二人で一つのピアノを弾く話

三瀬川 渡

第1話

『さあ、続いての演奏は世界最高峰の天才ピアニストと名高い神童、デュオ・ソリストによる“星哭く夜”です!』


 司会者のよく通る声が次の奏者を指名した。

 今は国内屈指の音楽家を集める音楽の祭典の最中であり、次は若き天才と評判のデュオとかいう奴の番らしい。


「アリア、次はピアノだそうだよ」


「あらあら、どうしたのアリア?」


「えー、飽きたぁ」


 アリアという愛称で呼ばれた私は頬を膨らませながら両親へと抗議を行う。


「良い子だから、演奏が始まったら静かにしているんだぞ?」


「もう、アリアったら。音楽は心で聴くものなのよ」


 パパとママは苦笑いを浮かべながら私の頭を優しく撫でた。


 アリアというのは私の愛称であり、フルネームはアリアオン・G・ストリングスという名だ。

 音楽をこよなく愛する両親に連れられてこの祭典に来たのだが、先月3歳になったばかりの私には音楽の良さなど分からず、退屈を持て余していた。


 何を言っても無駄だと悟った私は拗ねたように口を尖らせ、不貞腐れて椅子へと深く座り込む。



 次第に照明が暗くなるのにつられて観衆はだんだんと静かになっていき、スポットライトにて照らされたピアノへと視線が注がれる。


 観客達が固唾を飲んで見守る中、ピアノへと向かう演奏者の足音のみが聴こえてきた。

 ちらりと視線を向けると、私よりも一回り年上の少年の姿が見える。

 彼は私と同じ子供という区分に収まるとは到底思えぬ、くたびれた大人のような雰囲気を纏っていた。


 デュオは私達に背中を見せないような動きで椅子の横まで歩くと、一礼してぬるりと着座する。


 ゆっくりと鍵盤に手を添えると、少年は時が止まったかのようにぴたりと動きを止めた。



 沈黙、そして無音。



 客達の息を呑む音まで聴こえそうな程まで静寂が極まると同時に、少年は弾かれたように動き出す。


 鍵盤の上を踊り狂う長く美しい指により奏でられる音色は、私の魂が求める音そのものであったかのように心に染み渡る。

 彼が創り出す世界に引き込まれ、惹き込まれる。


 その光景と旋律は強烈に鮮烈に苛烈に、私の鼓膜と網膜、そして魂へと焼き付く。


 その一曲は、痛烈なまでに既存の価値観を破壊し、私の中のありとあらゆる物を塗り替えてしまった。



 ──────────



 全ての演目が終わって両親から声を掛けられるまで、どうやら私は惚けていたらしい。

 様子がおかしな私を見兼ねた両親は心配そうなまなこで見詰めてくる。


「わたし、ピアノをやりたい」


 その言葉は自然と口からこぼれ落ちた。

 私の宣言を聴いた両親はしばらくぽかんとした表情を浮かべていたが、すぐに破顔して柔和な笑顔を浮かべる。

 きっと私が音楽の道に進むのが嬉しいのだろう。


 今は遥かに遠き星。

 いつか必ず辿り着いてみせる。



 それからの私はピアノ漬けの日々だった。

 起きている時間の大半をピアノへと費やし、音楽に関する様々な知識や技術を貪欲に吸収していく。

 どうやら私にはピアニストとしての素質があったらしく、講師に呼ばれた先生が舌を巻いて驚いていた。


 しかし、まだ足りない。



 幾年かの月日が流れ、数多のコンテストで非常に優秀な成績を残せるようになった。

 生まれて初めて“星哭く夜”を弾き切れたときは心までもが弾むようだった。


 やっと彼の背中の輪郭が朧げながら見えてきたところで、改めて私と彼との技量の差を痛感する。

 非常に難しい星哭く夜の完成度をあそこまで高めながら、表現力にも深みを持たせられるのは私の知る限りデュオ1人しか居ない。


 無駄にして良い時間なんて1秒たりとも存在しない。時間の許す限りピアノの前に張り付いていなければ永遠に彼には追い付けまい。

 ピアノの前では常に鍵盤のみに集中し、一打一打の打鍵全てに魂を込めていく。


 少しずつ、ほんの少しずつ私のピアノは洗練されていく。



 気が遠くなるような弛まぬ研鑽の果て、いつしか私はいつの日かのデュオと同じように神童の名を冠するまでとなっていた。


 戦争が始まり世間が揺れ動いていも、私にはどこか遠い出来事のように感じられ、ひたすらピアノへと向き合い続ける。



 遥か遠くに見えていた星へとようやく手が届く。

 これから私のピアニストとしての人生が始まるのだ。


 そう思っていた矢先、私の乗る車に光が走り、私は意識を失った。



 ────────────────────



 次に目覚めたのは病院のベッドの上であった。


 上体を起こすべく腕で自重を支えようとするも、空を切ってしまい再びベッドへと横たわってしまう。

 何だろう、腕が上手く動かない?


 自らの体を検め、すぐに異変に気が付いた。



 右腕が無い。


「あれ?あ、……?あっ、……ッ!?」


 なんで?

 どうして?


 これではデュオには永遠に届かない。



 私の父を狙った敵国によるテロだったらしい。

 父の会社は精密部品に関する技術を持っていたことと、それなりの資産家だったことで標的になったそうだ。


 手術により一命は取り留めたものの、右腕の肩口から先は切断せざるを得なかったという説明を茫然としながら聴いた。

 父と母に抱きしめられると、途端に涙が溢れ出す。


 鍵盤だけを見てきた私にとって世界から色が失われて、白と黒のモノクロの世界になってしまったように錯覚する。


 左手だけで弾ける曲もあるが、私の人生の始発点となったあの曲は両手が無ければ弾けない。


 あの曲は。

 あの曲星哭く夜だけは到底片手では不可能だ。


 人生の全てを捧げてきたたった一つが無くなってしまい、私の人生は何も無くなってしまった。


 日々増えていく怪我人に押し出されるように退院した私は、車に乗りながら通り過ぎていく景色をぼんやりと眺める。

 街は以前より行き場を無くした孤児が増えたように感じる。



 家に着いて早速ピアノの前に座り、前よりも重く感じる鍵盤蓋を開けて左手で恐る恐る触れてみる。


 いつも通りの音を響かせたピアノに安心感を覚え、そのまま無意識に右手・・でもピアノを弾こうとして存在しない右手が空を切る。

 階段を一段踏み外したかのような驚きの後、右腕を喪失してしまったという実感が湧いてきた。


 無いはずの右腕が痛む。

 幻肢と呼ばれる症状だろう。


 その日はずっとピアノの前で座り惚けていた。



 翌朝、夜を徹してピアノのことを考えていた私の胸中に、ある思いが芽生えていた。

 確かに私はもうピアノを満足に弾けはしないが、それでも私が大好きなあの曲までもがこの世から消えた訳ではない。

 デュオという優れた奏者がいる限り、“星哭く夜”が失われることは無いのだ。


 神童と呼ばれたもう1人の少年を精神の拠り所にして、心に空いた穴へとフタをする。


 まだ私は大丈夫。


 ……よし。


 こんな私にも出来ることをしよう。

 例えピアノが演奏できなくとも、世の中を良くしていきたい。

 だって音楽は心で聴くものだから。

 戦争で心が傷付いてしまった人たちの助けになろう。



 両親の承諾を得て、国が主導している街での炊き出しを手伝うことにした。


 戦争で怪我を負い家族から厄介払いされた者、住む家を失い路頭に迷う者、親を亡くして行き場のない者。

 幻肢の痛みに苛まれながら、一人一人へと食事を渡していく。


 やがて用意しておいた食糧が底を突いた頃、列の最後に並んでいた暗い顔の少年が目に入った。



 思わず息を呑み、時が止まったかのように錯覚する。



 その少年の顔は。

 見紛うことなどあり得ない網膜へと焼きついた相貌。

 私の憧れ。


 世紀の天才と呼ばれた神童デュオに他ならない。

 彼は他の奉仕者から今日の分が無くなってしまったことを告げられると、無言で踵を返して立ち去ろうとする。


「ま、待ってください!」


 反射的に口から溢れた私の呼び掛けに対して、薄汚れた布を羽織ったデュオは疲れたような顔で振り返る。


「あの、いつかの演奏で聴いた“星哭く夜”が素敵で、……忘れられなくて、もう一度聴きたいと思っていまして……」


 辿々しく言葉を紡いでいく最中、彼からの冷たい視線が気になった。


 そういえば、彼はどうしてこんなところに……?


 恐る恐る、目線を少しずつ下げていき、ボロ切れのような布を纏った彼の身体を見遣り、そこで初めて──、



 ……彼の左腕が無いことに気が付いた。



 嘘。

 嘘だ。

 嘘だ嘘だ嘘だ。

 想像だにもしなかった。

 私にとって自分の人生の指針となった神のような腕。

 世界の根幹を揺るがすかの如き、大前提である基盤の喪失。


 私の腕が無くなっても彼さえ居ればあの曲は消えないという無意識のうちの心の拠り所セーフティが消え去った。



 思考が凍りつく。

 何も考えられず、ただ呆然と立ち尽くす。


 無言となった私を見て、彼は自らが侮辱されていると思わせてしまったらしく、怒りが滲む語気で応える。


「人類が辛うじて弾き得る難易度とまで言われた星哭く夜を?片腕で?」


 真っ白になった頭ではどう返答すれば良いのか思案定まらず、訂正の機会を失う。


「はっ、そんなに笑い者にしたいのなら望み通りに弾いてやるよ」



 今の彼の周りにはピアノが弾ける環境が無いらしく、自暴自棄とも取れる態度の彼と共に迎えの車に乗り込んだ。


 軽く話を伺ったところ、彼は音楽隊の一員として徴兵され、戦争で左腕を失うや否や家族から追い出されてしまったらしい。


 そんな不条理があって許されるのだろうか。

 同時に、私の家がどれだけ恵まれていたのかを自覚する。


 何も言えず、幻肢で痛む右肩に手を添え、車窓の景色を静かに見送るしかできなかった。



 家に着き、デュオをピアノの前まで誘導する。

 長方形のピアノ椅子に座った彼は慣れた手付きで調整を行い、右手で鍵盤の調子を確かめていく。



 深く息を吐いた後、打鍵が始まる。

 曲は“星哭く夜”。


 右腕だけで演奏する不完全なものにも関わらず、無いはずの左手のパートも幻聴となって聴こえてくる。


 ピアノは毎日弾いていないと鈍るはずだが、衰えはほとんど見られない。

 左腕を失ったのが比較的最近なのか、もしくはピアノが無い環境でも練習は続けていたとでも言うのか。


 知らず知らずの内に、私の足はゆっくりと彼の背後へ歩いていた。


 自然と私の左手がすっと演奏に割り込む。

 幻聴をなぞるように、彼の左手の替わりとなるように。


 彼が驚き、息を呑む気配が伝わってくる。

 奇跡的なまでに、彼と私の息は噛み合っていた。


 私の存在しない右腕を蝕んでいた幻肢はたわんだ包帯の如くほどけていく。

 存在しない右腕が幻視える。


 隣に座り、彼と肩を寄せ合って鍵盤を弾いていく。


 あり得ない。

 まるで自分の腕が戻ったみたいだ。

 私の『右腕』が想像通りに動く。


 一打一打、噛み締めるように鍵盤を打つ。


 紛れもない、『星哭く夜』だ。



 ──────────



 夢中で何度も何度も、何十回も弾いていたら、窓から星が見える。

 いつのまにか夜になっていた。


 腕が動かなくなるまで曲を弾き切った私達は、互いに顔を見合わせる。

 二人なら、またピアノが弾けるかもしれない。


 荒くなった息を落ち着かせ、静かに見つめ合った。

 その瞳には光が宿り、自然と涙が零れ落ちる。



 これからも──、



「「一緒に、ピアノを……」」

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