二つの境界線

ちま乃ちま

春とはるかとルカ

「お父さん! できた? できた?」

「一応な……」


 女の子と博士は発明品を眺めていた。


「でもこれはまだ完成ではないんだよ」

「そうなの? とってもすごいのに?」

「ああ。あとはこれがちゃんと機能するかを試さないといけないんだ」

「じゃあ春が試す!」


 女の子は発明品のうちの1つを口に入れた。


「春! 早くそれを出しなさい!」

「でもすっごくおいしいよ?」

「だめだ。春の体に何をするかわからないから早く出しなさい!」


 ゴクッという音が静かな部屋に響いた。


「飲み込んだのか!? ほら水をたくさん飲むんだ!」

「大丈夫だよー。ルカもイチローも飲んでたけど何もなかったじゃん」

「猫は猫、人は人だ! ほらさっさと水を飲んでトイレに行くぞ!」


 えーっ。と言いながら女の子は博士の指示に従って水を大量に飲み、博士と一緒にトイレに向かった。


 ◇◇◇


 時計は夜の8時を指していた。


「「いただきます」」


 私は茶色のカリカリしてフニャフニャしたものとその上にかかっているカレーのルーを一緒にすくった。スプーンを鼻に近づけるとなんとも言えない香りや臭いが漂ってくる。


「どう、はるか。今日はいつもと違うカリカリを使ってみたんだけど」

「おいしいよ。でも私はいつも食べてるほうが好きかな」

「そうか。しばらくはこれだけど、大丈夫?」

「うん」


 目の前の父はおいしいおいしい、と尻尾を左右に振りながら食べている。だが私はどうしてもこの匂いや食感を体が受け付けなかった。


「ごちそうさま」

「もう食べ終わったの? まだ残ってるけど」

「先戻るね」


 私はこの臭いが体に入るのに嫌悪を感じ、父が食べ終わるのを待たずに自分の部屋に戻った。


 部屋に戻ると真正面にある全身鏡に映る何かが目に入った。そこに写っているのは耳や尻尾の生えた人間――私だった。毎度、自分の体なのに自分の体ではないような不思議な感覚に襲われるのが不思議でたまらなかった。


 鏡に映る自分を目の端に移し、椅子に座り机の上にノートとペンを置いて右目を閉じた。


 するとすぐに目に映る景色が自分の部屋ではなくなっていった。すぐに両目に映るのが自分の部屋ではない、難しそうな教科書がたくさん並んでいる『春』の部屋へと変化した。何度も見ているのに読みたいとは一切思えない。


 この景色も慣れたものだな。


 3ヶ月くらい前に右目だけを閉じたらこの景色になって、そこから春との交流が始まった。でも交代するのは意識だけのようで、体の持ち主の顔や声などは鏡や発声で見たことや聞いたことがあっても直接話したことはない。しかし一度春の全身を見たときは腰を抜かしたなあ。身長や髪型が同じだっただけでなく、体型や顔つきまで同じだったから。

 ちなみに左目を閉じたときもそうだ。その時に交代したのは人ではなく、体一面にフサフサの毛が生えているものだった。毛の色が私の髪色と同じグレーだったのは多分偶然だろう。そして声を出してもニャーしか出てこない。

 住んでいるところはふたりとも一緒のようで、春に聞いてみたら名前を『ルカ』と言うらしい。


 私は春のときは右目を、ルカのときは左目を閉じることで交代できるということを覚えた。ちなみに片目を閉じて交代することができるのは私の体だけのようで、春やルカの体ではたとえ私がやっても交代できなかった。


 そんなことを思い出しながらしばらくすると、教科書たちが急にノートへと早変わりした。書き終わったのだろう。私は返信をするためにノートに書かれた文章を見た。


『今日ね、蒼井くんに告白したの! そしたらOKだって! もう嬉しすぎて死んじゃいそう!』


 あらあらまあまあ。


 私と春は交換ノートをしている。それしか会話をする方法がないからだ。ルカは言葉がわからないのかできなかった。残念だ。

 そして蒼井というのは春がずっと思っている人のことで、交換ノートを始めたときからずっと書かれている。蒼井について書いているのを見ると本当に彼のことが好きなんだということが伝わってくる。


 私も何か返事を書こうとを考えた。


『蒼井と付き合えたの? よかったじゃん! おめでとう! ずっと好き好き書いてたのが伝わったんじゃない?』


 春が蒼井と付き合えて舞い上がっているんだろうなと思いながら書くのは楽しかった。何故か私の脳内春はずっとぐるぐる回っている。


 書き終わったのでまた右目を閉じて春と交代した。そしてそれは春が寝るまで何度も続けられた。


 ◇◇◇


 あれから数週間くらい経っただろうか。春は蒼井と付き合ってからというもの、毎日惚気話をしている。


『今日は蒼井くんと駅まで一緒に帰ったんだ!』

『今日は蒼井くんの制服のネクタイを結んでもらっちゃった!』

『今日は蒼井くんとのデートだったの!』


 毎日そんなことばかり書くものだから今日も惚気話を散々書かれるものだとばかり思っていた。しかしノートに書かれたのは悲しい内容だった。


『今朝目が覚めたらルカがどこにもいないの。いつもいるはずの場所にも。それを親に聞いても「ルカ? 誰それ?」って言われるし、ルカの餌やおもちゃも何一つない』


 不思議なこともあるんだなあ。私は気になりすぐ左目を閉じた。しかしいつまで経っても何回やってもルカに変わることはなかった。


『ルカと交代できなかった』


 春と交代した。しかしすぐに自分の身体に戻ってきた。


『そっか』


 ノートにはそれだけが書かれていた。私は心にもやがかかったような何とも言えない気分になった。これ以上春と話したら気まずくなりそうだったのでここで切り上げた。


『ルカがいなくなった』私の心にはそれがずっと引っかかっていた。


 ◇◇◇


 しばらく私は春と交換ノートをすることをためらっていた。


 いつかの夕食のときだった。椅子に座るとすぐにテーブルの上には2人分のご飯が置かれていた。しかし私はルカのことがずっと心に引っかかっているせいですぐには食べる気になれなかった。それに気ついたのか父が話しかけてきた。


「はるか最近大丈夫? 体調悪い?」

「いや、大丈夫。春……友達の家族がいなくなったらしくて、それがずっと気になってるだけ」

「春……」


 父は顔を下にして何かを考え始めた。その姿は何か知っていることを物語っていた。


「お父さんなにか知ってるの?」

「い、いや、何も……」


 父の尻尾は体に沿わせながら下を向いている。やはり何か知ってそうだ。


「春の家族、ルカっていうんだけど」

「春にルカ……やっぱりそうなのか……」

「知ってることがあるなら全部話して」


 父は一度深呼吸をして話し始めた。


「昔、春のお父さんは病気を予防する薬を開発していたんだ。その薬は最終的には完成した。でもその途中にできた試作品を春とルカが飲んでしまった。二人の体には何の影響もなかったけど、その薬のせいで私とはるかができたんだ」

「それ本当……?」

「その薬は人間と動物の霊を結びつける力があったらしい。それでその薬を飲んだ春とルカが結び付けられた。多分ルカが消えたのはそのせい。春ももうすぐ消えるだろう」


 引っかかっていたことがすぅっと消えた感じがした。


「春のお父さんももうすぐ消えるんじゃないか。あいつも薬を飲んだことがあるらしいし」

「そうなの? それなら春と春のお父さんにそれを伝えないと……」

「無駄だ。多分二人は持ってあと3日。会えたとしてもどうしようもない」

「そんな……」


 私はいてもたってもいられなくなった。一度だけでも、春に会って話をしてみたい。


「お父さん、春が住んでるとこ知ってる?」

「ああ。この家を出て、ずっと東に行ったところにある猫宮公園の近くだ」

「わかった! ありがとう!」


 私はすぐに準備した。自分の部屋からノートだけを持って外に出た。そしてすぐに猫宮公園を目指して走り始めた。


 ◇◇◇


 猫宮公園まであともう少しというところまで来た。


 走っていると前から一人の女の子が歩いてきた。その子の顔には見覚えがあった。


「春?」


 私は人影に向かって走っていき、抱きついた。


「春ー!」

「……だ、誰ですか?」

「はるかだよ! ほら、このノート!」

「えっ……本当にはるかなの? 私のことが……わかるの?」

「もちろん!」

「そっか……良かったぁ……」


 突然春は涙を流し始めた。私は戸惑ったが春を慰めながら近くにある猫宮公園まで行き、ブランコに腰掛けた。


「大丈夫?」

「うん。なんかごめんね」

「何があったの?」


 春はひくひくしながらもゆっくりと話してくれた。


「お母さんが突然私のことを家から追い出したの。それで蒼井くんに電話したら……お前誰だって……。私、いらない子なのかなあ」

「そんなこと……」


 でも今の私には何も言う資格がない。私は春とルカ。そう思うと何も言葉が出ない。苦しい。何もできないのが苦しい。


 そんな時、私の頭に解決策が浮かんできた。


「そうだ! 春、私の胸に飛び込んできてよ! どーんとこい、だよ!」

「……なんで?」

「……なんとなく?」


 春は不思議そうに私の前まで来た。私はブランコから立ち上がり、春を目一杯抱きしめた。


 これがきっと最初で最後だ。


「10秒数えたら目を開けてね。いくよ? せーの」


「「1」」



「「2」」



「「3」」



「「4」」



「「5」」



「「6」」



「「7」」



「「8」」



「「9」」



「10……」


 春はその場に倒れ込んだ。


 ◇◇◇


 あれから数年が経ちました。


 私、春はお父さん、お母さん、イチローとルカ、誰ひとりかけることもなく家族仲良くしています。


 あの日私が倒れた後、すぐにお母さんが私のことを探して見つけてくれたそうです。近くにはルカもいて、ずっと私の隣で座っていたようです。いつからかお母さんに、外出するときは窓やドアを開けっ放しにせず、体調が悪くなったらすぐに返ってくるよう言われるようになりました。


 そしてあの時彼氏だった蒼井くんとは結婚して、かわいいかわいい子供もできました。名前は晴香ちゃんです。


 そのおかげで私が倒れた日からずっと心に空いていた穴も晴香のおかげで埋まった気がします。


「この心の穴は何だったと思う? 晴香」

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