コミュニケーションが苦手な者が最ももどかしいこと

島尾

なんとかコミュニケーションを……

 私はA型事業所という福祉施設で働く身である。さまざまな障害をもつ人々が頑張って働いており、彼らを見て、彼らのために私が頑張ってあげようと思うことが週に一回ある(作業が遅い人を見たときである。この感情は一般企業で働いていたときには皆無であり、ノロマで無能だと思っていた。また、自分自身がそれに該当する場面がしばしばあった。その際に誰も仲間はなく、ただ無視されてそのままクビになるだけだった。一般企業に助け合い精神はほぼ無く、あるとしてもそれは強い者が別の強い者を助けるという優生思想の循環でしかないと思う)。また、何も喋らなくとも居心地がよい(これはA型事業所に通う人がよく口にする言葉でもある)。何より、働いていて楽しい・面白いという積極的感情が自発的に生まれることが私の現在の人生を豊かにしていると感じる。知的障害をもつ人の発言一つ一つをよく聞いていると、彼らの脳内がいったいどうなっているのか研究したいと思うことがあるし、彼らは常人には思いもよらないギャグ(本人はそのつもりはないだろうが)を言うことがあって、いつもニヤニヤしながら仕事をしている。彼らは決して権威ある者たちではないが、私はむしろ彼らを尊敬し、また、内発的に「助けたい」と感じる。一方で、私に対して言葉のみでアドバイスをふっかけた者どもに対して、今は冷ややかな感情しか湧かない。彼ら「常人」は本質的意味において私と積極的に関わることは不可能であって、その理由は私が知らず知らずのうちに彼らを嫌悪し、拒絶していたからだ。誰が悪いとかいうのではなく、私はほとんどの「常人」と関わることに興味がないことを自己理解したということが言いたい。A型事業所に通って初めて明らかになった、私の中の事実である。


 それなのに、利用者と満足なコミュニケーションができていない。これを一般にコミュニケーション不全という。興味のない者どもに対してはコミュニケーション不全であっても(平時ならば)さしたる問題もない。手続き等でイライラすることがあるものの、それも一日中には終わる。しかし、興味のある者たちが目の前にいる場合はどうだろうか。コミュニケーションの苦手さが、ここであだとなる。何かしゃべるにも話題がなく、そもそも物を知らず、仮に話したとしても話が意味不明に終わったり、あまりに不必要で相手を不快にさせたり、自分の低劣な声質によって不快感を与えるおそれを考えたり、すなわち「きっと失敗するだろう」という予測に支配される。この考え方はコミュニケーション不全を改善させる上で障害になることは疑う余地もない。そして、自分が属したいと思えるコミュニティにさえ属することができず、いつか孤立する未来を想像させる。このことは、例えば高校や大学の学生どもの輪に入れずぼっちになることより、はるかに苦痛だ。分かりきったことを楽しむだけで新しいことを思いつけない、18から22の子供連中しかいない空間に身を晒すのは人生の無駄だと思う。一方、「常人」とはかけ離れた脳の持ち主や自分と酷似した者と関わりたい。私は新世界を探求する学徒であるし、多数派の渦を嫌悪して外輪の無風地帯で乱雑な渦の全像を冷ややかに見つめる者である。しかしその外輪よりもさらに外に新世界があって、別の渦もあって、見飽きた多数派の渦から目を逸らす。ゆえに私はそれら、すなわちA型事業所の人々に興味をそそられている。

 こういうわけで彼らとコミュニケーションをとりたい。そしてその集団の一員だという認識を持ちたい。しかし現状、私はコミュニケーションを恐れて臆している。

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コミュニケーションが苦手な者が最ももどかしいこと 島尾 @shimaoshimao

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