埋まらぬ牙
黒本聖南
◆◆◆
少年は父の友人の顔を見たことがない。彼は常に口元を黒いスカーフで隠しており、少年の前はもちろん、使用人の前でも一切外すことがなかった。
少年の住む邸宅に父の友人が訪れても、一度たりとも食事を共にしたことはなく、茶を共に飲む機会もない。そもそも誰も茶を用意しない。そうしてはいけないと、きっと少年の父が命じていたのだろう。
父の友人はいつもふらりとやってくる。父が研究で忙しくしていても、他の誰かと会っていても構わず、父が自分の元へ来るのを彼専用の客室で待っていた。父は慌てて用事を終わらせ、友人の待つ部屋に向かうと、時計の針が一周するまで外に出ず、誰かが傍に近付くことも許さなかった。
「父上はいつも、あの方とどんなお話をしているのですか?」
好奇心から少年は父に訊ねてみたが、君にはまだ関係のないことだと教えてはもらえなかった。気になりますと食い下がれば、まだだと言っていると低い声で拒まれて、少年はもう父に何も訊けなくなった。
だから、父の友人に訊いてみた。
「父上とは、その、どんな話をしているのですか?」
その日も父は先客と話し合いをしている最中で、父の友人は部屋で父を待っていた。使用人はもちろんとして、この邸宅の主の息子である少年すら、近付くことはおろか、父の友人と話すことなど許されていなかったが、好奇心は禁止事項を平気で破らせる。
一応ノックをしたからか、友人はあっさりと少年が部屋に入ることを許可した。一人掛けソファーにゆったりと腰掛けたまま少年を出迎え、読みかけの本を目の前のテーブルに置き、取り敢えず扉を閉めなよと朗らかな声で彼は言った。
少年はすぐに扉を閉められなかった。父の友人の姿を正面からきちんと見るのはそれが初めてで、顔の下半分を隠していても、その美しさは隠しきれていなかった。
腰まで伸びた金糸の髪は星が混ざっていても不思議じゃないほどに光り輝き、深紅の瞳は笑っているかのように細められている。黒い紳士服に袖を通したその身は華奢でありながら、頼りなさはどこにもない。肘置きに置いた手も組んだ脚もすらりと長く、少年は自分の手足を思い出し、心の中で溜め息をついた。
再度父の友人から扉を閉めるよう気持ち大きな声で言われ、少年は我に返りすぐに言われた通りにした。
息を整えてから、少年は父の友人と向き合う。僕に何か用かい? と訊ねる彼に、少年は緊張から震える声で、父がきちんと答えてくれなかった問いを口にする。父の友人は父とは違い、少年に答えてくれた。
「他愛もない話だよ。僕がどこに行き何をしたか、そういうことを一方的に話して、あいつはそれを黙って聞くだけ。あいつと友人になってからはずっとそんな感じだよ」
「……そう、ですか」
少年はあまり父と会話しない。父はいつも忙しそうな上に、少年がどんなに話し掛けても短い言葉ですぐに終わらせてくる。少年はいつも物足りない。
自分とは全然会話を、お喋りをしてくれないのに、友人とは長々と話すのかと、少年の好奇心にはほんのり嫉妬も混ざっていたのだが、結局、友人相手にもそこまで話をしていなかったようだ。
息子以外にもそうなのかと、少しだけ少年が安堵していると、徐に父の友人は立ち上がり、少年に近付いてくる。
「──そろそろあいつが来る頃だ」
「えっ。そんな、もうっ。……し、失礼しま」
「まあ待ちなよ。今から出ても鉢合わせて、君が怒られるだけだろうね。どうだろう、ベッドの下に隠れるというのは」
「……」
「何も夜明けまで一緒にいるわけじゃない。ほんの一時だけさ」
少年は父の友人の目を見た。深紅の目は、口よりものを語る。
──実際何をしているか、気になるだろう?
返事もしない内に少年は手を引かれ、ベッドの下に押し込まれる。それと同時に、扉が開いた。待たせたと謝罪を告げるその声は、少年の父のもの。そんなに待ってないよと父の友人は返事をし、隠れる少年から遠ざかる。
少年はベッドの下から、その光景を眺めていた。
確かに父の友人は、自分がどこに行き何をしたか一方的に話していた。だが、動いていたのは口だけではなく、手もだった。少年の父に座るよう手で促し、腰掛けた所で父が着るシャツのボタンを上からいくつか外していく。父の首が露になると、父の友人は──自分の口元を隠すスカーフを外し、テーブルに投げた。
父の友人は笑みを浮かべていた。どこかほの暗さのある、妖艶な笑みを浮かべていた。その横顔があんまりにも美しくて、少年は目を逸らせなかった。
瞼を閉じた父。そんな父の首へと顔を近付けていく父の友人。ゆっくりと友人の口は開かれていき──少年はそれを見る。
獣のように鋭く伸びた牙がそこにあった。
それは金糸の髪と同じように、いやそれよりは淡く、光っているようだ。
何にも邪魔されることはなく、光る牙は、父の首へと埋まっていく。
静かな部屋に響く嚥下の音。ぐったりしていきながら、どこか恍惚とした顔で涎まで垂らす父。少年は声を押し殺して、食い入るように見つめ続けた。
──いつもしかめ面の父上があんな顔をするなんて。
──あの行為は、そんなに、気持ちが良いのだろうか。
──いいな……。
そんなことを思いながら。
しばらくその状態は続き、やがて父の友人は父から離れた。口元は赤く汚れてしまっているが、それが友人の美しさを損ねることはない。むしろ、彩りを与えていると言っても過言ではない。友人は適当に手で口元を拭い、しゃがみこんで何かを拾い集めると、スカーフで口を隠し、何事もなかったかのように先程までの話の続きを語り出す。
やがて、回復した父が友人から何かを受け取り部屋を出ていくまで、少年はベッドの下にいた。
「やあ、待たせたね。もう出ていいよ」
父の友人に言われ、少年はゆっくりとベッドの下から出てくる。友人と向かい合って立つも、友人は少年よりずっと背が高く、見上げる首が痛かった。
彼とはこんなことをしているよと言われ、少年はそうですかとしか返事をできなかった。それ以上何も口にしない少年を、父の友人は笑い、手を、そっと少年の前に差し出した。
「改めて名乗ろうか。僕の名前はシトリン。シトリン・ヴィリアーズ。君の父、祖父、祖父の祖父と、君の家族とはうんと長い間仲良くさせてもらっている──吸血鬼だ」
よろしく、の声にも少年は動けない。父の友人ことシトリンは軽やかに笑いながら、少年の手を取って握った。加減のされたシトリンの手はほんのり冷ややかだったが、少年の体温は上がった。この後、どうやって自分の部屋に戻ったのか、少年はよく覚えていない。
少年が隠れてその光景を見ていたことを、少年の父が指摘することはなかった。気付いていなかったのか、何も言わずにいてくれたのか、今となってはもう分からない。
少年は調べた。
吸血鬼について、邸宅の書庫や行ける範囲にある図書館で、可能な限り調べていく。その間にもシトリンは時折少年の父の元を訪れ、部屋であの行為をしていた。少年が忍び込むことはもちろん、シトリンに話し掛けることももうなかった。
やがて少年は背を伸ばし、成人を迎え、青年となる。青年の父は病に罹り、その年齢にしては早すぎる死を迎える。
死の直前、父は枕元に青年を呼んだ。
「──アレクシス・アンダーソン!」
父は掠れた声で、青年の名前を口にする。
「この家を、守れ。シトリンを、繋ぎ止めろ。アレがいなければ、我が家は、終わる!」
「承知しました、父上。この家を守り続けると、あの方を繋ぎ止めると、この名に誓いましょう」
うっすらと笑いながら死にゆく父に、青年アレクシスは何も思わない。
期待だけが胸にはあった。
父は死ぬ。自分が家を継ぐ。そうなればあの行為も、自分が引き継ぐことになる。
──私の番だ!
◆◆◆
シトリン・ヴィリアーズは相変わらずふらりとやってくる。アレクシスがどんなに忙しくしていても、父の頃から変わらず、彼専用の客室で静かに本を読みながら彼を待っていた。
「……やあ、アレクシス。今夜は早かったね」
一人掛けソファーに腰掛けたまま、アレクシスを出迎えるシトリン。いつかと違い、彼は読んでいる本から顔を上げなかった。そのことに内心苛立ちながら、アレクシスは彼の元に近付く。
「急ぎの仕事ではないので、明日に回すことにしました」
「そうかい。休める時には休んだ方がいいよ。仕事仕事仕事じゃ、君の父親みたいに早死にしてしまうからね。僕はできる限り君と長くお喋りをしていたいよ」
ははっ、と笑うその声が、アレクシスには少し疎ましかった。
シトリンの向かいにあるソファーに腰掛け、アレクシスは真っ直ぐにシトリンを見つめる。自分の目が自然と細まっていく自覚が、アレクシスにはあった。
「その願いは叶うんじゃないでしょうか。私はきっと父上よりも長生きをする」
「本当かい? それは嬉しいことを聞いたよ!」
スカーフで隠れていても、本当に嬉しそうに笑っているんだろうとは、何となく伝わってきた。伝わったから、アレクシスの苛立ちは増した。
「アレクシス、僕の良き友人。君は君の父よりも好ましい奴だ。……だからこそ、残念だよ」
シトリンは本をテーブルに置き、口のスカーフを外す。そして、こっちにおいでと口を開いた。ちらりと見えた、淡く光る牙は昔と変わらない。──その牙が自分の首に埋まるものだと、アレクシスは信じて疑わなかった。
はい、と返事をしたのはアレクシス、ではなかった。
アレクシスと共に入ってきて、彼の傍に黙って控えていた少年が、どこか申し訳なさそうな表情を浮かべてシトリンの元に行く。その際、シャツのボタンを自分でいくつか外し、首元を広げていた。
──シトリンが噛みやすいように。
「君の血が不味くなければ、飲んであげられたのに」
アレクシスがアンダーソン家の主になって変わったことが一つある。アンダーソン家の主と客人シトリンだけが過ごす部屋に、一人の使用人だけが入れるようになった。
その者の名はフェリクス。アレクシスの父が死ぬ少し前に雇われた少年であり、主となったアレクシスの元へ最初にシトリンが訪れた時から、フェリクスだけが彼らの部屋に共に入ることを許されていた。
アレクシスは忘れない。忘れることなどできない。期待から、求められる前にシャツのボタンを外した瞬間に、シトリンから言われたことを。
『いやいや、君のはいいよ。母親に似て不味いにおいしかしないもの。僕はそっちの子の血が飲みたいんだ』
何を言われたのか、アレクシスには分からなかった。固まる彼を放って、シトリンはフェリクスに近寄り、彼の血を貪る。
『あーこれだよこれっ! これでなくちゃ!』
『……あの、シトリン殿』
絞り出すようにアレクシスがシトリンの名前を呼べば、彼は不思議そうに首を傾げ、おやおや何も聞いていないのかい? とフェリクスの首から顔を上げながら語り出す。
『僕が君の父やその父達と友達になったのはね、君の先祖の血が特別に美味しかったからだよ。あんなに美味しい血は他にないね。僕の方から友情を申し出たくらいだ。僕の欲しいものを君達がくれれば、僕も君達の欲しいものをたくさんあげる。僕達の友情はそんな感じで始まったのさ』
まるでワインで口を湿らすように、シトリンは合間合間にフェリクスの血を飲んだ。
『親から子へと繋がる血は、先祖に負けず劣らず美味でね。まあ、結婚相手にそれなりに美味しい血のにおいがする子を探してあげたから、それで品質は保たれていたんだけど、君の父親はね、言うことを聞いてくれなかったんだ。心から好きになった女と添い遂げたい。そう言って、血が不味い女と結婚し、君を作った。僕はちょっと怒ったよ、血を美味しくするならまだしも、不味くするんだからね。一時期、君の父が欲しいものをあげなかったことがある』
聞きたくない。アレクシスは耳を塞ぎたかったが、手が動かない。まるで魔法にでも掛けられたみたいに。シトリンに、いや吸血鬼にそんなことはできもしないのに。
『君の父親は大いに困った。どうしたら許してくれるのかとわざわざ僕を探して訊いてくる。正直切り捨てたかったけれど、あいつの血はこの世の何よりも美味しいからね、そんなことできないよ。だからこうしようって提案した。僕が満足する美味しい血の女と子供を作って、代替わりした後はその子の血を飲ませてもらう。僕は美味しい血が飲めればそれでいいからね』
それが、フェリクスなのだと。
『この子一人のおかげで、僕が長い間ずっと目を掛けてきたアンダーソン家はこれからも続く。僕は美味しい血を飲める。君は君の父から受け継いだ研究を思う存分続けることができる。良いことばかりじゃないか! 良かったね、アレクシス! 君は君の弟を誇りに思うといい!』
『……おと、うと? そ、そんなもの、私にはいませんよ。母は私を産んだ後は子供に恵まれず、病に罹り早くに亡くなりました。弟なんて、いるわけがない。それが我が家の使用人だなんて、何の冗談でしょうか』
『それはね、血の不味い女がこれ以上子供を産んだら困るから、知り合いの魔女に頼んで作らせないようにしてもらったんだけど、まあ、色々と気を利かせてくれたようでね。君にも子供ができないように魔法を掛けてくれたみたいだよ。なんというか、こう言うとあれだね、いっそ呪いみたいだね』
目の前から聴こえる笑い声が、アレクシスにはまるで遠くから響いているようだった。
シトリンから言われたことを、何から受け入れていけばいいのか。ゆっくり、ゆっくり、頭の中で咀嚼していき、それでも納得したくなくて、けれど受け入れざるをえなかった。
シトリン・ヴィリアーズはアレクシス・アンダーソンの血を飲まない。それは絶対に覆らない。
──殺してやりたかった。
フェリクスに向けた殺意ではない。溝鼠は後でいい。そんなことよりもシトリンなのだ。アレクシスの望みを、未来を、在りし日の温もりを、美しき吸血鬼は踏みにじった。それをどうして許せようか。
──殺してやりたい。
だが、アレクシスはきちんと理解していた。シトリンに手を出せばこの家は終わる。代々続いてきた、父が汚らわしいことまでして託してくれたこの家が、何も残せないと突きつけられた自分の短慮でなくなるのは、許されることではない。
──この家を、守れ。シトリンを、繋ぎ止めろ。
アレクシス・アンダーソンはその名に誓ったのだ。もしも行動に移せば、先祖に、父に、あの世で顔向けできない。
だから今夜も、アレクシスは何もできなかった。
来訪したシトリンの元にフェリクスを連れていき、血を飲ませ、アンダーソン家に必要なものを受け取る。
血を飲まれてぐったりとしたフェリクスは床に倒れ込み、そんな彼を放って、シトリンは床に落ちた何かを拾い集めていた。手には皮袋。全部集めた所で、シトリンはそれをアレクシスに渡してきた。
今日の分だよと。
中身が何かは分かっているが、念の為、アレクシスは中を確認する。真っ赤な石、いや結晶がいくつも入っていた。どれもこれも涙の形をしている。
幼き少年の日にはよく見えていなかったが、フェリクスの首に牙が埋まっている所を眺めるしかないアレクシスにはよく見えていた。
その結晶は、シトリンの深紅の瞳から溢れ落ちたものだ。
吸血鬼の涙は、液体になっていない。結晶となって一粒ずつ溢れ落ちていく。その際に痛みがあるかどうかなど、アレクシスにはどうでもいいことだった。結晶なので床の絨毯に染み込むことはなく、何の価値もなければごみとして処分されたことだろう。
だけどそれは、アンダーソン家にとって何よりも必要なものだった。
アレクシスは袋の中から一粒涙を摘まみ、目を細めながら口の中に放り込む。すると間もなく、アレクシスの瞳は淡い赤色に染まり、人差し指をシトリンに向けた。じっと、アレクシスはじっと、シトリンを見つめる。
すると、シトリンの口元に付着していた血が、瞬く間に霧散していき、綺麗になった。
「ありがとう。君の父親はこういうことをやってくれなくてね。君といると手を汚さずに済むから楽だよ」
「それは良かったです」
吸血鬼の涙には、魔力が込められている。
吸血鬼自身は魔法を使うことはできないが、彼らの流す涙を人間が飲み込むと、その者はありとあらゆる魔法を使うことができるのだ。
アンダーソン家は吸血鬼の涙のおかげで魔法使いでいられる家。先代から引き継いだ魔法の研究の為に、アレクシスの生殖能力を取り戻す為に、そして、不老不死である吸血鬼を殺す術を見つける為に、まだまだシトリンの涙は必要なのだ。
「さて、食事も終わったことだし、お喋りを再開しようか」
「……望むままに」
シトリンの笑みは昔と変わらない。ほの暗い妖艶な笑み、開いた口から覗く光る牙から、アレクシスはしばし、目を逸らせなかった。
──あの牙に、私は……。
彼がスカーフで口を隠すまで、ずっと、アレクシスはそのままでいた。
◆◆◆
アレクシス・アンダーソンが自分に向けてくる視線が、最初から純粋ではなかったことを、シトリン・ヴィリアーズはよく理解している。
幼き瞳には嫉妬が、長じてからは溢れんばかりの羨望が、それが転じて恨みや憎しみ、殺意が混ざるようになっていった。
シトリンにはそれが愉快であった。
歴代のアンダーソン家の者からは、自分を畏れる目しか向けられてこなかったから、アレクシスの視線はどれも新鮮、いや懐かしくすらあった。
遠い昔、自分が友と呼び、何よりも好んだ血の持ち主から向けられたのと、同じ視線。シトリンは彼の大事な人を救える立場にありながら救えず、たいそう恨まれていた。
彼はシトリンを利用するつもりでいたようだが、シトリンにとって彼の行動は犬が頑張って芸をしているようにしか見えず、見ていてとても愉快であり、彼が生きている間は存分に楽しませてもらった。シトリンなりに本気で彼を友だと思っていたから、彼が死んだ時はとても悲しく思った。
アレクシスを見ていると彼を思い出す。シトリンは血の繋がりを喜び、そして悲しんだ。産まれてくる腹を間違えなければ、彼のようにその血を美味しく味わえたのに、と。
「ねえ、アレックス」
「……失礼ながらシトリン殿、私の名前はアレクシスです」
「そうだった。似ているものだからつい間違えてしまったよ」
アレクシスの目に宿る殺意が増していく。名前を間違えただけでこれかと、シトリンは思わず笑ってしまった。
「なら、アレクシス。研究は進んでいるのかい?」
「シトリン殿から提供して頂いている涙のおかげで、順調に進んでおります」
「終わりの時は近い?」
「……不甲斐ないことですが、私の代でも難しいかと」
「そっか。君の父や祖父、祖父の祖父と変わらない答えだね。……やっぱり、一人だから難しいんじゃないかと思うんだけど」
研究について訊ねながら、シトリンはその内容に興味を持たない。シトリンは美味しい血を飲めればそれでいいのだ。友の子孫の行動など興味はない。
──アレクシスは例外だが。
シトリンの言葉に、アレクシスは目に見えて身構える。その姿はどこか小動物を思わせ、シトリンはまたも笑いそうになった。
「それは、どういう意味でしょうか」
「そこに落ちてるフェリクスを使いなよ。アンダーソンの血を引いた子供だし、君が死ねば彼の子供が研究を受け継ぐことになるのだから、今から彼にも関わらせた方がいいよ」
「……っ。しかし、ろくに我が家に関わってこなかった者に、研究内容を理解できるわけがないかと」
「腐っても兄なのだから、弟に分かりやすく教えてあげなよ。そうしてくれたら僕、いつもよりたくさん涙をあげてもいいよ?」
「……っ!」
アレクシスには隠す気がないのだろうか。真正面から浴びるありったけの殺意が、シトリンには愉快で愉快で堪らない。もっと欲しいとすら思う。
──いっそ本当に殺してくれないかな。
シトリンは長く生きた。いつ死んでもいいと少しくらいは思っていた。自分を殺害する相手がアレクシスなら、シトリンは笑いながら逝けるんじゃないかと半ば本気で考えていた。
──僕はいつでもいいんだよ、アレクシス。
己の深紅の瞳に期待を滲ませ、シトリンはアレクシスを見つめる。彼の手には渡したばかりの大量の涙があるのだ。それを全部飲み込んで、魔法でシトリンを消し炭にするくらいのことはしてくれないだろうか。
──君ならいいよ。
シトリンはアレクシスが動くのを待つ。その手が動くことを願う。
動いたのは口だった。
「……分かりました。彼が目を覚まし次第、研究室に連れていき、手伝わせます」
悔しげな顔と声、シトリンは少しばかり落胆し、同時に期待した。
まだまだこの状況を楽しめるからいいか、と。
「ありがとう、追加でいるかい?」
「次回でけっこうです。お気遣いありがとうございます」
──ああ、楽しいな。
──彼と話すのは本当に楽しい。
シトリンは満足して、ソファーから立ち上がる。今宵はもういいかと帰るつもりだった。
アレクシスも立ち上がりかけたが、見送らなくていいよとシトリンが言えば、少し迷った後で座り直す。それじゃあまた、と言ってアレクシスの横を通り過ぎようとした時、ふいにシトリンは足を止め、アレクシスの首に視線を向けた。
きっちりと一番上までボタンの閉まったアレクシスのシャツ。布や肌に隠れても、不味い血のにおいは嗅ぎ取れた。
冗談でも顔を首に近付けたくない。改めて残念に思い、しばし眉根を寄せながら見つめる。
気になったのだろう、アレクシスは顔を上げ、シトリンと視線が絡み合った。
「シトリン殿、何か?」
恨み、憎しみ、嫌悪、殺意。
アレクシスの瞳には様々な感情が宿っている。どれもこれも負の感情だが、一つだけ、うっすらと光り輝くものがあった。
──期待。
ありえもしないことを、彼はまだ願っているのか。
「それだけは絶対にないよ」
「……何のことでしょうか?」
「こっちの話。今度こそじゃあね」
シトリンはもう振り返らなかった。背中に視線も感じない。けれど、見なくてもシトリンには分かっていた。きっとアレクシスは拳を握り締めて悔しがっていると。
面白い、愉快な、好ましき人間。
アレクシスが生きている限り、シトリンが殺されない限り、こんな夜を何度も何度も繰り返していくのだ。
この楽しみだけで、当分は生きていられる。
スカーフの下を笑みの形に歪めながら、美しき吸血鬼は軽やかな足取りで邸宅から出ていった。後には、青年の慟哭が響く。
埋まらぬ牙 黒本聖南 @black_book
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