透明人間

桜木晴

透明人間

 ジリリリリッ

 目覚まし時計の音で目が覚める。時刻は……午前7時30分。うん。寝坊だ。

「うわあっ! やばっ」

 真央まおは勢いよく飛び起き、急いで着替える。階段を駆け降りると、ダイニングテーブルの上にちょこんと置いてあるお弁当箱を掴み、玄関のドアを開ける。お母さんはもう出勤したようだ。

 自転車にまたがり、力の限りにペダルを踏み込む。運が良いことに、赤信号には一度も引っ掛からなかった。


 チャイムと同時に教室に滑り込む。担任はまだ来ていないようで、ザワザワと騒がしい。

「ふう〜危なかった。セーフセーフ。あ、おはよー!」

 近くでおしゃべりをしている友人たちに向けて手を振るも、誰もこちらを見ない。

 ……あれ、気付いていない?

「お、は、よ! ねえ、何の話ー?」

 近づいて肩に手を置くも、誰一人話すのを止めない。

 ……これは、無視されているのだろうか?

 その時、先生が教室に入ってきたため、私は渋々席に着いた。そしてふと手元を見て、目を見開く。体が透けているのだ。

「えっ⁉︎ うそっ!」

 ガタンと椅子を倒して立ち上がる。しかし、誰も振り返らず、先生も話し続けたままだ。

 ……誰にも、見えていない?

 私は普段、比較的目立つ人間であり、人の輪の中心にいる人間だと自負している。それなのに誰もこちらを見ないのは、つまり私が誰からも見えていないという事だろう。

 その後いろいろ試してみたところ、いくつか分かったことがある。

 まず、私はモノにもヒトにも触れるが、私がしたことを、他の人は気にも留めないこと。私が何かをしたり大声を出したりしても、誰も何も言わないのだ。

 次に、私の姿は他の人には見えていないということ。あまりに反応がなかったので、友達の目を隠してみたところ、友達はあたかも私の手などそこに無いように、周囲を見ていたのだ。

 そして最後に、私がいないことに、誰も何も違和感を感じていないこと。私の席も名簿の名前もちゃんとあるのに、誰も何も思わないようだ。欠席になっているわけでもないようだし……。

 つまるところ、私は周囲の人間に干渉できない透明人間になってしまったということだ。人と話すのが好きな私にとっては、かなりダメージが大きい。いつまでこの状態が続くのだろうか。

 聞こえていないと分かってからも大声で話しかけ続けていたが、途中で諦めた。どうせ私の声は聞こえないんだ。本当はその日部活があったが、行ってもしょうがないと思い帰路につく。トボトボと自転車を押して歩いた。私が渡ろうとした信号は、全て赤に変わった。

 

 そうして家に着いて、ドアを開けようとした時、自分が鍵を持っていない事に気づいた。もうやだ。なんでこういう日に限ってツイてないんだろう。

 沈みゆく太陽を尻目に、玄関先に座り込み、膝をかかえる。このままずっと透明人間だったらどうしよう。

 その時、「ねえ、真央ちゃん。……あ、ごめん。馴れ馴れしすぎ?」という声が聞こえてきた。だれ……ん? ちょっと待って。私が見えてる?

 勢いよく顔を上げると、私の隣に、私と同じように透けている女の子が座っている。

「あ、えっと……久しぶり?」

 その子は、テンパりながらも不器用に笑った。暗闇に慣れてきた目を凝らすと、それが知り合いだということに気づいた。

「……香澄かすみちゃん?」

 香澄というのは、一ヶ月ほど前に転校してしまった元クラスメイトの名前だ。

「名前、覚えてくれたんだ」

 寂しそうに笑うと、「ごめんね」と呟いた。

「真央ちゃんが透明人間になったのは、私が願ったからなの」

「え、どういうこと?」

「私、幽霊なんだ」

 香澄は、自分の手をすり抜ける日光を眺めながら話し始めた。

 

 香澄は、人と話すのが苦手だった。友達もあまりいなかったし、目立つことも無かった。そして、自分で存在感が薄いことを気にしていた。だから、直接話したことはほぼないが、クラスの中心人物でいつも誰かと一緒にいる真央のことを尊敬していた。誰にでも話しかけるし、困っている人がいたら迷わず手を差し出す。香澄は真央のその姿を遠目から見て、密かに憧れていた。

 それはある日の昼休み。香澄が菓子パン片手に購買から戻ってくると、いつも通り教室は騒がしく、特に真央とその周りの子たちの声は廊下までよく聞こえた。教室のドアを開けようとした時、自分の名前が呼ばれた。驚いて耳を澄ますと、どうやら噂話をしているようだった。「そういえばあの子、名前なんだっけ」「確か……香澄ちゃん? だっけ」「真央、話したことある?」といくつかの声が言う。それに応えたもう一つの声。

「ない! ってかあの子の声聞いたことないかも。存在感無いよね〜透明人間みたい。いてもいなくても変わらない感じっていうか」

 笑い声とともに、「ちょっと真央言いすぎ〜」という、思ってもいないような声が聞こえる。手から、チョコクロワッサンの袋が落ちる。教室には、入れなかった。

 そのモヤモヤが消えないまま、親の都合で引っ越す事になり、学校も転校した。新しい学校では透明人間にならないよう、登校前日に笑顔の練習と人前で話す練習もした。変わりたいと思った。

 登校初日、初めての自転車通学にドキドキしながらも、事前に確認しておいた道を走る。この細道を抜けたら大通りに出て……。信号が青になり、ペダルを踏み込む。

 ププーーッ

 え?

 大きな音がして、目の前の景色が180度回転する。ものすごい衝撃と共に、目の前が真っ暗になった。遠くで誰かが叫んでいたが、何を言っているのか理解できない。力が抜けた。少し寒い。もうすぐ死ぬと、なぜか確信していた。

 

「そんな感じで、私は死んだの。いや、正確には死にかけてる、かな」

 香澄は、山に隠れた夕日を見ながら言った。

「私の体は、今、病院のベッドの上。まだ死んでない」

「じゃあ、まだ助かるかもしれないってこと⁉︎」

「ううん。もう助からない。お迎えが来たから」

 私は目を見開く。どういうことだろう。

「救急車で運ばれている途中、真っ暗で何も見えないはずなのに、隣に誰かが立っているのが見えたの。その人は、死神だと名乗った。お迎えに来てくれたんだって。でも、死神って優しいのね。私がまだ若いのに死ぬのは可哀想だからって、死ぬ前に一つだけ願いを聞いてくれたの。その願いが、1日だけあなたを透明人間にして、透明人間のあなたと話すことなの」

「なんで私なの? 願いが叶うなら、家族と話したいとか、そういう方がいいんじゃないの?」

「だって、ずっとモヤモヤしてたんだもの。それに、両親とはあまり折り合いがよくないから。……あの人たちきっと、私のことに興味がないのよ」

 香澄は、寂しそうに地面を睨んだ。それから私に向き直ると、私の目を見据えた。

「それでね、真央ちゃん。確かに私は友達もいないし、存在感も無い。透明人間かもしれない。でも、私だって好きで透明人間なわけじゃないの。尊敬するあなたにだけは、いてもいなくても同じだなんて言われたくなかった! 今となっては本当に透明になってしまったし、こんなこと言っても意味がないことも分かってる。でも、どうか、あの言葉を訂正してくれないかな。そして、これからは言葉を発する前に、人を傷つけてしまわないか考えるって約束して。……このままじゃ死んでも死にきれないの」

 香澄は涙目になっていた。そうか。私の何気ない一言が、彼女をこんなにも傷つけていたんだ。

「……今なら透明人間の気持ち、少し分かる。私の言葉が香澄ちゃんを傷つけてごめんなさい。誰かが傷つく言葉は言わないようにするって約束する。それと、訂正するね。こうやって話していて、もう私にとって香澄ちゃんは、いてもいなくても同じな存在じゃない。ちゃんとそこにいるって、認識してるよ」

 私も、香澄の目をまっすぐに見る。今更こんなこと言っても、心の傷は消えないかもしれない。でも……。

「ありがと……私、真央ちゃんに認めて欲しかったのかもしれない。なんかすごくスッキリした」

 香澄は、ポロポロと涙を溢しながらえくぼを作って笑った。それを見て、ふと思いつく。

「ねえ、さっき、友達がいないって言ってたけど」

 ばつが悪そうな顔をした香澄に、手を差し出す。

「じゃあ、私と友達にならない? ……あ、嫌なら別にいいんだけど、いや、自分を傷つけた人と友達になんてなりたく……」

「いいの⁉︎」

 引っ込めようとした手をギュッと掴まれる。驚いて香澄を見ると、香澄は目をキラキラと輝かせていた。私は頷く。

「なんか嬉しい。私、友達って呼べる人ができたの初めてなの。今まで、誰かと話すことから逃げ続けてたから」

 香澄が笑った時、私は彼女がより薄くなっていることに気づいた。逆に私は濃くなっている。

「そろそろお別れの時間かな。大丈夫。真央ちゃんは、私が消えると同時に透明人間じゃなくなるよ。ごめんね、こんなことして」

「ううん、香澄ちゃんと話せてよかった」

「なんか寂しいな。せっかく友達ができたのに、もうお別れなんて」

「……私、お線香上げに行くよ」

 香澄は夕日を背に立つと、手を出した。その手を握ろうとするが、通り抜けてしまって触れない。

「あはは、もう消えちゃうや。あ、そうだ。お供物はチョコクロワッサンがいいな!」

「分かった。絶対に持っていく」

「じゃあ、バイバイ! 真央ちゃん、色々ありがとね」

「私こそ。最後の時間を私にくれて、ありがとう」

 笑顔で手を振る姿は、夕日が完全に沈むと共に見えなくなり、私は一人取り残された。その時、足音が近づいて来て、「あら、おかえり。鍵忘れたの?」という声が聞こえた。振り返ると、スーツ姿の母が立っていた。私が見えているようだ。

「ただいま」

 私は、母に気づかれないように目元を拭ってから笑顔を向ける。

 

 後日、香澄の両親の家を訪ねると、私の持つパン屋の袋の中身を見て、寂しそうに、でも嬉しそうに笑った。きっと香澄が知らなかっただけで、両親は香澄のことを大切に思っているのだ。

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