22.結末

 「茶番ね」と、ペトラは言った。


まあ、否定はしない。

この一連の事件はどうなったか?

彼女が言う通り、これ以上の大きなことは何も無いまま終わった。

モンス・マレは閉鎖自治区。その執政を担ってきたのは理事会・経済界・病院。

今の代表格はダグラス、マルガリータ、オーガストの三者。そして彼らの統治に対し、住民は徒党を組むような反発をしたことは一度もない。

不満を抱いていた住民が居たのは間違いない。が、目下のところでは、彼らが過去の犯罪について公にし、罪を認めて服役・或いはもっと重い処罰を望もうとも、周囲はそれでは困るという結論に至った。

しかも、『果樹園フルーツ・パーク』に関しては彼らだけの問題ではなく、国を上げて認知していた事態である。ROMOロモFIBOフィボも、原材料となったシェル・ラズリは自然界に存在する分は取り締まりようもない為、加工済みのものと製品、製造ノウハウの提出と処分に留まった。

薬に関しては発端である前院長ジェファーソンは死亡が確認されたし、エルバ・クランツの死に関しては、いくら誰が真犯人だと言おうとも、偽装工作を行ったと言っても、今さら証明の仕様もない――と、いうのが、この地の人々の判断だった。

現院長のオーガストはROMO及びFIBOの製造と、数名に対する人体実験も罪状に上げられるが、この実験による直接的な死者は出ていない上、暴れた被験者も今は静かになり、健康上、重い症状は出ていない。無論、非人道的なのは否めないし、彼らが言い様のない不安や苦痛を感じたことは言葉にしなくても事実として存在する為、罪は認めねばなるまい。

しかし、それにも増して、彼は此処の人々に必要とされていた。

その多くは『子供』と『大人』だが、『その他』に関しても、彼は尽力していた。この若い院長が蔑視していたのは、かつて八番街からモンス・マレを支配していた悪党だった『その他』に対してであり、病院を訪れる『その他』を邪険にしたことはない――働いていなければ落ち着かない人々は、そう言った。

此処から再び恐ろしい闇が噴いて出るかと不安視したところで、いち作家の余所者にはどうにもならないのである。

今の執政者たちが引退するにしろ、引継とこれからの対策を講じなければ、国政は滞り、崩壊を密かに望んでいる他国或いは悪党に隙を与えてしまう。

倫理に基づいて市民が決起することが重要なのか、現在の平和を維持する方が大切なのかは、そこに住む人々が決めることだ。

「留保、だとさ」

三日後、呆れ顔でそう言ったのは、理事長を引き継ぐ羽目になったソレルだ。

「俺だってグルだってのに」

寝起きそのままで出てきたのだろう、せっかくの美しい御髪おぐしもぐしゃぐしゃの青年は、早くも理事長室を脱走し、作家の宿泊先に転がり込んでいた。強いて言えば、諦めて実家に戻った為、着ているシャツもズボンもしっかりアイロン済み、つっかけて来たと見えるサンダルさえも小綺麗だった。

こっちは間もなく旅立つというのに、朝っぱらから椅子にだらけた青年のリクエストで、スーツケースからコーヒーを淹れる道具を引っ張り出すことになったニムは、御所望の熱い一杯を淹れた。

窓から吹き込んでくる風に金髪を泳がせている青年にコーヒーを手渡しながら、ニムは苦笑した。

「投票に不正はなかったんだから良いじゃないか。ミスター・ブエノや、パラダイス・フィッシュの皆さんにジェニー嬢……ああ、ミスター・モロウも賛成だって聞いたよ」

元名医からアウトローにまで支持される男は、コーヒーを含みつつ、露骨に顔をしかめた。

「わざわざ八番街にも聞きに行ったのかよ?」

「そりゃあ、弊社は調査会社だからね」

忘れてもらっては困ると胸を張ると、ソレルは鼻を鳴らした。

モンス・マレの支配者で唯一、さっさと退陣を表明したのがダグラスだった。

要は、彼が全責任を被って裏に引っ込み、実質的な妻と息子を立てたのである。恐らく、オーガストに関しても、息子に対する想いで。

無論、彼は表舞台を退いたが、逃げたわけではない。退職金は受け取らず、資産の一部は公費に返還、屋敷もいずれ公共施設にする予定……その上、息子はこの有様。

かえって大変な役を引き受けたとも言える。

「君、お父さんとは仲直りしたのかい?」

自分のコーヒーを傾けながら尋ねると、彼はわかりやすく窓の方を向いた。

「そいつはプライバシーの侵害だぜ、先生」

「よく言うねえ。僕はひと時、君がお父さんに暴力を振るわないか不安だったのに」

「いつの話だよ。そういうわけにいかないから辛いとこなんだぞ」

ソレルは時代錯誤と言いたいようだが、親子間の暴力は決して珍しい話ではない。

彼と他国の『大人』と『子供』の実情を話した時もそうだが、この関係性は健常者同士でさえ、上手くいかないことはまま有る。障害者が居ることで和む家庭もあれば、厳しい生活を強いられることもある。

心有ってのことだが、心ひとつとはいかない。

どんな人間にも生き辛さはあるのだ。彼が言う通り、”そういうわけにはいかない”と――理性と忍耐、できれば相手への思いやりを持ち寄って、話し合うしかないのだ。

切っても切れない血筋ゆえに。ソレルがそうしたように、どうしても難しいときは傍を離れることも肝要だ。

まあ、親無しがわかったように言うわけにはいかないが。

「……腹を割ったから『ハイ、仲直り』なんていくわけないだろ。これからいっそう揉めるに決まってる。現行システムは廃止するにも順を追わなくちゃならないし……ROMOを止めて変になる奴が出るだろうし、八番街は整備し直さなくちゃいけない……予算組みだの何だの、俺はもう気が重い」

「君が揉めることを前提にしているのは偉いと思うよ。独裁者には無い発想だ」

ソレルは肩をすくめて、コーヒーを啜った。

「マダム・クラヴィスとは話せたの?」

「それは……あんまり変わらない。もともと――……気にされてたし……」

恥ずかしそうに言う辺り、この歳の青年と母にしては上手くいったようだ。

きっと、母の方はいっそう心を尽くすだろう。今度は隠すことなく、堂々と。

良かった良かったと他人事のように言っていると、ソレルはちらりと睨んだ。

「こういう結末が、先生お得意の”ハッピーエンド”なのか?」

「僕のお得意?」

「ブラックに聞いたんだ。先生の作品のどこが好きなんだって」

そんな会話が有ったとは知らずに目を丸くしていると、彼は詳しく話してくれた。

ブラックは、あっさり答えたらしい。

「どの作品も、ハッピーエンドで終わるところ」

笑みと共に低く答えた男は、本の話題になると食い付きが早い。そういう作品は他にも沢山有るだろうと指摘したソレルに、ブラックは頷きつつも首を捻った。

「意外と無い。多いのは、悲劇から未来を見据えて終わるタイプや、疑問を投げ掛けて終わるタイプ。俺が思う一番ひどい作品は、ハッピーエンドになっていないのに、そういう風に終わるタイプだ」

「例えば?」

「そうだな……童話だが、馬で旅していた男が、腹を空かせて弱っていたカラスの子供たちに餌を提供し、恩返しに後日助けてもらうんだが……」

「ふむ」

「餌にしたのは、乗っていた馬なんだ」

思わず眉をひそめると、ブラックは苦笑した。

「男はどこぞの国の王女と結婚して物語が終わるから、ハッピーエンドだ。その手助けをカラス達がするわけだが、俺はどうにも食われて死んだ馬がよぎってしまって、こいつを祝う気になれない」

「犠牲の上のハッピーってわけか。まあ、確かにぞっとするが、ありがちな話だろ。誰も彼も救うのは無理なことだって常識だ……」

「先生は、そこを否定する。それは無責任な正義じゃないと俺は思うが、綺麗事だと批評されることもある」

灰汁あくだらけのスープなのにか」

苦笑いで言ったソレルにブラックはにこりと笑った。

「先生は嘘がないんだ。良心が、正直に言葉に反映されている。優しくない人間が、優しい主人公を描くと胡散臭いが、先生が書く登場人物は素敵だ。悪役も憎めない」

「フィクションならではだろ……現実はクズばかりだって、あんたは知ってる側の人間だと思うが?」

「世の中クズばかりだと思っている人間が、クズばかり出る物語を読むと、納得はできるだろうが、いい気分はしないと俺は思う」

「……ひと時、嫌な現実を忘れろってか」

「忘れなくてもいい。俺も忘れたことはない」

出生もわからず人殺しに従事させられ、犬の如き扱いを受けた挙句、首から下は傷だらけという男の言葉は重かった。

「俺がの当たりにしてきた人間たちは悪に染まっていた。だが、誰しも生まれたときから……『子供』の時から悪ではないと教えられて、俺なりに納得した。悪ではなかった筈の子供を、誰かが悪に育てる。その『誰か』は悪とは限らない。身近な人間、環境、政治、思想、そして書籍も。俺は世界観を一から作るタイプの作家に、先生のような人間が増えるといいと思う」

「先生の世界観が、道徳的だからか?」

「いや、面白いからだ」

そう答えた彼は、本当に面白そうだったと笑ったソレルに、ニムはやれやれと苦笑した。ブラックらしい評価だが、百パーセントの大団円が現実に有り得ないことは、作者にもわかっている。それは悲しく厳しいことだが、現実であればあるほどそうなるものだ。ただし、目の覚めるような幸福も、上手くいかない現実を知っていればこそ。敢えて悲惨な悲劇を書こうとは思わないが、無から幸福は生まれない。

「で? どうなんだ。先生は結末に満足か?」

「此処で起きたことをハッピーエンドにするのなら、君の子供たちの世代が、モンス・マレでのびのびと幸せに暮らさなくちゃ」

すまし顔で結末を先延ばしにした作家に、主役は不遜にも首を振った。

「悪いが、相手も予定も無いね」

「引く手数多あまたの人が言うセリフじゃないねえ」

呆れ顔で言うと、彼は少しだけ物憂げな顔でコーヒーの表面を見つめた。

「オギーは……なんて?」

「やっぱり、それを聞きに来たんだね」

昨日、会いに行った男の件に、ソレルは頷いた。

「あんたが付いて来るなっていうから……」

「うん。おかげさまで落ち着いて話せたよ」

そう、不安と不満を露わにしていた助手を説き伏せて、会いに行ったのだ。

オーガスト・ジェファーソンに。




 「ミスター・ジェファーソン。お忙しいところすみません」

「……オーガストで構いませんよ」

通してくれた院長室は先日と変わりなかったが、何となくガランとして見えた。

作家に椅子を勧める青年も、どこか空虚な印象だ。

ただ、活気を欠いた場所でも、彼は忙しそうだった。食事や身支度も最低限なのだろう、すぐに色が抜けてしまいそうな赤毛や、儚い薄いブルーの目を心配そうに眺めたニムに、彼は訝しそうな顔をした。

「何か御用でしょうか」

「明日には此処を発ちますので、ご挨拶に参りました」

「ああ……そうですよね。気付かずに――」

「とんでもない、お気になさらず」

笑顔でかぶりを振り、ニムは一枚のメモを差し出した。

「……何ですか?」

訝しそうにしながらメモを見た院長が、はっとした。


 拝啓 理事長殿。

ごきげんよう。以前、意見箱に投書した者です。

現行システムへの私の意見は読んで頂けましたか。

どうも音沙汰ないようなので、改めて筆を取った次第です。

同じことを書いても無意味でしょうから、今回は別の提案を致します。

あなたの秘密を知っています。

この秘密こそ、システムが敷かれた本当の理由だと知っています。

あなたがご自身のシステムに反しておられることを知っています。

早急に、システムの撤廃を求めます。

あなたがシステムが目指す『大人』であるならば。

あなたのシステムが愛する『子供』を慈しむならば。

あなたのシステムが嫌う全ての『その他』に祝福を!

エルバ・クランツ嬢に乾杯!


「僕が、この国に来る前に最初に気になった資料です」

伝える先で、オーガストはメモを見つめて静かに目を伏せた。

「これを書いたのは、オーガスト……貴方ですね?」

若い医師は困ったような顔を上げると、厳しい表情を少しだけ和らげた。

「……何故、私だと?」

ニムは頭を搔き、白状するように答えた。

「初めはわかりませんでした。ミスター・ブエノかな、とも思いました。ただ、この内容……文体は子供っぽくないのに、ストレートなところが子供っぽくて、ずっと気になっていたんです。きっと、とても賢い子が書いたんだろうなと。そして、この投書が言う『私の意見』は、『大人』と『子供』と『その他』に分けるシステムに反対していました。この当時、システム導入の象徴でもあるエルバの名を出して。しかし、システムが現在まで継続する中、この後に書かれたと思われる投書は見つかっていません。つまり、この人物は何かの理由で反対意見を引っ込めた。システムに納得するよりも、懐柔かいじゅう、或いは関係者になったと見るのが自然だと思います」

オーガストはその親友にも似た皮肉な笑みを浮かべた。

慧眼けいがんが有る御方とは伺っていましたが……仰る通りです。これは私が……『子供』にも等しい頃に書きました」

「それは……ステラの為ですか?」

「さあ……もう覚えていません。随分、昔のことのように感じます。恩あるクランツ様にこんなことを言うなんて、不遜な子供ですね」

子供の悪戯を見たような顔でメモを折り畳み、そっと返した。

「――僕は、『子供』の貴方の意見に同意しましたよ、オーガスト」

受け取りながら言ったニムに、オーガストは薄いブルーを胡乱げに瞬かせた。

「でも、理事長のお気持ちもわかる。障害を持つ人々を格上げしたり、優先的に扱うと、必ず、反発する人間が出てきます。僕の知る社会では、多くがそういう傾向におちいりやすい。共存や平等を謳う社会を良しとしながら、彼らが少しでも健常者の常識を逸脱すると、否定的な視線を送り、攻撃する。それに気付いていた理事長は、敢えて『その他』という呼び名を用いた。思慮の足りない『大人』の関心を逸らし、理解ある者には擁護を促し、子供たちは『子供』故の特権として平等な教育を約束する――執政として、厳しい存在として在ることを選んだ。偉大な行動です。あくさえ用いなければ」

「……そう、ですね」

曖昧に微笑む姿は、子供たちに好かれる優しいお医者さんといった風だ。彼がベックの行動を許したのは、ステラに関わらず、かつての自分を見たのかもしれない。

「研究は、やめてしまわれるのですか」

「……ええ、そうなりますね。データはあなた方にお渡ししましたし……」

「データなんて、幾らでもコピーができます。貴方は明晰な御方でしょうから、記憶力も有る筈だ」

「……何が仰りたいのですか」

「他愛ない作家の想像です」

挑むような言葉のわりに、ニムは物静かに言った。

「貴方は、やめるつもりなど無い。同じこころざし有る人にデータを預けている筈だ。人体実験に付き合った72名の『その他』の証言には、実験は強制でもボランティアでもないと有りました。貴方が呼べば、彼らは生活の足しに、再び協力するでしょう。多くの人は、社会や人々に貢献して生きるのを望むものですしね。未来ある『子供』の為になると聞けば尚更」

「……ミスター・ハーバー……ご想像通りだとしたら、どうなさるおつもりですか」

「何も。僕が貴方を書いた作者なら止めようも有りますが」

豊かな森が向かい合った目は、澄み切った海や空にも似ていたが、生き物の住めない塩湖にも見えた。

その静かな水に迷い込んで、新たな命を芽吹かせるのは、難しいだろうけれど。

「ソレルから聞いたかもしれませんが、僕は捨て子です。両親の顔も知りません」

「そうでしたか……」

「有能な調査会社であるブレンド社でも、僕の素性は未だに不明です。会社の名をおとしめる僕を、彼らは大切に育ててくれました。おかげさまで、こんなにもお気楽なお調子者です。親無しとは気付かれない程に」

「ご立派に成長なさって、育てた方々は誇らしいでしょうね」

「さて、そうだと良いのですが……僭越せんえつながら、貴方は僕と似ていると思います」

「先生と……ですか?」

「ええ。形は異なりますが、親を知らず、無いものとして育ったが、貴方はとても立派な方だ。僕などよりも、遥かに」

「僕は……立派などでは……」

「そんなことは有りません。貴方はどちらかといえば非人道的な研究を進め、悪党とは一線を引きながらも利害関係に在った。それなのに、善良なる『大人』に慕われ、『その他』には恨まれることなく、『子供』たちからは嘘のない尊敬と親しみを抱かれている。病院関係者に至っては、今回のことで立場を追うどころか、居てほしいと頼まれたそうですね。普通はこんなことは有り得ない。貴方が如何に素晴らしい人物かが窺えますよ、オーガスト」

いつの間にか、若き人徳者は微かに震える口許を片手で押さえて俯いた。

「よして下さい、僕は…………」

「貴方をそこまで謙虚にするのには、何か理由が有るのではありませんか」

狼狽えた薄いブルーが、森の深みに嵌まった。その目は、ソレルが囮を咥えさせられたと気付いた際の驚愕と、全く同じ動揺に震えた。

「……ミスター・ハーバー……貴方はやはり、彼らの一員の様です……」

「いいえ、僕はあくまで作家です。不躾な態度は申し訳ありませんが、作家故の性分なのです。此処に来て、此処を見つめ、此処にあるストーリーを知った以上、自分が関わってからの区切りは見届けたい。その内容に納得できなければ、おこがましくも……手を加えてみたくなる」

「調査会社故ではなく、作家の貴方が成そうとする行動ですか。だとすれば、作家とは恐ろしい生業ですね……」

「僕もそう思います。おまけにこの両目は、時折見えすぎることがある」

だから、わかった。

エルバ・クランツの遺骨が何処にあるのか。

「エルバを、見たんですか……」

「はい。乗ってきた船の中で。あなた方が知る、生前の姿で間違いないと思います」

オーガストは、緩やかに首を振った。

「僕は……霊だのは信じませんが、どんな様子だったか窺っても……?」

「少なくとも、悪霊には見えませんでした。海風に髪をなびかせている姿は、僕が画家なら絵に描いたでしょう」

何故か、オーガストは浮かぬ表情で頷いた。

「……先生、その偉大な想像力で、考えてみましたか?」

「何をでしょうか」

「僕が、エルバの部屋に注射器を置いた可能性を」

院長室の無機質な空気が冷えた気がした。ソレルなら即座に否定しただろう言葉に、作家はそっと首を振った。

「いいえ。僕が考えても、もはや証明する手はありません」

そうですね、とオーガストはぽつりとこぼした。

「僕は子供の頃……ソレルに付き添って、よく、エルバの部屋に行きました。彼女とは、“何度も”顔を合わせた。挨拶し、話し、お茶や食事をし、手を取り合い、遊んだこともある……それなのに、と思わずにいられなかった僕は……所詮、頑是ない『子供』に過ぎなかったのでしょうか……」

俯く姿を、作家はただ見つめた。

その苦しさを責められる者は誰も居ない。人知れず飲んだろう涙は、今は頬を伝うこともない。『大人』として、在るために。

これからどうするのかも、『大人』は考えねばならない。

いつの間にか、そうなったのだとしても。

「先生、教えてください。貴方が、僕を書いた作者なら……これから、どんな未来を書かれますか?」

「貴方とソレルが、お互いの『子供』と海で遊ぶ姿を書きたいです」

薄いブルーに、淡い感情が滲んだ。それが何であったかは、わからない。だが、彼は消えるような溜息をこぼしてから、寂しそうに微笑んだ。

「それは、素敵な想像ですね」

「現実にできる想像ですよ、オーガスト」

「……そうですね。考えておきます」

そっと差し出された手を握り返す。どこか薄く、か弱い感じがしたが、多くの命を救ってきた手は温かかった。彼は切ない笑みを浮かべて言った。

「旅のご無事を。ますますのご活躍を祈ります」

「ありがとうございます。どうか、お体をいたわられて、お元気で」

院長室を出た時、いつかソレルが言った言葉を思い出した。

――『大人』になったら、馬が合わなくなった。

そういうことは、あるだろう。だが、意見を違えて別れても、その絆は切れない。

きっと、分かり合える日が来る。


話を聞いたソレルは、ぼんやりと呟いた。

「……正直、ブラックに誘われたとき、ちょっと心惹かれたんだ」

「えっ! ブラックに? ううむ、彼は魅力的だからわかるけど――」

「おいおい、何言ってんだ? あんたも居ただろ? ブレンド社に入るって話だよ」

既に美男同士の逢瀬を想像していた作家は、頭を搔いてから首を捻った。

「ウチに入りたくなったってことかい?」

「と、いうより……見てみたくなったって感じかな。あんたらみたいなのが住んでる場所を……」

コーヒーを揺らしながら呟く姿は、もう理事長になっているように見えた。

穏やかな琥珀に、穏やかな森が笑い掛けた。

「いつでもおいでよ。ボスも歓迎するさ」

そう言いながら、ニムは封筒を差し出した。

「なんだ?」

「報酬だよ。助手に雇われてくれただろ?」

「ああ……そういえば、そうだったな……」

封筒を眺めて、ソレルはニヤッと笑った。

「先生、それ、取っておいてくれないか」

「え?」

「ブラックに言われたんだ。報酬を払うまでは、あんたは俺を雇っているつもりだって。その時は、忘れずに貰えって言われたんだが――」

おや、存外、ブラックはこの青年を気に入っていたらしい。

この入れ知恵には前後が有りそうだが、ソレルが利用するとは思わなかったろう。作家は封筒を眺めて首を傾げた。

「……すると、君は僕に雇われていたいの?」

「そういうこと」

「それはまた、どうしてだい?」

「逃げ出すときの口実になる」

ニムがどこかの喪服の麗人みたいに腕組みすると、彼は片手を振った。

「冗談だよ」

「それは何よりだ。本当のところは?」

「あんまり言いたくないなあ……」

渋る様子の青年は、どうやら照れているらしい。飲み干したコーヒーカップをさすりながら、明後日の方を見てボソボソと答えた。

「あんたに雇われてると思ったら……下手なことはしないと思うんだ」

「おお」

感嘆詞を述べて「続けて」と調子に乗った顔で言う作家を嫌そうに仰いで、ソレルは言った。

「……それだけだっつの」

ぐいとカップを呷り、からになったそれを偉そうに突き返してきた。

苦笑混じりに受け取って、作家は封筒をしまった。

「次に君に会うのが楽しみだ。できれば、逃げて来ない方がいいけどね」

「今さら、逃げたりしない。……俺に、勇気を出せと言ったあんたに誓うよ」

「僕なんかに誓って大丈夫かなあ」

「あんたぐらいが気負わなくて丁度いいさ」

そうかもしれない、と笑い合った。良い日よりだ。旅に出るにも、丁度いい。



 ホテルを出る時、ジェニー嬢は相も変わらず優しい笑みで見送ってくれた。

「オーナーが、宜しくお伝えするようにと」

「自分で言やあいいのに」

呆れ顔のソレルだが、彼らはよく似た親子だ。散々、煮え湯を飲ませた男に挨拶するのは恥ずかしかろう。ジェニーがくすくす笑い、ニムも彼女に同意しながら笑った。

マルガリータもそうだが、父のダグラスも、起こした行動の是非はともかく、勤勉で責任感のある人物だ。働いていることが、彼らなりの誠意ある挨拶なのだ。

のこのこ付いて来たソレルと共に港へ向かうと、老紳士がいつもの席で小柄な少年と待ってくれていた。

「お世話になりました、ミスター・ブエノ」

腰を折ったこちらに対し、老紳士は微笑みながら頭を下げた。

「こちらこそ、先生」

「もう、視線は感じませんね」

セオドア・ブエノは優しい皺を寄せて頷いた。『その他』を同じ命と重んじて治療や相談に乗っていた彼の身を心配する理事会と、邪魔をするのではと怪しんでいた『果樹園フルーツ・パーク』双方の監視を受けていた元医師は、もう隠れて活動する必要はなくなった。

「元より私は監視に気付けていませんでしたが……もはや先生方のお住まいに足は向けられません」

「いやあ……僕はそこまでのことはしていませんよ。あの素晴らしいディナーには及びません」

「あんな家で宜しければ、またいらして下さい」

和やかに微笑み合って硬い握手を交わすと、ニムは少年へと振り返った。

「君も来てくれて嬉しいよ、ベック君」

「当然だよ、先生。うちの両親もファンになったって」

「なんと、それは有難い。此処の学校に児童書でも寄贈しようかな」

小さな手と握手しながら言うと、ソレルが呆れ顔で言った。

こすい点数稼ぎだなあ」

「滅多なことを言わないでくれ、ソレル君。僕はあくまで未来ある子供を支援しようというだけだよ」

軽口に軽口で答えると、ベックに膝を折った。

「君はまだ、医師を志すのかい?」

「はい。そのつもりです」

「そうか……素晴らしい目標だ。今の君が抱く気持ちを忘れずにね」

「今の僕が……?」

「そうだよ。知識は君に力を与えるが、惑わし、迷わせるだろう。君が『大人』になったとき、最も正しい道を示してくれるのは『子供』の君だ。それさえ忘れなければ、恐ろしいデータを手にしても、君は大丈夫」

“データ”の文言に、ベックは微かに睫毛を震わせた。ソレルが何も言わずに見つめる中、少年はこくりと頷いた。

「わかったよ、先生。ありがとう」

「僕の方こそ、ありがとう。君やステラの幸せを祈っている」

笑い掛けて立ち上がると、港の方から黒い長躯がやって来るのが見えた。多分、喪服の麗人がさっさと来いと催促しているのだろう。出会い頭に叱られるのを想像しながら、ニムはソレルに振り向いた。

「じゃあ、お別れだ。優秀な助手くん」

「締切を破って殺されるなよ」

おぞましい憎まれ口を叩く助手と握手を交わし、魅入られそうな琥珀に笑い掛けた。

「君はとにかく、飲み過ぎないように」

「余計なお世話だ」

ぎゅっと強く握り返すと、彼は日向に眩しい美貌を微笑ませた。

「ありがとう、先生」




 来た時と同じように、石の箱で銀のプレートを返すと、なんだか物足りなくなった気がした。自分が何者か、わからなくなるほどではないけれど。

桟橋から町を振り返った時、砂浜を軽やかに歩いていく金髪の娘が見えた。

あれは、ステラだろうか。

それとも……――

「先生」

低く優しい声に呼び掛けられて、ニムは頷いた。

「うん、今行くよ」

海から山へと、風が吹き抜ける。海から逃れるように身を引き、山にひしめき合う不思議な町を仰いで、ニムは親友を振り返った。

「ねえ、ブラック……君は僕の頭がおかしくなったら、どうにかして治したいと思うかい?」

唐突な質問に、彼は船へと上がる親友に紳士的に手を貸しながら微笑んだ。

「先生が、どうにかして治したいと言うのなら、どうにかしよう」

「ん? じゃあ、僕が頼まない限りは何もしないの?」

おかしくなってからでは頼めないのだが、と、ちょっぴり不安な気持ちになるのを知ってか知らずか、親友は頷いた。

「先生がそれでいいなら何もしない。作品は書いてほしいが」

正気は失っても、作品は書けと?

何となく別の才能の出現にわくわくしていそうな書籍狂ビブリオマニアを作家は恨めしそうに見た。

「君のことを忘れちゃっても、そう言えるかい?」

「それは困る」

いつかのようにはっきり言ったが、ブラックは薄笑いで首を振った。

「だが、先生が幸せならそれでもいい」

「僕が幸せなら……か」

船が出る。新たな波飛沫を立てて。

「君や、他の皆のことを忘れて……幸せになるのはもう無理だろうなあ。僕はもう、知っているから」

「知ることは幸せなんだな」

何気なく言う男に、ニムは声を失った。これだから、この親友の感性は見逃せない。

「君は……そうだったかい?」

「ああ。俺は先生たちが教えてくれたことを知ったから、犬ではなくなって此処に居る。それは幸せなことだと思う」

その言葉の重みに耐えかねて、ニムは苦笑した。

「代わりに忙殺される日々になったけどねえ……」

彼は、それでもいいと微笑んだ。

そう、彼は知ることで救われた。

では、最初から知らない人は、どうなのか。……いや、本当にそうなのだろうか?

FIBOは只、彼らの想いを覆う厚い壁を発破しただけで、彼らは本当は何もかも知っていて、何もかも吐き出せずに居るだけではないだろうか。

その片鱗は、確かに垣間見えた。

ペトラが目撃したことも、過去にソレルが見たことも。

ふと、ステラの言葉を思い出した。

――目に、森を入れてるの?

そう、君が正しいのかもしれないよ、ステラ。

だって、僕は自分には何の問題も無いと思いつつ、まだ知らない自分が居るんだ。

本当に両目に森が入っていて、此処には可愛い小鳥や昆虫が居るのかもしれないし、こうして遠くや不可視のものを見せる、もっと恐ろしいものが住んでいるのかも。

ぼんやりと遠ざかるモンス・マレを見つめる森を、闇がそっと覗いた。

「俺がそうなったら、先生はどうするんだ?」

「そうだなあ……」

ぼやいた下で波が弾け、よろけた白アスパラガスをすかさず大きな手が支えてくれた。親友に礼を述べつつ、ニムは首を捻った。

「僕は君と同じ気持ちだけどね、現実的に、僕は君ほど色んなことはできないからなあ……」

モンス・マレを振り返りながら、ニムは呟いた。

「とりあえず、僕を忘れたら退屈だろうから、新作をプレゼントして、君が好きなコーヒーを淹れることにするよ」

ちっぽけな作家は、今日も考える。

ひとつの結末を、なるべく、幸福にするために。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

子供と大人とその他の国 sou @so40

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ