第9話「譲渡」
「で、そのジョウシってヤツに会いにいくのか?」
お見舞いだ、と返す。言葉の意味が分かってないようなので、怪我や病気などで病院に入院している人のところに訪問し元気付ける行為だ、と思考を送る。それでも顔をしかめている。もっと噛み砕いた言い方は無いものかと思ったが良い例えが浮かばない。仲間が怪我をしたら大丈夫か?と声をかけるだろう、そんな感じだ。と付け加えておいた。
会社での資料まとめに時間を費やし、定刻を少し過ぎたところで今日の作業は中断する事にした。まだまだ不十分なまとめにしかなってないがこれ以上根を詰めてやっていても効率が悪い。早めに切り上げて上司のお見舞いに行こうと決めていたのだ。部長に病院の場所は聞いてあるし、念のため先に病院に電話してアポイントも取っておいた。上司の入院しているという病院は会社の直近の駅から電車で20分程度の近い場所にあるという事だった。僕はそれなりに方向音痴なところがあるので、初めて向かう場所の時は必ず地図をプリントアウトし、スマートフォンでも地図アプリを開いて現在地を確認しながら行く。そうでないと普通に迷子になるのだ。今回もきちんと準備をしてから会社を出た。
備えあれば憂いなし、僕は駅から迷うことなく目的地へ到着できた。とりあえず一安心だ。一度ネクタイを締め直してから受付に向かう。受付で上司の名前を言い、提示されたリストに名前を書き込んで入館用の名札らしきものを貰う。上司の入院している部屋は606号室とのことだ。エレベーターで6階へ上がる。病院特有のツンとした鼻を突く匂い感じながら606号室へと足を進める。個室だった。お見舞いに来る際に何か見舞い品を用意しなければと思い、会社の近くの果物屋でフルーツの盛り合わせ的なものを買ってきたがこれで大丈夫だろうか。
「ようするにグアイが良くないんだろ?カンタンに治るもんじゃねえのかそのビョーキは。」
ちょっと黙っててくれ、これから大事な話をしなきゃならない。と思考を返し、扉を2度ノックをする。中から女性の声で受け答えがあった。おそらく奥様だろう。僕は会社と自分の名を名乗り、ドアが開くのを待った。
「これはこれはお忙しいのにご足労いただきましてすみません。主人からあなたの事は良く聞いていますのよ。」
どうぞ、と続けて言われ、失礼します、と一言置いてから奥様の横を通り抜ける。思ったより広い部屋だった。僕は入院した経験が無いので、病院という場所には慣れていない。どうしたものかと考えているとベッドのそばに奥様が椅子を置いてくれた。
「こちらへどうぞ。ほら、あなた。いつもお話してる彼が来てくれたわよ。」
そう言って軽くベッドの上に横たわる上司に声をかける。少し寝ていたのだろうか、窓のほうを向いていた顔がこちらへゆっくりと振り返る。
「…おお、来てくれたのか…。その、なんだ、すまなかったな。」
とんでもないです、という言葉と共に椅子に座る。持ってきたフルーツを奥様へ手渡すと、お礼と共に、早速リンゴでも剥いてこようかしら、と廊下へと出て行かれた。気を遣っていただいたようだ。僕と上司の雰囲気を察して席を外してくれたのだろう。僕はもう一度上司に視線を戻すと、黙ったまま上司の顔を見つめた。
「なんだその顔は。いつもみたいにシャキっとしろ。」
そんなに思いつめた顔をしていたのだろうか。大分不安な表情をしていたようだ。軽く頭を振って脳と顔をリフレッシュさせる。聞きたいことはたくさんあるのだ。でも無理をさせては体に障るので聞きたいことを絞ってきた。まずどうして僕が上司の代わりに選ばれる事になったのかを聞きたかった。
「簡単だ。俺といつも一緒に行動してたのはお前一人だ。他のヤツに現状の仕事を引き継げという方が無理がある。」
確かに僕はずっと上司と一緒に仕事を回ってきた。だが商談時などは取引先と少し会話をする程度で、ほとんどが上司の力だったように思う。僕の力量なんてものは多分ちっぽけなもので、それが今後の仕事に役に立つとは到底思えない。
「お前は本当にマジメだなあ。」
そう一言言われ、そうでしょうか、と切り返す。マジメなのかどうかは分からないが、曲がったことは嫌いなタイプだと自分では思う。だから仕事の時も当たり前の事をしてきただけだ。例えば取引先に失礼の無いように振舞う。提出書類の期限を必ず守る。仕事になるようなネタを拾ってこい考えて来いと言われれば、最低2つくらいはアイデアをひねり出す。それくらいの事はしたが、僕はそれを当たり前の事だと思っている。
「その当たり前をできるヤツが少ないんだよ、今のウチにはな。お前はもの凄い努力家ではないかもしれないが、ストイックなところがある。何かに向かって走り出すと止まらない事、あるだろう?」
言われるまで気づかなかった。確かに僕のクセと言ってもいい部分だ。作業に集中して周りが見えなくなって気が付いたら定刻を2時間3時間と過ぎていることは身に覚えがある。
「ま、俺からアドバイスできるのはそんなところだ。周りをしっかり見ろ。あと俺と一緒にやったことはお前自身が覚えてるはずだ。」
そんな、と一言だけ口から出た。正直不安でしかない。僕は金魚のフンのようにくっ付いて回っていただけに過ぎない。やらなければならないのは分かっているが自信と言うものがどこにも無かった。本当に僕に務まるのでしょうか、と聞く。
「大丈夫だろ。俺の部下だぞ。それからお前がもがいて苦しんで壁を乗り越えてきた事は俺が一番知っている。お前も俺と同じ壁を乗り越えてきたんだ。できない理屈がどこにある。」
上司の方が元気じゃないはずなのに僕が元気付けられている気がする。立場が逆じゃないか。僕は今日、上司にアドバイスを乞うためだけにやってきたのではない。お見舞いだ。その言葉通り、僕が頑張りますのでゆっくり治して元気になってくださいと伝えに来たんじゃなかったのか。そういった気持ちは確かに大きかった。だがこれから先の不安や恐怖の方が僕の心の中では上回っている。聞きたいことはまとめてきたハズなのに何がなんだか分からなくなっていた。
「気持ちは分かる。俺もお前くらいの時はどうしようもない自分に嫌悪感を覚えたもんだ。だが壁ってのはいつだってある。ぶっ壊すなり乗り越えるなり回り込むなりして前に進まなきゃ成長できん。…俺はお前に期待してるんだ。だから部長が見舞いに来た際に俺のポジションをそのまま渡してくれと頼んだんだ。」
自然に背筋がぴんと伸びた。まさか上司から直に部長へそんな事を伝えていたとは。嬉しい気持ちと複雑な気持ちと不安と恐怖が入り混じったなんとも言いようの無い気分だ。だがここまでしてもらった以上、僕は上司に恩を返さないといけない。これを仇で返すようなら社会人として失格だ。
「あれだろ?シゴトってのを上手くやれって言われてるんだろ?」
もの凄く掻い摘んた思考が飛んできた。こいつにシゴトってものを理解しろって言うのも難しい話なのだが、要するにそう言うことだ。上司も部長も僕を信じてこその今回の人事だと言うことか。そうだよ、だからこうして上司に話を聞きに来てるんじゃないか。と切り返す。
「ハハッ。シンパイしすぎなんだよ。お前ならできんだろ。」
その答えの根拠はどこから来るんだ。こいつは僕の何を知っているというのだ、まだ出会って付き合い始めてから数日しか経ってないというのに。しかも今日までの間にどれだけの事があったと思ってるんだ。常識では考えられない体験と現象を目の当たりにして僕は疲弊しているんだ。
「だから、だろう。お前、今日までの自分に成長が全く無かったとでも思ってるのか?」
唐突に的を得た意見をぶつけられた。正直こいつからこんな答えが返ってくるなんて思ってもいなかった。確かにそうだ。僕は数日間とは言え、こいつと付き合いだしてから非常識な日常を過ごしてきた。それこそ好きなテレビ番組でやっていた内容で、こんなのあるわけないだろ、でもあったら面白いんだろうな、と思っていた事が本当に起きた。そしてそれに呼応するかのように考えられない出来事がまさに今日起きた。
「今このオッサンが言ったじゃねえか。シレン?カベだっけか?それを超えれば何か見えるんだろ?」
その思考を聞き、少し下を向いていた顔を上げる。今度は自分の中に何か決心がついたように感じられた。僕の顔を見た上司がふっと笑いながら言った。
「…大丈夫そうだな。その表情になれたって事は心配ないな。」
何がどう大丈夫なのかそこそこに不安ではあったが、上司と僕の横でふわふわしている生命体のお陰で踏ん切りがついた。明日から頑張れそうだ。最後に上司にお礼と、くれぐれも体を大事に、早く治してまた定食食いに行きましょうと伝える。
「…そうだな。今度はお前が奢ってくれよ。」
上司と行く昼食の時は大体ご馳走になっていた。今度は僕が奢らせてもらう順番になるのだ。いや、ならなければいけない。力強く、もちろんです、と答えて立ち上がった。迷っている時間があればやれる事をやる。そこから僕自身を成長させていくのが上司に対する答えに他ならない。背筋を今一度伸ばし、深くお辞儀をする。ありがとうございました、と最大限の敬意を払って言葉を発したあと、僕は病室を後にした。
「なんだ、やけにカッコウがついてたように見えたぜ?」
病院からの帰り道で突っ込みが入る。こいつと会話をして少しでも嬉しいと感じたのは初めてかもしれない。僕は、当然だろ、と答えて明日からどういう風に仕事を進めていこうかを考えながら帰路に着いた。
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