秋風に包まれて

神無樹 芥

秋風に包まれて

紅葉が彩る山中、僕は三発の弾丸が装填されている猟銃を携えていた。

眼前には熊のようは男がぼんやりと空虚を眺め立っていた。手にはナイフが握られている。

 木々の隙間から溢れ出している光は、まるで僕たちが物語の主役であるかのように錯覚させる。そんな身分になれるほど自惚れてはいない。

「死なないでください。僕はまだあなたを好いています。僕を嫌いになったのですか」

 こんな質問をしたって、すみれの花に価値を見出すことと同じことくらいわかっている。

「オレもまだ君を愛している。ただ君との生活はオレにとってひどく窮屈であることに気づいてしまっただけなのだ」

 そう言った彼のナイフは震えていた。僕には分からない。震えている理由が。

 だがわかったこともある。彼の心にはは白鳥の羽が生えていて、僕の濁った眼はそれを見つめていられるほど強くはできてないことに。

「愛しているんですよね。窮屈ってなんですか……僕はあなたに自由を許したはずだ! あなたが求めること、あなたの生活、あなたの自由のために、僕は地獄に行く覚悟でやってきたんだ。僕はあなたの笑顔のために夢を売った。金のために体を売った。時間さえも売った。なのに、何故僕を捨ててまで自由を望むんですか......」

 風が紅葉を零しながら吹く。喉の奥に隠していた僕の叫びは顔を覗かせたと思ったら、すぐに木々の隙間に溶けてしまった。

 「僕はどうすればいいんですか……」

 目頭が温まっていく。瞳に溜まる雨は彼の姿を万華鏡越しに覗いてるように感じさせる。僕の思いなんて蛙の食事みたいに汚いに決まってるのだから無理やり飲み込んで胃に溶かしてしまった。

「金が無くても、笑顔が無くてもオレは幸せだった。君との日々が僕の心を溶かしてくれた。だが君の思いは少しづつ澱んでいった。オレは過ごしていくうちにわかったのだ。君はオレが君の傍で笑顔に溢れて生きていなければ自分を許せないのだと。君の自由はオレを縛り付けるのだ。だからオレは今死ぬ。オレが君の前で死ねば、君はオレの自由に縛られてくれる。そうすればこの自由は等価交換になる。そうだろう」

 木々を押しのける寒風が吹き荒れる。溢れ出そうな言葉に名前なんて贅沢なものは付けられなかった。ただ男の言葉を受け入れたくないんだ。許してほしい。

「そんなの暴論だ。僕に縛り付けられていた......僕はあなたに自由を捧げてきたつもりだ。あなたの自由、笑顔のために……なのにあなたは僕に何もしてくれなかった。僕は少しも幸せではなかった」

 幸せ。簡単に吐き出してしまった。この言葉の意味なんて考えたことすらないくせに。まるで轟々と燃え盛る灯火から溢れ落ちる火花のようだ。

 「じゃあなぜ今、君は微笑んでいるんだい」

 彼の言葉を疑いつつも頬に触れてみると確かに緩んでいた。なぜだかはわからないが少しだけ心地が良い。

 「これは特に何か意味があるわけではないんです。ほんとです。すぐにやめます」

 無意識を押し殺し口角を正しい位置に戻す。

 「君らしいな」

 僕のことを決めつけるその発言にいつもよりいい気分がしない。

 「逆にあなたはらしくないです。なぜ僕を傷つけてくるんですか。こんな気持ちのいい天気なのに全く気分が晴れない。もうこんなお遊びいいじゃないですか。許しますから、家に帰りましょう」

 感情が汚した顔を拭う。ドロドロとした何かと一緒にこの悪夢も拭い去ってほしかった。

 「まだわかってないんだな。僕は本気なんだ。僕は幸せになると決めたんだ」

 いつも自己中だ。ナイフが反射させた光が照らし出した華芍薬。異様に視界にちらつく。

 「僕にも手伝わせてください」

 僕の愛した彼はもう居ないのだと気づいたから。昨日の夕飯が朝には朧気になっているように、彼との生活が霧に隠れてしまった。でもまだそれを握らせてほしい。

「君のそばにいた。だがそれは君の心を満たすには足らないのだな。申し訳ない。しかし、オレが君に望んだことは、ただ君がそばにいてくれることだけだ。それ以上を望んだことは無い。なのに君はオレを求めてくる。君の好きという言葉が重い。君の心は僕には飲み干せない」

 心に穴が空いた。僕が差し出してきた無償の愛は彼の栄養になりえないものだったのだと気づいた。ああ、辛い。嫌になるほどに空は晴れ渡っていた。気づいた時には携えた猟銃を僕は震わせていた。愛を噛み締めるようにゆっくりと男に照準を定める。

「あなたはいつもそうだ。いつもあなたの言葉に僕の心は殺される。あなたにとって自由とはなんなんですか......どうすれば愛してくれるんですか」

 ポッカリと空いた心の穴を満たし始めていたのは殺伐とした焦燥感。彼に伝わるわけがなかった。だから投げかけた質問にも意味は無く、呆れるほど空虚なものにした。

「自由とは自分が誰かの自由に囚われていることに気づけることだ。日々に潜む甘美な幸せに唾を吐き、バケツ一杯の現実を笑顔で飲み干すことだ。それができないなら——」

 乾いた音が山に鳴り響く。鈍痛が心臓にまで響いた。気づいた時には山が息を殺していた。止めていた呼吸を再開し、反動によってズレた視線を正面に戻すと、男の肩には穴が空いていた。指から滴り落ちる鮮血が色を失った枯葉を生き返らせた。僕の手にある猟銃は白煙を吐き出す。肉の焦げた匂いが肺を満たす。

「僕の気持ちすら飲み干せないあなたが何を言ってるんですか! ただ一言でいいんです。もう一度だけ好きだと言わせてください......あなたの心を少しだけでいいから僕で満たさせてください......」

 喉から引き摺り出した僕の心は彼に届く前に死んでしまいそうだ。でも案外届いたのかもしれない。彼が先ほどよりも僕の目を見てくれている。胸が高鳴る。

 お天道様は空気が読めないのだろうか、うんざりするほど塗りたくった青を滲ませて泣き出した。涙は僕たちの体に降り注ぎ、頭を冷やしていく。青が曇ることはなく日差しは僕たちを逃さなかった。誰かが僕の望みを叶えているらしい。

 憎たらしい。冷えた頭が熱を帯び始める。そいつの薬指を引き裂いて剥製にしてやりたい。心臓は刺身にして愛を知らない獣にでも食べさせてしまおう。もう全てが嫌になる。全てがうるさい。心臓の叫びも雨水が草を弾く音も何もかもが僕の一切を否定してくる。

「オレには無理だ。底のない柄杓では君の心はすくえない。それにオレの心はもう愛に飢えてなど無いのだ」

 彼の言った言葉の意味がわからなかった。脳が爆発したみたいだ。

 乾いた心を満たせるのは僕だけ、僕の愛だけが彼を満足させられる。その事実を覆そうとしてくる言葉に傾けられる耳なんて僕はついていなかった。

「愛以外の何があなたの飢えを満たしたのですか......」

 耐えられない。この世の全てに僕が死ぬことを望まれているようだ。

 投げかけた問いにはなんの感情も込めなかった。

「死が満たしてくれたんだ」

 なんとか重力に逆らっていた僕の希望がどこかに落ちた気がした。枯葉にどんぐりが落ちたみたいな音が聞こえた気がする。

 「さっきから哲学者にでもなるんですか。そんなものは欺瞞でしかない。いつまでモラトリアムの中に浸かっているんですか。もう子供はやめましょうよ」

 浮き上がってきた怒りをそのままぶつけてやった。なのに彼の目は少しも泳ぐことはなかった。彼の体温が下がっている気がした。

 「まあ聞きなさい。オレの心は、生まれた時からこの星が産み堕としたちっちゃな愛に救いを求めていた。そんなものに価値などないのに。君にはわからないだろうが、人を愛し、愛されるためには対価を払わなければいけない。そうしなければ僕たちは、互いを人間だと認められないのだ。ヒトが人間である部分は面の皮だけ。剥いだ後の中身は醜い獣だ。だからオレは君の中で人間になるためにどうにか価値のあるものを見つけ君に対価を払った。なんだと思う」

 気取った言葉は私の琴線に触れ、心臓を破裂させた。空気がやけに冷たい。

 「そんなの愛に決まってるじゃないですか。対価がお互いを思い合うことだからこそ尊いんですよ」

 彼こそがすみれの花だったのかもしれない。だとしたら僕の鼻は豚の鼻ということになってしまう。はらわたが煮えくり返りそうだ。

 「僕は自由を払っている。この瞬間もオレは心を削ってどうにか人間であろうとしている。普通のヒトならば堪え切れるのだろう。だがオレには耐え切れない。腐臭漂う人工的な笑顔を肉に貼り付けることが。今日のオレは人間か、そう己に問うことが。

今も息をすることが苦しいんだ」

 彼の声はどこか乾いていた。なぜ愛では潤せないのだろう。

 「ここで一つ童話でも話そう。あるところにヒトにも人間にもなりうる資格のない己のことを酷く憎む者がいた。ヒトは毎晩生き物が起き上がるその時までこう願う。私はもう罪を継ぐなったはずです。だからそろそろこの化け物にも月並みで良いので人間の幸せをお与えください。ある夜いつもと同じように願うと星の隙間から一羽の鴉が落ちてきたのだ。その姿は夜よりも暗く全ての光を奪っていくようだった。なのにヒトは恐れることもなくその羽に触れてみせた。その時ヒトは生まれて初めて死を知った。死の周りには虫が集ること、一粒の輝きもないこと、背負った枷から解放され真の自由に出会えること、その何もかもがヒトの穴を満たした。その夜初めてヒトは眠ることができたとさ。この話を聞いて君はどう思った」

 「死を美徳とするその浅ましさが気持ちが悪いです。なんでこんな話をしたんですか」

 彼の話は嫌なのにやけに頭の片隅に残っている。皮脂の香りがした気がした。

 「オレはこの話が美しすぎてたまらなかった。だけどもその美しさが怖くもあった。オレが掴んではいけない気がしたから。だが今この瞬間に、その思いは軽く吹き飛んだよ」

 その先を知りたくない。光を取り戻し始めた彼の眼差しに後退りしそうになるが無理矢理押し留めた。

 「やはり聞いがいなきゃオレの自由はないんだな。オレが死ねば君には何も残らなくなる。そうすれば君にとっての僕は腐っていき、君の鼻には僕の朽ちていく香りが残り、君の目にはおよそヒトの色や形をしていない化け物のオレが有り続ける。その時の君の顔を思い浮かべると心の底から笑えてくる。どうだ、君の求める笑顔だぞ。幸せだろう」

 救いはなかった。何が幸せだ。彼の心は何処にでも売っている発泡酒のような幻想で満たされてしまっている。僕が救い出さなくては。気づいた時には雨は止んでいた。

 「……もう僕が悪かったですから。もう家に帰りましょう。今日の晩御飯はあなたの大好きなオムライスにしますから」

 「なぜ君と食べなければいけないんだ。自惚れるなよ。君が話しているのはバケモノなのだから。」

 うるさい

 「僕久しぶりにお風呂に一緒に入りたいです。そのあとは二人で星でも見ませんか。僕言ってなかったんですけど星座が好きなんです。水瓶座とかオリオン座とか綺麗じゃないですか。ワインでも飲みながら、浪漫じゃないですか。月が綺麗だねって笑い合いましょうよ」

 「浪漫なんかに惹かれるほどオレは大人ではない。君には分からないだろうが、そういう無垢な悪意がオレを苦しめるんだ」

 知らない

 「じゃあ今日は同じ布団で寝ませんか。僕最近体鍛えてるんですよ。男の人って筋肉質な方が好きだって言うじゃないですか。久しぶりにどうですか」

 「……気持ちが悪い。お前は何処まで行っても人間なんだな」

 黙れ

 今思えばなぜ彼を好きになったのだろうか。

 分からないな。酔っ払っているのかもしれないな。

 ああ、頭が痛い。視線の先の顔が醜悪すぎる。今日は彼に満たしてもらう予定なんだ。余計なモノを僕に見せないでくれ。

 ああ、気持ちが悪い。水溜まりが映し出している彼の姿は瞳に映らない。何処にいるのだろうか。早く彼の腕に抱かれたいのに。

 「僕はどうすれば幸せになれるんでしょうか」

 「オレが死んだ時さ。もう直ぐ叶うさ」

 違う

 彼は僕なんだ。だから生きているんだ。

 彼は自由なんだ

 「もう返してください。彼は苦しんでいるんです。僕が自由にしてあげなきゃいけないんです。僕が幸せにしてあげなきゃいけないんです」

 傾き始めた陽が僕を刺す。バケモノの握るナイフが燦々と煌めく。

 彼はどこにいるんだろう。灰を口に満たしたような顔をしやがって。

 「オレはオレ自身の手で自由になるんだ。君の助けはいらない。今に思うと君とオレは同じだ。だからオレは君が好きなのだろうな」

 バケモノの恍惚とした目が僕のそばを見つめている。はらわたが煮え繰り返るっていうのはこういう時に使うのだろう。内臓を全部掻き出して投げつけてやりたい。その目を閉ざしてあげたい。

 憎いなぁ。恨めしいなぁ。なんでこいつは幸せそうなんだろう。僕と彼はこんなに苦しんでいるのに。何かが込み上げてくる。こんなバケモノは生きていちゃいけない。そう思った時には、抱えていた猟銃はバケモノに狙いを定めていた。

 「幸せになりましょう」

 

 体を蝕む息苦しさに目が覚めた。僕を引き止めようと体にまとわりつく布団から早々に逃げ出し、窓を開けて空を見てみると、日差しが顔を隠し始めていた。吸い込んだ空気に肺が凍りつく。急いで服を着替え、護身用の猟銃と共に僕は外に出た。耳をつんざくような無音を掻き分けながら進む。暗闇の先にいる存在に頬が緩む。

 「今日は月が見えそうですね」

 あの日から彼は変わった。僕好みの男になってくれた。前より寡黙になったが彼は僕のそばにいてくれるようになった。少し太ったし、匂いもきつくなったけど、だけどいつでも微笑みをたやさなくなった。彼の愛せる部分が増えたことが嬉しい。彼の体臭を嗅げることが嬉しい。全部が大好きだ。彼の目は多幸感が溢れそうなんだろう硬く閉じていた。

 ああ、幸せだなぁ。こんな毎日を過ごしていたい。

 なのに何処か満たされてない。辛い。あのバケモノのだ。毎晩のように夢に出てきて何かを囁いてくる。今も何処かで僕のことを泥水を垂らしたような眼差しで見ている気がする。

 あの日以来酒をが手放せない。外に出るのだって彼に会う時くらいだ。僕はどんなお店にも売っていない幸せすらも手に入れたんだ。僕は唯一幸せなんだ。

 ……そうだ。

 あのバケモノのせいだ。

 あいつが僕の瞳を汚したから彼の姿が歪んで見えるんだ。

 あいつが僕の声を殺したから彼に何も伝わらないんだ。

 あいつが僕の耳を奪ったから彼の声が聞こえないんだ。

 あいつが僕の心を割ったから彼が注いでくれた愛が溢れてしまったんだ。

 違う。

 腐臭を纏った風が灰を満たした。今気づいた。僕はあのバケモノが忘れられないんだ。目の前に佇む腐乱死体に僕は現実を見る。そばに咲く待雪草が揺れる。体が冷えてきた。

 海に揺蕩う小舟のような月が昼の終幕を知らせる。その光は何も照らしはしなかった。

 なのに美しかった。逆にいえばそれしか持ち合わせていないらしい。僕は君と仲間だ。

 だが僕と君ならどちらが綺麗なのだろうか。答え合わせをしてくれる人はもういない。

 鴉が鳴いていた。

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