればっかりはどうしようもないんだ。ごめんね。でもその間、放課後にでもここに来てくれれば簡単なお守りをつけることくらいはできるよ」

「お守り……?」

「そ。お守り。君が感じている体の重さ。それはあの人影がやってることなんだけどね、ここに来てくれればそれの進行を遅くすることができる。そしてその副次効果で人影も出てきにくくなる。でも、あくまで簡易的なものだから毎日やらないといけないよ」

「お、お願いしますっ。やってくださいっ」


 バッと立ち上がった麗那は女性に飛びつく勢いでその距離を縮める。なくなったと思った希望がまだ存在していた。その事実に、ここに来てから暴れっぱなしの麗那の心が軽くなる。


「おおぅ。勢いがすごいね。じゃあ、これから放課後はここに来てね」

「はいっ」


==========


 麗那が最初に旧体育館を訪れた日から三日が経過した。


 麗那は以前に比べて、体の重さの増え方が遅くなっていることを実感していた。体が重いことに変わりはないが、女性に会う前と比べて三日間で増えた重さが小さく感じるのだ。

 あの器具庫にいた女性が"本物"であり、この調子であればいつも通りの日常に戻れると感じた麗那の心は羽のように軽かった。

 だからここ数日体の重さのせいで遊べていなかった友人たちと遊びに行こうと考え、声をかけた。


「ねぇ、今日の放課後遊びに行かない?なんか今日、いつもより調子いいんだよね」

「マジ?じゃあ、私気になってるカフェあるんだよね。そこ行こうよ」

「いいねー。あー、でもあたし今お金ないわ。新しい服買ったばっかりなんだよね」

「そうなの?じゃあ、"ATM"からお金貰いに行かなきゃね」

「そだね。最近行ってなかったから、アイツも寂しくしてるだろうし。私が声かけとくよ」


 そう言って教室の隅に向かって歩いていく友人の背中に麗那は感謝の言葉を飛ばした。

 ようやく日常が戻ってきた、と麗那の胸は喜びで満たされていた。


==========


 それからさらに四日、最初に旧体育館を訪れた日から一週間が経過した。


 四日前とは異なり、麗那の顔色は優れなかった。


「顔色悪いね。どうかしたの?」


 小さな窓から夕日の差し込む器具庫の中。マットの上に寝転んだ女性が椅子に腰掛ける麗那にそう問いかける。

 麗那はその問いかけに億劫そうに顔を上げて口を開く。


「なんか、四日くらい前に体が急に重くなって。息が苦しくなることも多くなってきたんです」

「四日前って言うと、ここに来なかった日かな?」

「……はい」

「そうなると、あの人影がお守りのない日を狙ってきたって感じかな?仕方ないね」


 自分からお守りをつけて欲しいと言ったのに、わずか三日目にして何も伝えないままに遊びに行ったことは麗那にとっての後悔となっていた。

 だからこそ女性の言葉に気まずそうに顔を俯かせ、これは自業自得なのだと自分を戒めていた。

 そんな麗那の心境を知ってか知らずか、女性はいつもと変わらないトーンの声で言葉を発する。


「やっと半分まできたんだしあと一週間、頑張ろうね」

「……はい」


==========


 十日が経過する頃には麗那の体の不調は日常生活に支障をきたすレベルまで来ていた。


「安城、大丈夫か?顔色が悪いぞ」

「少し、気分が悪くて……」

「なら保健室で休んできなさい。誰か、安城に付き添ってやってくれ」


 小さくなってはいても日に日のその存在を大きくしていく体の重さ。それに加え、つい昨日までは周期的だった呼吸のしにくさが今日は常に付き纏っている。

 すぐに良くなるだろう、とたかを括って学校にきたことを後悔していた。

 友人に付き添われて保健室に行き、ベッドの上に横になる。体を横たえたところで体の重さや苦しさは全く変わらないが、体に力を入れなくてもいいと言うだけで精神的にはかなり楽だった。

 ベッドの横で麗那を心配そうな表情で見つめる友人。麗那はそちらに向かって言葉をかける。


「ここまで付き添ってくれてありがとね。でも、ごめん。今日の約束はちょっと無理そう……」


「いいよ、そんなこと。麗那の体調の方が大切だよ。それに遊びにいくのなんていつでも行けるじゃん。"ATM"だっていつでもお金くれるし」

「…‥うん。そうだね」

「だから麗那はゆっくり休んで」


 最後に軽く微笑みを残して友人は教室に戻っていく。

 麗那はその姿を見送ると意識を手放した。


==========


 ようやく二週間が経過し、麗那が待ち望み、渇望した日がやってきた。


 麗那はもう自分の体とは思えないほどに重くなった体を引きずり、持久走後と変わらないほどに荒い息を吐きながら旧体育館へと足を進めていた。


 時刻は十六時三十二分。麗那が歩くのは車通りの多い大通り、その歩道だ。ふらふらと足取りのおぼつかない足で歩き、時々電柱に体を預けて小休止をとっている。

 朝から高校に行っていたのであればまず通らない道だ。


 麗那は今現在も続く体の不調によって今日は学校を休んでいたのだが、この苦しみから逃れるために、と重く苦しい体を無理矢理に動かして高校までの道を進んでいた。

 こんな状態になる前であればものの十分程度で歩き切っていた道がとてつもなく長く感じる。一歩踏み出すたびに感じる果てしなさに何度も心が折れそうになりながらも、この苦しみから逃れたい一心で足を進み続けた。


 普段の何倍もの時間をかけ、やっとの思いで高校の敷地内までたどり着いた。今はちょうど部活動の時間のためか校門で他の生徒に会うことはなく、麗那は旧体育館に向けて足を進める。

 ゆっくり、ゆっくりと。けれども着実に旧体育館に近づいていく。

 そして、扉に手をかけ横にスライドさせた。


「思ったよりも早かったね」


「……ぇ」


 てっきり扉の向こうはいつも通りの古びた体育館が広がっていると思っていた麗那は、想像もしなかった光景に思わず声を漏らしてしまう。

 麗那の目に映るのはこの二週間ほぼ毎日のように見てきた古びた体育館ではなかった。


 窓からの光を一切遮り、真っ暗な室内の端から端までを繋ぐように長く太い縄が何本、何十本、何百本と蜘蛛の巣のように張り巡らされており、その縄には一定間隔でかなり掻き崩されたお札が貼られている。

 床には乱雑に、秩序などまるでなく火のついた蝋燭が置かれており、その光によって室内は異様な雰囲気が漂っている。


 そして何より、そんな空間の中心で巫女服を身に纏い、顔の上半分だけを鬼の仮面で覆って立っている女性の姿は普段の雰囲気や見た目と全く異なっていた。

 麗那は言葉にできない異様な不気味さを感じ、表情が一瞬にして暗くなる。


「どうしたの?早く入ってきなよ。君に憑いてるソレ、祓いに来たんでしょ」

「……う、ん」


 女性に声に当初の目的を思い出し、いつもと様子の異なる体育館の中に入る。思い体を動かし、荒く苦しい呼吸のまま女性との距離を縮めていく。

 この体の重さも呼吸の苦しさもいまだ継続しており、おさまる気配など微塵もないが、もうすぐ解放される。いつも通りの、これまで通りの、普通の生活を送れるようになる。


 そんな思いで満たされている麗那にとって女性と自分との間の距離など、些細なものだった。気がつけば目の前に女性が立っている。

 女性は仮面に覆われていない顔の下半分を笑みの形に変え、口を開いた。


「それじゃあ、お祓い料三十万円、お支払いくださいな」


「――ぇ?」


 麗那の口からあらゆる感情の混じった声が溢れる。


「だから、お祓い料だよ。霊とか悪魔を祓うのっていくら経験があってもそれなりに危ないんだよ?死んじゃう例だってあるんだから。これくらいのお金、むしろ安い方だよ?」

「……そ、そんなの、無理。そんな大金、払えない……」

「それなら諦めてもらうしかないね。こっちだって命をかける以上、それ相応の対価を貰わなきゃ」


 女性の目は冗談を言っているようにはとても見えなく、麗那の中の希望は黒く塗りつぶされていく。

 足から力が抜け、その場に座り込んでしまう。無意識のうちに瞳から涙が溢れ、麗那の頬を伝って床に落ちていく。


「……なんで……?なんで、私がこんな目にあわなきゃ、いけないの……?」


 絶望したように涙を流し、荒い息のまま悲壮な声を漏らす麗那。その姿は誰もが同情してしまいそうになるくらいには、ひどく悲しかった。

 だが、女性が麗那を見下ろす目には同情など一切混ざっていなかった。その目にあるのは侮蔑の感情だけだ。


「嗚呼、君はここまできても理由がわからないのか。救いようがないね」


「な、何?私が何をしたって言うの……?」


 温度など一切感じさせない女性の声に怯えながらも、麗那はなんとか声を絞り出す。

 すると女性はなんの脈絡もなくスッとその場にしゃがみ込み麗那と視線の高さを合わせた。


「前に、君に憑いてるソレは人の欲望から生まれた存在だって言ったよね。でも何の欲望から生まれたのかは言っていなかったよね。いいよ、教えてあげる」


 蝋燭に灯った火によって生まれた女性の影が、揺れる。


「ソレは、お金に対する欲望から生まれたんだよ。特に、お金持ちの人を妬む貧しい人や、他人を殺してそのお金を手に入れる人間、そして他人にお金を奪われた人間。そういう人たちが持つ、お金に対する負の欲望」

「負の、欲望……」

「鈴原桐子」

「――ッ」


 何の脈絡もなく、女性の口から出てきた名前に麗那の体が固まる。


「ここまで言えば、君でもわかるかな?何で、君がそんな目にあっているのか」


==========


「ほら、大人しく渡しなって。クラスでハブられたくないでしょ?」

「あたしら知ってるんだよ。あんたがバイト掛け持ちしてて、いっぱいお金持ってること」


 昼休み、人気の少ない校舎の西側で一人の女子生徒が麗那を含む三人の女子に囲まれていた。

 女子生徒――鈴原桐子は言い返そうとするも、声が口から出てこない。


「あ、の……わた、し……」

「聞こえない。もっとはっきりしゃべりなよ」

「てか、早くお金。私ら今日の放課後カラオケ行くんだけど」

「お、お金、は……あ、ありませ――」


 ドンッ、と鈴原桐子の顔の真横、壁に麗那の手が叩きつけられる。


「――ひっ」

「これから、クラスでハブられて惨めな高校生活おくるのと、お金を渡して今まで通りのままになるのか。どっちがいい?」


 鈴原桐子に選択権はなかった。財布から数枚の紙幣を取り出し、震える手で麗那に渡す。


「ありがと。それじゃ、これからもよろしくね。私らの"ATM"として」

 

==========


 麗那の頭の中で思い出された過去の記憶。

 それは、麗那が女性の言葉の意味を理解するのには十分なものだった。

 顔が青白くなっていく麗那と視線を合わせつつ、女性は言葉を続ける。


「君に憑いている存在は欲望が刺激されるようなことがあると、取り憑いている対象に対する影響力を強めることがあるんだよね。心当たり、あるでしょ?」

「ぁ……」


 今しがた思い出した過去の記憶然り。それに加え旧体育館を初めて訪れた日からも何度か、思い当たる節のある麗那。

 自分で自分の首を絞めていた事実に、ゆっくりと視界が暗くなっていく。

 だが、それは許されない。

 女性に顎を掴まれ、無理矢理に俯きかけた視線を合わされる。


「ヒッ――」


 思わず、麗那の口から悲鳴が溢れた。

 麗那と視線のぶつかるその目には、温かい感情など一片たりとも浮かんでおらず、ただただ冷たく底の見えない暗さだけが存在していた。

 まるで、麗那に取り憑く人影のような暗さが。


「目を逸らしちゃダメだよ?これは君の罪だ。業だ。辜だ。辟だ。その体の重さは君が奪ったお金の重さ。その苦しさは他人に搾取されるものの苦しさ。自業自得だよ」


 女性は麗那を放り投げるようにして顎を掴んだ手を離す。勢いのままに麗那は床に倒れ込む。硬い感触と、無機質な冷たさが麗那にぶつかる。

 そして、そこで気がついた。体の重さが、呼吸の苦しさが先ほどよりも大きくなっていることに。


「ハッ、ハッ、ハ……ヒュッ、カハッ――」


 もう、起き上がることすらできない。そんなことを考える余裕すらなくなってきている。

 いっそ意識を失えたのなら、と思うがそんなことは起こらない。重さと苦しさだけが麗那の中に存在する。


 必死に空気を吸って、吐いて。重さに押しつぶされないように体に力を込めて。そんな抵抗とも呼べない抵抗をする麗那の視界に真っ黒な足が映り込む。女性のものではない。麗那に取り憑く人影――人の欲望だ。


 今更になって麗那の中に後悔の感情が溢れだす。

 何故、あんなことをしてしまったのか。あの時やめていれば、別の選択をしていれば、あんな奴に、鈴原桐子に関わらなければ。こんな目に、あうことはなかったのに。


「――つくづく、君は救いようがないね」


 ここにきてまで、他人のせいにしようとする麗那の思考を読んだように女性はそう口にする。

 一つ、息を吐いた女性は懐から一枚の紙を取り出し、小さなナイフと共に床に倒れたままの麗那の前に差し出す。

 その紙にはいくつもの文章が記されているが、麗那にその文章を読む余裕は存在しない。


「その紙に血判を押したら、君を助けてあげるよ」

「――ッ!」


 麗那はその紙に飛びつこうとするが、体の重さゆえにまともに動くことはできない。重さに耐え、震える手を伸ばし、小さなナイフを握る。ナイフを持つのとは反対の手も伸ばし、麗那はその人差し指の先を浅く切った。

 鋭い痛みが走り、すぐにその傷跡からぷくりと水滴のように血が出てくる。麗那は女性が差し出した紙にそのまま指を押し付ける。数秒ほど押しつけてから指を離せば、紙には血によって麗那の人差し指の指紋がしっかりと滲んでいた。

 女性がするりと紙を回収し、血判がしっかりと押されていることを確認する。


「うん、確かに。それじゃあ、君を助けてあげよう」


 満足そうに頷いた女性は紙を大切に懐にしまうと、それと入れ替えるように鉄扇を一面、取り出した。

 そして畳んだままの鉄扇の先を床に倒れ伏す麗那に向け、言葉を紡ぎ始める。


「人の身に巣食いし過去の欲望、人の身を犯す醜き病、人の身に存在せし内なる欲望。今、その身より出でて、我が前に姿を現せ。形を成せ」


 瞬間、ずるりと麗那の体から何かが抜けていくような感覚がするとともに、体の重さや呼吸の苦しさがまるで嘘だったかのように消えた。


 それと同時に、ひたり、と何かが床に足をつける音が麗那の耳に届く。見るべきではない、頭でそう思っても反射的に振り返った麗那の視界に一つの人影が飛び込んでくる。

 夜の闇より深く、深海の底よりも深い。まるで人間の欲望を全て混ぜ込んだかのような黒さの人影。


 麗那がこれまで見た中で最もはっきりとそこに存在し、最も不気味で、最も恐ろしく、最もドス黒い欲望を抱えて、そこに立っていた。


「ぁ……あ、あぁ……」


 ひたり、と影が一歩踏み出す。


「い、いや……いやぁ……」


 ひたり、ひたり、と一歩ずつ麗那の方に近づいてくる。

 麗那はどうにか距離を取ろうと足を動かすが、うまく力が入らず全く後ろに進めない。その間も影は着実に麗那との距離を縮めてくる。


「いや……いやっ、いやっ、いやっ!」

「大丈夫。そこで大人しくしていて」


 麗那の視界が赤色で埋め尽くされる。それは、女性の巫女服の赤色だった。

 そして、赤色が遠ざかる。


 そこから先は、麗那には何が起こっているのか理解することはできなかった。

 広げた鉄扇を片手に巫女服の赤と白を揺らし、蝶のように舞う女性と、それを必死に追う黒い影。気がつけば影は消え、赤と白――女性だけがその場に立っていた。


 鉄扇を懐にしまい、こちらに戻ってきた女性の手を借りて麗那は立ち上がる。

 何が何だか、さっぱりだった。だが、麗那は自分の身に降りかかったものがなくなった、という事実だけは認識していた。


「……私、これでもう、大丈夫なの?」

「うん。君に憑いていた存在は私が祓った。君はこれまで通りの生活を送ればいいよ」


 その言葉に、麗那の胸は歓喜で埋め尽くされる。

 今日まで自身を苦しめてきたものがなくなり、何度か絶望を味わいながらもここまで頑張ってきたことが報われた。麗那は歓喜の涙をその瞳に滲ませた。


「ありがとうございました」


 麗那は短く感謝の言葉を告げて、女性に見送られて旧体育館を後にする。

 麗那の瞳に映る景色は何もかもが明るく輝いて見えた。


**********


「もう出てきていいよ」


 麗那の去った旧体育館。他に誰もいないはずの空間に、女性は声をかける。

 すると、完全に閉まり切っていなかった器具庫の扉が開き、気弱そうな印象を受ける一人の女子生徒が出てくる。


「どう?満足してもらえた?」

「はい。安城さんの情けない姿を見れて、少しスッキリしました。あ、これお金です」


 女子生徒が差し出した分厚い封筒を受け取ると、中を覗き込んでその数を確認する女性。

 数を確認し終えると、女性は麗那が血判を押した紙を確認した時と同じ満足そうな表情を浮かべる。


「うん、確かに。それにしても、一括払いとはね。親にお願いでもしたの?」

「いいえ。私がバイトで稼いだお金です。いくつか掛け持ちしているので貯金は結構あるんです」

「そっか。それにしても、思い切りがいいね。この金額だと、貯金もかなり減ったんじゃないの?」

「まぁ、そうですね。でも、後悔はしてません。こういう時に使わないと、無意味ですから。それじゃあ、私も行きますね」


 女子生徒は女性に背を向けて扉の方に向かって歩いていく。

 女性はその背に声をかけた。


「一つ、聞いてもいいかな?」

「はい、何でしょう?」


 女子生徒が振り返る。


「君は、どうしてそんなにお金を貯めるの?君の家は生活が苦しくなるほど貧しいってわけじゃないんでしょ?」


 女子生徒は少し考え込むような仕草をした後、その顔に暗い笑みを浮かべて口を開いた。


「この社会って、お金さえあれば大概のことはできてしまいますよね。だから、お金をたくさん持っている、という事実はイコールで幸福につながるんです。そして、それは私にとっての当たり前であり、信念です。お金があればあるほど私は幸せな気分になれる。だから、家が貧しいわけでもないのにバイトを掛け持ちして、お金を貯めるんです」


 それは高校生が抱くものとして、あまりにも黒く、暗く、醜い。


「あとは、外見やクラスの立ち位置、生来の性格なんかで私よりも上に立つ安城さんのような人を見下すため、っていうのもあります。それじゃあ、失礼します」


 外見から受ける気弱な印象からは全く想像できない、腹黒く、ドロドロとした内面を晒し、女子生徒――鈴原桐子は去っていった。

 今度こそ、女性以外誰もいなくなった旧体育館。

 蝋燭の火によって生まれた女性の影が不自然に揺らめく。その直後、女性の影が膨れ上がり、人の姿を形どる。

 それは、先ほど姿を消したはずの麗那に取り憑いていた人影だ。


「やあ。ご苦労様。おかげで今回も随分と稼ぐことができたよ」

「そうか」


 女性の言葉に、しゃがれた声で返事が返される。その声の主は女性の後ろに立つ人影だ。

 女性と人影はそれが当たり前であるかのように器具庫に向かいながら言葉を交わす。


「次はどうする?」

「決めてないよ。とりあえずは移動だね。あの麗那って子が変な風に噂を広めそうな気がするからね。別の場所で一からやった方が稼げるだろうよ」

「そうか」

「そうだよ」


 テキパキと器具庫の中の荷物を片付け始める女性と部屋の隅に静かに佇む人影の間に沈黙が生まれる。

 しばらくして、人影によってその沈黙は破られた。


「あの安城麗那とかいう娘。これから先、しばらくは不幸な日々を送るだろうな」

「へぇ。何で?」

「あの娘に取り憑いていた間、色々とその様子を見ていたが、奴はグループの中心人物というようには見えなかった。あの娘のいたグループは全員が平等な立場にあった。そして、友情は存在していなかった。ただの打算による集まりだった」

「そうなんだ」

「今回の件で、あの娘は他の人間から金銭を奪うことはしなくなるだろう。そして、それによってグループの人間から省かれ、生来の性格ゆえに他の人間とも馴染めずに孤独を味わうだろう。それに、貴様があの時娘に血判を押させたのは契約書だろう?」


 人影の言葉に、女性はニンマリとした笑みを浮かべる。


「正解。君を祓う代わりにきっちり五十万円を貰う契約。血判を押した以上反故にはできず、請求しているのは表向きしっかりとした企業。逃げようがない」

「やはりか。その高額な請求、貴様のことだから誰がその金額を請求されているのか明らかにせずに請求書を送るだろう。あの娘の家に住む人間が請求されている、ということだけ明らかにして。あ互いに疑心暗鬼になって、最悪の場合家庭が壊れるだろう。実に不幸な娘だ」


 何の感情も感じさせない声で人影がそう言い、小さく息を吐く。

 その様子を視界の端に収めつつ、女性は口を開く。


「それをいうなら、鈴原桐子だって同じく不幸だよ。あれ以上お金を取られたくなくて、大金を払ってまで依頼したのに大人しくなったのは一人だけ。他の人間はそのままだから、無意味に大金を使っただけなんだから。最初の私の言葉を信じて、他の二人も同じような目にあっている、と信じ込んでいたね。かわいそうに」

「それをやった本人が言うことではないな」

「本当にね。よし、片付け終わり」


 私物を片付け終え、ラフな服装に着替え終わった女性がキャリーケースを引きながら器具庫の外に出る。

 ガラガラと体育館中に音を響かせながら野外に出ると、あたりはすでに暗くなっており、女性にとってはとても都合の良い状態となっていた。


「さ、行こうか」


 キャリーケースを引き高校の敷地外に向かう女性の背中を見つめる人影は呟く。


「金銭のためだけに各地を転々とし、他人を騙し、不幸にする。貴様は生粋の詐欺師――いや、金の亡者だな」


 女性は振り返らない。

 だが、その顔に笑みを浮かべ楽しげに言葉を返す。


「いいね。金の亡者。私にピッタリだ。でも、安城麗那も鈴原桐子も、この世の中の人間はみんな、結局は金の亡者だよ」


 ガラガラと、キャリーケースを引く音は暗闇の中に薄れて消えていった。

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